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第9話
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その後、僕も塚谷君もしばらく無言になったが、奇跡的にいつの間にかドーナツの存在が少なくとも僕の頭からは消えていたのだ。なので、ラジオのボリュームを少し上げて、万が一にもないとは思ったけど、僕が大型2種の免許を取ってバス運転士として働いている事が話題になっていないか気にしながら聴いていた。うぬぼれ過ぎのうえに健二さんをどこかで疑っているのかと自己嫌悪にもなるが、何の確信もない今の状態では仕方がないとは思う。
もし世間のみんながこの事を知ったなら、マスコミや好奇心旺盛な人なんかが興味本位で僕がお世話になっているバス会社やバス乗り場に殺到するだろう。そうなると普段利用されているお客さんとかに迷惑をかけるだろうし、会社や同僚だって業務を妨げられるだろうから、僕は少なくとも今のバス会社にはいられなくなる。
そんな事を考えながら聴いているから、バスという言葉以外のラジオの内容が全く入ってこない。そして、幸いと言っていいけど、塚谷君がサービスエリアの駐車場に車を停めてエンジンを切るまでのラジオが何を言っていたかは記憶に残らなかった。
「コーヒーでも買ってくるけど、塚谷君はミルクティーでいい?」
「私のミルクティーはまだ残ってるから大丈夫ですよ」
「あ、ごめん。こっそり塚谷君のミルクティーも飲んじゃった。考え事をしてたら、コーヒーだけじゃ足りなくてついつい」
「そうなんですか。じゃあ、私も一緒に行きます。ほら、ひろしさんは変装してくださいね。それにしても、伊達メガネ一つで気づかれないなんて、ひろしさんはまだまだなのか全くオーラがないのか……」
「何を言ってるんだい、塚谷君? 僕のような超大物俳優はオーラを出したり消したりなんて自由自在だし、まさかこんな所にいるわけがないという固定観念があるからだよ。もしテレビ局の周りを伊達メガネ一つの変装で歩いていたら、隠しきれないオーラに少なからず気づく人がいて、もう大変大変。辺りはパニックになって警察が出動する事態になるだろうね」
「はいはい、そういう事にしておいてあげましょう。じゃあ、ここなら誰にも気づかれないので、体をほぐしがてら少し散歩に付き合ってくれますよね?」
「もちろん。エコノミークラス症候群だったかな? そこまではいかなくても、ずっと同じ姿勢だったら変に疲れるよね。せっかくだから、向こうにあるベンチに行って、残りのドーナツを食べようよ」
「外でいいんですか? 中にフードコートがありますよ」
「何を言ってるんだい、塚谷君? あんな明るくて人が大勢いそうな所に行って万が一気づかれたら……いや、間違いなく誰かが気づくんだから、このサービスエリアは大騒ぎになって……」
「はいはい。向こうの人もほとんどいなくて薄暗い所でドーナツを食べましょうね」
僕の話を途中で遮りいやらしく笑う塚谷君に何も言えなかった。そもそも、こんな時間に都心に近いサービスエリアとはいえ、そんな大勢の人がいるわけがないのに。今の僕はナーバスになり過ぎているのだろうか。さっきの冗談があったから、塚谷君は今のも冗談にとってくれているからいいけど、本音も混ざっているのか自分でも分からなかった。
作っている工程をモニターで見ることのできる挽きたてコーヒーの自動販売機でコーヒーを買って、それを見ているだけでもなぜか楽しいので、この自動販売機を開発した人が大好きだ。塚谷君は相変わらずミルクティーを買って、相変わらず僕よりも楽しそうに自動販売機からミルクティーを取り出した。それから二人でなるべく人気のないベンチに行ってドーナツを味わっていると、ゆっくり探るような足取りで一人の女性が僕たちの方へやってきた。
「あのー、もしかしたら、山田ひろしさんじゃないですか?」
伊達メガネだけの変装とはいえ、こんな郊外にいて名前を呼ばれたのは初めて……いや、健二さんに続いて二度目だ。ここで変に否定するのも良からぬ疑念を抱かせかねないし、どう返事をしていいのか迷って助けを求めるように塚谷君を見ると、自信たっぷりに頷いてくれた。塚谷君の堂々とした態度に勇気づけられた僕からは動揺なんて簡単にどこかへ飛び去り、その見知らぬ女性と対等に、俳優山田ひろしとして会話できるようになっていた。
「そうですけど、あなたは?」
「やっぱり。あっ、ごめんなさい。ただのファンです。あっ、いえ、ものすごくファンです」
嬉しさと安堵がなかったわけではないけど、このファンの女性の声が急に大きくなって焦った僕は、口に指をあててそそくさと座るように促した。
「しーっ。あんまり目立ちたくないので、とりあえず座ってください」
「えっ! いいんですか?」と言って、そのファンの女性は塚谷君の方を意味ありげに見ている。
「もちろん。その方が助かります」
塚谷君は何も言わないので、僕の判断は正しかったのだろう。
「でも、彼女さんとデート中じゃないんですか?」
「え? 彼女? 違います違います。ただのマネージャーなので変に誤解しないでくださいね」
塚谷君は楽しそうにドーナツを頬張っているだけなので、僕が説明してファンの女性に座ってもらった。それから、聞かれてもいないのにどうしてこんな時間にこんな所にいるのか嘘の理由をもっともらしくすると、ファンの女性は疑いもせずあっさり信用してくれたが、たぶん彼女はそんな事よりも話したいことがあったようだ。
今さら謙遜しても意味がないので残念ながら数少ない僕のファンだと言ってくれる人に出会えて、少しだけど今日の疲れが取れたようだった。だから喜んで聞く方に回ると、彼女はファンらしく僕の出番が多かった作品はもちろん大して活躍していない作品までも、あそこのあの表情が良かったとかあのセリフ回しが心に突き刺さったとか大げさに褒めてくれた。
全然お世辞に聞こえなかったのは僕が単純……じゃなくて素直なのだろうけど、無言でドーナツを頬張っている塚谷君も隣で嬉しそうにしているし、素直に喜んでいいのではないだろうか。このまま夜明けまでもっとたくさん褒めて欲しいという願望を、寝不足で撮影に臨むなんてありえないという責任感が凌駕してくれ、さらにファンの女性だってこれからどこかに行くために高速道路のサービスエリアにいたのだからと考えた結果、ほどほどのところで泣く泣くお別れすることにした。最後に一応やんわりと今日ここで会った事の口止めだけは忘れなかったが。
もし世間のみんながこの事を知ったなら、マスコミや好奇心旺盛な人なんかが興味本位で僕がお世話になっているバス会社やバス乗り場に殺到するだろう。そうなると普段利用されているお客さんとかに迷惑をかけるだろうし、会社や同僚だって業務を妨げられるだろうから、僕は少なくとも今のバス会社にはいられなくなる。
そんな事を考えながら聴いているから、バスという言葉以外のラジオの内容が全く入ってこない。そして、幸いと言っていいけど、塚谷君がサービスエリアの駐車場に車を停めてエンジンを切るまでのラジオが何を言っていたかは記憶に残らなかった。
「コーヒーでも買ってくるけど、塚谷君はミルクティーでいい?」
「私のミルクティーはまだ残ってるから大丈夫ですよ」
「あ、ごめん。こっそり塚谷君のミルクティーも飲んじゃった。考え事をしてたら、コーヒーだけじゃ足りなくてついつい」
「そうなんですか。じゃあ、私も一緒に行きます。ほら、ひろしさんは変装してくださいね。それにしても、伊達メガネ一つで気づかれないなんて、ひろしさんはまだまだなのか全くオーラがないのか……」
「何を言ってるんだい、塚谷君? 僕のような超大物俳優はオーラを出したり消したりなんて自由自在だし、まさかこんな所にいるわけがないという固定観念があるからだよ。もしテレビ局の周りを伊達メガネ一つの変装で歩いていたら、隠しきれないオーラに少なからず気づく人がいて、もう大変大変。辺りはパニックになって警察が出動する事態になるだろうね」
「はいはい、そういう事にしておいてあげましょう。じゃあ、ここなら誰にも気づかれないので、体をほぐしがてら少し散歩に付き合ってくれますよね?」
「もちろん。エコノミークラス症候群だったかな? そこまではいかなくても、ずっと同じ姿勢だったら変に疲れるよね。せっかくだから、向こうにあるベンチに行って、残りのドーナツを食べようよ」
「外でいいんですか? 中にフードコートがありますよ」
「何を言ってるんだい、塚谷君? あんな明るくて人が大勢いそうな所に行って万が一気づかれたら……いや、間違いなく誰かが気づくんだから、このサービスエリアは大騒ぎになって……」
「はいはい。向こうの人もほとんどいなくて薄暗い所でドーナツを食べましょうね」
僕の話を途中で遮りいやらしく笑う塚谷君に何も言えなかった。そもそも、こんな時間に都心に近いサービスエリアとはいえ、そんな大勢の人がいるわけがないのに。今の僕はナーバスになり過ぎているのだろうか。さっきの冗談があったから、塚谷君は今のも冗談にとってくれているからいいけど、本音も混ざっているのか自分でも分からなかった。
作っている工程をモニターで見ることのできる挽きたてコーヒーの自動販売機でコーヒーを買って、それを見ているだけでもなぜか楽しいので、この自動販売機を開発した人が大好きだ。塚谷君は相変わらずミルクティーを買って、相変わらず僕よりも楽しそうに自動販売機からミルクティーを取り出した。それから二人でなるべく人気のないベンチに行ってドーナツを味わっていると、ゆっくり探るような足取りで一人の女性が僕たちの方へやってきた。
「あのー、もしかしたら、山田ひろしさんじゃないですか?」
伊達メガネだけの変装とはいえ、こんな郊外にいて名前を呼ばれたのは初めて……いや、健二さんに続いて二度目だ。ここで変に否定するのも良からぬ疑念を抱かせかねないし、どう返事をしていいのか迷って助けを求めるように塚谷君を見ると、自信たっぷりに頷いてくれた。塚谷君の堂々とした態度に勇気づけられた僕からは動揺なんて簡単にどこかへ飛び去り、その見知らぬ女性と対等に、俳優山田ひろしとして会話できるようになっていた。
「そうですけど、あなたは?」
「やっぱり。あっ、ごめんなさい。ただのファンです。あっ、いえ、ものすごくファンです」
嬉しさと安堵がなかったわけではないけど、このファンの女性の声が急に大きくなって焦った僕は、口に指をあててそそくさと座るように促した。
「しーっ。あんまり目立ちたくないので、とりあえず座ってください」
「えっ! いいんですか?」と言って、そのファンの女性は塚谷君の方を意味ありげに見ている。
「もちろん。その方が助かります」
塚谷君は何も言わないので、僕の判断は正しかったのだろう。
「でも、彼女さんとデート中じゃないんですか?」
「え? 彼女? 違います違います。ただのマネージャーなので変に誤解しないでくださいね」
塚谷君は楽しそうにドーナツを頬張っているだけなので、僕が説明してファンの女性に座ってもらった。それから、聞かれてもいないのにどうしてこんな時間にこんな所にいるのか嘘の理由をもっともらしくすると、ファンの女性は疑いもせずあっさり信用してくれたが、たぶん彼女はそんな事よりも話したいことがあったようだ。
今さら謙遜しても意味がないので残念ながら数少ない僕のファンだと言ってくれる人に出会えて、少しだけど今日の疲れが取れたようだった。だから喜んで聞く方に回ると、彼女はファンらしく僕の出番が多かった作品はもちろん大して活躍していない作品までも、あそこのあの表情が良かったとかあのセリフ回しが心に突き刺さったとか大げさに褒めてくれた。
全然お世辞に聞こえなかったのは僕が単純……じゃなくて素直なのだろうけど、無言でドーナツを頬張っている塚谷君も隣で嬉しそうにしているし、素直に喜んでいいのではないだろうか。このまま夜明けまでもっとたくさん褒めて欲しいという願望を、寝不足で撮影に臨むなんてありえないという責任感が凌駕してくれ、さらにファンの女性だってこれからどこかに行くために高速道路のサービスエリアにいたのだからと考えた結果、ほどほどのところで泣く泣くお別れすることにした。最後に一応やんわりと今日ここで会った事の口止めだけは忘れなかったが。
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