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9 先生のご冗談

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 翌日も、ハナはアーモンドの花弁を掃除しながら文字のことを考えていた。満開から2日が経って、日に日に落ちていく花弁が増えてゆく。
 可憐に風に舞う小さな花弁が、昨夜見た本の挿し絵のハート型に見えて、ハナの心はくすぐったくなった。

 新しく始めた学びと一晩寝たおかげで、ハナの気持ちは軽くなっていた。

(想うだけなら自由よね。心に秘めるだけなら勝手だわ)

 そう想いながら、落ちていた木の枝をしゃがんで拾うと、土に枝で文字を書く。
 昨夜本に載っていた『こい』という字を思い出しながら、見よう見まねで書いてみる。

「今日は土遊びかな? おひいさん」

 想い人の声に、ハナはまたブルリと肩を震わせた。

「な、何か御用でしょうか?」

 慌てて手で土に書いた文字を消して、立ち上がる。汚れた手は背中に隠した。

「チェリーの御礼を言おうと思ってね」

 それなら昨日、瓶を渡した時に聞いたはずだ。

「お前さんが買ってきてくれたと思ったら、余計に美味しく感じたよ」

 鷹保はふわりと優しく微笑む。アーモンドの花弁が風に舞って、その怜悧な顔に浮かぶ爽やかな笑みがいっそう青空に映える。
 ドキドキと鼓動が早まって、思わずその顔を見つめてしまう。

「ありがとう、おひいさん」

「は、は、は、はいっ!」

 何か答えなくてはと口を開き、思いっきり詰まってしまった。鷹保はケラケラ笑った。


 その晩も、ハナは十蔵の迎えで喫茶店に向かった。平仮名・片仮名をマスターしたハナに、十蔵は漢字を教えてくれるという。

 喫茶店に着くと、いつもの席のテーブルの上に、紙が置かれている。昨日同様、十蔵が用意してくれたものらしい。
 『木』『山』『川』や数字が書かれていて、ハナは見たことのある字が読めるようになるのだとワクワクした。

 覚えていくのは楽しい。
 文字が読めれば、文が読める。
 文が読めれば、本も読める。
 楽しみが増えるのだと思えば、期待に胸が鳴るのだ。

 ハナはそれからも毎晩十蔵の元へ通い、まだ知らない漢字を学んだ。リサから借りた本のルビから、自分で漢字を覚えたりもした。

 十蔵の元へ通い始めてから、あっという間に一週間が過ぎていった。


 ある晩、簡単な漢字は覚えてしまったハナに、十蔵が聞いた。

「他に、ハナちゃんは知っている漢字はあるかい?」

(知っている漢字……)

 帝都にいれば、色々な漢字を目にする。けれど、意味が分かるかどうかはまた別の話だ。
 けれど、今一番、自分の心に染み付いて離れない文字がある。

「恋……」

 ぼそりと答えた。

 あれから、鷹保はハナの前にあまり姿を現さなくなった。たまに姿を見掛けても、ハナに微笑んでくれればいい方で、ハナに気付かず行ってしまうこともある。
 以前のように、ガゼボで話をするようなことはなくなった。

(仕方がないわ、最近はお忙しそうだし。そもそも一介の女中と主が親しくお話していたこと自体、あり得ないことだったのだから……)

「乙女だねぇ」

 ハナの寂しい心を読んだように、十蔵がハナに微笑みかける。

「恋という字はね、いとし、いとしと言う心」

 十蔵は言いながら、手元の紙に『こい』の字をスラスラと記す。

「愛しい、だなんて……」

 ハナは頬をほんのり赤く染めながら、十蔵の記した字を見つめた。

「この字が『糸』、こっちは『言う』、そしてこれが『心』。『糸』と『愛しい』を掛けたのさ。昔の都々逸どどいつだよ――遊び歌、といったところかな」

「へえ……」

 ハナは勘違いに、頬が熱くなる。十蔵がふふっと笑って、余計に熱くなった。

「ところでハナちゃんは、恋をしているのかい?」

 ドキンと大きく胸が鳴り、思わず握っていた鉛筆を手から落としてしまった。カランカランと、鉛筆がテーブルを転がる。
 十蔵がははっと声を声をあげて笑い、ハナは逃げ出したいくらい羞恥でいっぱいになった。

「す、すみません……」

 小さな声で言うと、大きな手が頭に乗せられた。

「いのち短し、恋せよ乙女」

 顔を上げたハナに、マスターは優しく微笑む。

「流行りの歌からの借り物だけどな」

 けれど、ハナの恋は叶わない。
 先程まで火照っていた頬は、急に冷めてゆく。代わりに虚しさが胸を襲って、脳裏に描いていた微笑む鷹保が、ポロポロと崩れていく。

「手の届かない方ですから」

「そうかい、そうかい」

 泣きたくなった。
 涙が零れそうになって、鼻から息を吸う。ずずっという音がして、ごくんと喉を鳴らして飲み込んだ。

「ハナちゃんにこんな顔をさせるのは、一体誰だろうね」

「いいんです。私の勝手な、気持ちですから」

 気づかぬ間に、下唇を噛んでいたらしい。パリッと割れて、口の中に血の味が広がる。

 十蔵はハナの頭から手を退けた。そして、真剣な眼差しでハナの顔を覗き込んだ。

「じゃあさ、俺と付き合ってみるのはどう?」

「先生は優しいですね」

 ハナはクスッと笑った。
 自分を元気づけるために、こんな冗談を言ってくれる。彼にはいつも助けられてばかりだ。

「お陰で気持ちが軽くなりました」

 ハナはペコリと頭を下げる。
 顔を上げると、十蔵は目を丸くして、それからハハっと豪快に笑った。

「そうかそうか、そうとられちゃったか!」

 今度はハナが目を丸くした。

「ご冗談、ですよね……?」

 キョトンとしたままそう告げると、十蔵は静かに首を横に振る。
 その瞳が優しそうな悲しそうな色に揺れて、ハナは戸惑った。

(先生が、私を――?)

 ドキドキと胸が鳴る。今まで意識していなかったのに、彼の気持ちを知った途端に十蔵が男性であるということをはっきりと意識した。

「最初は可愛い子だと思った。キミが帝都で一所懸命に生きているのを知ったら、放っておけなくてね」

 十蔵はハナの瞳を真剣に見つめた。ハナは射止められてしまったように動けなくなる。

「字を教え始めたら、それにも一所懸命で、何事にも真摯に向き合うまっすぐな気持ちに惹かれていった」

 十蔵はそこまで言うと、立ち上がりカウンターの中へ向かう。ハナはどうしていいか分からず、十蔵の姿を目で追った。
 茶色い粉を小鍋に入れて、沸かした湯を注いでいる。

 けれど、ハナの脳裏には鷹保の笑みが浮かんでいた。青空の下、アーモンドの散りゆく中で微笑みながらハナを見下ろす鷹保の姿だ。

「でも、こんなオジサンじゃあ、ハナちゃんには釣り合わないか」

 十蔵が自嘲するように静かに笑いながら、小鍋をかき混ぜる。甘い香りが店内に広がって、ハナの胸をキュっと苦しめた。

「急に告白されて戸惑ったろう? 答えはいらなないさ。今日はこれを飲んだら、帰ろうか」

 ハナの前にコトンと、ココアの入った洋風の湯呑が置かれた。これはカップというのだと、初日の勉強の時に教えてもらった。

(先生には感謝している。彼が良い人なのは分かってる。鷹保様と結ばれないのなら――)

 ハナはカップの縁にそっと口つける。優しいミルクの温もりに、胸がキュウっとなる。十蔵の思いが、そこに詰まっているような気がしたのだ。

(先生とお付き合いしたら、鷹保様への恋心は忘れられるかしら――?)

 十蔵はカウンターの中から持ってきた外套を肩にかけ、外に出る準備をしている。ハナの座席から2、3歩離れたところに立っていた十蔵に、ハナはそっと声をかける。

「あの……」

 十蔵がハナの方を向いた。
 ハナは立ち上がった。そしてそのまま、腰を折るようにして頭を下げる。

「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願い致します」

 十蔵は目を見張った。

「それは……」

 ハナは顔を上げて微笑んだ。2人はそのまましばらく見つめ合っていた。

 ◇◇◇

 鷹保はハナが去っていった門の向こうを、別邸の窓からこっそりと見ていた。
 このところ、ハナは外出許可を毎晩申請しているらしい。きちんと門限までには帰ってきているが、胸のもやもやは増す一方だった。

 ――アレは私の女中だ。毎晩どこかの男のところにでも通っているのだろうか。

 自分の中に巻き起こる嫉妬心に、ため息を零した。

 ――そんなことよりも、心配することがあるだろう。

 ハナは鷹保に兄がいるということを知っている。その秘密を記者にでも漏らしたら、世間は大さわぎするだろう。
 今のところ屋敷の周りに記者も見えないし、ハナの口の堅さは信用に足るものだということは分かった。

 しかし、万が一ということもある。純粋な女だ。色仕掛けでも試されたら、うっかり口を滑らせてしまうかも分からない。

 その日、ハナが自転車の後部に乗って帝都の街へ駆けていくのが見えた。

 ――漕いでいるのは、マスターか?

 胸騒ぎがした。もしもハナの相手がマスターがだったら。あの喫茶店に顔見知りの記者が出入りしていることに、鷹保は気づいていた。

 ――私の秘密を知ろうとしていたのはマスターだったのか? アイツは食えない男だからな……厄介だ。

 けれども、もう一度諦めのため息を漏らした。

 ――もう、秘密が漏れても仕方がないのかもしれないな。

 もしも中條家の鷹保に兄がいることが世間に知られたら、自分が鷹保ではないこともじきに知られるだろう。中條家は兄のことを隠し身代わりを立てたとして、没落するかもしれない。
 けれど、そうなれば自分は何も抱えなくてよくなる。自由の身だ。

 ――それならそれでいいさ。いいだろう。なのに、何故……?

 ガゼボで控えめに座り、楽しそうに自分の話を聞くハナの姿を思い出す。思わず頬が緩んで、自分もほだされたものだと自嘲した。

 ハナには随分といろいろなことを教えた。土いじりに役立つからと、草木の名前や咲く時期なんかを必死に聞いてきた。それを教えるのは自分でなくても良かったはずなのに、ハナは自分の『話し相手』を快く引き受け、楽しそうに話してくれた。

 この気持ちが恋だということに、鷹保は随分と前から気づいていた。「付き合え」といえば彼女は自分と付き合うだろう。

 けれど、女中と公爵の恋はご法度である。
 かつての自分が受けた仕打ちを、自分の母親が受けた仕打ちを、ハナに受けさせるわけにはいかない。
 女中であるハナは、鷹保の本妻にはなれない。身分差は越えられない。決して許されぬ恋なのだ。

 一週間ほど前に、アーモンドの木の下でハナを呼び止めてしまったことを思い出した。
 「チェリーの礼」などと変な理由を付けてしまった。あんな失態をするなら、彼女に関わらないほうが良い。そう思うのに、どうしてこんなに気になるのだろう。

 鷹保は気持ちを抑え込む。ハナとの仲は『お戯れ』だ。帝都一の色男は、妹を探すための『隠れ蓑』なのだ。

 ――妹を探すのだ。もしも、秘密が世間に知られたなら、探し出した妹と共に暮せばいい。

 鷹保は自分にそう言い聞かせ、早々にベッドに戻った。
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