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花咲かじいさん
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昔だか今だかはたまた未来か、あるところに花咲さんという年配の男性がいました。
花咲さんはとうの昔に奥さんに先立たれ、なおかつ子どもなども設けていなかったことから、孤独な隠居生活を送っていました。
そんな花咲さんは、ある日仔犬を拾いました。
人気のない通りの電柱のそばにそっと置かれた段ボール箱の中に、その仔犬は蹲るように丸くなっていました。仔犬は元来白い毛並みの持ち主なのがひと目でわかりましたが、その毛は煤だか埃だかよくわからない汚れで真っ黒に染められていて、さながら使い古された雑巾の塊のようでした。
心優しい花咲さんは、その痛ましい姿を見ていられず、段ボールごと仔犬を自分の家へと運びました。水を飲ませてやると、仔犬はくーんと小さな声で鳴きました。花咲さんはこれ以上何をするべきなのかわからなかったので、とりあえず近場の動物病院に連れていきました。そこの獣医によれば、多少の栄養失調があってノミがいるだけで、あとは大きな病気も怪我もない、とのことでした。花咲さんはひとまずほっとしました。
獣医に勧められたドックフードやその他諸々の必要品を購入し、花咲さんはさっそくそれを仔犬に与えました。すると仔犬は、みるみると元気になっていきました。このまま汚れたままなのも忍びないと風呂にも入れてやりました。水は嫌いではないタイプなのか、特に嫌がる様子もなく、むしろ気持ちよさそうに洗われていました。
洗い終わり、さらに乾いた仔犬の毛並みは、見違えるように真っ白で艶やかで柔らかいものになっていました。花咲さんはその毛並みの美しさに感服し、その仔犬を「シロ」と名付けました。安直なネーミングでしたが、花咲さんも仔犬も気に入っているようでした。
しばらくの間、花咲さんと仔犬改めシロは穏やかで平和な日々を送りました。不穏なことはテレビ画面の向こう側にしか存在しない、そんなうららかな日常でした。
一年以上の月日が経ち、シロが成犬になった頃です。ある日、シロが妙にそわそわと動き回っていることに花咲さんは気づきました。「どうした」と訊ねても、シロは犬なので当然返事はしません。その代わり、服の裾を引っ張って花咲さんを庭まで連れてくると、その庭先の地面をつんつんと鼻で突きました。ここを掘れ、とでも言うように。
花咲さんは少し迷いましたが、他ならぬ愛犬の行動だと、倉庫の奥に埋まっていた錆だらけのシャベルを引っ張り出してきて、シロが示したところを掘りました。ラグビーボールの大きさほど掘ったところで、何かがシャベルの先端に当たるような手応えがありました。
最後は手で掘り進めてみると、見かけないものが出てきました。それは、パッケージの剥がされたビスケットの缶でした。表面はでこぼこしていて、緑の塗装がところどころ剥がれ落ちてその下にある銀が露わになっていました。重くも軽くもない、不思議な感触でした。
花咲さんは、その家にかれこれ三十年以上は暮らしていましたが、こんな缶が埋められていたことなど知りませんでしたし、埋めた覚えもありませんでした。
シロが花咲さんを上目遣いで見つめました。まるで「さあ、開けてくれ」と言わんばかりでした。
花咲さんは数分躊躇したのち、思い切ってビスケット缶の蓋を開けました。缶は初めのうちは硬かったのですが、がこんという音とともに勢いよく外れました。その瞬間、ただのゴミのようだったはずのビスケット缶の中から、まるで磨き上げられた大判小判が照り返しているような眩い光が放たれました。
思わず花咲さんは目を瞑りました。瞼の裏側が真っ白に染められ、そこには花咲さんの過去の光景が投影されていました。それは在りし日の、もう振り返ることもなくなっていた懐かしいものでした。母や父に抱かれたこと、友達と日が暮れるまで遊んだこと、運動会の徒競走で一位になったこと、林間学校でクラスメイトたちと怪談話をしたこと、初恋をしたこと、結婚したこと、先立った奥さんの手の甲に自分の手のひらを重ね合わせていたこと――それらは走馬燈の如く花咲さんの目の前を駆け抜けました。花咲さんの頬に水滴が伝いました。
瞼の裏が感知する光が正常に戻り、恐る恐る花咲さんが目を開けてみると、そこには空っぽのビスケット缶があるだけでした。しかし、花咲さんの心には、言葉にもできないような暖かいものが満ち満ちていました。この多幸感は、きっとシロが持ってきてくれたものだと思った花咲さんは、シロを抱きつくように撫でました。シロも花咲さんの好意に甘えるように、ふんふんと鼻を鳴らしながら身体を擦りつけました。花咲さんもシロも、とても幸せそうでした。
さて、そんな一人と一匹のじゃれ合いを密かに覗いていた人物がいました。それは隣家に住む意地悪な少年でした。少年は花咲さんがビスケット缶を開けてなぜか涙を流しているのを見て、あのビスケット缶の中には何かとんでもないお宝があったのではないかと思いました。そこで、そのビスケット缶の在処を嗅ぎつけたシロを、花咲さんが留守中に無理やり引っ張り出し、自分の家の庭からビスケット缶を見つけさせようとしました。
最初はシロも嫌がっていましたが、何度かぶたれたのちに、渋々といった具合に庭のある一点を鼻先で指し示しました。少年が嬉々としてスコップで掘り返すと、そこから花咲さんちの庭から出てきたものと寸分違わない外見をしたビスケット缶が掘り出されました。
少年は大喜びで、何の躊躇いもなくビスケット缶の蓋を開け放ちました。次の瞬間、少年は嘔吐しました。胃液とぐちゃぐちゃに混ぜられた昼食が口から流れ出しました。少年はビスケット缶を取り落とし、地面に突っ伏してげえげえと吐きました。ビスケット缶の中身は空でした。シロは何が起こったのかわからないという様子で、困惑したように吠えました。
嘔吐が止まると、途端に少年は自分が何でこんな目に遭っているのかという怒りを覚えました。そしてそれをそのままシロにぶつけました。シロに散々殴る蹴るなどの暴行を加えた挙句、最終的にはスコップでシロの頭蓋骨をかち割り、殺してしまいました。
少年は一瞬慌てましたが、すぐに殺してしまったものは仕方ないと開き直り、シロの死骸を何食わぬ顔でそっと花咲さんちの庭に捨てて逃げ帰りました。
そんなことが起こっているとはこれっぽっちも知らない花咲さんは、庭に転がっているシロの死骸を発見すると驚き慄き、すぐに抱き着いてその身体を揺すりました。しかし、シロの目が開かれることはありませんでした。
花咲さんは一晩中嘆き悲しみ、そしてシロを庭に埋め、墓標として薄い木の板に『シロ』と大きく書き、そこに立てかけました。
その翌日、花咲さんが庭へ出てみると、墓標はなくなっていました。いえ、正確には、墓標であったはずの薄い木の板は、別のものへと変化していました。それは庭いっぱいにその体躯を広げんばかりの、幹の太い大木でした。
たった一晩で、こんな大木が我が庭に育っていることに、花咲さんは大変驚きました。
花咲さんはしばらく茫然と大木を見上げていましたが、じきに何やら声が聞こえてくることに気づきました。その声はどうやら大木の内側から聞こえてくるようでした。
花咲さんは大木に耳を近づけて、その声に耳を澄ませます。
私は臼です、私は臼です、私は臼です――声はそう繰り返していました。
花咲さんがつい臼なのかいと訊ねると、大木はたちまちに縮こまり、ぐねぐねと変形し、最終的には臼になってしまいました。
花咲さんが呆気に取られていると、声はさらに餅をつけと催促してきます。餅をつこうにも肝心のもち米も杵もないと花咲さんが言うと、その途端に臼の中にはほかほかの餅が出現し、手にはいつの間にか杵が持たれている状態になっていました。
ついてください、餅をついてください、お願いします――声がそう哀願します。
花咲さんはなんだか申し訳なくなってきて、その声の言うことを聞いてやることにしました。杵を大きく振り上げ、臼の中の餅目がけて振り下ろします。
餅に杵が叩きつけられた瞬間、餅は生命を得たかのようにぐちゃぐちゃと動いて臼の中から飛び出し、だんだんと大きくなり、等身大の人の形になったかと思うと、表面の餅が弾け、中から本物の人間が出てきました。
花咲さんはそれを見て、感嘆の声を上げました。それは死別した花咲さんの奥さんでした。
花咲さんは餅から出てきた奥さんに駆け寄り、抱き着きます。奥さんは何の抵抗もなく花咲さんを受け入れて抱擁し、そして朗らかに微笑みました。それは花咲さんがよく知っている奥さんのもの以外の何物でもありませんでした。
花咲さんと奥さんが久々の再開を喜んでいる姿、それをまた見ている者がいました。隣家の少年です。少年は特に蘇らせたい人などはいませんでしたが、自分が餅をついたらどうなるのだろうという好奇心が膨らみました。
花咲さんと生き返った奥さんが寝静まるのを待ち、少年はまたしても花咲さんちの庭に侵入し、臼におい、餅をつかせろと声をかけました。しかし、臼は花咲さんのときと打って変わって何も喋りません。餅をつかせろと少年は駄々を捏ねるようにしつこく臼に呼びかけます。すると、根負けしたように臼の中に餅が出現しました。手の中には杵。少年はやったやったと喜び、花咲さんがそうしたように、杵を振り下ろしました。
そのとき、花咲さんは少年のうぎゃあだかうぐあだかいう悲鳴を聞いて目を覚ました。何事かと庭を見やると、少年が臼の前で腰を抜かしてがたがたと震えているではありませんか。どうしたと花咲さんが訊ねても、少年は答えません。もう一度どうしたと花咲さんが声をかけると、少年は震えた声音で、虫が、と呟きました。虫がどうしたと花咲さんはさらに訊ねます。途端に少年は大声で叫びました。虫が湧いてくるんだよ、と。
花咲さんは庭に出て臼の中を確認しました。臼の中は空っぽです。餅もありません。何もないよと花咲さんは言いますが、少年は臼の方を指差して続けます。虫だよ、餅が虫に変わってわらわらわらわら湧いて俺の身体に這い上がってくるんだよ、俺が殺した虫だよ、踏み殺した虫だよ、焼き殺した虫だよ、溺れさせた虫だよ、叩き潰した虫だよ、そいつらが、そいつらがわらわらわらわら俺に、俺に――と少年はひたすら喚きます。
花咲さんはどうしたらいいものかほとほと困り果ててしまいました。そうこうしているうちに、奥さんも起きて庭に出てきます。出入りの窓が完全に開け放たれた瞬間、ただ腰を抜かした少年が急に動きだしました。突進するように花咲さんちの内部に侵入したのです。花咲さんも奥さんも慌てます。花咲さんが連れ戻しに行こうとする前に、少年は早々と出てきました。少年の手の中には、花咲さん愛用のライターが握られていました。
花咲さんも奥さんも必死に少年を止めようとしましたが、少年は二人を無理やり押しのけ、ライターで臼に火を点けました。すると、臼はまるでガソリンを被っていたかのように激しく燃え上がりました。爆ぜるように火柱が立ち、周辺を赤く照らしました。
花咲さんと奥さんはもう少年どころではなくなっていました。家に消火器を設置しているというわけでもないので、花咲さんと奥さんは大急ぎでバケツに水を汲み、それを燃え上がる臼にぶっかけました。見た目の燃え方とは裏腹に、火は案外あっさり消え、花咲さんと奥さんはひとまず胸を撫でおろしました。しかし、焼け焦げた臼はヒビの入ってしまったガラスのようにその形を崩し、長時間燃やしたというわけもないのに、灰と化して地面に散り広がりました。
花咲さんはその灰を見た瞬間、ある欲求が急速に湧き上がってくるのを感じました。それは食欲です。その灰を胃袋の中に詰め込んでしまいたいという強烈な食欲。その欲求はだんだんと抗いがたいまでに大きくなり、花咲さんはついに灰を手のひらで掬って自分の口に運びました。それからはもう止まりませんでした。花咲さんは次々と灰を引っ掴み、貪るように自身の消化器官に押し込んでいきました。奥さんは花咲さんを止めようとしましたが、花咲さんの身体にある異変が起きていることに気づきます。火です。花咲さんの身体に火が点いているのです。同時に自分の身体にも異変が起きていることにも気づきました。手足が白くなっていき、肌は弾力を失い、代わりに餅のようにぶよぶよと粘着さを強めていきます。いえ、それは餅のように、ではなく、餅そのものでした。奥さんの身体は人間の形を喪失して、ぼとんと餅の塊と化して地面に落ちました。花咲さんは餅に戻った奥さんに見向きもしません。ひたすらに灰を貪るばかりです。花咲さんに着いた火はだんだんと大きくなっていきます。同時に、花咲さんの身体は臼と同じように崩れていきます、灰になって。
一方、少年はどさくさに紛れて逃げ帰り、自室に引きこもって布団を頭から被り、膝を抱えて丸まっていました。まだ自分の肌に虫が這うような感覚が残っており、ぞわぞわと毛が逆立ちました。それだけではありません。犬の鳴き声がします。頭の中で、わんわんと犬が吠えています。少年がいくら耳を塞いでも、それは頭蓋骨の中を反響しているようでした。
そして少年は気づきます。自分の身体がどんどん溶けていくことに。まるで常温に晒されたアイスのように、少年の身体は液体となっていき、服や布団を濡らし、床に広がっていきます。少年にはどうすることもできません。ただ頭の中で鳴く犬を恐れて泣くことしかできません。少年はとうとう完全な液体となって崩れ落ち、あとには少年だった液体の中に浸けられた服と布団だけが残されていました。
その頃には、もう花咲さんはほぼ灰になっていました。右腕だけが切られたばかりのタコの腕みたいにうねうね動いていましたが、それも灰となってほろほろと地面に散りました。もうそこに広がる灰を、臼だったものと花咲さんだったものに分けるのは不可能でした。
すると、その灰の山は急速に庭の地面に染み込み、そしてたくさんの芽を生えさせました。それは庭いっぱいに芽生えました。芽はみるみるうちに成長し、つぼみをつけた植物になりました。つぼみは息を計ったように一斉に花開きます。赤、青、黄、白に紫。様々な花が咲いていました。しかし、暗闇の中ではその花の全容はよくわかりませんでした。
そこに、ちょうど日の明かりが庭に差し込んできました。日の出です。山から顔を出し始めた朝日がゆっくりと庭を照らしました。白日の下に現れたのは、庭に広がる見事な花畑でした。花の香りに誘われた蝶や蜂などの虫が穏やかに飛び回っていました。その虫たちの羽音の隙間から、声が聞こえてきます。それは花咲さんの声でした。
枯れ木に花を咲かせましょう、枯れ木に花を咲かせましょう、枯れ木に花を――。
その声に合わせるように、色鮮やかな花々は風もないのに揺れました。
いつまでもいつまでも、揺れ続けましたとさ。
めでたしめでたし。
花咲さんはとうの昔に奥さんに先立たれ、なおかつ子どもなども設けていなかったことから、孤独な隠居生活を送っていました。
そんな花咲さんは、ある日仔犬を拾いました。
人気のない通りの電柱のそばにそっと置かれた段ボール箱の中に、その仔犬は蹲るように丸くなっていました。仔犬は元来白い毛並みの持ち主なのがひと目でわかりましたが、その毛は煤だか埃だかよくわからない汚れで真っ黒に染められていて、さながら使い古された雑巾の塊のようでした。
心優しい花咲さんは、その痛ましい姿を見ていられず、段ボールごと仔犬を自分の家へと運びました。水を飲ませてやると、仔犬はくーんと小さな声で鳴きました。花咲さんはこれ以上何をするべきなのかわからなかったので、とりあえず近場の動物病院に連れていきました。そこの獣医によれば、多少の栄養失調があってノミがいるだけで、あとは大きな病気も怪我もない、とのことでした。花咲さんはひとまずほっとしました。
獣医に勧められたドックフードやその他諸々の必要品を購入し、花咲さんはさっそくそれを仔犬に与えました。すると仔犬は、みるみると元気になっていきました。このまま汚れたままなのも忍びないと風呂にも入れてやりました。水は嫌いではないタイプなのか、特に嫌がる様子もなく、むしろ気持ちよさそうに洗われていました。
洗い終わり、さらに乾いた仔犬の毛並みは、見違えるように真っ白で艶やかで柔らかいものになっていました。花咲さんはその毛並みの美しさに感服し、その仔犬を「シロ」と名付けました。安直なネーミングでしたが、花咲さんも仔犬も気に入っているようでした。
しばらくの間、花咲さんと仔犬改めシロは穏やかで平和な日々を送りました。不穏なことはテレビ画面の向こう側にしか存在しない、そんなうららかな日常でした。
一年以上の月日が経ち、シロが成犬になった頃です。ある日、シロが妙にそわそわと動き回っていることに花咲さんは気づきました。「どうした」と訊ねても、シロは犬なので当然返事はしません。その代わり、服の裾を引っ張って花咲さんを庭まで連れてくると、その庭先の地面をつんつんと鼻で突きました。ここを掘れ、とでも言うように。
花咲さんは少し迷いましたが、他ならぬ愛犬の行動だと、倉庫の奥に埋まっていた錆だらけのシャベルを引っ張り出してきて、シロが示したところを掘りました。ラグビーボールの大きさほど掘ったところで、何かがシャベルの先端に当たるような手応えがありました。
最後は手で掘り進めてみると、見かけないものが出てきました。それは、パッケージの剥がされたビスケットの缶でした。表面はでこぼこしていて、緑の塗装がところどころ剥がれ落ちてその下にある銀が露わになっていました。重くも軽くもない、不思議な感触でした。
花咲さんは、その家にかれこれ三十年以上は暮らしていましたが、こんな缶が埋められていたことなど知りませんでしたし、埋めた覚えもありませんでした。
シロが花咲さんを上目遣いで見つめました。まるで「さあ、開けてくれ」と言わんばかりでした。
花咲さんは数分躊躇したのち、思い切ってビスケット缶の蓋を開けました。缶は初めのうちは硬かったのですが、がこんという音とともに勢いよく外れました。その瞬間、ただのゴミのようだったはずのビスケット缶の中から、まるで磨き上げられた大判小判が照り返しているような眩い光が放たれました。
思わず花咲さんは目を瞑りました。瞼の裏側が真っ白に染められ、そこには花咲さんの過去の光景が投影されていました。それは在りし日の、もう振り返ることもなくなっていた懐かしいものでした。母や父に抱かれたこと、友達と日が暮れるまで遊んだこと、運動会の徒競走で一位になったこと、林間学校でクラスメイトたちと怪談話をしたこと、初恋をしたこと、結婚したこと、先立った奥さんの手の甲に自分の手のひらを重ね合わせていたこと――それらは走馬燈の如く花咲さんの目の前を駆け抜けました。花咲さんの頬に水滴が伝いました。
瞼の裏が感知する光が正常に戻り、恐る恐る花咲さんが目を開けてみると、そこには空っぽのビスケット缶があるだけでした。しかし、花咲さんの心には、言葉にもできないような暖かいものが満ち満ちていました。この多幸感は、きっとシロが持ってきてくれたものだと思った花咲さんは、シロを抱きつくように撫でました。シロも花咲さんの好意に甘えるように、ふんふんと鼻を鳴らしながら身体を擦りつけました。花咲さんもシロも、とても幸せそうでした。
さて、そんな一人と一匹のじゃれ合いを密かに覗いていた人物がいました。それは隣家に住む意地悪な少年でした。少年は花咲さんがビスケット缶を開けてなぜか涙を流しているのを見て、あのビスケット缶の中には何かとんでもないお宝があったのではないかと思いました。そこで、そのビスケット缶の在処を嗅ぎつけたシロを、花咲さんが留守中に無理やり引っ張り出し、自分の家の庭からビスケット缶を見つけさせようとしました。
最初はシロも嫌がっていましたが、何度かぶたれたのちに、渋々といった具合に庭のある一点を鼻先で指し示しました。少年が嬉々としてスコップで掘り返すと、そこから花咲さんちの庭から出てきたものと寸分違わない外見をしたビスケット缶が掘り出されました。
少年は大喜びで、何の躊躇いもなくビスケット缶の蓋を開け放ちました。次の瞬間、少年は嘔吐しました。胃液とぐちゃぐちゃに混ぜられた昼食が口から流れ出しました。少年はビスケット缶を取り落とし、地面に突っ伏してげえげえと吐きました。ビスケット缶の中身は空でした。シロは何が起こったのかわからないという様子で、困惑したように吠えました。
嘔吐が止まると、途端に少年は自分が何でこんな目に遭っているのかという怒りを覚えました。そしてそれをそのままシロにぶつけました。シロに散々殴る蹴るなどの暴行を加えた挙句、最終的にはスコップでシロの頭蓋骨をかち割り、殺してしまいました。
少年は一瞬慌てましたが、すぐに殺してしまったものは仕方ないと開き直り、シロの死骸を何食わぬ顔でそっと花咲さんちの庭に捨てて逃げ帰りました。
そんなことが起こっているとはこれっぽっちも知らない花咲さんは、庭に転がっているシロの死骸を発見すると驚き慄き、すぐに抱き着いてその身体を揺すりました。しかし、シロの目が開かれることはありませんでした。
花咲さんは一晩中嘆き悲しみ、そしてシロを庭に埋め、墓標として薄い木の板に『シロ』と大きく書き、そこに立てかけました。
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たった一晩で、こんな大木が我が庭に育っていることに、花咲さんは大変驚きました。
花咲さんはしばらく茫然と大木を見上げていましたが、じきに何やら声が聞こえてくることに気づきました。その声はどうやら大木の内側から聞こえてくるようでした。
花咲さんは大木に耳を近づけて、その声に耳を澄ませます。
私は臼です、私は臼です、私は臼です――声はそう繰り返していました。
花咲さんがつい臼なのかいと訊ねると、大木はたちまちに縮こまり、ぐねぐねと変形し、最終的には臼になってしまいました。
花咲さんが呆気に取られていると、声はさらに餅をつけと催促してきます。餅をつこうにも肝心のもち米も杵もないと花咲さんが言うと、その途端に臼の中にはほかほかの餅が出現し、手にはいつの間にか杵が持たれている状態になっていました。
ついてください、餅をついてください、お願いします――声がそう哀願します。
花咲さんはなんだか申し訳なくなってきて、その声の言うことを聞いてやることにしました。杵を大きく振り上げ、臼の中の餅目がけて振り下ろします。
餅に杵が叩きつけられた瞬間、餅は生命を得たかのようにぐちゃぐちゃと動いて臼の中から飛び出し、だんだんと大きくなり、等身大の人の形になったかと思うと、表面の餅が弾け、中から本物の人間が出てきました。
花咲さんはそれを見て、感嘆の声を上げました。それは死別した花咲さんの奥さんでした。
花咲さんは餅から出てきた奥さんに駆け寄り、抱き着きます。奥さんは何の抵抗もなく花咲さんを受け入れて抱擁し、そして朗らかに微笑みました。それは花咲さんがよく知っている奥さんのもの以外の何物でもありませんでした。
花咲さんと奥さんが久々の再開を喜んでいる姿、それをまた見ている者がいました。隣家の少年です。少年は特に蘇らせたい人などはいませんでしたが、自分が餅をついたらどうなるのだろうという好奇心が膨らみました。
花咲さんと生き返った奥さんが寝静まるのを待ち、少年はまたしても花咲さんちの庭に侵入し、臼におい、餅をつかせろと声をかけました。しかし、臼は花咲さんのときと打って変わって何も喋りません。餅をつかせろと少年は駄々を捏ねるようにしつこく臼に呼びかけます。すると、根負けしたように臼の中に餅が出現しました。手の中には杵。少年はやったやったと喜び、花咲さんがそうしたように、杵を振り下ろしました。
そのとき、花咲さんは少年のうぎゃあだかうぐあだかいう悲鳴を聞いて目を覚ました。何事かと庭を見やると、少年が臼の前で腰を抜かしてがたがたと震えているではありませんか。どうしたと花咲さんが訊ねても、少年は答えません。もう一度どうしたと花咲さんが声をかけると、少年は震えた声音で、虫が、と呟きました。虫がどうしたと花咲さんはさらに訊ねます。途端に少年は大声で叫びました。虫が湧いてくるんだよ、と。
花咲さんは庭に出て臼の中を確認しました。臼の中は空っぽです。餅もありません。何もないよと花咲さんは言いますが、少年は臼の方を指差して続けます。虫だよ、餅が虫に変わってわらわらわらわら湧いて俺の身体に這い上がってくるんだよ、俺が殺した虫だよ、踏み殺した虫だよ、焼き殺した虫だよ、溺れさせた虫だよ、叩き潰した虫だよ、そいつらが、そいつらがわらわらわらわら俺に、俺に――と少年はひたすら喚きます。
花咲さんはどうしたらいいものかほとほと困り果ててしまいました。そうこうしているうちに、奥さんも起きて庭に出てきます。出入りの窓が完全に開け放たれた瞬間、ただ腰を抜かした少年が急に動きだしました。突進するように花咲さんちの内部に侵入したのです。花咲さんも奥さんも慌てます。花咲さんが連れ戻しに行こうとする前に、少年は早々と出てきました。少年の手の中には、花咲さん愛用のライターが握られていました。
花咲さんも奥さんも必死に少年を止めようとしましたが、少年は二人を無理やり押しのけ、ライターで臼に火を点けました。すると、臼はまるでガソリンを被っていたかのように激しく燃え上がりました。爆ぜるように火柱が立ち、周辺を赤く照らしました。
花咲さんと奥さんはもう少年どころではなくなっていました。家に消火器を設置しているというわけでもないので、花咲さんと奥さんは大急ぎでバケツに水を汲み、それを燃え上がる臼にぶっかけました。見た目の燃え方とは裏腹に、火は案外あっさり消え、花咲さんと奥さんはひとまず胸を撫でおろしました。しかし、焼け焦げた臼はヒビの入ってしまったガラスのようにその形を崩し、長時間燃やしたというわけもないのに、灰と化して地面に散り広がりました。
花咲さんはその灰を見た瞬間、ある欲求が急速に湧き上がってくるのを感じました。それは食欲です。その灰を胃袋の中に詰め込んでしまいたいという強烈な食欲。その欲求はだんだんと抗いがたいまでに大きくなり、花咲さんはついに灰を手のひらで掬って自分の口に運びました。それからはもう止まりませんでした。花咲さんは次々と灰を引っ掴み、貪るように自身の消化器官に押し込んでいきました。奥さんは花咲さんを止めようとしましたが、花咲さんの身体にある異変が起きていることに気づきます。火です。花咲さんの身体に火が点いているのです。同時に自分の身体にも異変が起きていることにも気づきました。手足が白くなっていき、肌は弾力を失い、代わりに餅のようにぶよぶよと粘着さを強めていきます。いえ、それは餅のように、ではなく、餅そのものでした。奥さんの身体は人間の形を喪失して、ぼとんと餅の塊と化して地面に落ちました。花咲さんは餅に戻った奥さんに見向きもしません。ひたすらに灰を貪るばかりです。花咲さんに着いた火はだんだんと大きくなっていきます。同時に、花咲さんの身体は臼と同じように崩れていきます、灰になって。
一方、少年はどさくさに紛れて逃げ帰り、自室に引きこもって布団を頭から被り、膝を抱えて丸まっていました。まだ自分の肌に虫が這うような感覚が残っており、ぞわぞわと毛が逆立ちました。それだけではありません。犬の鳴き声がします。頭の中で、わんわんと犬が吠えています。少年がいくら耳を塞いでも、それは頭蓋骨の中を反響しているようでした。
そして少年は気づきます。自分の身体がどんどん溶けていくことに。まるで常温に晒されたアイスのように、少年の身体は液体となっていき、服や布団を濡らし、床に広がっていきます。少年にはどうすることもできません。ただ頭の中で鳴く犬を恐れて泣くことしかできません。少年はとうとう完全な液体となって崩れ落ち、あとには少年だった液体の中に浸けられた服と布団だけが残されていました。
その頃には、もう花咲さんはほぼ灰になっていました。右腕だけが切られたばかりのタコの腕みたいにうねうね動いていましたが、それも灰となってほろほろと地面に散りました。もうそこに広がる灰を、臼だったものと花咲さんだったものに分けるのは不可能でした。
すると、その灰の山は急速に庭の地面に染み込み、そしてたくさんの芽を生えさせました。それは庭いっぱいに芽生えました。芽はみるみるうちに成長し、つぼみをつけた植物になりました。つぼみは息を計ったように一斉に花開きます。赤、青、黄、白に紫。様々な花が咲いていました。しかし、暗闇の中ではその花の全容はよくわかりませんでした。
そこに、ちょうど日の明かりが庭に差し込んできました。日の出です。山から顔を出し始めた朝日がゆっくりと庭を照らしました。白日の下に現れたのは、庭に広がる見事な花畑でした。花の香りに誘われた蝶や蜂などの虫が穏やかに飛び回っていました。その虫たちの羽音の隙間から、声が聞こえてきます。それは花咲さんの声でした。
枯れ木に花を咲かせましょう、枯れ木に花を咲かせましょう、枯れ木に花を――。
その声に合わせるように、色鮮やかな花々は風もないのに揺れました。
いつまでもいつまでも、揺れ続けましたとさ。
めでたしめでたし。
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