上 下
65 / 70
終章 エンド・オブ・ザ・デッド ~死者の結末~

その4

しおりを挟む
 なんとなく、こうなるのではないかと予想はしていた。頭の隅で事前にこのシーンの訪れを想像していた。心のどこかに『もしかしたら』という思いがたしかに存在していた。


 なぜならば──キザムひとりでは、ゾンビカタストロフィーは絶対に発生しないと分かっていたから──。


 ゾンビカタストロフィーの発生には、『もうひとり』の存在が必要不可欠なのだ。二人が揃って初めてゾンビカタストロフィーが発生する状況が出来上がるのである。

 だから、今日という大事な日に、その『もうひとり』とどこかのタイミングで遭遇するのではないかと、キザムは薄々感じていた。そして、現実はキザムの予測した通りの形となって、目の前に現れた。

「あれ、土岐野くん。昼休みにこんなところで会うなんて、なんだか奇遇だね──」

 キザムのことを下の名前ではなく、苗字で呼んできた。それも当然だった。この世界では、この生徒とはまだ名前で呼び合うほど仲を深めていないのだ。


 今宮流玲──ゾンビカタストロフィーの発生因子を体内に持つもうひとりの人間である。


 キザムはとりあえず薬を飲むのは後回しにして、その場で立ち上がると流玲と対峙した。

 この世界でこうして流玲と面と向かって対するのは、これが初めてのことだった。入学してから何日間かは軽い会話程度はしたが、流玲が前の世界の記憶を失っていていると分かってからは、一切のコミュニケーションを断ってきた。世界をゾンビカタストロフィーの脅威から救うためには、そうするしかなかったのだ。

 これで舞台上に役者が揃った。しかし、キザムはこれからどんな話が展開されようとしているのか知らない。無論、台本は一切用意されていない。ここから先は出たとこ勝負で決めるしかないのだ。キザムの一挙手一投足によって、状況が悪いほうにも良い方にも転がっていくことになる。


 そうか……。ゾンビカタストロフィーの脅威は、まだ完全には払拭出来ていないということなんだ……。今日という日を問題なく無事に過ごす為にも、細心の注意を払って対応しないと──。


 極度の緊張のせいか、身体に一度身震いが走る。とにかく、流玲とは物理的な接触を避ける必要があった。しかし、返事もせずに下手に逃げ出したら、きっと逆に流玲の関心を引き寄せてしまう可能性が高い。最悪な場合、キザムのことを走って追いかけてくるかもしれない。ここは手短に話を済ませて、いち早く教室に戻るのが最も良い選択に思えた。

「あっ、あの……なが──いや、今宮さん、だよね?」

 思わず前の世界のクセで名前で呼びそうになってしまい、慌てて苗字で言い直した。

「わたしの名前、知っていてくれたんだ」

 ほっとしたのか、流玲の顔がほころぶ。キザムのよく知る流玲の笑顔だったが、今はその笑顔を見ても喜ぶ余裕はない。

「う、う、うん……ほら、クラス委員長だからさ……」

 会話を上手く合わせながらも、話の終わらせ方をさっそく模索し始める。

「土岐野くん、いつもこんなところでひとりで食べているの?」

「う、うん、いや……今日はなんとなく、屋上で食べたい気分で……。それに、ここなら静かだしさ……」

 流玲の雰囲気に飲まれないように、わざと視線を外して話を続けるキザム。

「へえー、そうなんだ。それじゃ、わたしも今度、屋上でご飯を食べてみようかな。それとも、土岐野くんの邪魔になっちゃうかな?」

 流玲の言葉からは、キザムに対する優しさが溢れていた。だからこそ、キザムは今すぐにでもこの場から立ち去りたかった。これ以上流玲の声を聞いていると、この場を離れるのがもっと辛くなると分かっていたから──。

「わたしも静かにお弁当を食べるから、それならいいでしょ? それとも、やっぱりダメかな──」

 可愛らしく小首を傾げてキザムの返事を期待する流玲。

「そ、そ、そうだ……。ぼく、『薬』を飲まないといけないんだった!」

 流玲への後ろ髪引かれる思いを断ち切るようにして声を張り上げると、流玲の返事も聞かずに屋上のドアに向かって走り出そうとした。もうこうするしかなかった。これ以上流玲と話を続けていたら、一度は断ち切ったはずの流玲への思いが蘇ってきてしまいそうだったのだ。

「話の途中で……ご、ご、ごめんね……」

 キザムは足を一歩前へと踏み出しかけたのだが、それ以上先に進むことはなかった。流玲の次の声を聞いて、思わず足が空中で止まってしまったのである。

「ねえ、土岐野くん……その薬って……? もしかして……もしかして……」

 流玲の声に若干の変化が見られた。

「えっ? 今宮さん……急に、ど、ど、どうしたの?」

 屋上から逃げ出すつもりだったのが、突然の流玲の変化が心配になって、逆に質問をしていた。

「──わ、わ、分からない……分からない……。でも、土岐野くんのその『薬』の話を聞いたら……急に頭の中に光が差し込んできて……。なんだか、いろいろな光景が思い浮かんできたの……。ねえ、これってどういうことなの? わたしの頭が混乱しているだけなの? それとも、それとも……」

 何かに戸惑うような素振りを見せる流玲。キザムに向けていたはずの視線が左右に大きく揺らぎ始める。

 キザムは瞬間的に流玲の異変の中身を察した。流玲は今、前の世界のことを思い出しそうになっているのだ。自分の知らない自分の記憶を思い出して、それで戸惑っているのだ。

 でも、なぜこのタイミングで記憶が蘇ってきたのか?


 そうか、この『薬』の存在だ!


 キザムは右手に持った飲み薬にはっと目を向けた。前の世界で流玲はいつもキザムの体調のことを心配してくれていた。昼食後に飲んでいる薬については特にそうだった。キザムにいつもちゃんと薬を飲んだか確認してきてくれた。流玲にとってこの『薬』は、前の世界を感じさせる重要なキーアイテムだったのに違いない。

 前の世界の記憶をすべて無くしていたはずの流玲だったが、今日と言う大事な日にキザムの薬を見て、記憶がフラッシュバックしてきたのだろう。

「なんだろう……この感覚……? すごく懐かしいような……でも、すごく切ないような……。だけど、わたしにはなぜか分かるの……。この感覚はとても大切な、とても大事な感覚なんだと……。絶対に忘れてはいけない感覚なんだって……」

 ここではない別の空間を彷徨っていたかに見えた流玲の視線が、不意にある一点でピタリと止まった。その視線の先にいたのは──どうしたらよいか分からずに困惑した顔を浮かべたまま立ちつくすキザムだった。

「──土岐……ううん、違う。キザムくん……だよね? わたしのよく知っているキザムくん、なんだよね?」

 流玲がキザムのことを名前で呼んできた。その表情は一変している。すべてを悟った顔をしていた。

「──流玲さん……」

 キザムも思わず流玲の名前をつぶやいていた。

「──キザムくん……」

 流玲は前の世界の記憶をはっきりと取り戻したのだ。いや、それともこの場合、取り戻してしまったというべきであろうか。
しおりを挟む

処理中です...