その蝶、猛毒につき

椎玖あかり

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第十四章 茅萱と雪貴

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「チッ、何で佐野さんが……昨日渡してあるってのマジかよ……」
 命からがら屋上へと逃げ延びた一岐は御影に目を付けられてしまってはもうあのラウンジでの商売も難しく、頼みの綱であった三睦も半死半生の今二度と斡旋事業は行えないかもしれないと抱える不安を隠し切れなかった。
 千景が御影にとって手を出してはいけない存在だと知らなかった一岐は拉致する前にもっと詳しく調べておけば良かったと商売の順調さによる慢心を恥じた。
 勢い余って屋上まで逃げてきてしまったが、地下からすぐに地上へ出て逃げれば良かったかと手摺に手を掛けて周囲の建物を見渡す。冬場は日の入りが早く今はまだ夕焼けが綺麗に空を彩っているが、もう間もなく真っ暗な闇に彩られ始めるだろう。この周囲はテナントの無い廃棄されたビルが多く、アジトとしているこのビルもそのように廃棄されたものの一つだった。
 自分一人で逃げる事は簡単だったが、三睦を置いて行く訳にも行かない。屋上からならビルの出入りが確認出来るので、御影が去った事を確認出来てから三睦を連れて逃げようと一岐は手摺から路上を見下ろす。
「一岐」
 ざあっと北風が大きく吹いた。その音に混ざり確かに呼ばれた自分の名前、一岐が振り返るとそこには良く見知った顔があった。
「征士郎クン?」
 いつ頃からだったか、ふらりと現れ良質な接待人形を顧客のニーズに合わせて用意する有能なバイヤー、その実虎視眈々と失脚を狙い先日売上を誤魔化していた証拠の出納帳をラウンジの事務所から盗み出した張本人。
 人形に対する情も無くその調教の仕上がりには三睦も絶大の信頼を置いていた。だからこそ出納帳の場所も隠す事無く目の前で出し入れする事もあった。有能な裏切り者、茅萱。
 屋上へ逃げた一岐を追った茅萱は、屋上の出入口が一つだけである事を確認すると漸く一岐を追い詰めた事を確認し、斡旋の一環で裏社会の人物から買った拳銃の銃口を一岐へと向ける。
「なに、ソレ……」
「お前はここで死ね、一岐」
 片手で安全装置を外し引き金に指を掛ける。照準を決して外さないように、左手で下から支え風で流されないように照準を一岐へと合わせる。この人差し指を引くだけで弾は発射され、一岐の息の根すら一瞬で止める事が出来る。
「……やだなあ何の冗談?」
 脅すだけのモデルガンか、それとも何かの伝手で入手した本物の拳銃か、一岐は自らに向けられる銃口を目の当たりにしながら思考を走らせ茅萱の出方を伺う。
「組織の長は三睦でしょ? 僕が何したっていうのさ」
 斡旋組織のリーダーとして企業とのパイプを持っていたのも、茅萱から雪貴を寝取ったのも三睦であると一岐は背面の手摺に手を掛け、自分が撃たれる筋合いは無いと不思議そうに首を傾ける。
「とぼけんな。全部知ってんだよ。お前が三睦の事操ってた黒幕ってのは」
「……何ソレ」
 この期に及んでしゃあしゃあと自らに一切非が無いかの様に振る舞う一岐の姿に茅萱は奥歯を噛み締める。初めに雪貴に声を掛けたのは間違いなく三睦で、その後三睦を選んだのも雪貴自身の意志だった。しかしその後三睦を誘惑し、雪貴に先の試作品クリームを使うよう唆したのが一岐である事を茅萱は雪貴本人の口から聞いて知っていた。
「僕は三睦に言われた事をしてるだけ――」
「雪貴犯したのは三睦だけど、けしかけて動画撮ってたのはお前だよな?」
 雪貴の死後、自宅の郵便受けに入れられていたDVD。それはこの自宅で雪貴がどの様な目に遭わされたかを赤裸々に映し出していた。出勤する直前まで自分が居たリビングで、夜遅く帰宅する茅萱の帰りを雪貴が一人で待っていた寝室で、逃げる雪貴を追い回し嫌がる雪貴の服を切り裂き、泣いて懇願する雪貴を犯し、責め立て続けたそのDVDを見た時茅萱は涙を流し怒りに震えていた。
 映像の中で雪貴を襲っていたのは確かに三睦だったが、始終その様子を撮影していた人物の姿や声は頻繁に映り込んでいた。何度もその言葉を繰り返し聞く度雪貴の悲鳴と重なる。胸が張り裂けそうな思いを抑えて何度も聞き返した結果、動画の撮影者が三睦に指示を出して煽っている事が分かった。そして反射するガラスに映り込んだその姿は紛れもなく一岐そのものに間違いなかった。
「雪貴……ああ、征士郎クンが雪貴クンの彼氏だったんだ?」
 雪貴、その名前を茅萱の口から聞き漸く合点がいったかのように一岐は両手を打つ。押し入った時雪貴が誰かと暮らしている事まで分かったが、それが誰であるか当時の一岐には分からず、また後に調べる事もしなかった。そして一部始終を撮影した動画をDVDに焼き郵便受けに投げ込んだ時点で一岐はその部屋の持ち主が茅萱である事を把握していなかった。
「何で……雪貴にあんな事……」
「三睦の事が好きだったから」
 一岐が三睦に一目惚れした時、三睦には雪貴という恋人が居た。元々雪貴には恋人が居て、余りにも恋人に構われず寂しそうな佇まいの雪貴に思わず手を出してしまったが、三睦自身も当時は二股に悩む雪貴を慮っていた。
「だけどね、雪貴クンの事も好きだったよ? 三睦が好きな子だもん。だから仲良く3Pもしたし」
 雪貴を恋人の元に返そうとした三睦の決断を一岐は許さなかった。雪貴が恋人より三睦を選んだのは三睦の方が何もかも秀でていたからだと常に耳元で囁き、戻ってきた雪貴をもう二度と手放してはいけないと試作品で貰っていたクリームを手渡した。
「……生き急ぎてぇんだな?」
「『彼氏の為』って健気な雪貴クン。逃げようとする度彼氏殺すよって言ったら自分から腰振ってきたよ! あははは! とんだ淫乱だよね君の彼氏!! もう男なら誰でも良かったんじゃないかなあ。ほら僕が雪貴クン見付けたあの日も他の男とイチャイチャしてたし! 案外愛されて無かったんだねー征士郎ク」
「――もういい、喋んな」
 一岐の戯言などこれ以上聞く耳を持ちたく無かった。延命の為の無駄な抵抗だとしても少し時間を与え過ぎたと茅萱は照準を一岐へとしっかり合わせ、指に掛けた引き金を躊躇いなく引いた。
「茅萱さん!」
「海老原っ?」
 パンッと乾いた破裂音が空中に霧散した。屋上の出入り口から飛び出した斎は今正に引き金を引こうとしていた茅萱の腕を掴み、その弾道を空へと反らせた。飛び掛かった反動で斎は茅萱ごとコンクリートの上へと倒れ込む。
 脅しでも何でもなく本物の拳銃であったとごくりと生唾を呑む一岐だったが、逆に茅萱を取り押さえるように現れた斎へと視線を向け、昨晩茅萱が用意した人形だと分かるとパッと表情が明るくなる。
「ああー昨日の子か。戻って来たのかな? やっぱり昨日の接待が忘れられない? 気持ちよかったでしょ? だから戻って来たんだ? やっぱり征士郎クンって誰にも愛されな」
「黙れ!!」
 茅萱は怒声と共に目の前のコンクリートを拳で打つ。雪貴の仇が打てる千載一遇のチャンスが呆気無く霧散しただけではなく、更に一岐に煽られ血液が沸騰しそうな程の敗北感を味わう茅萱は未だに自分を行かせまいと腕を掴んだままの斎を睨み付ける。
「……海老原、何で邪魔した。アイツを殺さないと、俺は、俺はっ」
「雪貴クンも元々三睦と征士郎クンで二股掛けてたんだしね」
「やめろ……」
 もう何も聞きたくない。そうではないと自分自身に言い聞かせる事で今日まで奮い立たせてきた。雪貴が二股を掛けていた事も、最終的には自分ではなく三睦を選んだ事も、漸く取り戻せたと思ったのに永遠に奪われただけではなく、自宅での行為を撮影したDVDを後に送られ何度も自分の中の雪貴が貶められてきていた。使用された薬の所為だと思い込まなければ自分が壊れてしまいそうだった――雪貴が三睦を求める言葉を聞いた時は。
「茅萱さん、もうやめよ……」
 怒りと悲しみで震える茅萱のとても小さな身体を斎は両腕で抱き締める。自ら死を選んでしまった雪貴には一岐が吐く妄言を否定する事ももう出来ない。
「茅萱さんに撃たせるなって、佐野さんからの指示。俺は御嵩さんからそれを言われたんだ」
 斎はそう言って茅萱の手から拳銃を離させコンクリートの上へ置く。撃たせるなという言葉そのものには間に合わなかったが、茅萱が殺人に手を染めなくて良かったと斎はこの時以上に神へと感謝した事は無かった。
「茅萱さんがユタカくんに愛されてないなんて嘘だよ」
 雪貴の口から直接茅萱へと伝える事は叶わなかったが、雪貴が三睦では無く茅萱をどれだけ愛していたのかならば斎の口から茅萱へと伝える事が出来る。嬉しそうに、そして悲しそうに話す恋人の事を斎はもう何度も雪貴自身の口から聞いていた。

 屋上の入り口からふらりと四人目の人物が現れる。上半身には何も纏っておらず、背中一面に広がる刺青はその人物が到底堅気の人間では無い事を物語っていた。下半身にはジーンズこそ穿いてはいたが前面はだらしなく寛げられており、斎にすら分かる異様な殺気を放ちまるで冬眠から目を覚ましたばかりの熊の様にのそりとした足取りで手摺りに倒れ込む一岐へと歩み寄って行った。
「テメエ……逃げてんじゃねぇぞ。テメエを殺らねぇと千景を犯れねぇだろうが……」
「ヒィッ!! ゆ、許して、ごめんなさっ……!!」
 茅萱の時とは異なる純粋な恐怖から一岐は許しを乞うて顔の前に腕を出すが、御影がその片腕を握った瞬間鈍く骨が砕ける音と同時に一岐の絶叫が響く。
 斎は突然現れた目の前の光景を理解出来ぬままただ眺めていた。一岐を追い屋上に向かった茅萱を追えば茅萱の発砲の瞬間に出会し、既の所で止めたは良いが、新たに登場した別の人物が茅萱の仇だった相手へ殴る蹴るの暴行を加えているこの状況をどう理解したら良いのか、呆然と見詰める斎の隣へ更に五人目の人物が現れた。
 その白い足には見覚えがあり、足から上へと視線を辿らせて行くとシャツと下着以外には何も身に纏っていない千景の姿がそこにあった。
「佐野さん……?」
 何故ズボンすらも履いていないのかという疑問は茅萱に来た着信のスピーカー音声である程度把握は出来るが、見るからに体力も限界と見える千景は右手の中に何かを握り込んだまま足元に置かれた茅萱の拳銃へと視線を落とす。
 錆びれた出入口の扉へ寄り掛かり悲痛な表情を浮かべる千景だったが、御影が一岐を容赦無く打ちのめす姿を確認すると靴も履かず裸足のままでその拳銃を蹴り飛ばし、御影の丁度足元へと滑り込ませる。
 茅萱に撃たせるなと厳命した拳銃を何故よりにもよってあんな危険人物の足元へと送ったのか、斎は状況が飲み込めないまま千景の顔を見上げたが、気が付くと腕の中から茅萱の姿が居なくなっていた。
「……あれ、えっ、茅萱さん!?」
「……海老原」
 腕の中から姿を消した茅萱を探す斎だったが、千景に名前を呼ばれ再び視線を向けると千景が顎を動かし何かを指し示していた。斎が千景の指し示す一岐とは真反対の位置へと視線を向けると、そこには手摺りを乗り越えビルの端に姿を移した茅萱の姿があった。
「茅萱さん!?」
 斎は一目散に茅萱へと駆け寄る。この廃ビルの屋上は大凡六階程度の高さだったが周囲は舗装された道路、飛び降りた場合まず助からないだろう。相討ち覚悟の茅萱が仇も取れずに悲観に暮れる気持ちが分からない訳でも無かったが、それ以上に茅萱に死んで欲しくないという気持ちが先行しつんのめりそうになりながらも茅萱の前へと駆け付ける。
「茅萱さん危ないから! こっち来て!!」
 今日は無風という訳でも無く、時折強い風が吹き荒む。ビル街であるからこそその可能性は余計に高く、今はまだ茅萱が外側から手摺りを掴んでいる状態ではあるが、もし茅萱が手を離した瞬間強風に身が攫われたら――ぞくりと斎の背筋が震える。茅萱の目が昨晩のあの時と同じように悲しみに満ちているように見えたからだった。
「……俺は、結局雪貴の仇も討てなかった」
 風の音に混じり茅萱の呟きが斎の耳へと届く。この復讐劇を完遂するまでに茅萱は一体どれだけの事を犠牲にしてきたのか、その労力を斎が計り知る事は出来ない。その掛けた時間も何もかもが千景の一計により呆気なく無に帰した。自らの手で仇を討つ機会を失ってしまった茅萱が最後に取る行動は、これまで犠牲にしてきた斎を含め全員の償いとしてその身を投じる事だった。
 結局何もしてやる事が出来なかった自分を雪貴は許してくれるだろうか。もしあの日に仕事を休んで雪貴の側に付いている事が出来たならばあの様な悲劇が起こらなかったかも知れない。最初の時だって三睦の付け入る隙を作らぬ程雪貴を大切にする事が出来たならば、雪貴の心が三睦へと向いてしまう事は無かった。何故雪貴の二股を真正面から受け留めて許す事が出来なかったのか。確かに愛していた筈なのに思い返せば何一つ雪貴へと与える事が出来てはいなかった。一岐の言う通りこんな自分だからこそ雪貴は三睦に惹かれてしまったのだと、茅萱は今まで決して向き合おうとはしなかった自身の本心に目を向け、今その全てを終わらせようとしていた。
「ユタカくんだって茅萱さんが手を汚す事なんて望んでないよ!」
 茅萱が一岐を撃たない事は正解だった、それを伝える為に斎は手摺に縋り付いて茅萱へと語り掛ける。斎自身も確かにそう思っていた。薄々感じ取っていた、茅萱は一岐とは異なり根っからの悪では無い。ただ大切な存在を救えなかった不甲斐なさを復讐にすり替え、それだけを生き甲斐として今日まで生きてきた。それ程までに茅萱の中で雪貴の存在は大きい。自分の入り込む隙など一寸も存在していない茅萱の雪貴への思いに心が張り裂けようとも、斎はただ自分自身のエゴとして茅萱をこのまま死なせたくは無かった。
「お前に何が分かる!」
「分かるよ!!」
 斎は茅萱本人よりもその事を一番良く知っていた。恋人――茅萱の話をする時の雪貴はとても幸せそうで、同時に悲しそうでもあった。悲しげなその目をどこかで見た事があると感じた斎だったが、それは茅萱が斎に見せたあの一瞬の表情ととても良く似ていた。
 一目惚れしたのは自分からで、漸く口説き落とせた時は天にも昇る心地だったと雪貴は初対面の時斎に話した。大切にしたくて尊重し過ぎて言いたい事も何一つ言えず、もっと自分との時間を作って欲しいという些細な我儘も伝えられなかった雪貴はただその隙間を埋めるだけのつもりだった三睦に身も心も奪われた。何故もっと恋人の事を信じて待つ事が出来なかったのか、ただそれだけが無念で仕方無かったと言って雪貴は涙を流した。そんな自分の事を助け出してくれた恋人には感謝をし尽くせない。だからこそこれ以上の迷惑を掛けたくは無かった。側に居られればそれだけで良いのに、自分の身体は既におかしくなってしまっていて、自分の理性に反して身体が他者を求めてしまう。茅萱の名前こそ知らずとも、雪貴がどれほどその恋人の事を大切に思っているのかは、偶然の逢瀬を繰り返す度斎に伝わっていた。
「俺、ユタカくんが恋人の事どれだけ大事に思ってたか本人から直接聞いてる! 愛してるのに自分が馬鹿な事したから抱かれる事に引け目を感じるって! ユタカくんは茅萱さんの事ちゃんと愛してたよ! 茅萱さんがこんな事するの望んでない!!」
 一岐の煽りに揺らいでしまう程茅萱の雪貴への思いも脆いものでは無い筈だと斎は信じたかった。確かに茅萱が雪貴と過ごした時間は短いかもしれないし、実際に身体を重ねた回数ももしかしたら斎の方が上かもしれない。それでも雪貴が茅萱を心から思っていた事は疑わないで欲しいと、斎はまだ手摺りの上に置かれている茅萱の手に自らの手を重ねる。
「もし、もし俺が」
 自分を愛してくれない人を愛したのはこれで何度目になるだろうか。何故自分だけが誰からも愛されないのか、斎に出来る事は愛されていた場合を仮定するだけだった。
「ユタカくんみたいに、茅萱さんに愛されてたとしたら……やっぱり同じ事思うよ……」
「海老原……」
 頬を伝う涙が風に流され空で弾ける。何故斎はあれ程までの扱いを受けながらそれでもまだ自分の為にこうして涙を流せるのか、目の前に立ち手を掴む復讐の対象者へと視線を向けた茅萱の目に嘗て愛した人物の姿が重なる。
 ――征士郎さん。
「ゆた、か……?」
 雪貴の告白を受け入れた時、嬉しそうに涙を流すその姿がとても印象的だった。その笑顔をいつまでも守っていきたいと茅萱はその時強く思ったのだった。
 その時、突発的な強風が二人の間に吹き荒む。茅萱の小柄な身体はふわりと風に煽られその反動で茅萱はバランスを崩し足元を屋上の端から滑らせる。
「茅萱さん、危な――」
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