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第十章 逃走の決意

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 これまでの生活も、培ってきた人間関係の全てを失っても構わない。
 心残りが無いと言えば嘘になる。荷物を詰める時目にしたアコースティックギターは弟から音楽を続けて欲しいと言われて渡されたものだったが、急いで逃げなければいけない今大荷物を持ち歩く余裕は無い。
 逃げて、全てが落ち着いたなら那音に送って貰えばいい。暁はそう考えることにした。
「――イトナ、行こう」
「お、おう」
 取り敢えず今はスマートフォンと財布だけがあれば良い。黒いボストンバッグには当面の着替えのみを押し込んで、まだ落ちきらない薄闇の中暁は絃成の手を引いて自宅を後にする。
 ボストンバッグの持ち手を肩に掛け、片手で絃成の手を引いたまま交通量の多い交差点へと足早に進む。今この瞬間でさえも誰かに見張られているような気がして落ち着かなかった。
 それが事実だろうが冤罪だろうが、新名や真夜などそれに連なる者たちはきっと絃成をこのままでは済まさないだろう。背筋にじわりと冷たい汗が浮かぶのを感じていた。
「アキ」
 突然名前を呼ばれた暁は絃成へと視線を向ける。するとそれとほぼ同時に視界が黒で覆われ、頭部に何かを乗せられた感覚があった。それはせめてもの変装の為にと暁が絃成に被せたSCHRÖDINGグッズのキャップで、基本的には黒一色というシンプルなデザインだったがバイザーに刺繍されたSCHRÖDINGのロゴが暁にはお気に入りだった。
「大丈夫、俺が暁のこと守るから」
 これまでの暁ならば、その言葉に大した重みも感じることは出来なかっただろう。しかし薄闇の中街灯にだけ照らされた絃成のその顔つきは、今まで暁が一度も見たことのないものだった。確かに知っている絃成の顔であるはずなのに、これまでの絃成の顔つきとは何かが違う気がした。
 繋いだ手はいつの間にか指を絡め合う形となり、指先から伝わってくるその僅かな体温が先日の行為を彷彿とさせ暁はぶわっと己の体温上昇を感じていた。
 それが弟に対する感情とは別物であることを暁は完全に理解しており、折り後が残るほど何度も読み耽ったハジメの代表作の一節を暁は思い出す。
 ハジメの処女作でもあり代表作の《後悔するには愛し過ぎた》はハジメ自身の実体験ではないかと一部のファンの間ではまことしやかに囁かれていた。自らが同性愛者であるということに負い目を感じ、自分を愛してくれる人などいないと感じていた主人公の眼の前にある男性が現れ、そこから主人公の世界は一変した。
 自分にもいつかこのような見る世界が一変するような相手に出会えるだろうか。憧れる気持ちを持ちながらも同時に自分には叶わぬ夢だと悲嘆していた暁だったが、今ようやく物語の主人公の気持ちを理解したような気がした。
 この人の為なら自分の全てを捧げても構わない。貴方だけがたったひとつの光であるから。肉親に対する断ち切れない感情とは異なるこの新しい思いは、暁が二十六年間生きてきた中で初めて覚えたものだった。
「あ、タクシー。あれ乗るんだろ?」
「あ、うん、そうだね……」
 空車の文字を掲げたタクシーが近づいてくるのを目撃した絃成は一度暁に確認した後、道路へ身を乗り出すようにしながら手を上げて呼び止める。絃成が動くと指を絡ませた暁の身体も少し引っ張られ、もう片方の手でキャップの位置を整えながら暁は胸の内に湧く温かいものと黒く重いものを感じていた。
 乗り込んだタクシーの運転手には行き先を長距離バス乗り場のあるターミナル駅と伝える。電車で移動することも勿論検討したが、駅こそ待ち伏せされている可能性が高く、車で尾行をされない限りタクシーを使っての移動は目的地を悟られることもない。
 暁の鼓動はタクシーに乗っても落ち着くことはなく、ボストンバッグを両腕で抱き締めたまま本当にこの選択があっているのかまだ頭の中でぐるぐると考え込んでいた。
「辛気臭い顔してんじゃねーよ」
 隣に座る絃成からこつんと拳の甲で肩を叩かれ、暁は浮かない表情のまま絃成へ視線を向ける。
「俺がサイコーに気持ちいいとこまで連れてってやるから覚悟しろよ☆」
 アイドルも驚きのぱっちりとしたウインクと片手を銃に見立てて指先から放たれる空砲に暁は一瞬意識がフリーズした。しかしそれがすぐにある人物の真似であるということに気付くと混み上がる笑いを抑えきれずに吹き出してしまう。
「ぶっ、なに、それっ……オクトの真似じゃん!」
 ライブが中盤に差し掛かる頃オクトが放つお決まりの決め台詞に毎回女性ファンは黄色い悲鳴を放つ。
「似てんだろぉ?」
 それは緊張が続く暁を和ませようとした絃成なりのコミュニケーションだったのかもしれない。新名の遺体が発見された報道から気が休まる瞬間は一度もなく、吹き出した笑いが風船から一気に空気が抜ける瞬間のように暁から肩の力を抜かせた。
「……そうだね。イトナがいるなら、どこだって平気だ」
 こんなに幸せに感じるのは恐らく初めてだった。暁は絃成へ寄り添うように身体を傾け、抱き締めたボストンバッグの下で再び互いの指を絡ませる。

「まだ少し発車まで時間あるなぁ」
 行き先を京都から神戸へと変更し、暁と絃成の二席分予約した長距離バスはバスターミナルに到着した時点で発車まで幾分か時間があった。道路が空いていたことから予想よりも早く到着できたことは幸運だったが、なるべく同じところに長く留まっていたくもないという気持ちがあった。
 暁はキャップを脱いでプラスチックの椅子に腰掛ける絃成の頭に被せる。
「ねえイトナ、俺トイレ行ってくるからこれ持ってて」
 中身はそう重くないがトイレにまで持っていくには多少邪魔な大きさでもあり、暁は大事に持っていたボストンバッグを絃成へ託す。
「おーう、ちゃんと手ぇ洗ってこいよー」
「当たり前だバーカ」
 軽口を交わし顎下まで下ろしていた黒いウレタンマスクを顔を隠すように鼻先まで上げ、トイレへと向かうため道路に面したガラス張りの待合室を一度外に出る。流石に薄闇とはいかず周囲は闇に沈んでおり行き交う乗用車のライトやビル街の灯りが眩しく目に突き刺さってきた。
 男性用トイレの管理にまで手が回っていないのか自動点灯の時間に至っていないのか、トイレの中は薄暗かった。それでも外から僅かに入る光で用を足すには問題にならず、手早く済ませた暁はスマートフォンを洗面台の上へ置きハンカチを口に咥えて手を洗う。
 顔を上げれば鏡の中に薄暗い男性トイレと自分の顔が映る。引き返せない時間が刻一刻と迫っていたが、暁の中にもう引き返すという選択肢は残っていなかった。
 ――ただ、弟のことだけが気がかりだった。
 ただぼうっと鏡の中の薄暗い闇を見つめ続けていた暁だったが、突如洗面台に置いたスマートフォンが振動を始めて暁はびくりと肩を揺らす。振動に伴い洗面台の上で孤を描くように揺れ動くスマートフォンだったが、その液晶画面に表示された名前に暁は息を呑む。
 表示されたのは〝和人〟の名前。和人はあれから何度も暁へ着信を続けており、鳴り続けるスマートフォンに眉を寄せる暁は水の滴る指先で液晶面をスライドし着信を切る。そのまま画面上を右上からスライドさせるとスマートフォン自体の電源を切るか再起動をするかの選択肢が表示され、暁は電源を切ることを選択する。
 逃亡をするというのはそういうことで、これまで培った人間関係の全てをも捨て去るということになる。ただ絃成さえいればそれだけで良かった。切り捨てる人間関係の中には和人も含まれていたが、新名との関係性を考えると致し方ない判断だった。
 流れ続ける水の音だけが薄暗い男性トイレの中に反響する。全てを捨ててこれからは絃成と生きていくと決めた暁は、気合を入れる為に両手で掬った水を自らの顔へ叩き付ける。
 キュッと音を立てて蛇口を閉める。絃成を心配させないように――というのはこの期に及んでまだ絃成を弟扱いしているという訳ではなく、暁自身が抱える問題に絃成を巻き込みたくないという思いからだった。
 手元でハンカチを広げ、顔を拭こうとした暁が目線を上げた時、鏡に映る自分の肩越しに暁は人らしき存在を確認した。薄暗いトイレの中すぐにその人物の全貌を認識することは難しかったが、すぐに目が慣れていった暁は自分の背後に立つその人物が和人であることを認識した。
「ッ……!?」
 驚いた暁は咄嗟に振り返ろうとする。その行動があまりにも唐突すぎて自然と振り上げた暁の手は洗面台へ置かれたスマートフォンに触れてしまい、スマートフォンはそのまま床に落ちてしまう。
 スマートフォンが床に落ち硬質の音を上げた時、振り返り様の暁は和人の手によって声を出さぬよう口を塞がれ、腹に何か冷たくて硬いものを押し込まれる感覚があった。
 その冷たい感触はすぐに焼けるほど熱い感覚へと変わり、和人は暁の口を塞いだまま腕を引くとその手には何か濃い色の液体に塗れた小型のナイフが握られていた。
 一気に貧血に見舞われたかのような感覚があった。ぼたぼたと液体が床へと落ちる音が聞こえ、蛇口を閉めた覚えのあった暁は自らの腹部へと視線を落とす。
 目を丸くした暁は腰から下に一切の力が入らなくなるのを感じていた。がくりと膝が崩れ落ちるような感覚があり、暁は咄嗟に眼の前に立つ和人の腕に捕まる。
「和くん、なん……で」
 その言葉が滑稽であることを暁は知っていたが、この状況下咄嗟に口から飛び出た言葉が和人に対する疑問だった。和人の腕へ縋るように捕まるが、両膝を床に付くと掴んだその腕だけが虚しく残された。
 和人は崩れ落ちる暁の姿を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「……アキ、お前が悪いんだ」
 抑揚のない無機質な和人の声と短く切らす暁の吐息がトイレの中に響く。
 和人の言葉が尤もであることを暁は充分過ぎるほど理解していた。
 暁は、萌歌の死体を発見したあの瞬間から、萌歌を殺した犯人が和人であるという可能性に気付いていた。
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