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第26話

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 ものすごく嫌な予感しかないので、心の中で乗らないでくれと思ったが、そんな失礼な事を思ったのは後にも先にも今回が初めてだ。だけど、無情にもその集団は乗ってきてしまった。一般の乗客とは雰囲気の違うその集団に観光客の3人が関心をしめすのは当然だろう。そしてその中心にいる人が誰なのか気づくと、悲鳴を上げ手を振り名前を叫んだ。
「きゃー、リカさーん!」
 はっきり『リカ』と聞こえた自分の耳を疑いはしなかった。ただ、『リカ』という名の有名人は、僕が昨日一緒に仕事をしていた『小野リカ』以外にもたくさんいる。こうなったら確かめるしかないので、ミラー越しに見て同時に観光客相手に話す声にも集中した。
 ミラーに映った横顔ときれいな声は、『小野リカ』に限りなく近いが、まだまだそっくりさんの可能性を捨てきれない。と、最後の悪あがきをしようとしたのに、すぐにその希望は打ち砕かれた。座席に座って正面を向いたその顔は、世界に一人だけの『小野リカ』だ。
 この一年、何事もなく順風万端にきたのに、ここ2、3日だけで知り合いがこんなにも乗ってくるものだろうか。こういう事は根拠もないのに続く時は続くと言うので、あってもおかしくないし現に起こってしまっている。健二さんの時はいきなり話しかけられて咄嗟に答えたので、どうしようもなかったけど、今回はまだ気づかれていないはずだ。変装は完璧なのだから、何も焦ることはない。リカさんをはじめカメラマンやスタッフの人たちは撮影に夢中なのだから、わざわざ一人のバス運転士にフューチャーなんてするわけがないんだ。そう思うと少しだけ余裕が生まれたので、リカさん以外にも知り合いがいるかどうか確かめてみたくなった。すると、残念なことにリカさんのマネージャーの本田さんを見つけてしまった。しかしその他の人は少なくとも僕の記憶にはないので、リカさんと本田さんの二人を無事にやり過ごせれば、僕のバス運転士としてのキャリアは何の不安もなく積み重ねていけるはずだ。
 この時間の途中のバス停にしては、多くの人が乗ってきて停車時間が長くなったうえに少し動揺したので、バスはまあまあ遅れている。なので、僕は焦っていた。焦っている気持ちの大部分は遅れているのが原因ではないが。焦ってはいけないと思うが、焦りたくて焦っているわけではない。
 こんな精神状態で発車して、僕は安全運転をできるだろうか。焦ってはいるが、アクセルを踏むのに躊躇してなかなかバスを動かせないでいると余計に動揺してきた。そんな時になんとなく足音が聞こえたような気がしたので、ミラー越しに車内を確認すると、こっちに向かって歩いているリカさんと目が合った。しかし、そのリカさんは表情を変えずどんどん僕に近づいてくる。そして瞬く間に運賃箱のすぐ手前まで来てしまった。
 細かいお金がなくて両替でもするのかと一縷の望みを持ったが、撮影中にそんな事をするわけがない。ああそうか、乗ったはいいが間違って目的地と反対方向のバスに乗ってしまったことに気づいたのだろう。しかし希望的観測はあっさり打ち砕かれたというか、違う方向で安心させられたのかもしれない。
「ひろしさん、大丈夫ですよ。だから落ち着いていつも通りの安全運転をお願いしますね」
 まるで母親が小さな子に話しかけるような優しい声音で、僕は一気に冷静になれた。そしてリカさんは風のように去り、もといた座席に座っている。
 僕はバスを優しく発車させ、しばらく乗り降りのないまま走っていると、まずは始発から乗っていた3人の観光客の目的地に着いた。残りはリカさんのロケ隊だけだ。そのままバスは5分ほど遅れて次々とバス停を通過していき、リカさんたちは終点までバスの旅を楽しんでくれた。無事に着いて安心したのは、僕だけではなく、おそらくリカさんもそうだっただろう。降りるところも撮影していたので、リカさんは一度皆さんと降りてからすぐに戻ってきた。
「ひろしさん、ごめんなさい。必要以上に緊張させてしまったみたいですね。だけど、私以外の人は誰も気づいてないので安心してくださいね。そしてこの先も、私の周りの人が知ることはないのも約束しておきますね」と僕には一言も発させないで、リカさんは風のように去っていった。
 僕がバス運転士をしている事を今まで2回ほどリカさんに白状しようかとなったが、こんな形で3度目の正直がやってくるとは、僕の想像を超えていた。しかし、リカさんは僕の思っていた通りのリカさんだったので、この後のバスの運転には全く支障がないだろう。ただ一応、塚谷君には報告しておいた方がいいので、待機している時間を利用して電話をかけると、想像通り1コール未満で出てくれた。
「そろそろ、ひろしさんからかかってくると思ってましたよ。今日は溜まっていた事務仕事を泣きながらやってるんですけど、一応聞いてあげますね。何かあったんですか?」
「忙しいところ、ごめんね。実は、さっき、小野リカさんが僕の運転するバスにテレビ撮影でたまたま乗ってきて、あっさり気づかれちゃった。だけどリカさんは誰にも言わないでいてくれるから安心していいみたい」
「そうなんですか。リカさんには近々知られるだろうなとは思ってましたけど、想像以上に早かったですね。だけど仲良しのリカさんだから、まあいいでしょう。それよりも喜んでください、ひろしさん」
「どうしたの? まさかのファンレターが山のように来てるとか?」
「そんなわけないでしょ。でも、そうなるかもしれないですよ。なんと、主演のオファーが来ましたよ」
 嬉しくないと言えば嘘になるけれど、バス運転士の仕事を捨ててまで主役を演じたいとは思えないので、素直に喜べない。二兎を追う者は一兎をも得ずとは言うが、幸運なことに僕は既に普通のうさぎを2羽手に入れている。それで十分だ。2羽のうさぎのうちの1羽が『ピーターなんとか』のような珍しいうさぎである必要なんて……。
「そっかあ。悪いけど、いつものごとく断っておいてくれないかなあ」
「いやいや、話を最後まで聞いてくださいよ。オファーの主が昨日の監督なんですよ。ひろしさんの運転技術のおかげで、以前から温めておいたドラマシリーズを作ることができるから、是非出てほしいと言ってきたんです。でも、ひろしさんから主役の話は全部断るように言われてるので、一度は今回も辞退させてくださいとやんわり言ったら、ひろしさんの要望は何でも飲むから考えてくれないかと粘るんですよ。なので、撮影が週に2日までになるなら出れますけどって、無理難題のつもりで言ったのに、あっさりとそれでいいですよと返されてしまったので、もう承諾するしかなくなりました」
「そうなんだ。ありがとう、美樹。やっぱり役者をやってたら、一度くらいは主役を演じるのが夢だからね。週に2日だけの撮影なら、バスの仕事には全く影響がないから今までと同じだし。ただ、恐いのは、これで少し有名になったら、伊達メガネだけの変装でバスの運転をしていて誰にも気づかれないかどうかだけだね。まあそれは、テレビで放映されてから考えればいいか。それで、どんな話なの?」
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