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サーディッド候爵が用意してくれた新居もとても立派だが、候爵邸は更に大きく綺羅びやかで、使用人の量も桁違いだ。
もう何度も訪れているが、未だに敷地に入るだけで動悸が鳴る。
執事に候爵の書斎へ通されると、候爵は笑顔で迎え入れてくれた。
ローテーブルを挟んで対面し、さっそく作ってきた用水路建設推進事業の起案を提出した。
葉巻を加え、ぷかぷか煙を吐きながら、書類に目を通していく候爵を、身を固くして見つめた。
テーブルに用意されたお茶も、喉を通りそうにない。
シャールナーの美しい容姿は候爵譲りだ。
髪の色も肌の色も目の色も、妖しい目つきさえもそっくりだ。
首に掛からないくらいの金髪を後ろに流した姿は、男の目にも色香が見えるようで、父とは違う迫力がある。
「経験が少ない割に、よくできているな。」
「送ってくださった執事に、色々アドバイスを頂きました。」
いつも側にいる眼鏡の執事だ。候爵邸では候爵の補佐役を手伝っていたと聞いていた。
貧しい男爵領で暮らすことになる娘の為に、優秀な人材を送ってくれたのだろう。
おかげでその補佐に会ったときには、刺々しい視線を向けられてしまったが。
「ああ、あいつは頭が良いからな。ミラン君に役立っているなら良かった。」
「頼りきりになってしまって、お恥ずかしい限りです。」
私が肩を丸めると、候爵は「これから学んでいけばいい。」と笑顔を見せてくれた。
爵位も高く、力があってとても頭の上がらない人物だが、優しく尊敬できる候爵が義理の父になったというのは幸運だった。
「ところで当初の予定より工事の範囲が広いようだが、ここの予算はどう捻出するつもりだ?」
「これは新技術を用いて人件費を削減しようと思っています。その方が効率も良く、端の集落まで工事できますので。」
「なるほど。」
サーディッド候爵が提示してくれた援助の予算内で賄えるように計算したが、候爵は浮かない顔をしている。
ざわりと胸に不安が過ぎった。
「それは娘には相談してみたのか?」
「は、はい。予算内に収めたいと相談したところ、色々調べながら考えてくれて、この方法に落ち着きました。」
「娘はもっと簡単な方法を提案しなかったか?」
ぎくりとした。気まずさから目線を下げる。
実は初めて相談した時、「お父様に頼んで予算を上げて貰いましょうか。」と提案された。
しかし私が頑なに断ったのだ。
予算内に予定を組む能力が無いと見做されるのは困るし、かと言って、出資を期待するのは父のようで嫌だった。
「ミラン君はもう少し、プレゼン力と交渉術を身に付けた方が良いな。」
耳が痛い。
かといって、候爵に面と向かってお金の工面を頼む勇気はない。
「援助額を上げるから、人件費は減らさなくていい。」
「し、しかし、新技術を用いれば予算内で済みます。」
「技術はそのまま取り入れて、浮いた人材には別の事をさせればいい。雇用枠を狭める必要はない。うちの領民たちにも仕事を与えたいしな。」
そこでようやく気がついた。
貧しい領民たちに仕事を与えるのも領主の仕事だ。働く機会を安易に奪ってはいけないのだ。
「予算内でやりくりするのも重要なことだが、君には私という後ろ盾がいるのだから、経費のことは気にせず民に最善をつくしなさい。」
「あ、ありがとうございます!」
心がぽかぽかと温かくなるこの気持ちは、何という感情なのだろう。今まで味わったことのない充実感に満たされる。
私がカップを取って口を付けると、ところで、と候爵は書類を置いて煙を吐き、にっこりと妖しい笑顔を浮かべた。
「ミラン君が娘と相性抜群のマゾヒストで良かったよ。」
驚きのあまりお茶が進むべき道を間違え、むせ返り、ごぼっと少し吹き出してしまった。
「おやまあ、汚いな。」
「す、すみま、ゴホッゴホッ。」
咳をしながら慌ててハンカチを取り出し、自身の顔と、汚してしまったテーブルを拭いた。
「な、なぜそのような誤解をなさったのですか?!」
「うん?違うのか?」
「違います!」
「だって君、父親に殴られても抵抗ひとつしないんだろう?」
誰が話したのだろう。シャールナーだろうか。
眼鏡の執事の可能性もある。
彼は元々候爵邸の執事で、候爵を慕っていた。
邸での出来事を逐一報告している可能性もある。
だとしたら候爵の今の言葉は、情けない私への批判だろうか。
そう思ったのも束の間、どうやら違うらしい。
「喜んで娘に縛られたりしてるのかと思ったが、違うのか?」
「しば…え?」
「皮膚を炙られたり、首紐で繋がれたり。」
想像するだけで血の気が引き、私は賢明に首を横に振った。
「おやまあ、違うのか。はは、あの子も恥ずかしくて隠しているのかな?」
すみません、あんまり隠してはいません。対象が違うだけです。
候爵の、シャールナーへの溺愛具合が窺える。彼女の性癖を知った上で、にこにこと笑顔を浮かべられるのだから。
私は苦笑する他ない。
「でも、それなら黙って父親に殴られている理由はなんだ?」
理由。
父親だから。恐ろしいから。反抗したら、もっと恐ろしいことをされるから。
そして、申し訳ないから。
こんな情けない理由の羅列を、私に期待してくれている候爵には話したくない。
息が苦しくなり、手にうまく力が入らない。
そんな私の耳に、候爵の、一際低く甘い声が届いた。
「殺してしまおうか?」
ぞくりと背筋が凍った。
まるで悪魔の甘言だ。
悪いことだと分かっているのに、父のいない生活を想像してしまう。殴られることも、罵声を浴びることもない日々を。
しかし、どこまでも小心の私は、すぐに首を横に振った。
「な、何を仰います、閣下。わ、私の父、ですよ。」
「血縁など関係ない。邪魔なら消すだけだ。実際、君のその消極的な性格、ラディム殿が関係しているのでは?」
そうなのだろうか。分からない。
私が消極的なのは、私に自信がないからであって、それは私自身の問題だ。
それに、シャールナーは父のことが好きなのだ。
彼女が父に好意を持っているお陰で私は彼女と婚姻でき、候爵に良くしてもらっている。
父が死んだら、シャールナーが悲しむに違いない。
いや、死に顔が可愛いとか言いそうだが、とにかく彼女との関係もどうなるか分からない。
何よりも、私自身が後悔しないと言えるだろうか。
まだ心のどこかで、父に認めてもらいたいという自分がいる。
憎まれているのは分かっているが、だからといって、父を憎んではいないのだ。
私はどこまでも情けない。
「と、とにかく、父を殺すなんて…恐ろしいことは仰らないでください。」
私がそう言えば、候爵はふーんと首を傾げ、軽々と「私はどちらでもいいが。」と言ってのけた。
大家門の当主であるサーディッド候爵にとって、貧しい田舎男爵1人を殺すことなど朝飯前ということなのだろう。
「ご心配お掛けして申し訳ありません。」
萎々と頭を下げると、候爵の大きな手に頭をがしりと掴まれた。
ピンクブロンドの髪をくしゃりと乱される。
「まあ、何かあったらいつでも頼りなさい。存外私は君を気に入っているのだよ、ミラン君。」
目頭がじんと熱くなった。
手が離れると、ありがとうございますともう1度頭を下げた。
「あの、帰る前に夫人にもご挨拶したいのですが、夫人はどちらにいらっしゃいますか?」
「悪いが訳あって長男の領地に逃げてしまってな。今はいないんだ。」
逃げてしまって?
不穏な言葉に自己防衛本能が発動し、にこりと笑顔を作った。
「夫人は、一体何からお逃げになったのですか?」
恐る恐る訊ねると、候爵は本日1番の色香を放ち、恍惚とした表情を浮かべた。
「ちょっとね。」
ああ、この人も怖い人だ。そう察した。
もう何度も訪れているが、未だに敷地に入るだけで動悸が鳴る。
執事に候爵の書斎へ通されると、候爵は笑顔で迎え入れてくれた。
ローテーブルを挟んで対面し、さっそく作ってきた用水路建設推進事業の起案を提出した。
葉巻を加え、ぷかぷか煙を吐きながら、書類に目を通していく候爵を、身を固くして見つめた。
テーブルに用意されたお茶も、喉を通りそうにない。
シャールナーの美しい容姿は候爵譲りだ。
髪の色も肌の色も目の色も、妖しい目つきさえもそっくりだ。
首に掛からないくらいの金髪を後ろに流した姿は、男の目にも色香が見えるようで、父とは違う迫力がある。
「経験が少ない割に、よくできているな。」
「送ってくださった執事に、色々アドバイスを頂きました。」
いつも側にいる眼鏡の執事だ。候爵邸では候爵の補佐役を手伝っていたと聞いていた。
貧しい男爵領で暮らすことになる娘の為に、優秀な人材を送ってくれたのだろう。
おかげでその補佐に会ったときには、刺々しい視線を向けられてしまったが。
「ああ、あいつは頭が良いからな。ミラン君に役立っているなら良かった。」
「頼りきりになってしまって、お恥ずかしい限りです。」
私が肩を丸めると、候爵は「これから学んでいけばいい。」と笑顔を見せてくれた。
爵位も高く、力があってとても頭の上がらない人物だが、優しく尊敬できる候爵が義理の父になったというのは幸運だった。
「ところで当初の予定より工事の範囲が広いようだが、ここの予算はどう捻出するつもりだ?」
「これは新技術を用いて人件費を削減しようと思っています。その方が効率も良く、端の集落まで工事できますので。」
「なるほど。」
サーディッド候爵が提示してくれた援助の予算内で賄えるように計算したが、候爵は浮かない顔をしている。
ざわりと胸に不安が過ぎった。
「それは娘には相談してみたのか?」
「は、はい。予算内に収めたいと相談したところ、色々調べながら考えてくれて、この方法に落ち着きました。」
「娘はもっと簡単な方法を提案しなかったか?」
ぎくりとした。気まずさから目線を下げる。
実は初めて相談した時、「お父様に頼んで予算を上げて貰いましょうか。」と提案された。
しかし私が頑なに断ったのだ。
予算内に予定を組む能力が無いと見做されるのは困るし、かと言って、出資を期待するのは父のようで嫌だった。
「ミラン君はもう少し、プレゼン力と交渉術を身に付けた方が良いな。」
耳が痛い。
かといって、候爵に面と向かってお金の工面を頼む勇気はない。
「援助額を上げるから、人件費は減らさなくていい。」
「し、しかし、新技術を用いれば予算内で済みます。」
「技術はそのまま取り入れて、浮いた人材には別の事をさせればいい。雇用枠を狭める必要はない。うちの領民たちにも仕事を与えたいしな。」
そこでようやく気がついた。
貧しい領民たちに仕事を与えるのも領主の仕事だ。働く機会を安易に奪ってはいけないのだ。
「予算内でやりくりするのも重要なことだが、君には私という後ろ盾がいるのだから、経費のことは気にせず民に最善をつくしなさい。」
「あ、ありがとうございます!」
心がぽかぽかと温かくなるこの気持ちは、何という感情なのだろう。今まで味わったことのない充実感に満たされる。
私がカップを取って口を付けると、ところで、と候爵は書類を置いて煙を吐き、にっこりと妖しい笑顔を浮かべた。
「ミラン君が娘と相性抜群のマゾヒストで良かったよ。」
驚きのあまりお茶が進むべき道を間違え、むせ返り、ごぼっと少し吹き出してしまった。
「おやまあ、汚いな。」
「す、すみま、ゴホッゴホッ。」
咳をしながら慌ててハンカチを取り出し、自身の顔と、汚してしまったテーブルを拭いた。
「な、なぜそのような誤解をなさったのですか?!」
「うん?違うのか?」
「違います!」
「だって君、父親に殴られても抵抗ひとつしないんだろう?」
誰が話したのだろう。シャールナーだろうか。
眼鏡の執事の可能性もある。
彼は元々候爵邸の執事で、候爵を慕っていた。
邸での出来事を逐一報告している可能性もある。
だとしたら候爵の今の言葉は、情けない私への批判だろうか。
そう思ったのも束の間、どうやら違うらしい。
「喜んで娘に縛られたりしてるのかと思ったが、違うのか?」
「しば…え?」
「皮膚を炙られたり、首紐で繋がれたり。」
想像するだけで血の気が引き、私は賢明に首を横に振った。
「おやまあ、違うのか。はは、あの子も恥ずかしくて隠しているのかな?」
すみません、あんまり隠してはいません。対象が違うだけです。
候爵の、シャールナーへの溺愛具合が窺える。彼女の性癖を知った上で、にこにこと笑顔を浮かべられるのだから。
私は苦笑する他ない。
「でも、それなら黙って父親に殴られている理由はなんだ?」
理由。
父親だから。恐ろしいから。反抗したら、もっと恐ろしいことをされるから。
そして、申し訳ないから。
こんな情けない理由の羅列を、私に期待してくれている候爵には話したくない。
息が苦しくなり、手にうまく力が入らない。
そんな私の耳に、候爵の、一際低く甘い声が届いた。
「殺してしまおうか?」
ぞくりと背筋が凍った。
まるで悪魔の甘言だ。
悪いことだと分かっているのに、父のいない生活を想像してしまう。殴られることも、罵声を浴びることもない日々を。
しかし、どこまでも小心の私は、すぐに首を横に振った。
「な、何を仰います、閣下。わ、私の父、ですよ。」
「血縁など関係ない。邪魔なら消すだけだ。実際、君のその消極的な性格、ラディム殿が関係しているのでは?」
そうなのだろうか。分からない。
私が消極的なのは、私に自信がないからであって、それは私自身の問題だ。
それに、シャールナーは父のことが好きなのだ。
彼女が父に好意を持っているお陰で私は彼女と婚姻でき、候爵に良くしてもらっている。
父が死んだら、シャールナーが悲しむに違いない。
いや、死に顔が可愛いとか言いそうだが、とにかく彼女との関係もどうなるか分からない。
何よりも、私自身が後悔しないと言えるだろうか。
まだ心のどこかで、父に認めてもらいたいという自分がいる。
憎まれているのは分かっているが、だからといって、父を憎んではいないのだ。
私はどこまでも情けない。
「と、とにかく、父を殺すなんて…恐ろしいことは仰らないでください。」
私がそう言えば、候爵はふーんと首を傾げ、軽々と「私はどちらでもいいが。」と言ってのけた。
大家門の当主であるサーディッド候爵にとって、貧しい田舎男爵1人を殺すことなど朝飯前ということなのだろう。
「ご心配お掛けして申し訳ありません。」
萎々と頭を下げると、候爵の大きな手に頭をがしりと掴まれた。
ピンクブロンドの髪をくしゃりと乱される。
「まあ、何かあったらいつでも頼りなさい。存外私は君を気に入っているのだよ、ミラン君。」
目頭がじんと熱くなった。
手が離れると、ありがとうございますともう1度頭を下げた。
「あの、帰る前に夫人にもご挨拶したいのですが、夫人はどちらにいらっしゃいますか?」
「悪いが訳あって長男の領地に逃げてしまってな。今はいないんだ。」
逃げてしまって?
不穏な言葉に自己防衛本能が発動し、にこりと笑顔を作った。
「夫人は、一体何からお逃げになったのですか?」
恐る恐る訊ねると、候爵は本日1番の色香を放ち、恍惚とした表情を浮かべた。
「ちょっとね。」
ああ、この人も怖い人だ。そう察した。
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