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もう3日になる。ニコは日に日に不安が増し、夜毎悪夢にうなされた。
カルダとペリュグリスの話には、信憑性があった。作り話にしては出来すぎている。ハープナーが人の心を掴むのが上手かったのも事実だ。
もし2人が話すことが全て真実であったなら、ハープナーを庇ったフェリディル王家である自分は民にとっての悪なのではないだろうか。王妃などという立場にいてはいけない存在なのではないか。そんな考えが、ニコの中でどんどん膨らんでいった。
目の下には隈ができ、食欲なんてものもなかったが、いつも通りの時間に鳴る、朝食を運んできたことを知らせるノック音に、ニコの顔が曇る。
だが、部屋に入ってきた人物を見て、目を瞬き、この数日で溜め込んだもやもやとした感情が、ニコの意志とは無関係にじわりじわりと流れ出た。
「よっ、戻りましたよぉっと。」
以前と変わらず軽々しい態度のスヴェリオに、ニコはすがるように瞳を湿らせた。
「スヴェリオ…。」
その瞳を向けられたスヴェリオは、さすが、ニコの異変にすぐに気が付く。
始めは自分がいなくて寂しかったのか?などと思ったが、ふいに、フェリディルの西部の村で、王がペリュグリスを呼んでいると慌ただしく早馬が来たことを思い出す。
「…王妃様、何かあった?」
「スヴェリオ…実は…。」
「ニー。」
「…ニー?」
謎の声に、ニコはぽかんとスヴェリオを見つめた。
「今のは、スヴェリオが?」
「そんなわけないだろ。天然で言ってんのか、それ?」
こいつだこいつ、とスヴェリオはポケットから手の平に収まるほどの小さな子猫を取り出した。青みがかったグレーの毛はまだふわふわと整っておらず、生後間もない子猫だと分かる。
起きたかぁなどと呑気に言っているスヴェリオに、ニコの目はますます丸くなった。
「えっと、スヴェリオ、その子は?」
「友人の家の裏で産まれたらしいんだけど、親猫がどこかで死んだのか帰って来なくなったんだと。兄弟たちも次々弱って死んじまって、こいつだけが生き残ったんだ。」
「そう、強い子なのね。…あの、触ってもいい?それともあんまり構わない方がいいかしら。」
「え?王妃様に面倒見てもらおうと連れて来たのに、構われないと困るんだけど。ほら。」
スヴェリオがさも当然のようにニコの膝の上に子猫を降ろすと、ニコはそのセリフに困惑しながらも、子猫の暖かさに頬が綻ぶ。
ニコはニー、ニー、と一所懸命に鳴く子猫の頭をそっと撫でた。
そんなニコに、スヴェリオは小瓶を差し出す。
「たぶん腹減ってるんだろ。はい、これ。」
「それは?」
「山羊の乳だ。」
「えっと…どうやって飲ませれば…。」
「指、出して。吸うから。」
言われた通りニコが子猫の顔の近くへ指を近づけると、子猫は人差し指の腹にちゅーちゅーと吸い付き始めた。
スヴェリオがそこにミルクを流そうとして、止まる。
「あ、服汚れるの嫌?」
「ふふ、問題ないわ。」
ふわりと微笑むニコに、スヴェリオも笑顔を返す。
ほんの少しずつ指にミルクを流していくと、子猫はより懸命に吸い付いた。黙っていてもミルクは飲めるのに、じたばたと落ち着きのない手が愛らしい。
「目がさ、王妃様と同じ綺麗なアッシュグレーなんだよ。」
また思わせぶりな事を軽々と、とニコは身を固めた。言った本人は飄々としている。
暫し、ちゅっちゅっちゅっと音を立てて必死にミルクを飲む姿を2人で眺めた。
「なんか厭らしい気分になるね?」
「なりません。」
お腹いっぱいになったのか、子猫がニコの指から口を離すと、スヴェリオがおっと、と声を出して小瓶を縦にした。そして次は綿の布きれを差し出した。
「これで刺激しながら小便を拭いてやるんだ。」
ニコは言われた通りに処理をする。すると子猫は落ち着いてきたのか、ニコの膝の上で大人しくなった。
「じゃあ、はい、王妃様もご飯食べて?」
「あ、そ、そうね。」
膝の上に乗ったままの子猫が気になるが、なんだか落ち着いているところを動かすのもかわいそうな気がして、ニコはそのまま食べる事にした。
スヴェリオも相変わらずフルーツをつまみ食いしている。ブドウを皮ごと口に放り込んで、ごくりと飲みこんでから、さっきの話さ、と話を戻した。
「食器片付けてからでもいい?俺からも報告あるし。」
「そうね。…私もなんだか、この子を見て嘘のように頭が冷えたわ。」
そう言ってニコは子猫を撫でた。
「スヴェリオ、無事に帰って来てくれてありがとう。」
「約束しただろ。」
スヴェリオは得意げに笑った後、はて、と首を傾げた。果たしてここは俺の帰ってくる場所なのか?スヴェリオは違和感を覚えつつ、まぁいいかと気にしないことにした。
スヴェリオが朝食の食器を片づけて戻ってくると、寝始めた子猫をベッドに移し、さっそく本題に入った。
まずはニコから、ペリュグリス、そしてカルダに聞いた話の一部始終をスヴェリオに話す。その話を聞いていくうち、スヴェリオの表情はだんだん険しくなった。ニコが信じたくないと言った話を肯定しなければならなかったからだ。
「では、2人が言っていたことは…全て真実だったのね…。」
「…そうみたいだな。」
予感はあった。そんな気はしていた。ただ、どうしていいか分からず、ニコは両手で顔を覆った。
「なんてこと…。」
「襲撃にあった村の生き残りの少年に話を聞いたが、兄貴と一緒に近くの村に逃げた後、兄貴が直接フェリディル王に訴えようとノウラへ向かったらしい。でもその兄貴は戻って来なかったんだと。もしかしたらそれが、ペリュグリスと出会った少年だったのかもな。」
ニコは顔を隠して項垂れたまま、動かない。
ニコは今までカルダのことを恐れていた。両親を殺した相手だと、故国を滅ぼした方だとそう思っていたが、フェリディルの国民を救ったのは紛れもなくアイローイ王のカルダだった。ニコも人質として婚姻させられたのではなく、そうすることで真の悪であるハープナーから守られていたのだ。
ニコは王族としての恥辱を感じると共に、自分への怒りが湧き上がる。今まで何を見てきたのだろう。思い違いも甚だしい。
ぴくりとも動かないニコに、スヴェリオは頭を悩ませる。責任感の強いニコだ。自分を責めているであろうことは、スヴェリオにも分かった。
大丈夫か、とスヴェリオが声を掛けようとした時、ニコが顔を覆っていた手を外し、いつも以上に白い顔を覗かせた。
そのまま静かに立ち上がり、タンスに隠していた例のネックレスを取り出すと、それをスヴェリオへ差し出した。
「あなたが置いていった物だけど、これを報酬代わりに持って行って。」
だがスヴェリオは首を横に振る。
「それは王妃様にあげたんだよ。」
「元はといえば、王様の物でしょう。」
「俺が盗んだ時点で所有権は1回俺になってるから。」
ニコは働かない頭で一度納得しかけて、いや、その理論はおかしいなと思い直した。どちらにせよ、このネックレスは持って行ってもらわないと困る。
「これがここにあるのが見つかるといけないし、これ以外に渡せるような報酬が用意できないの。」
「えぇーでも俺、それ持って行かないって決めたしなぁ。」
ニコが困ったようにネックレスを見つめると、スヴェリオはにやりと笑って、ネックレスに手を被せた。もう片方の手でニコの顎を上げて視線を自分に向かせる。
「じゃーさ、王妃様を名前で呼ぶ権利、ちょうだい?」
「…え?」
ニコが困惑したのは、そんな物が報酬になるとは思えなかったからだ。大体、敬語も使おうとしないスヴェリオなら、許可しようがしまいが勝手に呼びそうなものだが。
「報酬、だめ?」
「い、いけれど…そんなことが報酬になるの?」
「他に誰かいる?王妃様のこと名前で呼ぶ人。」
ニコはふと、叔父のハープナーを思い浮かべたが、すぐにかき消した。
「いいえ。」
「それなら充分な名誉さ、ニコ様。」
夕日色の瞳に真っ直ぐ見つめられたニコは、なんだか胸がくすぐったくなった。
「名前なんて、久しぶりに呼ばれたわ。」
「恐悦至極に存じます。」
わざとらしく頭を下げるスヴェリオに、ニコもにこりと微笑み返した。
カルダとペリュグリスの話には、信憑性があった。作り話にしては出来すぎている。ハープナーが人の心を掴むのが上手かったのも事実だ。
もし2人が話すことが全て真実であったなら、ハープナーを庇ったフェリディル王家である自分は民にとっての悪なのではないだろうか。王妃などという立場にいてはいけない存在なのではないか。そんな考えが、ニコの中でどんどん膨らんでいった。
目の下には隈ができ、食欲なんてものもなかったが、いつも通りの時間に鳴る、朝食を運んできたことを知らせるノック音に、ニコの顔が曇る。
だが、部屋に入ってきた人物を見て、目を瞬き、この数日で溜め込んだもやもやとした感情が、ニコの意志とは無関係にじわりじわりと流れ出た。
「よっ、戻りましたよぉっと。」
以前と変わらず軽々しい態度のスヴェリオに、ニコはすがるように瞳を湿らせた。
「スヴェリオ…。」
その瞳を向けられたスヴェリオは、さすが、ニコの異変にすぐに気が付く。
始めは自分がいなくて寂しかったのか?などと思ったが、ふいに、フェリディルの西部の村で、王がペリュグリスを呼んでいると慌ただしく早馬が来たことを思い出す。
「…王妃様、何かあった?」
「スヴェリオ…実は…。」
「ニー。」
「…ニー?」
謎の声に、ニコはぽかんとスヴェリオを見つめた。
「今のは、スヴェリオが?」
「そんなわけないだろ。天然で言ってんのか、それ?」
こいつだこいつ、とスヴェリオはポケットから手の平に収まるほどの小さな子猫を取り出した。青みがかったグレーの毛はまだふわふわと整っておらず、生後間もない子猫だと分かる。
起きたかぁなどと呑気に言っているスヴェリオに、ニコの目はますます丸くなった。
「えっと、スヴェリオ、その子は?」
「友人の家の裏で産まれたらしいんだけど、親猫がどこかで死んだのか帰って来なくなったんだと。兄弟たちも次々弱って死んじまって、こいつだけが生き残ったんだ。」
「そう、強い子なのね。…あの、触ってもいい?それともあんまり構わない方がいいかしら。」
「え?王妃様に面倒見てもらおうと連れて来たのに、構われないと困るんだけど。ほら。」
スヴェリオがさも当然のようにニコの膝の上に子猫を降ろすと、ニコはそのセリフに困惑しながらも、子猫の暖かさに頬が綻ぶ。
ニコはニー、ニー、と一所懸命に鳴く子猫の頭をそっと撫でた。
そんなニコに、スヴェリオは小瓶を差し出す。
「たぶん腹減ってるんだろ。はい、これ。」
「それは?」
「山羊の乳だ。」
「えっと…どうやって飲ませれば…。」
「指、出して。吸うから。」
言われた通りニコが子猫の顔の近くへ指を近づけると、子猫は人差し指の腹にちゅーちゅーと吸い付き始めた。
スヴェリオがそこにミルクを流そうとして、止まる。
「あ、服汚れるの嫌?」
「ふふ、問題ないわ。」
ふわりと微笑むニコに、スヴェリオも笑顔を返す。
ほんの少しずつ指にミルクを流していくと、子猫はより懸命に吸い付いた。黙っていてもミルクは飲めるのに、じたばたと落ち着きのない手が愛らしい。
「目がさ、王妃様と同じ綺麗なアッシュグレーなんだよ。」
また思わせぶりな事を軽々と、とニコは身を固めた。言った本人は飄々としている。
暫し、ちゅっちゅっちゅっと音を立てて必死にミルクを飲む姿を2人で眺めた。
「なんか厭らしい気分になるね?」
「なりません。」
お腹いっぱいになったのか、子猫がニコの指から口を離すと、スヴェリオがおっと、と声を出して小瓶を縦にした。そして次は綿の布きれを差し出した。
「これで刺激しながら小便を拭いてやるんだ。」
ニコは言われた通りに処理をする。すると子猫は落ち着いてきたのか、ニコの膝の上で大人しくなった。
「じゃあ、はい、王妃様もご飯食べて?」
「あ、そ、そうね。」
膝の上に乗ったままの子猫が気になるが、なんだか落ち着いているところを動かすのもかわいそうな気がして、ニコはそのまま食べる事にした。
スヴェリオも相変わらずフルーツをつまみ食いしている。ブドウを皮ごと口に放り込んで、ごくりと飲みこんでから、さっきの話さ、と話を戻した。
「食器片付けてからでもいい?俺からも報告あるし。」
「そうね。…私もなんだか、この子を見て嘘のように頭が冷えたわ。」
そう言ってニコは子猫を撫でた。
「スヴェリオ、無事に帰って来てくれてありがとう。」
「約束しただろ。」
スヴェリオは得意げに笑った後、はて、と首を傾げた。果たしてここは俺の帰ってくる場所なのか?スヴェリオは違和感を覚えつつ、まぁいいかと気にしないことにした。
スヴェリオが朝食の食器を片づけて戻ってくると、寝始めた子猫をベッドに移し、さっそく本題に入った。
まずはニコから、ペリュグリス、そしてカルダに聞いた話の一部始終をスヴェリオに話す。その話を聞いていくうち、スヴェリオの表情はだんだん険しくなった。ニコが信じたくないと言った話を肯定しなければならなかったからだ。
「では、2人が言っていたことは…全て真実だったのね…。」
「…そうみたいだな。」
予感はあった。そんな気はしていた。ただ、どうしていいか分からず、ニコは両手で顔を覆った。
「なんてこと…。」
「襲撃にあった村の生き残りの少年に話を聞いたが、兄貴と一緒に近くの村に逃げた後、兄貴が直接フェリディル王に訴えようとノウラへ向かったらしい。でもその兄貴は戻って来なかったんだと。もしかしたらそれが、ペリュグリスと出会った少年だったのかもな。」
ニコは顔を隠して項垂れたまま、動かない。
ニコは今までカルダのことを恐れていた。両親を殺した相手だと、故国を滅ぼした方だとそう思っていたが、フェリディルの国民を救ったのは紛れもなくアイローイ王のカルダだった。ニコも人質として婚姻させられたのではなく、そうすることで真の悪であるハープナーから守られていたのだ。
ニコは王族としての恥辱を感じると共に、自分への怒りが湧き上がる。今まで何を見てきたのだろう。思い違いも甚だしい。
ぴくりとも動かないニコに、スヴェリオは頭を悩ませる。責任感の強いニコだ。自分を責めているであろうことは、スヴェリオにも分かった。
大丈夫か、とスヴェリオが声を掛けようとした時、ニコが顔を覆っていた手を外し、いつも以上に白い顔を覗かせた。
そのまま静かに立ち上がり、タンスに隠していた例のネックレスを取り出すと、それをスヴェリオへ差し出した。
「あなたが置いていった物だけど、これを報酬代わりに持って行って。」
だがスヴェリオは首を横に振る。
「それは王妃様にあげたんだよ。」
「元はといえば、王様の物でしょう。」
「俺が盗んだ時点で所有権は1回俺になってるから。」
ニコは働かない頭で一度納得しかけて、いや、その理論はおかしいなと思い直した。どちらにせよ、このネックレスは持って行ってもらわないと困る。
「これがここにあるのが見つかるといけないし、これ以外に渡せるような報酬が用意できないの。」
「えぇーでも俺、それ持って行かないって決めたしなぁ。」
ニコが困ったようにネックレスを見つめると、スヴェリオはにやりと笑って、ネックレスに手を被せた。もう片方の手でニコの顎を上げて視線を自分に向かせる。
「じゃーさ、王妃様を名前で呼ぶ権利、ちょうだい?」
「…え?」
ニコが困惑したのは、そんな物が報酬になるとは思えなかったからだ。大体、敬語も使おうとしないスヴェリオなら、許可しようがしまいが勝手に呼びそうなものだが。
「報酬、だめ?」
「い、いけれど…そんなことが報酬になるの?」
「他に誰かいる?王妃様のこと名前で呼ぶ人。」
ニコはふと、叔父のハープナーを思い浮かべたが、すぐにかき消した。
「いいえ。」
「それなら充分な名誉さ、ニコ様。」
夕日色の瞳に真っ直ぐ見つめられたニコは、なんだか胸がくすぐったくなった。
「名前なんて、久しぶりに呼ばれたわ。」
「恐悦至極に存じます。」
わざとらしく頭を下げるスヴェリオに、ニコもにこりと微笑み返した。
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