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第二章
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那由多のヘルプアサインから一週間後、退院した営業事務の斎が分室業務に復帰した。バイク事故で生じた足のひびはまだ完治したとは言い難かったが、斎の業務を肩代わりしていた元先輩から叱咤された事もあり、予定を早めて復帰する事になった。しかし無理は禁物の為松葉杖は手放せないでいた。
「榊ィ、肩貸してー」
「やだよ。お前重いし」
「あっ、先輩俺が!」
肩より少し長い癖毛は柔らかに波打ち、柔和だが整った顔立ちの斎は那由多に支えられて共有スペースのソファに腰を下ろした。
「榊ー、ライター貸して」
「自分で取れよ」
そう言って詩緒はオイルライターを斎の顔に投げ付ける。落ちたライターを拾い上げた那由多は斎が咥えた煙草の先端に火を灯す。斎の後輩となる那由多がこのような事までしなければならないのかと言えば、それも分室特権の一つであり一般的に問題視されるパワハラやセクハラもこの分室の中だけでは許容されていた。それを受け入れる事が出来なければ到底分室で勤務する事は出来ない。
「あれ、斎今日から出社?」
時計が十時を指し示す少し前に真香は共有スペースの扉を開けて姿を現した。出勤時の服装はとてもラフなもので、重ためのパーカーにスウェットのサルエル、耳にはピアス、指にはアーマーリングや装飾具がジャラジャラと音を立てている。真香にとってはこの姿が一番ストレスを感じない本来の姿らしく、言われなければ会社員とは想像も付かないだろう。今年二十八歳となる真香の服装に違和感が無いのは元から童顔気味な所にある。
「会いたかったよ真香」
「俺もだよダーリン」
斎が吸いかけの煙草を灰皿へと押し付けて両腕を広げると、真香は鞄を放り投げて斎の腕の中へと飛び込む。那由多もこの一週間でこういった光景には大分慣れた方だった。
「……一回もお見舞い来てくれなかったじゃん?」
「んっ……お前の仕事榊と分担して土日返上だったんだよ……」
気付けば真香は斎と向かい合う形で膝の上へと跨がり、斎は真香のパーカーの裾から手を滑り込ませて肌をなぞっていた。このまま二人が隣で事を始める事を察した那由多はそっとソファから立ち上がり、既に共有スペースから避難しようとしていた詩緒に駆け寄る。
逃げようとしていた所を那由多に見付かった詩緒はその人形の様に整った無表情な顔を那由多に向けたが、特に咎める事もなく扉を開けた。
「便所ですか? ご一緒しますよ」
「連れションの趣味は無ェよ」
共有スペースを出た詩緒がそのまま二階の個室へ向かうと思いきや、詩緒の足が向かったのは別棟のエントランスだった。出退勤以外では寄り付く事もないエントランスに詩緒が向かう事はこの一週間那由多が見てきた中で初めての事だったが、流石に用事があれば本棟に向かう事もあるのだろうと那由多は黙って後を着いて行った。
「そういえば今日ですよね、支社から庶務が来る日って」
「真香と斎がおっ始めてんのに共有スペース来て貰う訳にいかねぇだろ……」
詩緒はぼそりと呟いた。四條が許容しているとはいっても今日来る新人にあの光景を見せる訳には行かないと、敢えて迎えに馳せ参じたのは詩緒なりの新人への気遣いだった。
「どんな人ですかねー、俺仲良く出来るかなあ」
「……は? お前なら大丈夫だろ」
詩緒は自分の後ろにぴったりとくっついて歩く那由多を振り返った。その距離の近さに思わず互いの唇が触れそうだったが那由多が咄嗟に身を引いた為回避した。たった一週間の付き合いでしか無いが詩緒は那由多のコミュニケーション能力の高さには一目置いていた。流石営業というだけあって相手との距離感を上手く保って来る事に賛辞の言葉を与えたい。
「そうだと良いんですけど」
「其処におるんは榊と赤松か?」
エントランスの自動ドアが開き、四條ともう一人の男が入って来るのが見えた。四條の方からは室内の暗さからはっきりとは判別が出来なかったが、その風貌からそれが詩緒であると予測を付けた。
「四條さん、おはようございます」
「おはようございます」
「はい、おはようさん。丁度良かった、神戸支社から来た御嵩や」
四條の後ろに隠れていた男が姿を現す。赤茶けた髪は緩く波打っており、身長は四條よりは多少低くはあったが比較的筋肉質でしっかりとした体型をしたその男は酷く気怠い様子で詩緒と那由多に視線を送る。
「営業の赤松です。俺も先週入ったばっかりなんですが、宜しくお願いします」
率先して挨拶をする那由多とは裏腹に詩緒は棒立ちしたまま固まっていた。詩緒がコミュニケーション下手だという事は初日から知っていた那由多ではあったが、寝起きでもない今何のリアクションも起こさないというのは珍しく、那由多は詩緒の顔を覗き込む。
「……榊さん?」
「榊?」
四條もその詩緒の様子に気付き声を掛ける。
「…………詩緒?」
四條の横に立つ男が口を開く。低くて良く通るバリトンボイスがエントランスに響く。男は初対面であるにも関わらず詩緒の名前を知っていた。
「………………そうま」
詩緒が微かに絞り出したのはその男の名前だった。次の瞬間詩緒が取った行動は走り出す事だった。踵を返し一目散に階段を駆け上がる詩緒の姿に那由多も四條も唖然としていた。
「詩緒!!」
ただ一人詩緒に名前を呼ばれた男、綜真だけは詩緒の後を追って階段へと向かった。残された那由多は何が起こったのか分からずおろおろと四條と階段の先を交互に見遣る。
「詩緒! 待てよ!!」
階段を上りきった綜真は左右を見渡し詩緒を探す。本来階段を上りきった後右に曲がれば詩緒や真香の個室が有るが、詩緒はこの時左に曲がった。
まだ整理され切れていない混沌のエリア、しかしその先には通用口が有り外に出る事が出来る。外に出れば逃げ道の選択肢はもっと広がる。整頓されていない足元の資材を掻き分けて詩緒は通用口の扉に手を伸ばす。
「待てって……!」
その手は虚しくも綜真に掴み取られる。扉横の壁へと背中を押し付けられ、詩緒の両側は綜真によって塞がれてしまった。久し振りに全力疾走をした詩緒の呼吸は上がっていて、黒縁眼鏡と長い前髪の奥にある表情は伺えないままだったが、綜真も同様に呼吸は上がっていた。
お互いが落ち着くまで浅い呼吸が静かな廊下に響く。真香と斎はまだ一階の共有スペースに居た為二階には今二人以外の誰も居なかった。
「……逃げてんじゃねぇよ」
先に口を開いたのは綜真だった。詩緒は最後に綜真の名前を呟いた後一言足りとも言葉を発していない。詩緒の右手を摑んで壁に押し付けたまま、綜真は右手でその詩緒の長い前髪を掻き分ける。詩緒の視線は正面に居る綜真には向けられておらず、通用口のある外側を向いていた。奥歯を強く噛み締め言葉を拒絶する事には強い意志を感じられたが、その表情は蒼白で元から白い顔が更に青褪めていた。
「なあオイ詩緒、こっち見ろって」
綜真が詩緒の頬に手を添えても、詩緒の双眸は決して綜真の事を捉えようとはしなかった。綜真が掴んだ腕には力が籠もり、もし詩緒が綜真より腕力があったならば即座に突き飛ばしてでも逃げ出していただろう。詩緒は今のこの状況を回避したくて仕方が無かった。その為だけにぐるぐると思考を巡らせる。
その詩緒の態度には次第に綜真も苛立ちを募らせて行く。
「聞けって!」
「ッ!!」
思わず大声を出し通用口の扉を叩く。鉄製の扉は轟音を別棟中に響かせた。
その直後、詩緒の様子がおかしい事に綜真は気付いた。拒絶していた目は大きく剥かれ落ち着いた筈の呼吸が先程と同様に浅く繰り返し始めていた。詩緒は立っている力すら失い足から崩れ落ちる。綜真が掴んでいた右手が唯一詩緒を支えていたが、詩緒の全体重に引き摺られ綜真もその場に腰を落として屈む。
「……おい、詩緒……?」
片膝を立てて詩緒の身体を支え直すも、詩緒は綜真に背中を向けて嗚咽にも似た呼吸を繰り返すだけだった。
「何なんだよ……」
「すいません、失礼します」
困惑する綜真と詩緒の間に割り込んだのは二人を追ってきた那由多だった。状況を呑み込めず唖然とする綜真の両腕から詩緒を受け取ると立ち上がって抱き直す。
「あかまつ……」
「榊さん、医務室行きましょうね」
苦しそうに呻く詩緒の背中を摩り落ち着かせるように言葉を掛ける。
「榊ィ、肩貸してー」
「やだよ。お前重いし」
「あっ、先輩俺が!」
肩より少し長い癖毛は柔らかに波打ち、柔和だが整った顔立ちの斎は那由多に支えられて共有スペースのソファに腰を下ろした。
「榊ー、ライター貸して」
「自分で取れよ」
そう言って詩緒はオイルライターを斎の顔に投げ付ける。落ちたライターを拾い上げた那由多は斎が咥えた煙草の先端に火を灯す。斎の後輩となる那由多がこのような事までしなければならないのかと言えば、それも分室特権の一つであり一般的に問題視されるパワハラやセクハラもこの分室の中だけでは許容されていた。それを受け入れる事が出来なければ到底分室で勤務する事は出来ない。
「あれ、斎今日から出社?」
時計が十時を指し示す少し前に真香は共有スペースの扉を開けて姿を現した。出勤時の服装はとてもラフなもので、重ためのパーカーにスウェットのサルエル、耳にはピアス、指にはアーマーリングや装飾具がジャラジャラと音を立てている。真香にとってはこの姿が一番ストレスを感じない本来の姿らしく、言われなければ会社員とは想像も付かないだろう。今年二十八歳となる真香の服装に違和感が無いのは元から童顔気味な所にある。
「会いたかったよ真香」
「俺もだよダーリン」
斎が吸いかけの煙草を灰皿へと押し付けて両腕を広げると、真香は鞄を放り投げて斎の腕の中へと飛び込む。那由多もこの一週間でこういった光景には大分慣れた方だった。
「……一回もお見舞い来てくれなかったじゃん?」
「んっ……お前の仕事榊と分担して土日返上だったんだよ……」
気付けば真香は斎と向かい合う形で膝の上へと跨がり、斎は真香のパーカーの裾から手を滑り込ませて肌をなぞっていた。このまま二人が隣で事を始める事を察した那由多はそっとソファから立ち上がり、既に共有スペースから避難しようとしていた詩緒に駆け寄る。
逃げようとしていた所を那由多に見付かった詩緒はその人形の様に整った無表情な顔を那由多に向けたが、特に咎める事もなく扉を開けた。
「便所ですか? ご一緒しますよ」
「連れションの趣味は無ェよ」
共有スペースを出た詩緒がそのまま二階の個室へ向かうと思いきや、詩緒の足が向かったのは別棟のエントランスだった。出退勤以外では寄り付く事もないエントランスに詩緒が向かう事はこの一週間那由多が見てきた中で初めての事だったが、流石に用事があれば本棟に向かう事もあるのだろうと那由多は黙って後を着いて行った。
「そういえば今日ですよね、支社から庶務が来る日って」
「真香と斎がおっ始めてんのに共有スペース来て貰う訳にいかねぇだろ……」
詩緒はぼそりと呟いた。四條が許容しているとはいっても今日来る新人にあの光景を見せる訳には行かないと、敢えて迎えに馳せ参じたのは詩緒なりの新人への気遣いだった。
「どんな人ですかねー、俺仲良く出来るかなあ」
「……は? お前なら大丈夫だろ」
詩緒は自分の後ろにぴったりとくっついて歩く那由多を振り返った。その距離の近さに思わず互いの唇が触れそうだったが那由多が咄嗟に身を引いた為回避した。たった一週間の付き合いでしか無いが詩緒は那由多のコミュニケーション能力の高さには一目置いていた。流石営業というだけあって相手との距離感を上手く保って来る事に賛辞の言葉を与えたい。
「そうだと良いんですけど」
「其処におるんは榊と赤松か?」
エントランスの自動ドアが開き、四條ともう一人の男が入って来るのが見えた。四條の方からは室内の暗さからはっきりとは判別が出来なかったが、その風貌からそれが詩緒であると予測を付けた。
「四條さん、おはようございます」
「おはようございます」
「はい、おはようさん。丁度良かった、神戸支社から来た御嵩や」
四條の後ろに隠れていた男が姿を現す。赤茶けた髪は緩く波打っており、身長は四條よりは多少低くはあったが比較的筋肉質でしっかりとした体型をしたその男は酷く気怠い様子で詩緒と那由多に視線を送る。
「営業の赤松です。俺も先週入ったばっかりなんですが、宜しくお願いします」
率先して挨拶をする那由多とは裏腹に詩緒は棒立ちしたまま固まっていた。詩緒がコミュニケーション下手だという事は初日から知っていた那由多ではあったが、寝起きでもない今何のリアクションも起こさないというのは珍しく、那由多は詩緒の顔を覗き込む。
「……榊さん?」
「榊?」
四條もその詩緒の様子に気付き声を掛ける。
「…………詩緒?」
四條の横に立つ男が口を開く。低くて良く通るバリトンボイスがエントランスに響く。男は初対面であるにも関わらず詩緒の名前を知っていた。
「………………そうま」
詩緒が微かに絞り出したのはその男の名前だった。次の瞬間詩緒が取った行動は走り出す事だった。踵を返し一目散に階段を駆け上がる詩緒の姿に那由多も四條も唖然としていた。
「詩緒!!」
ただ一人詩緒に名前を呼ばれた男、綜真だけは詩緒の後を追って階段へと向かった。残された那由多は何が起こったのか分からずおろおろと四條と階段の先を交互に見遣る。
「詩緒! 待てよ!!」
階段を上りきった綜真は左右を見渡し詩緒を探す。本来階段を上りきった後右に曲がれば詩緒や真香の個室が有るが、詩緒はこの時左に曲がった。
まだ整理され切れていない混沌のエリア、しかしその先には通用口が有り外に出る事が出来る。外に出れば逃げ道の選択肢はもっと広がる。整頓されていない足元の資材を掻き分けて詩緒は通用口の扉に手を伸ばす。
「待てって……!」
その手は虚しくも綜真に掴み取られる。扉横の壁へと背中を押し付けられ、詩緒の両側は綜真によって塞がれてしまった。久し振りに全力疾走をした詩緒の呼吸は上がっていて、黒縁眼鏡と長い前髪の奥にある表情は伺えないままだったが、綜真も同様に呼吸は上がっていた。
お互いが落ち着くまで浅い呼吸が静かな廊下に響く。真香と斎はまだ一階の共有スペースに居た為二階には今二人以外の誰も居なかった。
「……逃げてんじゃねぇよ」
先に口を開いたのは綜真だった。詩緒は最後に綜真の名前を呟いた後一言足りとも言葉を発していない。詩緒の右手を摑んで壁に押し付けたまま、綜真は右手でその詩緒の長い前髪を掻き分ける。詩緒の視線は正面に居る綜真には向けられておらず、通用口のある外側を向いていた。奥歯を強く噛み締め言葉を拒絶する事には強い意志を感じられたが、その表情は蒼白で元から白い顔が更に青褪めていた。
「なあオイ詩緒、こっち見ろって」
綜真が詩緒の頬に手を添えても、詩緒の双眸は決して綜真の事を捉えようとはしなかった。綜真が掴んだ腕には力が籠もり、もし詩緒が綜真より腕力があったならば即座に突き飛ばしてでも逃げ出していただろう。詩緒は今のこの状況を回避したくて仕方が無かった。その為だけにぐるぐると思考を巡らせる。
その詩緒の態度には次第に綜真も苛立ちを募らせて行く。
「聞けって!」
「ッ!!」
思わず大声を出し通用口の扉を叩く。鉄製の扉は轟音を別棟中に響かせた。
その直後、詩緒の様子がおかしい事に綜真は気付いた。拒絶していた目は大きく剥かれ落ち着いた筈の呼吸が先程と同様に浅く繰り返し始めていた。詩緒は立っている力すら失い足から崩れ落ちる。綜真が掴んでいた右手が唯一詩緒を支えていたが、詩緒の全体重に引き摺られ綜真もその場に腰を落として屈む。
「……おい、詩緒……?」
片膝を立てて詩緒の身体を支え直すも、詩緒は綜真に背中を向けて嗚咽にも似た呼吸を繰り返すだけだった。
「何なんだよ……」
「すいません、失礼します」
困惑する綜真と詩緒の間に割り込んだのは二人を追ってきた那由多だった。状況を呑み込めず唖然とする綜真の両腕から詩緒を受け取ると立ち上がって抱き直す。
「あかまつ……」
「榊さん、医務室行きましょうね」
苦しそうに呻く詩緒の背中を摩り落ち着かせるように言葉を掛ける。
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