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第一部 インサイド
第4話 逃げる女
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ヤクザに追われている男が危険なゲームへの参加を決めた時刻から数時間後――。
女は満足げな表情と足取りで、市内のホテルの正面ドアからアプローチへと出てきた。右手には女性には大きいと思われる赤いボストンバック。中身がパンパンに詰まっているのがひと目で分かるくらい、バックは大きく膨らんでいる。このバックの中には、女の将来そのものが入っていると言っても過言ではなかった。
バックの中身──それは二千五百万の現金であった。
女は普段から資産家が集まる社交場に頻繁に出入りしていた。その目的はただひとつ──金をむしり取るためである。
世界は不平等であるというのが女の持論であった。だから、その不平等を是正する為に、自分が資産家の男たちをダマして金を奪うのは、たいして悪いことと思っていなかった。
女が初めて男をダマしたのは、高校生のときである。ネットで知り合った下心アリアリの中年男とラブホテルに入った。男はすぐに抱きついてきたが、女はSMプレイを匂わせて、男の右手とベッドを手錠で繋いだ。そして、罵詈雑言を吐き続ける男の財布から、慰謝料と称して大量の札束を奪った。
それで終わりである。こんな簡単に大金を得られる方法が世の中にあるんだと、そのとき知った。いや、知ってしまったというべきであるか。
それから今日まで、女はずっとこの『仕事』をやり続けている。生まれ持った圧倒的な美貌の力のお陰か、それとも女の巧みな話術のお陰か、何人もの男たちをいとも簡単にダマし続けてきた。
もちろん、危険な目にあったことも何度かあった。しかし、そういうときこそ持ち前の話術が役に立った。自分はヤクザの女であると言って脅したり、あるいは警察関係者に知り合いがいると匂わせたりすると、男たちは顔面蒼白になってすごすごと引き下がっていった。
今まではこの仕事は自分にとって天職だと思っているくらいである。
今日もひとつ仕事をやってきた。今日の相手は、この辺いったいに土地を持つ地主の老人だった。
老人とはとある社交場で出会った。女はネット上で宝石を販売しているやり手経営者だとウソの自己紹介をした。その場でスマホを使ってネット上の会社のホームページも見せた。もちろん、それは女の会社の物ではなかった。適当にネット上で見つけたホームページである。
しかし、IT系の情報に弱いその老人はすぐに信じ込んだ。販売網の拡大を狙って、資本を増加する予定だと話を振ると、老人はその場で出資を約束してくれた。
むろん、その出資話には裏があった。老人は出資の見返りとして、若い女の肉体を求めてきたのである。女は少しだけ迷う素振りを演じてから、老人の話にのった。いや、のった振りをした。老人はしわだらけの顔に、好色そうな笑みをいやらしく浮かべた。
そして今日、ホテルの部屋で会うことになった。
直前になって、老人の方から連絡が来た。なんでもオレオレ詐欺の捜査に協力することになったので、待ち合わせの時間に遅れるとのことであった。
女は一瞬、刑事の姿を脳裏に想像して、イヤな予感にとらわれたが、今日の仕事は大金が掛かっていることを思い出した。もしも老人が女の正体を知っていたら、あえてこんな電話をしてくる理由がないと考えて、結局、素直に老人を待つことにした。
老人は一時間遅れでホテルに姿を見せた。女を見るなり、例の好色そうな笑みを浮かべた。きっと老人は今もその笑みを浮かべながら、ホテルのベッドですやすやとひとりきりで眠っていることだろう。
女は以前ダマしたことのある開業医から貰った睡眠剤を老人の飲み物に混ぜて、老人が眠りに落ちるのをしっかりと見届けたあと、優雅にひとりでホテルの部屋から出てきたのである。もちろん、その老人が持参してきた二千五百万の現金が詰まったボストンバックを持って――。
さあ、これで仕事も終わったことだし、これからどうしよう? 今回は大金だったから、しばらくの間、姿を隠した方がいいかもしれないわね。とりあえず、海外旅行にでも行こうかな? このお金があれば、五つ星ホテルに何泊でも泊まれるし。
女が明るい未来予想をしながらホテルのアプローチを歩いていると、急ブレーキの音をあげながら目の前に車が止まった。
目立たないシルバーの国産セダン。こんな地味な車に乗っている人間といったら──。
女は瞬間的に察知した。この車は警察車両であると。
女が走り出そうとした瞬間、セダンの運転席ドアが開いて、男が姿を見せた。
「逃げてもいいが、車に勝てるのか?」
勝ち誇った男の声。
「──逃げる? わたしが? どうして?」
車と距離をとりながら女は訊き返した。
「おいおい、この期に及んで、まさかしらばっくれるつもりなのか?」
「…………」
女は男の言葉を聞いて、自分の正体に勘付いていると分かった。だからといって、ここで何もせずにむざむざと捕まるつもりもなかったが。
「おまえが色仕掛けでダマしたジジイはオレオレ詐欺の電話を受けていてな、わざわざ警察に相談してきたんだよ。本来ならオレオレ詐欺の犯人を捕まえる手筈をして終わりだったが、ジジイがおまえの会社に対する出資話をいやらしく話してくれてな。すぐにそれが詐欺話だと分かったぜ」
「へえー、そうなの。でも、あたしが詐欺を働いたっていう証拠でもあるの?」
女は答えながらも、猛スピードで頭を回転させる。相手は本物の刑事だ。色仕掛けも脅しも効く相手ではない。何か緊急に策を講じる必要があった。
「証拠も何も、犯罪を犯していない人間は、そんな言い方しねえんだよ。証拠があるなんて聞いてくること自体、自分が犯人だと言ってるようなもんなんだよ」
「…………」
女は返事に窮してしまった。まさに男の言う通りだったからである。
そのとき、女の視界の中に大型の観光バスが入ってきた。ホテルの宿泊客を送迎してきたのだろう。
「──ねえ、わたしと一緒に逃げない?」
時間稼ぎに言ってみた。
「あいにくとおまえは俺のタイプじゃねえよ」
「じゃあ、このお金を全部あなたにあげるから、ここは見逃してくれない? こんなにあるんだし」
女はバックを大きく開けて、中に詰まった福沢諭吉を男に見せ付けた。
「金の心配ならいらないぜ。その金は俺が貰って、ジジイには女に逃げられたと言っておけばいいだけだからな」
「えっ? それって、どういう意味よ……?」
自分は何かとんでもない勘違いをしているのではないかと、女の胸中に不安がせりあがってきた。
「ちぇっ。ちょっと口をすべらせちまったみたいだな。おまえには関係のない話だ。――そんなことよりも、ほら、そのバックをこっちによこしな。いつまでも時間稼ぎに付き合うつもりはないぜ」
男が車から離れて、こちらに近付いて来る。
ホテルのアプローチに止まった観光バスの車内から、楽しそうな話し声をあげながら、ぞくぞくと観光客が降りてきた。
観光バスを見つめていた女の脳裏に、唐突に名案が舞い降りてきた。
成功するかどうかは分からないけど、いちかばちかやってみるしかないわね!
女はバックの中に手を突っ込んだ。男に気付かれないように札束の帯封を指先で破る。
「そう、お金はいらないんだ。それじゃ、ここにいるみんなにあげてもいいわよね?」
女はバッグの中でバラバラになった紙幣を右手で握り締めると、その手を上に振り上げた。
「おい、おまえ、まさかその金を──」
何かに気付いたらしい男が慌てて声をあげる。
「競馬で大穴当てたから、みんなにプレゼントよ!」
女は紙幣を空中にパッとばら撒いた。
そのとき、運良く風が男に向かって吹いた。宙に浮いた紙幣が男目掛けて飛んでいく。
傍らで二人の様子を一部始終見ていた観光客は、一瞬唖然とした顔を浮かべたが、自分の目の前で飛び回っている福沢諭吉の顔を見て、途端に目を輝かせた。
「みんなにあげるって言ってんのよ! ぼけっとしてないで、好きなだけ取ったらいいじゃん!」
女の声がダメ押しになった。金の行方を気にしながらもその場から動かずにいた観光客の集団が、一斉に民族大移動を始めた。空中に舞っている紙幣に手を伸ばして、我先にと殺到していく。
「ほら、まだまだこんなにあるわよ!」
女はさらに続けざまに紙幣を空中にばら撒いた。
ホテルの入り口前はたちまち集団パニックの場と化した。男は射抜くような視線で女の顔を睨みつけてきたが、周りに群がる観光客が邪魔して、女の方に近寄れずにいる。
「クソ刑事野郎が! そこで死ぬまで観光客の相手でもしてな!」
女は捨てゼリフと空っぽになったバックを投げ捨てて、その場から走り出した。
「キサマ、待ちやがれ! クソアマが! ふざけたマネをしやがって! いいか、絶対に捕まえてやるからなっ! 覚えてろよっ!」
男は刑事らしからぬ怒声を発したが、紙幣を集めるのに必死な観光客の歓声によって、その声はかき消されてしまった。
――――――――――――――――
いちかばちかの奇策が項を奏した女は、幹線道路まで走って逃げ続けた。ここから先は自分の足で逃げるのには限界がある。早くタクシーを捕まえて、駅に向かいたかった。そこから地方に逃げて、しばらく姿を隠すしかないように思われた。
ほんの数分前に思い描いていた明るい未来予想図は、今、大幅な修正を余儀なくされた。
「──だけど、あの刑事、いったい何者なの? あの口振りからして、ただの刑事ってわけじゃなさそうだったけど……」
周囲を警戒しつつ、幹線道路沿いの歩道を早足で歩いていた女の横に、一台の黒い高級車が止まった。さきほどの刑事の登場の場面を思い出して、慌てて逃げ出そうとしたところ、車の中から声を掛けられた。
「お見受けしたところ、だいぶお急ぎのようですが、よろしかったら、わたくしの車でお送りしましょうか?」
その丁寧過ぎる物言いを聞いて、女は立ち止まった。少なくとも自分を追っている警察関係者でないことだけは分かった。女は自分の容姿に自信があったので、それで車が止まったのだと考えた。もしもそうならば、この車でどこか遠くまで逃げることも可能である。まさに千載一遇のチャンス到来だ。
これが『ピンチのあとにチャンスが来る』ってことなのかもね。
女はとびっきりの作り笑顔を浮かべると、助手席側の開いた窓から、中にいる運転手に向かって声を掛けた。
「あの、わたし、出来るだけに遠くに行きたいんだけど、それでもいいの?」
「もちろん、構いませんよ」
実直そうなサラリ-マンのような顔をした運転手がニコッと微笑んだ。わざわざ体を傾けて、手で助手席側のドアを開けてくれる。
「それじゃ、お願いするわ」
女はするりと助手席に乗り込んだ。これでとりあえず当座の危険は回避出来る。あとはいつもの話術を使って、この運転手をダマせばいいだけだ。
「それで車はどちらに向かわせればいいですか?」
「そうね、とりあえず市内から抜け出してくれる」
「分かりました」
「あなた、本当に優しいのね」
「ええ、『死神』は人間に優しく接するのがマナーとなっていますので」
「えっ?」
女はハンドルを握る男の横顔をじっと見つめた。この男は今、たしかに『死神』と言ったのである。
「どうかなさいましたか?」
男が女に顔を向けてくる。一瞬前はサラリーマンにしか見えなかった顔が、今は底知れぬ不気味な表情にしか見えない。
「あなた……何者なの……?」
心のうちに湧き出た疑問が、口をついて出ていた。
「これは失礼しました。わたくしの自己紹介がまだ済んでいませんでしたね。最初に名乗っておくべきでした。――わたくし、紫人と申します。死神の代理人を務めております」
男は再び死神と口にした。
「死神!」
「驚かれるのも当然のことだと思いますが、せっかくこの車にご乗車なさったのですから、少しだけわたくしの話にお付き合い願いませんか? もしも話がつまらなかったら、あなた様の行きたい場所まで安全にお送りするとお約束いたしますので──」
「──分かったわ。あなたの話とやらを聞かせてよ」
この男の正体はたしかに不明であったが、今は何よりも刑事から逃げるのが先決である。頭のイカレタ男の話に付き合うくらいどうってことはない。それで刑事から逃げることが出来るのならば、御の字というものだ。
そして、15分後――。
「──悪いけど、行き先を変更してくれるかしら?」
女は紫人にお願いした。
「ええ、構いませんよ。──それで、どちらに向かったらよろしいでしょうか?」
「閉園になったばかりの遊園地に向かってくれる」
「──分かりました。あなた様ならきっとそう言ってくれると思っていました」
紫人が車線を変更して、車を遊園地に向かわせる。
ふん、命を懸けたゲームね。もしかしたら、これがあたしの人生で最後の『仕事』になるかもしれないわね。
助手席に座る女は胸の内で自嘲気味につぶやいた。
女は満足げな表情と足取りで、市内のホテルの正面ドアからアプローチへと出てきた。右手には女性には大きいと思われる赤いボストンバック。中身がパンパンに詰まっているのがひと目で分かるくらい、バックは大きく膨らんでいる。このバックの中には、女の将来そのものが入っていると言っても過言ではなかった。
バックの中身──それは二千五百万の現金であった。
女は普段から資産家が集まる社交場に頻繁に出入りしていた。その目的はただひとつ──金をむしり取るためである。
世界は不平等であるというのが女の持論であった。だから、その不平等を是正する為に、自分が資産家の男たちをダマして金を奪うのは、たいして悪いことと思っていなかった。
女が初めて男をダマしたのは、高校生のときである。ネットで知り合った下心アリアリの中年男とラブホテルに入った。男はすぐに抱きついてきたが、女はSMプレイを匂わせて、男の右手とベッドを手錠で繋いだ。そして、罵詈雑言を吐き続ける男の財布から、慰謝料と称して大量の札束を奪った。
それで終わりである。こんな簡単に大金を得られる方法が世の中にあるんだと、そのとき知った。いや、知ってしまったというべきであるか。
それから今日まで、女はずっとこの『仕事』をやり続けている。生まれ持った圧倒的な美貌の力のお陰か、それとも女の巧みな話術のお陰か、何人もの男たちをいとも簡単にダマし続けてきた。
もちろん、危険な目にあったことも何度かあった。しかし、そういうときこそ持ち前の話術が役に立った。自分はヤクザの女であると言って脅したり、あるいは警察関係者に知り合いがいると匂わせたりすると、男たちは顔面蒼白になってすごすごと引き下がっていった。
今まではこの仕事は自分にとって天職だと思っているくらいである。
今日もひとつ仕事をやってきた。今日の相手は、この辺いったいに土地を持つ地主の老人だった。
老人とはとある社交場で出会った。女はネット上で宝石を販売しているやり手経営者だとウソの自己紹介をした。その場でスマホを使ってネット上の会社のホームページも見せた。もちろん、それは女の会社の物ではなかった。適当にネット上で見つけたホームページである。
しかし、IT系の情報に弱いその老人はすぐに信じ込んだ。販売網の拡大を狙って、資本を増加する予定だと話を振ると、老人はその場で出資を約束してくれた。
むろん、その出資話には裏があった。老人は出資の見返りとして、若い女の肉体を求めてきたのである。女は少しだけ迷う素振りを演じてから、老人の話にのった。いや、のった振りをした。老人はしわだらけの顔に、好色そうな笑みをいやらしく浮かべた。
そして今日、ホテルの部屋で会うことになった。
直前になって、老人の方から連絡が来た。なんでもオレオレ詐欺の捜査に協力することになったので、待ち合わせの時間に遅れるとのことであった。
女は一瞬、刑事の姿を脳裏に想像して、イヤな予感にとらわれたが、今日の仕事は大金が掛かっていることを思い出した。もしも老人が女の正体を知っていたら、あえてこんな電話をしてくる理由がないと考えて、結局、素直に老人を待つことにした。
老人は一時間遅れでホテルに姿を見せた。女を見るなり、例の好色そうな笑みを浮かべた。きっと老人は今もその笑みを浮かべながら、ホテルのベッドですやすやとひとりきりで眠っていることだろう。
女は以前ダマしたことのある開業医から貰った睡眠剤を老人の飲み物に混ぜて、老人が眠りに落ちるのをしっかりと見届けたあと、優雅にひとりでホテルの部屋から出てきたのである。もちろん、その老人が持参してきた二千五百万の現金が詰まったボストンバックを持って――。
さあ、これで仕事も終わったことだし、これからどうしよう? 今回は大金だったから、しばらくの間、姿を隠した方がいいかもしれないわね。とりあえず、海外旅行にでも行こうかな? このお金があれば、五つ星ホテルに何泊でも泊まれるし。
女が明るい未来予想をしながらホテルのアプローチを歩いていると、急ブレーキの音をあげながら目の前に車が止まった。
目立たないシルバーの国産セダン。こんな地味な車に乗っている人間といったら──。
女は瞬間的に察知した。この車は警察車両であると。
女が走り出そうとした瞬間、セダンの運転席ドアが開いて、男が姿を見せた。
「逃げてもいいが、車に勝てるのか?」
勝ち誇った男の声。
「──逃げる? わたしが? どうして?」
車と距離をとりながら女は訊き返した。
「おいおい、この期に及んで、まさかしらばっくれるつもりなのか?」
「…………」
女は男の言葉を聞いて、自分の正体に勘付いていると分かった。だからといって、ここで何もせずにむざむざと捕まるつもりもなかったが。
「おまえが色仕掛けでダマしたジジイはオレオレ詐欺の電話を受けていてな、わざわざ警察に相談してきたんだよ。本来ならオレオレ詐欺の犯人を捕まえる手筈をして終わりだったが、ジジイがおまえの会社に対する出資話をいやらしく話してくれてな。すぐにそれが詐欺話だと分かったぜ」
「へえー、そうなの。でも、あたしが詐欺を働いたっていう証拠でもあるの?」
女は答えながらも、猛スピードで頭を回転させる。相手は本物の刑事だ。色仕掛けも脅しも効く相手ではない。何か緊急に策を講じる必要があった。
「証拠も何も、犯罪を犯していない人間は、そんな言い方しねえんだよ。証拠があるなんて聞いてくること自体、自分が犯人だと言ってるようなもんなんだよ」
「…………」
女は返事に窮してしまった。まさに男の言う通りだったからである。
そのとき、女の視界の中に大型の観光バスが入ってきた。ホテルの宿泊客を送迎してきたのだろう。
「──ねえ、わたしと一緒に逃げない?」
時間稼ぎに言ってみた。
「あいにくとおまえは俺のタイプじゃねえよ」
「じゃあ、このお金を全部あなたにあげるから、ここは見逃してくれない? こんなにあるんだし」
女はバックを大きく開けて、中に詰まった福沢諭吉を男に見せ付けた。
「金の心配ならいらないぜ。その金は俺が貰って、ジジイには女に逃げられたと言っておけばいいだけだからな」
「えっ? それって、どういう意味よ……?」
自分は何かとんでもない勘違いをしているのではないかと、女の胸中に不安がせりあがってきた。
「ちぇっ。ちょっと口をすべらせちまったみたいだな。おまえには関係のない話だ。――そんなことよりも、ほら、そのバックをこっちによこしな。いつまでも時間稼ぎに付き合うつもりはないぜ」
男が車から離れて、こちらに近付いて来る。
ホテルのアプローチに止まった観光バスの車内から、楽しそうな話し声をあげながら、ぞくぞくと観光客が降りてきた。
観光バスを見つめていた女の脳裏に、唐突に名案が舞い降りてきた。
成功するかどうかは分からないけど、いちかばちかやってみるしかないわね!
女はバックの中に手を突っ込んだ。男に気付かれないように札束の帯封を指先で破る。
「そう、お金はいらないんだ。それじゃ、ここにいるみんなにあげてもいいわよね?」
女はバッグの中でバラバラになった紙幣を右手で握り締めると、その手を上に振り上げた。
「おい、おまえ、まさかその金を──」
何かに気付いたらしい男が慌てて声をあげる。
「競馬で大穴当てたから、みんなにプレゼントよ!」
女は紙幣を空中にパッとばら撒いた。
そのとき、運良く風が男に向かって吹いた。宙に浮いた紙幣が男目掛けて飛んでいく。
傍らで二人の様子を一部始終見ていた観光客は、一瞬唖然とした顔を浮かべたが、自分の目の前で飛び回っている福沢諭吉の顔を見て、途端に目を輝かせた。
「みんなにあげるって言ってんのよ! ぼけっとしてないで、好きなだけ取ったらいいじゃん!」
女の声がダメ押しになった。金の行方を気にしながらもその場から動かずにいた観光客の集団が、一斉に民族大移動を始めた。空中に舞っている紙幣に手を伸ばして、我先にと殺到していく。
「ほら、まだまだこんなにあるわよ!」
女はさらに続けざまに紙幣を空中にばら撒いた。
ホテルの入り口前はたちまち集団パニックの場と化した。男は射抜くような視線で女の顔を睨みつけてきたが、周りに群がる観光客が邪魔して、女の方に近寄れずにいる。
「クソ刑事野郎が! そこで死ぬまで観光客の相手でもしてな!」
女は捨てゼリフと空っぽになったバックを投げ捨てて、その場から走り出した。
「キサマ、待ちやがれ! クソアマが! ふざけたマネをしやがって! いいか、絶対に捕まえてやるからなっ! 覚えてろよっ!」
男は刑事らしからぬ怒声を発したが、紙幣を集めるのに必死な観光客の歓声によって、その声はかき消されてしまった。
――――――――――――――――
いちかばちかの奇策が項を奏した女は、幹線道路まで走って逃げ続けた。ここから先は自分の足で逃げるのには限界がある。早くタクシーを捕まえて、駅に向かいたかった。そこから地方に逃げて、しばらく姿を隠すしかないように思われた。
ほんの数分前に思い描いていた明るい未来予想図は、今、大幅な修正を余儀なくされた。
「──だけど、あの刑事、いったい何者なの? あの口振りからして、ただの刑事ってわけじゃなさそうだったけど……」
周囲を警戒しつつ、幹線道路沿いの歩道を早足で歩いていた女の横に、一台の黒い高級車が止まった。さきほどの刑事の登場の場面を思い出して、慌てて逃げ出そうとしたところ、車の中から声を掛けられた。
「お見受けしたところ、だいぶお急ぎのようですが、よろしかったら、わたくしの車でお送りしましょうか?」
その丁寧過ぎる物言いを聞いて、女は立ち止まった。少なくとも自分を追っている警察関係者でないことだけは分かった。女は自分の容姿に自信があったので、それで車が止まったのだと考えた。もしもそうならば、この車でどこか遠くまで逃げることも可能である。まさに千載一遇のチャンス到来だ。
これが『ピンチのあとにチャンスが来る』ってことなのかもね。
女はとびっきりの作り笑顔を浮かべると、助手席側の開いた窓から、中にいる運転手に向かって声を掛けた。
「あの、わたし、出来るだけに遠くに行きたいんだけど、それでもいいの?」
「もちろん、構いませんよ」
実直そうなサラリ-マンのような顔をした運転手がニコッと微笑んだ。わざわざ体を傾けて、手で助手席側のドアを開けてくれる。
「それじゃ、お願いするわ」
女はするりと助手席に乗り込んだ。これでとりあえず当座の危険は回避出来る。あとはいつもの話術を使って、この運転手をダマせばいいだけだ。
「それで車はどちらに向かわせればいいですか?」
「そうね、とりあえず市内から抜け出してくれる」
「分かりました」
「あなた、本当に優しいのね」
「ええ、『死神』は人間に優しく接するのがマナーとなっていますので」
「えっ?」
女はハンドルを握る男の横顔をじっと見つめた。この男は今、たしかに『死神』と言ったのである。
「どうかなさいましたか?」
男が女に顔を向けてくる。一瞬前はサラリーマンにしか見えなかった顔が、今は底知れぬ不気味な表情にしか見えない。
「あなた……何者なの……?」
心のうちに湧き出た疑問が、口をついて出ていた。
「これは失礼しました。わたくしの自己紹介がまだ済んでいませんでしたね。最初に名乗っておくべきでした。――わたくし、紫人と申します。死神の代理人を務めております」
男は再び死神と口にした。
「死神!」
「驚かれるのも当然のことだと思いますが、せっかくこの車にご乗車なさったのですから、少しだけわたくしの話にお付き合い願いませんか? もしも話がつまらなかったら、あなた様の行きたい場所まで安全にお送りするとお約束いたしますので──」
「──分かったわ。あなたの話とやらを聞かせてよ」
この男の正体はたしかに不明であったが、今は何よりも刑事から逃げるのが先決である。頭のイカレタ男の話に付き合うくらいどうってことはない。それで刑事から逃げることが出来るのならば、御の字というものだ。
そして、15分後――。
「──悪いけど、行き先を変更してくれるかしら?」
女は紫人にお願いした。
「ええ、構いませんよ。──それで、どちらに向かったらよろしいでしょうか?」
「閉園になったばかりの遊園地に向かってくれる」
「──分かりました。あなた様ならきっとそう言ってくれると思っていました」
紫人が車線を変更して、車を遊園地に向かわせる。
ふん、命を懸けたゲームね。もしかしたら、これがあたしの人生で最後の『仕事』になるかもしれないわね。
助手席に座る女は胸の内で自嘲気味につぶやいた。
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