地蔵を蹴る

すごろく

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地蔵を蹴る

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 月が出ていなかったのか、えらく暗い夜だった。風は涼しかったので、眠れない日の散歩にはちょうどいいくらいだったかもしれない。僕は肩や腕にかかる負荷に耐えながら、酒と唾液が混ざった息の匂いを嗅ぎつつ、のろのろと人気のない通りを歩いていた。
 向かって道路の左側は田んぼ。右側は少し傾斜がある雑木林。その雑木林の向こうには、古ぼけた寺がある。有名な名所とかでもない、ありふれていてこじんまりした田舎の寺だ。真夜中にそんな寺の周囲を出歩く人間は滅多におらず、現に真っ直ぐ一本道に伸びたその通りには、僕と僕に寄り掛かる人を除けば誰の影もなく、車も自転車も見当たらなかった。
 僕は息を切らしながら、すぐ隣の――というか身体を密着させている負荷の元凶に声をかける。
「先輩、大丈夫ですか? 今日はほんと飲み過ぎですよ」
 その人――職場の先輩は、ふやけたアホ面で笑う。
「だーいじょうぶ、だーいじょうぶ。こんくらいフツーフツー」
 呂律の回らない発音で言いながら、片手をぶんぶんと降る。一瞬バランスを崩しかけて、こけそうになる。僕はいらっとして先輩を叱咤する。
「ちょっと! 無駄な動きしないでくださいよ! 転ぶじゃないですか!」
「へーいへい」
 先輩は適当な返事をすると、出鱈目なメロディの鼻歌を口ずさみ始める。
 僕はなるべく先輩から顔を背けて、溜息をつく。これが女性だったりしたらまだ嬉しいのかもしれないけれど、この先輩は普通に男である。少し肥満気味の中年だ。そして僕は同性愛者でもないので、この状況に興奮できるわけも幸福感を感じられるわけもなかった。
 先輩がうっとえずく。誰でも感じるような嫌な悪寒が全身を駆け巡った僕は、さっと先輩を突き放す。先輩はふらふらと右側の雑木林の方へと歩いていって、木の根元に思いっきり嘔吐した。つまみに食べた焼き鳥やらカラスミやらが酒でミックスされた吐瀉物が、柔らかい土やごつごつした木の根の上に降りかかった。
 呻くようなえずきを何度も繰り返したあと、先輩は吐瀉物の前に蹲った。
 僕は恐る恐る先輩のそばに近寄ると、また担ごうとその肩に手をかけた。
 しかし先輩は、ぱっと乱暴に腕を振り回して僕の手を振り払った。
「まったくよお、バカにしやがってよお」
 呂律は相変わらず回っていない。語尾が妙に伸びているのも、舌っ足らずな感じを助長していた。ふらふらと覚束ない千鳥足で、先輩は立ち上がる。生まれたての草食動物のような挙動だった。
「いや、何もバカになんかしてませんよ。酔い過ぎですよ。それよりも大丈夫なんですか? 一人で歩けるんですか?」
「あったりまえだよ、俺は赤ん坊じゃねえんだぞ」
 先輩は温泉に浸かった猿みたいな顔を歪ませて唾を飛ばしながら、ゾンビみたいにふわふわした歩き方で進み始める。僕は内心冷や冷やしながらも、何で自分が心配しなければならないのかという憤りもあり、とにかく早く帰宅したいという想いばかりを積もらせながら歩みの遅い先輩の歩調に合わせて後ろに続いた。
 数秒も経たないうちに先輩は急に立ち止まって、なぜかまた雑木林の方に歩いていく。また嘔吐するのかと思ったが、どうやら違うようだった。
 先輩が向かう先には、地蔵があった。何年も拝まれずに放置され、全身が苔に覆われており、赤い前掛けも使い古された雑巾のようにぼろぼろになった薄汚い地蔵だった。
 先輩はその地蔵の前で足を止め、身を屈めて、微笑むような表情が彫られている地蔵の顔に向かって唾を吐きかけ、怒鳴った。
「なーにをにやにや見てんだ、このヤロー! ええ!」
 何に誤認しているのか知らないが、先輩は地蔵に喧嘩を売っていた。いや、本人の中では地蔵が喧嘩を売ってきて自分が買ったという構図なのだろうか。何はともあれ酔っ払いもここまでくるとある意味では天晴などともはや感心しつつ、とりあえず僕は止めに入った。
「ちょっと先輩、それただのお地蔵様じゃないですか。なに怒鳴ってるんですか」
 すると先輩はますます赤く熟れた顔をこちらに向けて、僕に対しても怒鳴った。
「うるせえ! ムカつくもんはムカつくんだよ!」
 先輩は大きく足を振り上げると、勢いよく地蔵を蹴った。僕が「あ」と間抜けな声を上げる間もなく、先輩に蹴られた地蔵はぐらっと傾き、重たい音を立てて倒れ込むと、ごろごろと傾斜を伝って道路のアスファルトの地面まで転がり落ちた。
 地蔵が顔を横に向けた状態で動きを止めた後も、僕はしばらく呆気に取られていた。先輩はげらげらと笑い転げながら、大の字に手足を広げてその場に寝転がった。虫の音も聞こえない夜の中で響く先輩の笑い声がだんだんと枯れ、小さくなっていくところで、ようやく僕の口から声が出た。
「な、なにやってるんですか」
「なにって、地蔵を蹴ったんだよ」
 先輩はまだ半笑いで、何度か咳き込みながら言った。
「お地蔵様を蹴るとか罰当たりじゃないですか」
「罰? お前さ、何か根本的に勘違いしてんじゃねえの?」
 先輩は起き上がり、またよろよろと立ち上がる。
「罰を当てんのは仏じゃなくて神だろ。そもそも仏教は殺生禁止なんだからさ。仏が罰なんて当てたら本末転倒なんだよ。仏コケにして痛い目に遭うときはな、罰じゃなくて報いっていうんだよ。因果だよ。因果応報」
 先輩は頭が痛いのかこめかみを抑えながら、なおも笑う。どこか自嘲気味に。
「でもな、俺は知ってるんだ。お前も知ってるんだ。みんな知ってるんだ。知らないやつはいないんだよ。因果も応報もありゃしない。ありゃしないんだ、たとえ仏がいたとしてもな」
「えーっと・・・・・・それって無神論ってことですか?」
 発言した後で、これは違うなと気づいたが、口にしてしまった時点で遅く、先輩は急に眉間に皺を寄せて表情を険しくすると、身振り手振りを交えて饒舌に喋り始めた。
「そうじゃねえよ、そうじゃねえ。俺は神も仏もいないなんてことは一言も言ってねえんだよ。ただ因果応報はないって言ったんだ。因果応報がないことと神や仏がいないことは繋がってねえよ。繋がってねえんだよ、少なくとも俺の中では。そりゃいて欲しいよ。神にも仏にも、俺はいて欲しいんだ。人間なんていう失敗作こしらえたり、運命やら宿命やらで人形遊びしたり、たまに気まぐれに救ったり説教したり、そんな存在、いて欲しいに決まってるだろ。だって全部そいつらのせいにできるんだ。俺のくだらない人生も。いざ本当にダメなときに、もうどうしようもないときに、殺してくれるんだよ。きっと殺してくれるんだよ、俺を、そいつらは。今だって――今だって見てるんならさ、姿くらい現してくれよ。今なら何の疑いもなく信仰するからさ。来てくれよ、俺のところに――俺を殺しに――」
 半ばからもう先輩は僕に対して喋っていなかった。ただ宙に向かって言葉をばら撒いていた。たぶん何の意味もないであろう言葉を。
「因果応報があるんならさあ、俺に報いを受けさせてくれよお。俺を殺してくれよお、その報いでさあ、俺を殺してくれってえ、頼むからあ」
 先輩は膝を折り、前のめりに倒れるように泣き崩れた。
 先ほどまでは先輩の笑い声が響いていた夜に、今は先輩の泣き声が響いている。
 僕はただただもう思考が真っ白になるくらい茫然としてしまって、蹲る先輩の汚い背中を見下ろしていた。
 鳥か蝙蝠かは知らないが、雑木林から何かがばさばさと飛び立つような音を耳にして、僕はようやく我に返った。とにかく先輩をこのままにしておくにはいかないので、なおもすすり泣き続ける先輩の腕を無理やり持ち上げ、肩に担いだ。先輩は特に抵抗することはなく、嗚咽を漏らしながら再び僕の身体に身を寄り掛からせて立ち上がった。
「とにかく行きましょう。宗教うんぬん置いておくにしても、こりゃ普通にアウトですよ」
 法律などに関してはまったくもって明るくなかったが、地蔵の破壊またはそれに準ずるような行為がまずいということは何となくわかった。
 先輩はもう何も返事をしなかった。ただひくひくと幼い子どものように泣き続けるだけだった。
 先輩の息の匂いには酒と唾液に加えて吐瀉物のものも混じり、さらに先輩の目から垂れ流される塩水や鼻から漏れ出す粘液などが僕の肩を容赦なく濡らしてきたけれど、そんなことを気にしている暇はなかったし、何よりも不快に思う気力すら湧かなかった。
 僕は転がった地蔵を放置したままそれに背を向け、先輩を引っ張りながら歩き出す。先輩は引っ張られながらついてくる。
 先輩は今夜のことを憶えているのだろうか。先輩の一気に老けたようなしわくちゃの泣き顔を横目で眺めながら思う。明日には忘れてしまうだろうか。あるいは酒のせいにして、あれは一種の夢だったとでも勝手に自分の中で整合性を取ってしまうだろうか。先輩がどういう選択をするにせよ、そこに僕はいなくて、そしているべきではないと思った。
 数メートルくらい進んだところで、背後に何か重たいものがずるっと這いずるような音が聞こえた気がして、僕は首だけをぐるっと回して振り返る。
 特に何の変化もなかった。地蔵が不自然に動いているなんてことも――。
 先輩の泣き声はもうやんでいる。ただ潤んだ瞳で夜空を見上げている。
 僕はもうひと踏ん張りと、先輩を引き連れながら鈍い足取りで進んでいく。
 ぽつんと薄明かりを放つ街頭に、たくさんの羽虫や蛾などが群がっていた。
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