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第二部 ジェノサイド

第51話 忌まわしき過去を振り返る 春元の場合

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 ――――――――――――――――

 残り時間――51分  

 残りデストラップ――2個

 残り生存者――5名     
  
 死亡者――11名   

 重体によるゲーム参加不能者――2名

 状態不明者──1名

 ――――――――――――――――

 
 春元由梨奈はるもとゆりな──それが春元の妹の名前である。

 外見的にたいして恵まれなかった兄と違って、妹は昔から近所で可愛いと評判がたつほどの美少女だった。そんな妹がアイドルになりたいという夢を持つようになったのも、今思えば、ごく自然な流れであったかもしれない。

 妹は中学に進学した頃から、両親にアイドルになりたいという思いを話すようになった。しかし、芸能界入りに強く反対の立場だった春元の両親は、妹の話を聞く耳をもたなかった。

 高校に入ると、妹のアイドル志向はより強くなり、両親に内緒でアイドルオーディションに勝手に応募するようになった。オーディションの中には、最終審査まで通ったものもあったが、保護者の許可がないという理由から、泣く泣く辞退することも何回かあった。そのときの人生に絶望したかのごとく落ち込んだ妹の姿を、今でもはっきりと覚えている。

 妹は高校を卒業してからは、専門学校に通い始めた。両親もその頃にはもう妹はアイドルの夢を捨てたと思い込んでいた。年齢的にもアイドルには厳しいと、春元もそう思っていた。

 しかし、妹はまだアイドルになる夢を捨ててはいなかった。家族に内緒で地下アイドルとして活動していたのだ。

 たまたま、ネットで地下アイドルとしての妹の動画を発見した春元は、すぐに妹に連絡をとった。その頃、妹は実家を出て、一人暮らしをしていた。あるいは、両親に隠れて地下アイドルとして活動する為に、敢えて実家を出たのかもしれない。

 春元は妹に直接会いに行った。妹に地下アイドルのことを問い質すと、妹は隠すことなくその場で認めた。妹のそこまでしてもアイドルになりたいという気持ちを理解出来ないわけではなかったが、両親の手前もあり、はいそうですかと簡単には賛成することは出来なかった。

 今でこそ春元はどこからどう見てもアイドルオタクそのものだが、当時の春元はそれなりの会社に勤める、一般的な会社員だった。正直なところ、アイドルになるという夢など早く諦めて、妹には自分と同じ真っ当な会社員になって欲しかったのだ。

 そんな春元に対して、妹はある提案をしてきた。

「一度だけライブを見に来て」

 妹は春元にそう言ってきた。

「わたしのライブを見て、それでもお兄ちゃんが反対するならば、そのときはもうアイドルを諦めるから」

 そこまでの覚悟があるのならばと思い、春元は妹のライブを見に行くことだけは了解した。

 そして、春元は初めて地下アイドルとしての妹の姿を見に、小さなライブ会場に出向いた。

 会社員の象徴であるダークカラーのスーツ姿で行った春元が見たものは、会場を埋める自分とは異質のアイドルオタクの姿だった。そろいの半被と鉢巻きを巻いた姿は、異様としか思えなかった。

 しかし──。

 妹が舞台に出てきた途端、小さなライブ会場に割れんばかりの大きな歓声が巻き起こった。舞台で歌い踊る妹の姿は、眩しいくらいにキラキラと輝いていた。初めて見る妹の姿だった。そんな妹を見る会場のファンたちもまたキラキラとした瞳をしており、全力で掛け声をあげて応援をしていた。

 これがアイドルなんだ。

 そのとき、初めてそう思った。ライブ会場を包んだ凄まじい熱気を直に肌で感じて、アイドルという存在が生み出す無限のパワーを知った。

 アイドルになりたいという妹の意思を反対する気持ちは、すっかり消え失せていた。いや、むしろ逆に、妹のことをちゃんと応援したいという気持ちが、心の中に生まれていた。

 気付いたときには、我知らず、会場を埋める他の多くのファンたちと同様に、舞台に立つ妹に向かって大きな声援を送っている自分がいた。

 それまでごくごく普通の当たり前の生き方しかしてこなかった春元の価値観が、百八十度ぐるっと変わった瞬間である。

 それからというもの、春元は地下アイドルとして活動する妹のことを応援するようになった。むろん、両親には妹が地下アイドルをしているということは内緒にしておいた。いつか地下アイドルを卒業して、テレビに出られるくらい有名になったら、そのとき両親に打ち明けようと妹と決めた。

 妹は地下アイドルの活動に励み、その活動を兄の春元が支えるという生活が始まった。春元はライブ会場の設営準備や、グッズ販売の手伝いなど、出来ることはなんでもした。有名アイドルになれるように二人三脚で邁進した。

 そんなある日、大きなチャンスが訪れた。

 妹のライブを見たという、とある芸能事務所の関係者から妹の元に連絡が入ったのだ。芸能事務所からスカウトされたのである。

 妹は凄く喜んで、すぐに春元に知らせてきた。春元もうれしかった。ただひとつだけ気になる点があった。妹に連絡をくれた事務所というのが、名前も聞いたことのない小さな事務所だったのだ。

「まだまだ小さい事務所で、これからたくさんのアイドルを育てていくみたいだよ」

 妹は楽しそうに教えてくれたが、春元は一抹の不安を感じなくもなかった。

 一週間後、妹と事務所との話し合いがセッティングされた。不安を感じていた春元はその話し合いの席上に同席したかったが、どうしても外せない会社の用事があったので行けなかった。

 それが失敗だった。会社の用事は後回しにしてでも、妹に付き添いとして付いていくべきだった。たったひとりの大切な妹のそばを離れるべきではなかった。

 事務所との話し合いにひとりで臨んだ妹は、そこである事件に巻き込まれてしまったのだ。

 妹が巻き込まれたのは、最近ニュースで頻繁に取り上げられて、世間でも大きな社会問題となっている事件だった。


『AV出演強要事件』。


 妹はそれに巻き込まれてしまったのである。


 ――――――――――――――――


 春元の妹の由梨奈がスカウトされた事務所と言うのは、アイドル事務所と名乗っていたが、その実態はAV製作現場へ素人の女性を派遣することを主な仕事としている事務所だった。

 街中や繁華街でモデルやアイドルを夢見る女性たちを言葉巧みにスカウトして、その後は大金をチラつかせながら上手い具合にAVへの出演を言い包めたり、有名になるためにはまずはAVに出演して顔を売らなくてはならないとウソを言って説得したり、あるいはそれでもAV出演を頑なに拒む者に対しては、出鱈目の賠償金の話を持ち出してきて、賠償金が払えなければAVに出て支払えと言って迫ったり、さらには暴力的な脅迫まがいの言葉を使って、嫌がる女性を無理やりAVへ出演させたりといった、悪質極まりない事務所だった。

 事務所の応接室に通された由梨奈のときもまた、同じような感じで話は進んでいった。

 由梨奈が話をしたのは事務所の代表という男と、アイドル部門を統括しているという男の2人だった。

 男たちはものの数分でアイドルに関する話を簡単に済ませると、すぐにAV出演の話を持ち出してきた。1本AVに出るだけで何百万という莫大な出演料が貰えるといって、由梨奈にAV出演の話をしてきた。由梨奈がそれを断ると、今度はアイドルとして有名になるためには先にAVに出るのが早道だからといって説得してきた。

 もちろん、由梨奈はそれも断った。由梨奈がなりたかったのはアイドルであり、決してAV女優ではなかったからである。

 すると、今まで猫なで声でなんとか由梨奈を説得しようとしていた男たちの態度が激変した。ニヤニヤとした作り笑いが顔からサッと消えた。ソファの背中に体を預けて、横柄に踏ん反りかえった姿勢をとると、スーツのポケットからタバコを取り出して吸い出した。そして、あからさまに面倒くさそうに空中に煙を吐き出した。

「こうして長時間、お前と無駄な話をしたせいで、今日のAVの撮影がもう出来なくなった。借りていたスタジオも無駄になった。こうなったら、お前に賠償金を支払ってもらうしかないな」

 突然、何の脈絡もなく、由梨奈に賠償金の請求をしてきた。

「スタジオ代金と撮影用の機材の代金、それにスタッフの人件費を加えて、しめて五百七十三万円。今すぐきっちり支払ってもらうからな!」

 男たちは本性を露わにして、由梨奈を恫喝してきた。もはやその姿はヤクザと何ら変わりなかった。

 むろん、冷静に考えれば、そんな大金を支払う必要はないし、そもそも本当に撮影の為にスタジオを借りていたのかどうかだって怪しいくらいだ。しかし、怒声を張り上げる2人の男に睨みつけられている状況で、二十歳そこそこの由梨奈に冷静になれという方が無理というものである。

 由梨奈は怯えてきってしまって、ソファに座ったままブルブルと震えることしか出来なかった。

 そんな由梨奈に対して、男たちはさらなる非道な仕打ちをしてきた。

「金が払えないのなら、今すぐAVに出てもらって、その体で払ってもらうしかないな」

 事務所代表の言葉が合図だったのか、突然、話し合いの場に新たに数人の男たちが乱入してきた。

 しかも男たちは全員、服を身に付けていなかった。簡単に言うと、全裸だったのである。その中のひとりの男だけが、なぜか手にビデオカメラを持っていた。

 男たちは事務所の応接室を使って、AVの撮影を始める気なのだ。始めからそのつもりで、応接室の隣で待機していたのだ。

「――――!!!」

 初めて直に目にする大人の男の裸姿。しかも、相手はひとりではない。複数人いる。由梨奈は完全にパニック状態に陥ってしまった。

「それじゃ、今から撮影を始めまーす」

 カメラを持った男が、その場の雰囲気にそぐわない能天気な声をあげた。

 途端に、全裸の男たちが由梨奈の元に迫ってきた。

 由梨奈は堪らずに悲鳴をあげた。いや、もはやその声は、泣き叫び声といった方が近かったかもしれない。

 だが、全裸の男たちは一切躊躇することなかった。女性が嫌がる様を見て、逆に興奮が増しているようにすら見えた。男たちはこの手の撮影に慣れていたのだ。それはとどのつまり、いつも強引な手法を使って、この手のAVの撮影をしているということの表れでもあった。

 由梨奈はなす術もなく、たちまち力尽くでソファの上に押さえ込まれてしまった。そのまま、無理やり純潔を奪われそうになった。

 しかし、人生最悪の状況下の中でも、まだ神様は由梨奈のことを見放さなかった。

「撮影するなら、先にちゃんとした準備をさせてください! トイレに行かせてください! 準備が済んだら、AVの撮影でもなんでもしますから!」

 由梨奈が咄嗟に口に出した言葉。

 果たして、由梨奈の言葉をどう聞いたのか、全裸の男たちは由梨奈がトイレに行くことを許してくれた。あるいは由梨奈の態度を見て、AVに出演する覚悟が出来たと勘違いしたのかもしれない。

 もちろん、由梨奈にはAVに出る気など、これっぽっちもなかった。由梨奈はトイレに入ると、すぐに春元に助けを求める連絡をいれた。次に、掃除用のデッキブラシを使って、女子トイレの入り口のドアが開かないように固定させた。デッキブラシをつっかえ棒替わりにしたのだ。そうして、女子トイレ内に閉じこもったのである。

 すぐに異変に気が付いた全裸の男たちが、廊下を駆けてきて女子トイレにやってきた。ドアノブをガチャガチャと荒っぽく回したり、ドア自体を拳でガンガンと叩いてきたりした。廊下から卑猥な言葉を使って怒鳴ってくる男もいた。

 由梨奈は男たちから少しでも離れたくて、一番奥の個室に逃げ込んだ。そこで震える体を両手で強く抱き締めながら、ただただ、助けが来てくれることだけを強く祈った。

 女子トイレの薄いドアを挟んで、性欲と怒りに狂った男たちと、極限の恐怖に怯える少女がそこにいた。


 ――――――――――――――――


 由梨奈からの助けを求める連絡が入ってきたのは、春元が会社の商談をしている真っ最中のときであった。商談内容は春元の将来の出世を左右するほどの、大きな案件を取り扱っていた。

 最初はマナーモードになっているスマホの振動を無視していたが、何度も繰り返し振動をするスマホが気になって、会社に連絡する風を装ってスマホを確認した。

 由梨奈からのメールと着信の履歴が何十件も残っていた。

 すぐに何かが起きたのだと察した。嫌な予感がした。虫の知らせである。不意に意味もなく体にぶるっと震えが走った。

 同席している上司のいぶかしがる視線も、商談相手のこちらを窺う視線も気にする余裕すらなかった。

 春元は一番新しく届いたメールを開いた。メールの本文にさっと目を通す。

 瞬間で、決断を下した。

 目の前の大切な商談を放棄して、すぐに妹の助けに向かったのである。背後から必死の口調で呼び止めてくる上司の叫び声など、まったく耳に入ってこなかった。

 春元が事務所に着いたとき、妹の由梨奈は女子トイレから力尽くで引きずり出されて、複数の全裸の男たちの手によって廊下の上に無理やり押さえつけられている状態だった。由梨奈が身につけていた服は、びりびりに引きちぎられていた。スカートは完全に毟り取られており、下着が丸見えであった。上半身には辛うじて服を纏っていたが、それはもはや服とは言えずに、単なる布切れと化しており、ブラジャーが露わになって、胸の形が丸分かりの状態になっていた。

 その日、由梨奈が着ていた洋服は、大事な事務所との話し合いの為にと思って、春元がプレゼントした若者に人気のあるファッションブランドのものだった。

 春元の眼前で展開されていた光景は、まさに今、妹の人格を一切無視して『そういう行為』が強制的に始まろうとする瞬間だったのだ。

 春元の頭の中で『何か』がぷつんと切れた。

 冷静さが一瞬で消え失せた。精神の箍が一瞬で外れた。心中に沸き起こった情動が一瞬で解き放たれた。

「うごわああがごわあああああああああーーーーーーっ!」

 自分でも何と叫んでいるのか分からないまま、全裸の男たちの中に飛び込んでいった。

 ケンカなど一度もしたことがなかった。格闘技を習ったこともなかった。ただ左右の手を無我夢中で振り続けた。拳に男たちの体や顔に当たる感触がはしる。果たして、自分のパンチが効いているのかどうかすら分からなかった。

 応戦する男たちによって、両手を押さえ付けられると、今度は両足を出鱈目に動かし続けた。何人かの男たちの口から呻き声が漏れたが、それでも春元は足を動かし続けた。

 春元の顔にも何度となく男たちの拳が叩き込まれた。腹も思い切り強く蹴り付けられた。体を支える両足の力が抜けていき、廊下に跪きそうになったが、渾身の力で踏み止まった。自分が押さえつけられてしまったら、妹を助けることが出来ないと思ったからである。

 男たちは手を休めることなく、容赦なく春元に暴行を加えてきた。春元も体力と気力の続く限り、体を滅茶苦茶に動かし続けて徹底抗戦した。

 遠くの方から数種類のサイレンの音が聞こえてきた。春元は事務所に来る前に、警察と消防に連絡を入れておいたのである。警察には事件が起きていると連絡して、消防には火事と重傷の怪我人が出ているとウソの連絡をしておいた。そうしておけば、パトカーか消防車か、あるいは救急車が、いち早く事務所に駆けつけてくれると考えたからである。

 その作戦は見事に成功して、事務所内に制服姿の警察官と、消防服姿の消防隊員と、救急隊員がぞくぞくとなだれ込んできた。


 よ、よ、良かった……これで……た、た、助かった……。


 顔面を真っ赤に腫らして、鼻と口からはダラダラと大量の出血をしながら、今にも崩れ落ちそうになっていた春元は、ようやく安堵の思いでほっとした。

 途端に、体ごと廊下の上へと倒れこんだ。体力も気力も切れてしまったのである。

 警察官と全裸の男たちの罵り合う声が聞こえてきた。救急隊員が体調の具合を聞いてくる声が聞こえてきた。

 そして──。

「お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄……ちゃん……お……兄……ちゃん……」

 耳元のすぐそばで妹が必死に呼びかけてくる声が聞こえた。


 由梨奈……大丈夫……だった……んだ……。良……かった……。ほ、ほ、本当に……よ、よ、良かった……。


 そこで春元の意識は完全に途絶えた。


 ――――――――――――――――


 次に春元が目を覚ましたとき、そこは清潔感あふれる真っ白いベッドの上だった。視界に入ってくるものは真っ白い壁と真っ白いカーテン。なんだか別世界に迷い込んだ気がした。

 しかし体中に残る鈍痛によって、すぐに意識は現実世界へと引き戻された。


 そうか……あの後、オレは、この病院に担ぎ込まれたのか……。


 自分が現在置かれている状況を一瞬で理解した。


 でも、由梨奈はどうしたんだ……? オレと一緒にこの病院に運ばれてきたのか……?


 自分の怪我のことなんかよりも、妹の由梨奈の具合の方が気懸かりだった。


 最悪の事態だけは避けられたと思うけど……。


 妹が獣と化した男たちに蹂躙される前に、ギリギリで防ぐことは出来たはずだった。

 しばらくすると静かに病室のドアがノックされて、看護師がひとり入ってきた。意識を取り戻した春元の姿を見て驚いたようだったが、そこはプロである。すぐに担当医に連絡を入れてくれた。

 病室にやってきた春元の担当医は、体の状態についていろいろと尋ねてきた。幸い、痛みはまだ残ってたが、体を動かせないというような重篤な症状は見当たらなかった。

 自分の体の状態の話をさっさと済ませると、最前から気になっていた妹のことを担当医に率直に尋ねた。

「妹は大丈夫なんですか?」

 担当医は非常に分かりやすい反応を返した。表情をさっと曇らせると、春元の視線から逃げるように顔を背けたのである。


 由梨奈の身に何かあったに違いない。


 はっきりと悟った。だからこそ、妹の身に何が起きたのか知りたかった。すぐにでもベッドから飛び起きて、妹の元に向かいたかった。

「妹はどうしているんですか?」

 春元が重ねて尋ねると、担当医も観念したのか、妹の担当医を病室に呼ぶと言ってくれた。その担当医に直接聞いてくれと言うことなのだ。


 まさか、思い余って自殺なんか……。


 脳裏に最悪の考えが過ぎった。


 いや、そんなことはない。由梨奈が死を選ぶなんて、絶対にあるわけない!


 即座に自分の考えを否定する。嫌な予感を頭から必死に追い出す。


 兄のオレが妹のことを信じてやらないと!


 数分後──春元の病室に姿を見せた妹の担当医は、なぜか外科医ではなかった。

『心療内科』

 渡された名刺の肩書きを見て、妹の身に何が起きたのか、だいたいの察しがついた。

「妹さんは肉体的な怪我はほとんどありませんでした。ただ──」

 そこで女性の担当医は一度言葉を切ると、春元の反応を窺うような仕草を見せた。

「ただ、なんですか? はっきりとおしゃってください。兄として、妹の今の状態を知りたいんです!」

 春元は担当医に迫った。例えどんな答えが返ってくるとしても、ちゃんと受け止めるつもりだった。

「分かりました。お兄さんの気持ちを聞いて、私も隠さずに話すと決めました。それでは、しっかりと私の話を聞いていてください。──妹さんは女性として、とても辛い経験をされました。薬では治せない傷を妹さんは負いました。精神──つまり、心の方に傷を負って──」

 春元が予想した通りの解答だった。その後に続いた担当医の話は、もう耳には入ってこなかった。

 妹は体の方こそ無事だったが、『心』が壊れてしまったのである――。


 ――――――――――――――――


 一ヶ月ほどの入院期間を経て、春元は無事に退院して、家に戻ることが出来た。だが、その一ヶ月の間、妹が春元の病室を訪れることはなかった。

 代わりに顔を見せたのは、警察の関係者だった。事件の概要も聞かせてくれた。悪徳事務所の関係者たちと、AV製作のスタッフたちも、芋づる式で逮捕したと教えてくれた。事件はテレビの全国ニュースでも大きく取り上げられるほどだった。

 しかし、春元は事件に対してもう関心を失っていた。妹のことの方が心配だったのである。

 妹のAV出演強要に関しては、警察の捜査の方を静かに見守ることにした。春元にはこれからやらなければいけないことがあったのだ。実家に戻った妹をケアすることである。

 妹はひとり暮らしの部屋を引き払って、実家に戻っていた。両親が強制的に連れ帰ったのである。そもそも今の妹の状態では、ひとり暮らしはおろか、ひとりで外へ出ることすら極度に怯えて出来ないくらいの精神状態だったのだ。

 春元は会社を辞めた。いや、辞めさせられたという方が正しかった。重要な商談を放り投げたのだから、当然だった。

 春元も実家に戻った。そして毎日、妹の部屋の前で過ごした。しかし、妹が部屋から出てくることはなかった。

 妹は物理的に部屋に引きこもってしまっただけではなく、精神的にも自分の殻に閉じこもってしまったのである。

 春元が出来ることは、部屋のドア越しに声を掛けることぐらいしかなかった。

 そんな日々がしばらくの間続いた。

 再び、警察関係者が自宅に顔を見せた。事件の裁判が始まるので、妹に証言をして欲しいと頼みに来たのである。

 むろん、しっかりとした司法の場で、事件を解明したいという気持ちがないわけではなかった。ただし、それには被害者である、妹の証言が必要だった。しかし、いざ裁判となれば、妹は証言をする為に出廷しなくてはならない。それは同時に、あの事件について、改めて妹に思い出させることになる。

 セカンドレイプ──。

 ここ最近、女性が巻き込まれた性的な事件で聞かれるようになった言葉である。

 結局、春元は妹の現状を伝えて、警察には丁重に断りをいれた。

 それからさらにしばらくして、また警察関係者を名乗る人間が、春元の家にやってきた。その警察関係者は妹の体調をしっかりと理解したうえで、裁判で争うよりは、内密に示談という話し合いで決着をつけたらどうかと提案をしてきた。

 公開の裁判と違って、示談ならば妹が負担を負うことはない上に、妹の治療費を含めた慰謝料を請求することが出来ると教えてくれた。春元にとっては良い条件に思えた。この先、妹の治療がどれくらいの期間、そしてどれくらいの金額が掛かるのか分からない。お金だけですべてが解決するわけではないが、治療費と慰謝料を貰うのは当然の権利だと思えた。

 だから、春元はその警察関係者の話に乗ることにした。

 すぐに示談の話し合いが始まった。春元は示談の仲介役として、その警察関係者を指名した。信頼出来ると思ったからである。

 一週間もしないで、示談の話し合いは無事に終わった。相手方の示談の条件は訴えの取り下げであった。春元はその条件を飲むことにした。その代わりとして、相手方は数百万円の示談金を支払うことを約束した。それほどの大金を貰ったとしても、妹が心に受けた傷が癒えないことぐらいは分かっていたが、これで治療費の心配がなくなったことも事実だった。


 このお金を使って、由梨奈が万全に治療を受けられる体制を作ろう。


 春元はそう考えていた。

 しかし突然、相手方が行方不明になってしまったのである。示談金の支払いも一切ないままに――。

 スオウの話を聞いた今となってみれば、おおよその内幕は想像に難くない。春元に協力してくれていた警察関係者と悪徳事務所の人間は、裏で通じ合っていたに違いない。そして、その警察関係者は示談金の一部を謝礼として自分の懐に入れる代わりに、悪徳事務所側に都合が良くなるように色々と便宜を図っていたのだろう。

 その警察関係者こそ――阿久野だった。

 それ以来、春元は阿久野とは会っていない――。


 ――――――――――――――――


 それからというもの春元は毎日、妹の為に自分は何が出来るのかと考え、迷い、悩み続けた。

 そんなとき妹の部屋から微かな、本当に囁き声にしかならないような、小さな小さな歌声が聞こえてきた。それは妹が大好きなアイドルの歌だった。


 由梨奈はまだアイドルになりたいという夢を捨ててはいないんだ。


 そう確信した。同時に──。


 夢を持っているということは、由梨奈は自分の未来を閉ざしていないということだ。


 そう考えた。だからこそ──。


 兄であるオレがここで諦めちゃ、絶対にダメだ! オレが由梨奈の夢を必ず叶えさせてみせる!


 そう心に誓った。

 そして、そのチャンスは意外な形でやってきた。

 ある日のこと、用事で外出していた春元に、男が声を掛けてきたのだ。てっきり妹の件を嗅ぎ付けてきたマスコミ関係者かと疑ったが違った。

「宜しかったら、アイドルを育成する為の運営資金を全額援助します──。ただし、それにはひとつだけ条件がございます。あなた様に死神が主催するゲームに参加していただきます。そのゲームに勝った暁には、あなた様が望む金額の賞金をご用意いたします」

 そんな非現実的な提案をしてきた男こそ──紫人だった。

 もちろん、最初は紫人のことを疑っていた。一度、悪徳事務所に騙されたので、慎重にもなっていた。

 しかし、紫人の話を聞いていくうちに、今の自分が妹の為に出来ることはこれしかないと思った。

「――分かった。そのゲームとやらにオレも出させてもらうことにする」


 こうして春元は今夜、この狂ったゲームに参加することになった。


 たったひとりの大切な妹の心の傷を癒す為に!


 ――――――――――――――――


 由梨奈、待っててくれよな。もう少しでこのゲームも終わるからな。


 春元は電気バスのヘッドライトで照らし出された園内の道を見ながら、心の中で妹のことを思い出していた。

 そのとき、不意にヘッドライトの光芒の中に、人影が浮かび上がった。髪の長さから見て、女性だろうと思った。


 今、ゲーム内で残っている女性といえば……。


 頭の中ですぐに考えを巡らせる。今現在、生き残っている女性参加者はひとりを除いて、皆このバスに乗っている。ということは、必然的に『そのひとり』ということになる。


 あの喪服姿の美女か……。


 最初にレストランホールで会った櫻子の顔を思い出した。異様な雰囲気を醸し出していた櫻子。敵ではないだろうが、味方として信用出来るかどうかは甚だ怪しい。

 でも、春元はここで櫻子のことを無視することは出来なかった。一瞬前まで、妹のことを思い出していたせいもある。ここで櫻子のことを無視して見捨てるということは、妹を見捨てることと同じだと思ったのだ。

「――みんな、新しい乗客を拾うぞ!」

 春元は振り向くことはせず、後ろの座席に座っているスオウたちに声を掛けた。
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