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1 帝都の人はみな狼

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「ここが、帝都……」

 乗り慣れない汽車に揺られ、上野駅を降りたところでハナは立ち止まった。

 石造りの建物、そこに張り巡らされる線には電気というもの通っているらしい。道端に立つ柱はガスとうと言って、夜になると街を照らすと聞いたことがある。

 行き交う人の多さに圧倒されたが、それ以上にみな洋装であることに驚いた。帽子に杖を持つ殿方に、貴婦人は丈の長いドレスを身にまとう。ハナと同じくらいの女性は着物だが、袴の下に見えるのは足袋ではなく、洋風の履物だった。

 ハナは自分の足元を見た。裸足に、藁草履わらぞうり一張羅いっちょうらの着物を着てきたにも関わらず、ハナはたったひとつの持ち物である風呂敷を抱えたまま呆然とした。

 ハナは田舎の山の村の出身だ。山の中で幼い頃から田畑を手伝い、冬は竹籠を編んで育った。母は産後の肥立ちが悪くハナを産んで間もなく死んだらしい。父親はそれよりもっと前に病気で亡くなったと聞いている。

(村の人たちが身寄りのない私を手厚く育ててくださった。それに、一人で生きていけるようにと帝都での働き口まで見つけてくださった)

 ハナは、空を見上げた。空だけは、村と同じだ。それに、父母とも繋がっている気がする。

(父母に恥じないように、村の皆に恩返しができるように、立派に勤め上げなきゃ)

 鼻からすっと息を吸い込み、意気込み新たに帝都へ一歩踏み出す。

 すると、カラコロと聞き慣れない音がした。振り向けば、立派な馬車を引いた馬がこちらに駆けてくる。

「わぁっ!」

 慌てて馬を避けると、すぐ隣を大きな車輪の馬車が通り過ぎていった。

 その大きな音に驚き尻もちをつくと、さらなる痛みが右肩を襲った。

「んだよ……女か。んなとこに座るな! 邪魔だろう!!」

「あ、えっと、すみま……」

 どうやら道行く男性に肩を蹴られたらしい。男性はそのまま行ってしまい、ハナの言葉の語尾は都会の喧騒に飲まれていく。

 ――こんなことでめげてちゃダメだ。

 ハナはこぼしかけた溜息を飲み込み、顔を上げる。すると目の前に、黒い影が落ちた。その影はハナに手を差し伸べている。

「大丈夫かい、お嬢さん」

 はっとして視線を上げた。足元は下駄、それに黄土色のズボンを辿ると、白いシャツのボタンの上が2、3外したラフな姿の男性と目が合った。
 歳はハナとは一回りは離れているだろう。

「あ、ありがとうございます……」

 彼の手を取ると、ぎゅっと手を握られる。

(わぁ、ゴツゴツしてて大きい。男性の、手だ……)

 頬がポッと熱くなる。その間に、男性はハナの手を引っ張り立たせると、足元に落ちていた風呂敷包みを拾い上げハナに手渡した。

「気をつけな。帝都の人はみな狼。誰も信用しちゃならん」

「え?」

「じゃあな、達者で。お嬢ちゃん」

 ハナの疑問符などなかったかのように、男性はくるりと背を向けて行ってしまった。

(何だったんだろう……)

 ハナは風呂敷包みを抱えたまま、ぼうっと立ち尽くす。けれどもすぐに、自分が何をしに帝都にやって来たのか思い出した。

 勤め先の客亭は、銀座だ。上野からは都電を乗り継がなくてはならないし、初日から遅刻していては、先ほど立てた誓いも意味がない。

宝華亭ほうかていに、急がなきゃ!)

 ハナはその場から駆け出した。


 銀座の大通りを一本入ったところに、立派な瓦屋根に大きな門を構えた宝華亭ほうかていはあった。

「ここが、今日から私が働く――」

(なんて立派な客亭だろう。きっとたくさんのお客様が泊まりにいらっしゃるんだ。頑張らなきゃっ!)

 風呂敷包みを持つ手にぐっと力を入れ、気合とともにガラガラとその戸を開いた。

「ごめんくださーい!」

 ハナは最初が肝心だと、大きな声でハキハキと言った。田舎育ちなので、声はよく通る方だ。
 けれども、誰もこちらを見向きもしない。誰もかれも慌ただしく、バタバタと動き回っている。

「あ、あの……」

 盆を持った女も、箒を抱えた女もハナの近くを通ったが、誰も彼女に気付かない。

 奥からは「植木は確認したのかい!?」「あっちの塵をはやく片付けろ!」などの怒号が飛び交い、それに答える女の声が響く。

 ハナは思い切り息を吸い込み、もう一度大声を出した。

「すみませーーんっ!」

 それでやっと、背筋のピンとした白髪の女性が奥から現れた。高価そうなうぐいす色の着物を身にまとっている。

「何だい、この忙しい時に!」

 彼女はハナをギロリと睨む。

「今日からここで働かせていただくことになった、ハナと――」

 女性はどうやら偉い人らしい。ハナが話している間にも、数人の女中に指示を飛ばした。

「ああ、お前さんか」

 女性はハナをつま先から頭のてっぺんまで吟味するように見て、それから「悪くない」と独り言のように言う。

女将おかみ財前ざいぜん様が到着されました!」

 ひときわ大きな声を女中が放った。
 すると、ハナを見ていた女性が声を張り上げる。

「お前たち、早く並びな! お迎えするよ!」

「え、えっと、私は――」

 ハナは困って女将らしき女性をすがる思いで見つめる。

「お前はここだよ!」

 腕を引っ張られ、隣に立たされた。
 すると、いつの間にか女中たちは入り口に二列に並んでおり、さきほどまでのドタバタが嘘のように、皆りんとした笑みを浮かべている。

(すごい! これが、帝都……)

 驚嘆したが、同時にこれから自分もここに入っていかなくてはという不安が胸に渦巻く。
 ぼうっとしていると、女将がハナをギロリとにらんだ。

「何ぼさっとしてんだい! 早く頭を下げな!」

 周りを見れば、皆低く頭を下げている。ハナも慌てて頭を下げた。
 すると、聞き慣れぬ「かつ、かつ」という音が聞こえてくる。ハナはわくわくした。

(すごい! 履物の音まで帝都は違うのね!)

 視界に入ったのは、足の先まですっぽりと覆われた茶色い革靴。聞いたことはあっても、まじまじと見るのは初めてだ。

「財前様、本日もよおお越しくださいました」

「いや、今日は早く終わったんでね。ちいと様子を見に来たってわけさ」

「ありがとうございます、うちも財前様にご贔屓にしていただき――」

 隣で女将と財前と呼ばれた男の会話が聞こえるが、ハナは目の前の茶色い革靴に夢中だった。

(財前様、どんな方なんだろう。こんな洒落た靴をお召なんだもの、きっと財力があって素敵な殿方なんだわ)

 二人はまだ談笑を続けている。

(ちょっとだけなら――)

 ハナはそっと頭を上げた。


「ん?」

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。財前という男と、バッチリ目が合ってしまったのだ。
 小太りで細い目をした、気立ての良さそうな中年男性だった。

 背中を嫌な汗が伝うが、ハナは慌てて笑みを浮かべた。

「初めて見る子だねえ」

 財前はカツカツと履物の音を響かせながら、ハナの前に歩み寄った。
 隣で「コラ、お前は!」と女将の声が聞こえたが、ハナはどうにも動けなくなっていた。

「へえ、可愛い顔だ」

 財前は口角をにやりとあげて、そのままクイッと右手でハナのあごをすくう。

(え? 何!?)

 ドクドクと心臓が鳴る。ぞわりと鳥肌が立った。

「決めた。今日の相手は彼女にしよう」

「財前様、彼女はまだ新入りでして、教育も何も――」

 女将が慌てたように言うも、財前はニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

「いいさ、私が手取り足取り教えてやる」

「財前様がそうおっしゃるなら……」

 女将は早々に引き下がり、奥歯を噛んだみたいな顔をした。

「いつもの、奥の座敷で待ってるぞ」

 財前はそう言うと、まだ触れたままだったハナの顎から手を外し、客亭の奥へと入っていく。何人かの女中がついて行き、他の女中はどこかへ散っていった。
 女将はハナの腕をガシッと掴んだ。

「あの……」

「全く、とんでもないことをしてくれたね!」

 女将は先程までのにこやかな笑みは何処へやら、鬼の形相でハナを睨んだ。

「財前様はうちのお得意様なんだ! 絶対に失礼なことをするんじゃないよ!」

 あまりの気迫にコクリと首だけでうなずくと、女将はハナの腕を離した。そしてかわりに、背中をバシッと叩く。

「ぼさっとしてないで早く行きな! 財前様を待たせるんじゃないよ!」

「え、でもどちらに……」

「この廊下を真っ直ぐの、一番奥の大きな部屋だよ!」

 女将が怒号る。ハナは荷物をそこに置いたまま、早足で客亭の奥へと向かった。


「失礼いたします……」

 そっとふすまを開けると、財前はそこに敷かれた布団の上にあぐらをかいて座っていた。

「お、来たね」

 財前はニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべている。

「キミ、名前は?」

「ハナと申します」

 入り口にほど近い畳の上に、帝都に恥じぬよう丁寧に正座をした。

「ハナちゃんね、よろしく。ほら、そんな端っこにいないでこっちにおいで」

 財前はハナを手招きした。
 ハナは狼狽うろたえた。お客様の布団に上がるのは良くない。でも、失礼があってはいけない。

「もしかしてハナちゃんは、まだ何をするか知らないのかな?」

 財前は口角により深くしわを寄せた笑みを浮かべた。ハナは身の毛がよだつのを感じながら、コクリとうなずいた。緊張で、肩が釣り上がる。

「そうかそうか、なら特別に僕が手を引いてあげよう」

 財前は立ち上がると、座ったままのハナの手を掴んだ。そのままの布団の上にあぐらをかいて座ると、ハナを自分の横に座らせた。

 ハナはごくりとつばを飲み込み、湧き上がってくるゾクゾクとした気持ちを抑え込む。

 財前は掴んだままのハナの手の甲を、反対の手でそわそわと撫でた。

「ハナちゃんの仕事はね、この布団の上で僕に奉仕することだ」

「え……?」

(それって――)

 聞いたことがある。
 帝都には、金持ちの男性のお世話をする“遊女"という仕事があることを。

(ここ、客亭って聞いてたけど――もしかして、そういうところ?)

「ふふ、恥ずかしがっているのかい? 初心うぶなところも可愛いねえ」

「あ、あの……」

 財前はハナの手を撫でていた手を、そのままハナの腰に移した。触れられた所が気持ち悪い。けれど、失礼があっちゃいけない――。
 ハナは自分の中に湧き上がる恐怖を、我慢で飲み込んだ。

「ほら、こっちに」

 財前はハナの腰を浮かせ、自分の膝の上に乗せた。見た目はぽっちゃりしているが、男性なので筋力もあるらしい。軽々と持ち上げられてしまったことに、ハナはより恐怖を感じた。

「お酒を飲もうか、ハナちゃん」

 財前はそう言うと、用意されていたとっくりをハナに持たせる。財前がお猪口を構えるので、ハナは御酌した。

(このくらいなら、何とか――)

 恐怖で手がプルプルと震えるも、何とかこぼさずに乗り切った。

 財前は注がれた酒を飲み干すと、ハナにも飲むよう勧める。

「仕方ないなあ、僕がお酌してあげるよ。特別だよ?」

 ニヤニヤと白い歯をちらつかせながら、ハナにお猪口を持たせた財前はそのままとっくりを持ち上げる。そしてお猪口に注いだあと、大袈裟にとっくりをハナの方に向けた。

「おっとっと。ごめんねえ、ハナちゃん」

 そのせいで、ハナの着物の半衿はんえりが酒に濡れてしまった。着物の下、おろしたての薄桃色の長襦袢ながじゅばんが肌に貼りつく。気持ちが悪い。
 財前はニヤニヤしながら、酒の溢れたハナの胸の辺りをじーっと見ていた。

(我慢、我慢――)

 ハナは無理やり口角を引き上げて、「いただきますね」とお猪口をかざした。

「うーん、やっぱりそれ、僕に飲ませて?」

 そう言われ、ハナは「どうぞ」と引きつった笑みのまま財前にお猪口を差し出した。

「違う違う」

 財前はお猪口をハナに押し戻す。

「ハナちゃんが口に含むんだよ。それを、僕の口に流し込んでくれればいいんだ」

(それ、つまり接吻じゃない……)

 ドクドクと、心臓が嫌な音を立てる。けれど、ハナは言われたとおりにするしかない。財前はお得意様で、絶対に失礼があってはいけない相手なのだ。

 ハナは言われた通り、酒を口に含んだ。苦くて、美味しくない。今すぐに吐き出したい。
 泣きたくなって、鼻の奥をどろりとした何かが流れる。少しだけ酒を飲み込んでしまった。
 喉が焼けるように熱くなる。

 そんなことはお構いなしに、財前の顔はハナに近づいた。

(こんなことは、好きな殿方とするものとばかり思ってた……)

 財前は目をつぶり、タコのような口でハナに迫る。

(仕方ないわよね。我慢、我慢……)

 ハナもぎゅっと目をつぶった。

(我慢、我慢。……我慢、しなきゃ)

 唇が触れ合う気配に、ハナは思いっきり身を引いく。勢いで、ごくりと、口の中のものを飲み込んでしまった。

 ――バチン!

 同時に、ハナは財前の頬を思い切り叩いていた。

(ああ、しまった!)

 財前を叩いた右手がじんじんと痛む。財前はハナの目の前で、叩かれた頬を赤くしたまま目を見開いていた。
 しかしそれも束の間、財前の目はみるみる怒りに満ち、顔全体が赤くなる。

「お、お、お前……っ!」

(謝らなきゃ。失礼があってはいけないと言われていたのに、手を上げてしまった私が悪いんだから……)

 ハナは財前の膝の上から慌てて飛び降りると、財前から充分に距離を取った畳の上に額をつけて土下座した。

「申し訳ありません!」 

 ハナはどうにか財前に気を抑えてもらおうと、頭を下げたまま耐えた。しかし財前はハナを罵倒しながら立ち上がる。

「何てことをしてくれるんだっ!」

 それから、頭を下げているハナの脳天をつま先で蹴飛ばした。

「きゃあっ!」

 ハナが仰け反り倒れると、財前はその前髪を掴んでハナを起き上がらせた。

「お前のせいで、俺の頬が……っ!」

 財前はハナを睨み、掴んでいた髪をポイッと離す。ハナはもう一度畳に倒れ込んだ。

「もうこの店には来ないよっ!」

 財前はふすまをざっと開けると、ドカドカと廊下に踏み出した。

「財前様、お待ち下さい! 一体何が……っ?!」

 廊下から、叫ぶような女将の声が聞こえる。

(私、とんでもないことをしてしまったんだわ!)

 ハナは青ざめながらも、慌てて立ち上がった。
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