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波は遠く
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一度だけ、姪っ子が俺にプレゼントをくれたことがある。といっても、それは俺個人に対してのプレゼントではなく、俺と妻に対するプレゼントだった。それは小さな白い巻き貝の貝殻だった。家族でグアムの海に遊びに行ったお土産だ、と姪っ子は笑いながら言った。
なんて安上がりなお土産だ、と俺と妻は言った。妻はちゃんとそれが冗談の軽口だとわかるようににこにこと微笑んでいたけれど、俺は妻と同じような表情ができている自信はなかった。姪っ子は気づいていたか気づいていなかったか、俺の表情など眼中にないとばかりに旅行先での思い出話を披露していたけれど、姪っ子が帰った後、妻からは「あんた、子ども相手にみっともない顔をしてるんじゃないよ」とちくりと嫌味を言われた。
姪っ子がくれた巻き貝の貝殻は、リビングの写真立てなんかが並べられている棚の上に飾られた。その貝殻は、姪っ子曰く「耳に当ててみたら、まるで今海のすぐそばにいるような波の音が聞こえてくる、不思議な貝殻なんだよ」とのことだったが、俺が耳に当てても波の音なんて聞こえなかった。代わりに踏切の警告音と目覚まし時計の音が混じったような、やかましくて嫌な音が聞こえた。それを妻に報告すると、妻は呆れたような顔をして、「あんたには聞こえないよ、きっと」と言った。「どういうことか」と訊ねても、「あんたにわかるわけがない」とろくに答えてくれなかった。「じゃあお前にはどんな音が聞こえるんだ」と訊いてみたが、妻はそれこそ能面を被ったように無視を決め込むばかりだった。
結局、その貝殻はただの置物になった。日常生活の中でふと視界に入れば、「姪っ子がまた遊びに来たら、あの変な音について訊こう」と一瞬考えるだけで、次の瞬間には、近所の与太話と今日の飯のことだけで頭の中がいっぱいになった。
しかし、姪っ子が再び遊びに来ることはなかった。死んだとかどこか遠くへ行ったとか、そういう重たい話ではない。単純に姪っ子は、俺や妻のことなんて忘れたように、うちに遊びに来ることがなくなった。最後にその姿を目にしたのは、親父の葬儀――姪っ子から見たら祖父の葬儀だが――のときだった。話しかけようかとも思ったが、振る舞われている寿司を一心不乱に食っていたり、何にそんなに夢中なのか目を釘付けにしてスマホ画面を注視していたりしていて、それでどうにも声をかけるタイミングを掴みかねていたら、結局何の会話もできないまま葬儀が終わってしまった。姪っ子の父親である兄貴から近況を聞く限りでは、最近では年上の彼氏もできて色々と奔放に人生を謳歌しているらしい。「親がいるのに平気で男連れ込むのはどうにかしてくれんもんかね。あいつの部屋から物音やら喘ぎ声やらが聞こえてくると、どうにも気まずい気持ちになっちまうんだよ」と、兄貴は心底から迷惑しているような調子で言っていた。
そうこうしているうちに、俺と妻は離婚した。原因は妻の浮気――というよりも、妻から「あんたよりも好きな人がいる、その人のところに行く」と突然離婚届を突き付けられたことだった。あまりにも唐突だったものだから、怒りだとか悲しみだとかそういう感情らしい感情は特に湧かず、道理で最近残業が多かったわけだ、と妙に納得する気持ちだけがあった。
特にこれといった感慨もなく、ぼんやりと薄っぺらい紙に自分の名を記した次の瞬間には、妻はあっという間に荷物をまとめ、家を出ていった。まだ追い出されるような離婚の仕方ではなくて良かったなと、その日の夕飯にインスタントラーメンを食べながら思った。
翌日には、棚の上の写真立てを片付けた。写真立ての中には、俺と妻がぎこちない笑顔で写っていた。うっすらと埃を被り、薄汚れていた。そのとき、その隣に置かれている貝殻に気づいた。正確には、ずっと忘れていたことに気づいた。手に取って、久々に耳に当ててみたが、相変わらず波の音は聞こえず、やかましい人工音ばかりが鳴り響いていた。そっと棚の上に置き直し、また忘れたように片付けに戻った。
それから姪っ子がまたひょっこり訪ねてきたのは、一年ほど経った夏の時期だった。姪っ子は中学生になっていた。キャミソールにハーフパンツという妙に露出度の高い姿で、姪っ子はうちのインターホンを鳴らした。応対すると、姪っ子はつい昨日も顔を合わせていたかのような馴れ馴れしい調子で喋った。
「おじさん、相変わらずしみったれた顔してるね!」
俺は数秒ほど目の前で笑う少女が姪っ子であることに気づかず、きょとんとしていた。
その頃の俺はといえば、妻と離婚してからはどうにも気が抜けてしまって、仕事中なんかもしょうもないミスを連発し、上司どころか年下の連中からも叱られることが増えた。それに嫌気が差して、仕事をやめた。今は就職活動もろくにしようとせず、貯金を食い潰して飯を食っては眠ってという、一端の穀潰しのような生活を送っていた。
姪っ子がそれを知っていたか知らなかったかは知らないが、俺に特に遠慮する様子もなく、ずかずかと家に上がり込んできた。
「うわっ、きったなっ。やっぱおばさんと離婚したの堪えてるんだ」
リビングを覗き込むなり、姪っ子は鼻を摘まみながら言った。確かに今のリビングはゴミ捨て場のような有り様で、お世辞にも綺麗な部屋とは言えなかった。
「大きなお世話だよ。それとも掃除でもしてくれるのか?」
「嫌だよ」
姪っ子はそうきっぱりと断ると、ゴミとゴミの間の適当な場所にどかっと腰を落とした。
「おじさん、お客さんが来たときはお茶でも入れてよ」
不満げに唇を窄める。
「何で俺がお前の指図を聞かにゃならんのだ」
「はいはい、そういうのいいから。あーあ、喉乾いたなあ」
姪っ子のゴリ押しに負け、俺は台所の段ボール箱から取り出した市販のお茶のペットボトルをそのまま姪っ子に投げた。姪っ子は軽々とそれを片手で受け取った。
「何よ、ペットボトルじゃない」
「うるさいな、それしかないんだよ」
俺もペットボトルを一本取り出して蓋を開け、喉に流し込む。生温くて不味い。
「あのさ、可愛い姪っ子が久々に来たっていうのに、なんか歓迎とかないの? せめてもうちょっと喜ぶとかさあ」
「いきなり来たやつに歓迎も何もないだろ」
手持無沙汰にペットボトルの中身を飲み干しながら、こいつ昔からこんなやつだったかなあ、と考える。確かに明るく社交的なやつだという印象はあったが、もう少し可愛げのあるやつだった気がする。中学生にしては背も高いし、なんというかもう男遊びとかやっていそうな風格がある。完全に偏見だ。もちろんそんなこと本人には言わないが。
「あー、おじさん、私のこと昔はもっと可愛らしかったのにみたいなこと思ったでしょ?」
「思ってない」
「別に今は彼氏とかいないから」
「だから思ってないって。それよりもお前、何で急にうちに来たんだ。もう何年も一度も来なかったっていうのに」
「何ってさ、おじさんのこと心配して来たんだけど」
「心配?」
「さっきも言ったじゃん、おばさんと離婚したの堪えてるんだなって」
「つってもあいつと離婚したのは去年だぞ。遅すぎじゃないか?」
「うるさいなあ、来てくれただけ有難いって思いなよ」
姪っ子は拗ねたようにそっぽを向いたが、本気で機嫌を悪くしている風でもなかった。
「おじさんのその感じ、昔から変わらないね」
「その感じってどの感じだよ」
「その不愛想で性格悪そうな感じ」
「性格悪そうって漠然とし過ぎだろ」
「そういう細かいところだよ。そういうところが性格悪そう」
「――まあ否定はしないけどさ」
もし俺が性格の良いやつだったら、あいつと離婚しなかっただろうか。いや、そもそもあんなやつとは結婚すらしなかっただろう。あいつも大概性格が悪かったから。
姪っ子はぼんやりする俺のことは構わず話を続ける。
「昔もさ、私が巻き貝プレゼントしたとき、すっごく感じ悪かったよね。おばさんは笑ってたけど、おじさんは仏頂面でさ、本気で不満そうな顔してんの。私、ちょっと傷ついちゃったんだから」
「それは嘘だろ」
「嘘じゃないよ、誇張だよ」
顔を伏せてくすくすと笑う。その姿がようやく数年前の面影と重なった。
「そういやさ、あの巻き貝どうしたの? どうせおじさんのことだからとっくに失くしてるだろうと思うけど」
「いや、あるよ。あそこに」
俺はリビングの隅にある棚を指差した。その上には、肉眼ではっきり見えるほどの埃が積もった巻き貝が、そこに貼りついているように置かれていた。
「マジで? 捨ててなかったんだ。あ、でも埃まみれだし、実質捨ててるみたいなもんか」
姪っ子の反応はえらくドライだった。声に抑揚の変化もない。
「なんだ、その反応は。ぶっちゃけあんな使い道がないもの、置いとくしかないだろ」
「けどせめて大事に保管しとくか――まあおじさんはそんなのできないとは思ってたけど」
「さっきから俺を馬鹿にするような物言いばっかしやがって。俺を何だと思ってるんだ」
「お父さんの弟」
俺は脱力してその場に座り込みそうになった。急に嵐の如くやって来たと思ったら、随分と不躾な言葉ばかり投げつけてくる始末である。別にこの程度のことで激怒しようとは思わないが、さすがにため息の一つでもつきたい気分になるものだった。
ふと、そこで昔から姪っ子に聞きそびれていることを思い出した。巻き貝の音のことだ。
「そういやちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「あの巻き貝、確か波の音が聞こえるって言ってくれたよな」
「うん、そうだったね」
「俺が耳に当てると、波の音じゃなくてなんか人工音みたいなやかましいのが聞こえてくるんだけど、あれどうなってんだ? あいつは何も教えてくれなかったし――」
「知らないよ」
「は?」
「知ってるわけないじゃん。あの巻き貝は砂浜で拾ってきただけだよ」
姪っ子は当然だと言わんばかりの顔をした。
「そもそも、波が聞こえるってのも嘘だしね」
「え? 嘘なのか?」
そういえば、あいつも「波の音が聞こえる」とは一言も言っていなかったなということを、今更になって気づく。
「だってただの巻き貝だとさすがにちょっとあれじゃん。だから波が聞こえるって嘘ついたの。そしたらちょっとはお土産感あるでしょ」
「あんまり変わらんが」
「まあそれよりおじさん、耳が少し変なんじゃないの? 耳鼻科行った?」
「健康検診はたまに受けてるけど、別に異常とか何もないぞ?」
「じゃあ幻聴の類」
「俺をやばいやつにするな」
「うーん、だったらあれだ、おじさんの心の闇の体現、みたいな」
「幻聴と変わってない」
「だって私にはわからないもん」
姪っ子は立ち上がると、棚の方に近寄り、埃を祓いながら巻き貝を拾い上げ、自身の耳に宛がった。
「やっぱり何も聞こえない」
巻き貝を元の場所に置くと、姪っ子は少しつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「まあ頑張ってみればいいんじゃないかな?」
「頑張る? 何を?」
「波の音が聞こえるようにさ」
どういう――と訊き返す前に、姪っ子は俺の次の言葉を掻き消すように「うーん」と大きな吐息を漏らしながら腕を目いっぱい伸ばした。
「私、もう帰るね」
「もう? お前、何もしてねえだろ」
「おじさんの様子見に来ただけだからね。大丈夫、また来るから」
「来ないでいい」
「またまたあ。そんな連れないこと言わないで。まあ次に来るのは百年後くらいになるかもだけど」
そう言うと、また顔を伏せてくすくすと笑った。
「じゃあね」
たったその一言の別れの言葉を残して、姪っ子はさっさと去っていった。俺は蓋も開けられていないお茶のペットボトルとともに取り残されて、玄関の鍵もかけず、突然降り出した大雨に、雨宿りする間もなく追い越されたような気分で呆然としていた。
そっと約一年ぶりに色褪せた巻き貝を拾い上げて、耳に宛がう。ひんやりとした冷たさが耳たぶに染み入ってくる。音が聞こえる。がたんごとん、りーんりーん、かんかんきんきん、波とは程遠い、死に急がせるような機械音ばかり。
いつか聞けるだろうか、波の音は。
巻き貝を耳に当てたまま、何の気なしに窓から外を見た。狭苦しい家々の群れを見て、電線に止まる小汚いカラスを見て――快晴の青空を見た。地上から切り離された、波のような青空を見た。
一瞬、微かに水流の音が聞こえた気がした。しかし、それはすぐに雑多な音の嵐に飲み込まれた。それでも空を見上げていた。空の青白さが目に沁みるほど。
波は、まだ遠い。
なんて安上がりなお土産だ、と俺と妻は言った。妻はちゃんとそれが冗談の軽口だとわかるようににこにこと微笑んでいたけれど、俺は妻と同じような表情ができている自信はなかった。姪っ子は気づいていたか気づいていなかったか、俺の表情など眼中にないとばかりに旅行先での思い出話を披露していたけれど、姪っ子が帰った後、妻からは「あんた、子ども相手にみっともない顔をしてるんじゃないよ」とちくりと嫌味を言われた。
姪っ子がくれた巻き貝の貝殻は、リビングの写真立てなんかが並べられている棚の上に飾られた。その貝殻は、姪っ子曰く「耳に当ててみたら、まるで今海のすぐそばにいるような波の音が聞こえてくる、不思議な貝殻なんだよ」とのことだったが、俺が耳に当てても波の音なんて聞こえなかった。代わりに踏切の警告音と目覚まし時計の音が混じったような、やかましくて嫌な音が聞こえた。それを妻に報告すると、妻は呆れたような顔をして、「あんたには聞こえないよ、きっと」と言った。「どういうことか」と訊ねても、「あんたにわかるわけがない」とろくに答えてくれなかった。「じゃあお前にはどんな音が聞こえるんだ」と訊いてみたが、妻はそれこそ能面を被ったように無視を決め込むばかりだった。
結局、その貝殻はただの置物になった。日常生活の中でふと視界に入れば、「姪っ子がまた遊びに来たら、あの変な音について訊こう」と一瞬考えるだけで、次の瞬間には、近所の与太話と今日の飯のことだけで頭の中がいっぱいになった。
しかし、姪っ子が再び遊びに来ることはなかった。死んだとかどこか遠くへ行ったとか、そういう重たい話ではない。単純に姪っ子は、俺や妻のことなんて忘れたように、うちに遊びに来ることがなくなった。最後にその姿を目にしたのは、親父の葬儀――姪っ子から見たら祖父の葬儀だが――のときだった。話しかけようかとも思ったが、振る舞われている寿司を一心不乱に食っていたり、何にそんなに夢中なのか目を釘付けにしてスマホ画面を注視していたりしていて、それでどうにも声をかけるタイミングを掴みかねていたら、結局何の会話もできないまま葬儀が終わってしまった。姪っ子の父親である兄貴から近況を聞く限りでは、最近では年上の彼氏もできて色々と奔放に人生を謳歌しているらしい。「親がいるのに平気で男連れ込むのはどうにかしてくれんもんかね。あいつの部屋から物音やら喘ぎ声やらが聞こえてくると、どうにも気まずい気持ちになっちまうんだよ」と、兄貴は心底から迷惑しているような調子で言っていた。
そうこうしているうちに、俺と妻は離婚した。原因は妻の浮気――というよりも、妻から「あんたよりも好きな人がいる、その人のところに行く」と突然離婚届を突き付けられたことだった。あまりにも唐突だったものだから、怒りだとか悲しみだとかそういう感情らしい感情は特に湧かず、道理で最近残業が多かったわけだ、と妙に納得する気持ちだけがあった。
特にこれといった感慨もなく、ぼんやりと薄っぺらい紙に自分の名を記した次の瞬間には、妻はあっという間に荷物をまとめ、家を出ていった。まだ追い出されるような離婚の仕方ではなくて良かったなと、その日の夕飯にインスタントラーメンを食べながら思った。
翌日には、棚の上の写真立てを片付けた。写真立ての中には、俺と妻がぎこちない笑顔で写っていた。うっすらと埃を被り、薄汚れていた。そのとき、その隣に置かれている貝殻に気づいた。正確には、ずっと忘れていたことに気づいた。手に取って、久々に耳に当ててみたが、相変わらず波の音は聞こえず、やかましい人工音ばかりが鳴り響いていた。そっと棚の上に置き直し、また忘れたように片付けに戻った。
それから姪っ子がまたひょっこり訪ねてきたのは、一年ほど経った夏の時期だった。姪っ子は中学生になっていた。キャミソールにハーフパンツという妙に露出度の高い姿で、姪っ子はうちのインターホンを鳴らした。応対すると、姪っ子はつい昨日も顔を合わせていたかのような馴れ馴れしい調子で喋った。
「おじさん、相変わらずしみったれた顔してるね!」
俺は数秒ほど目の前で笑う少女が姪っ子であることに気づかず、きょとんとしていた。
その頃の俺はといえば、妻と離婚してからはどうにも気が抜けてしまって、仕事中なんかもしょうもないミスを連発し、上司どころか年下の連中からも叱られることが増えた。それに嫌気が差して、仕事をやめた。今は就職活動もろくにしようとせず、貯金を食い潰して飯を食っては眠ってという、一端の穀潰しのような生活を送っていた。
姪っ子がそれを知っていたか知らなかったかは知らないが、俺に特に遠慮する様子もなく、ずかずかと家に上がり込んできた。
「うわっ、きったなっ。やっぱおばさんと離婚したの堪えてるんだ」
リビングを覗き込むなり、姪っ子は鼻を摘まみながら言った。確かに今のリビングはゴミ捨て場のような有り様で、お世辞にも綺麗な部屋とは言えなかった。
「大きなお世話だよ。それとも掃除でもしてくれるのか?」
「嫌だよ」
姪っ子はそうきっぱりと断ると、ゴミとゴミの間の適当な場所にどかっと腰を落とした。
「おじさん、お客さんが来たときはお茶でも入れてよ」
不満げに唇を窄める。
「何で俺がお前の指図を聞かにゃならんのだ」
「はいはい、そういうのいいから。あーあ、喉乾いたなあ」
姪っ子のゴリ押しに負け、俺は台所の段ボール箱から取り出した市販のお茶のペットボトルをそのまま姪っ子に投げた。姪っ子は軽々とそれを片手で受け取った。
「何よ、ペットボトルじゃない」
「うるさいな、それしかないんだよ」
俺もペットボトルを一本取り出して蓋を開け、喉に流し込む。生温くて不味い。
「あのさ、可愛い姪っ子が久々に来たっていうのに、なんか歓迎とかないの? せめてもうちょっと喜ぶとかさあ」
「いきなり来たやつに歓迎も何もないだろ」
手持無沙汰にペットボトルの中身を飲み干しながら、こいつ昔からこんなやつだったかなあ、と考える。確かに明るく社交的なやつだという印象はあったが、もう少し可愛げのあるやつだった気がする。中学生にしては背も高いし、なんというかもう男遊びとかやっていそうな風格がある。完全に偏見だ。もちろんそんなこと本人には言わないが。
「あー、おじさん、私のこと昔はもっと可愛らしかったのにみたいなこと思ったでしょ?」
「思ってない」
「別に今は彼氏とかいないから」
「だから思ってないって。それよりもお前、何で急にうちに来たんだ。もう何年も一度も来なかったっていうのに」
「何ってさ、おじさんのこと心配して来たんだけど」
「心配?」
「さっきも言ったじゃん、おばさんと離婚したの堪えてるんだなって」
「つってもあいつと離婚したのは去年だぞ。遅すぎじゃないか?」
「うるさいなあ、来てくれただけ有難いって思いなよ」
姪っ子は拗ねたようにそっぽを向いたが、本気で機嫌を悪くしている風でもなかった。
「おじさんのその感じ、昔から変わらないね」
「その感じってどの感じだよ」
「その不愛想で性格悪そうな感じ」
「性格悪そうって漠然とし過ぎだろ」
「そういう細かいところだよ。そういうところが性格悪そう」
「――まあ否定はしないけどさ」
もし俺が性格の良いやつだったら、あいつと離婚しなかっただろうか。いや、そもそもあんなやつとは結婚すらしなかっただろう。あいつも大概性格が悪かったから。
姪っ子はぼんやりする俺のことは構わず話を続ける。
「昔もさ、私が巻き貝プレゼントしたとき、すっごく感じ悪かったよね。おばさんは笑ってたけど、おじさんは仏頂面でさ、本気で不満そうな顔してんの。私、ちょっと傷ついちゃったんだから」
「それは嘘だろ」
「嘘じゃないよ、誇張だよ」
顔を伏せてくすくすと笑う。その姿がようやく数年前の面影と重なった。
「そういやさ、あの巻き貝どうしたの? どうせおじさんのことだからとっくに失くしてるだろうと思うけど」
「いや、あるよ。あそこに」
俺はリビングの隅にある棚を指差した。その上には、肉眼ではっきり見えるほどの埃が積もった巻き貝が、そこに貼りついているように置かれていた。
「マジで? 捨ててなかったんだ。あ、でも埃まみれだし、実質捨ててるみたいなもんか」
姪っ子の反応はえらくドライだった。声に抑揚の変化もない。
「なんだ、その反応は。ぶっちゃけあんな使い道がないもの、置いとくしかないだろ」
「けどせめて大事に保管しとくか――まあおじさんはそんなのできないとは思ってたけど」
「さっきから俺を馬鹿にするような物言いばっかしやがって。俺を何だと思ってるんだ」
「お父さんの弟」
俺は脱力してその場に座り込みそうになった。急に嵐の如くやって来たと思ったら、随分と不躾な言葉ばかり投げつけてくる始末である。別にこの程度のことで激怒しようとは思わないが、さすがにため息の一つでもつきたい気分になるものだった。
ふと、そこで昔から姪っ子に聞きそびれていることを思い出した。巻き貝の音のことだ。
「そういやちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「あの巻き貝、確か波の音が聞こえるって言ってくれたよな」
「うん、そうだったね」
「俺が耳に当てると、波の音じゃなくてなんか人工音みたいなやかましいのが聞こえてくるんだけど、あれどうなってんだ? あいつは何も教えてくれなかったし――」
「知らないよ」
「は?」
「知ってるわけないじゃん。あの巻き貝は砂浜で拾ってきただけだよ」
姪っ子は当然だと言わんばかりの顔をした。
「そもそも、波が聞こえるってのも嘘だしね」
「え? 嘘なのか?」
そういえば、あいつも「波の音が聞こえる」とは一言も言っていなかったなということを、今更になって気づく。
「だってただの巻き貝だとさすがにちょっとあれじゃん。だから波が聞こえるって嘘ついたの。そしたらちょっとはお土産感あるでしょ」
「あんまり変わらんが」
「まあそれよりおじさん、耳が少し変なんじゃないの? 耳鼻科行った?」
「健康検診はたまに受けてるけど、別に異常とか何もないぞ?」
「じゃあ幻聴の類」
「俺をやばいやつにするな」
「うーん、だったらあれだ、おじさんの心の闇の体現、みたいな」
「幻聴と変わってない」
「だって私にはわからないもん」
姪っ子は立ち上がると、棚の方に近寄り、埃を祓いながら巻き貝を拾い上げ、自身の耳に宛がった。
「やっぱり何も聞こえない」
巻き貝を元の場所に置くと、姪っ子は少しつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「まあ頑張ってみればいいんじゃないかな?」
「頑張る? 何を?」
「波の音が聞こえるようにさ」
どういう――と訊き返す前に、姪っ子は俺の次の言葉を掻き消すように「うーん」と大きな吐息を漏らしながら腕を目いっぱい伸ばした。
「私、もう帰るね」
「もう? お前、何もしてねえだろ」
「おじさんの様子見に来ただけだからね。大丈夫、また来るから」
「来ないでいい」
「またまたあ。そんな連れないこと言わないで。まあ次に来るのは百年後くらいになるかもだけど」
そう言うと、また顔を伏せてくすくすと笑った。
「じゃあね」
たったその一言の別れの言葉を残して、姪っ子はさっさと去っていった。俺は蓋も開けられていないお茶のペットボトルとともに取り残されて、玄関の鍵もかけず、突然降り出した大雨に、雨宿りする間もなく追い越されたような気分で呆然としていた。
そっと約一年ぶりに色褪せた巻き貝を拾い上げて、耳に宛がう。ひんやりとした冷たさが耳たぶに染み入ってくる。音が聞こえる。がたんごとん、りーんりーん、かんかんきんきん、波とは程遠い、死に急がせるような機械音ばかり。
いつか聞けるだろうか、波の音は。
巻き貝を耳に当てたまま、何の気なしに窓から外を見た。狭苦しい家々の群れを見て、電線に止まる小汚いカラスを見て――快晴の青空を見た。地上から切り離された、波のような青空を見た。
一瞬、微かに水流の音が聞こえた気がした。しかし、それはすぐに雑多な音の嵐に飲み込まれた。それでも空を見上げていた。空の青白さが目に沁みるほど。
波は、まだ遠い。
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