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……。
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「警察官に暴行を加える人なんて、仲間ではないです」「ガガオ、ガガオ」
「私がいつそんな事をしたんだ?」
「よくもまあそんな堂々としらばっくれられますよね。その強心臓だけは褒めてあげますよ。これは皮肉ですからね」
「もしあの警察官の後頭部にあるたんこぶの事を言ってるなら、あれは……」
「あれは?」
「……げ、げん、……げんか……く……」
「自首しますか? それとも、私に警察に突き出されたいですか?」
「待て待て待て。これは事故だ。そして今すぐに手当てをしてあげれば、ただの笑い話で終わる」
「まあ……軽傷ならですけどね」
「軽傷だとも。あんなたんこぶ、ケガのうちに入らないぞ」
「リーダーがそこまで言うなら、私とトラゾウはここでリーダーの介抱ぶりを見てますよ。本当なら今すぐに逃げ出したいところだけど、それは悪徳政治家夫人と同じになってしまいますからね。では、どうぞ」
うーん……、不可抗力と言い訳したところで、何も解決しないな。もし逃げ去ってしまうと、当て逃げとなるのだろうか。難しい法律は分からないが、人としてケガ人をそのままにしておけないな。よし、救急車を呼ぶ呼ばないは別として、具合を確かめよう。ついでに、あの軟球を回収だな。その時だけは、お願いだから阿部君トラゾウ、目を逸らしておくれ。
しかしなんでこいつは、こんな所をうろちょろしてたんだ? 事件現場からは離れてるのに。いつものように正門前で警備をしていたら、阿部君と明智君が血相を変えて走ってきたのにビビって、ここまで逃げてきたのかもしれない。よほどものすごい顔をしていたのは想像できるからな。野球場での私の出番がいつ回ってくるかはっきりしないのに、いつまでも阿部君パパの車の中でダラダラお菓子を食べているから、そんなに焦るんだ。私のホームランの出番が予想外に早かったのには同情できるが。それでも早く現場に来てスタンバイしていれば余裕で対応できたのに。現場を見ていれば、足りない頭でも何かの拍子に、見逃していた証拠や事実に焦点が合うかもしれないとは考え……るわけないか。
今は終わったことよりも、この真面目巡査部長のケガの具合を心配する時だな。まったくいつまで寝てるんだ。恥ずかしさのあまり狸寝入りしてるんじゃないのか。それなら早く起きて、私を安心させやがれ。試しに「そんな所で寝てたら、うっかり踏んでしまうぞ」と言ってやろうか。……いや、やはり優しく起こしてあげよう。こいつは自分が気絶……急な睡魔に襲われた原因を今のところは知らないし、ボールさえ見せなければ一生気づかない。気にすることもないだろう。でもどこかの裏切り者が密告して、何もかも気づいてしまうかもしれない。そんな時のために、懇切丁寧に接しておけば、怒る気なんて失せるというものだ。
私は、まずは猫なで声で優しく「おまわりさん、こんな所で寝ていたら、風を引きますよ」と声をかけると同時に、阿部君とトラゾウから死角を作り、急ぎボールを回収した。二人は気を使ってくれたのか、私の猫なで声が気持ち悪かったのかは分からない。死角を作るまでもなく、俯いて地面を見てくれているようだ。
よし、第一関門は突破だ。これでこいつが何事もなく起きてくれていたなら、ハッピーエンドだったのに。世の中そこまで甘くないな。少し起こし方を変えてみるしかないようだ。今度は、ゴールデンレトリバー……いや、ワンちゃん……いや、生き物の中で最も寝起きの機嫌の悪い明智君を起こす時のように、優しく背中にフェザータッチしながら優しく声をかけてみよう。
「もしもし、おまわりさん。爽やかなお昼寝日和でせっかく気持ちよくお休みの中、声をかけてすいません。だけど風邪でも引かれたら、私は本当に悲しいので、起きてみませんか? いつもの笑顔を見せていただくと、私たちは元気をもらえますし。ねっ?」と、心にもない事をスラスラ出してみた。フェザータッチを維持するのは難しく、少々力が入ったのは愛嬌だな。すると、この真面目巡査部長の服のポケットから、透明のビニール袋がこぼれ落ちた。ドッグフードらしきものが入っている。
「阿部君、トラゾウ、病院に戻るとしよう」
「えっ? その警察官をそのままにしてですか? いいんですか? ものすごい重い罪にならないですか? もしリーダーが刑務所に入ることになっても、私たちを売らないと約束してくれますか? もし売ったら……」
「私は決して仲間を裏切らない。世界中のチビっ子たちが憧れる『リーダー』の名にかけて」
「全く重みがないし信用もできないですね。でもまあ裏切ったら裏切ったで、リーダーを……。ヘヘヘヘヘ」
「だ、大丈夫だ。私が刑務所に入ることはないが、仮に入ったとしても、阿部君を裏切った時よりも幸せに感じるだろう。せっかくこういう話が出たから、言っておくか。我々怪盗団は本職の方で刑務所に入る可能性がないこともない。だけど我々の誰がそうなったとしても、他の誰かを売る……」
「そんなことよりも、その警察官の介抱をしなくてもいいんですか? まさか死んでるから、諦めたとか? 例えそうでも、誠意を見せておいた方が心象が良いですよ」
「と、とにかく大丈夫だ。こんなたんこぶ、ケガのうちにも入らない。それに気を失っていれば、あの役立たずの警部でも確保をできるというものだ」
「確保? えっ、それって、もしかして……」
「詳しくは、後で話す。明智君のいる所でな」
「はいっ!」
「トラゾウも、それでいいだろ?」
「ガオッ!」
「問題は、どうやって病院に戻るかだな。阿部君パパは、もう車の整備に行っただろうし。給料据え置き警部には、あいつ史上一番の仕事ができてしまったし。あとは、白イノシシ会の若い衆しかいないが……」
阿部君が目を逸らしたな。うん、分かるぞ。私も恐い。なんと言っても、車の中は密室だ。逃げ場はないし、何かあっても目撃者がいない。
「仕方がない。タクシーを拾うとしよう。トラゾウはどこからどう見てもワンちゃんだから、きっと乗せてくれるさ」
「乗車拒否したら、それはそれで面白いですけどね。ねえ、トラゾウ?」
「ガッ? ガガオガオンガオガオガ」
タクシーの運転手さん、頼むから乗車拒否だけはやめてくれ。阿部君が溜め込んでいるストレスのはけ口は悲惨だぞ。私とトラゾウは阿部君を止めたい気持ちはあっても逆らえないから、無理やり笑顔を作りながら『チーム阿部君』を結成して数々の嫌がらせを忸怩たる思いでしないといけなくなる。ほ、本当に本意ではないから。まあ乗車拒否する方が悪いから喧嘩両成敗だな。ヒヒヒ。おそらくだけど、一週間は寝込むだろう。何回も言うけど、乗車拒否するのが悪いんだぞ。自業自得だ。
「時間も惜しいから、乗車拒否された時の教育はほどほどにしておくれ。私は反対だけどな」
「はいはい。タクシー代とタクシーの修理代は、リーダーが払ってくださいね」
「お、おう……」
そうか……。乗車拒否した運転手は、寝込むだけではなく、しばらく営業もできないようだな。よし、どうせなら派手にいこう。乗車拒否してくれよー。私は嫌々、阿部君の言う通りに動くだけだからな。あれ、待てよ。財布にいくら入ってたかな。記憶では1万円札は1枚もなかった。足りなかったら、病院にいる警視長に借りよう。きっとまだいるだろう。明智君の意識が戻っているなら、明智君に借りてもいい。無断で明智君のバンダナ型小物入れから財布をぬきだすのは、私の流儀に合わないからな。後で何をされるか想像もできないし。
もしタクシーの修理代が必要だったなら、警視長にも一緒に謝ってもらって少しでも安くしてもらおう。ついでに明智君も。警察のお偉いさんである警視長が凄みを見せている後ろで、明智君が狂犬病にかかっているかのような凶暴性を醸し出せば、上手くいけば修理代はほんの気持ち程度に収まるぞ。さらに嘘の半額キャンペーンでタクシー代まで安くなるかもな。
少しでもタクシー代を安くするために、とりあえず歩いて病院に向かうか。あまり早くタクシーが通りませんように。歩きながらの方が事件の概要をまとめやすいとか何とか言えば、嘘だと分かっていても阿部君は従うだろう。あまり文句を言うと、自分が払う羽目になりかねないからな。本当は迎車を頼むのが無難だと分かっていながらも、言わないのはそういうことだ。言い出した者が払うのが暗黙の了解となっているのだ。トラゾウはトラゾウで体力が底なしだから、嫌な顔一つしないだろう。空港からアジトまで走って来ても、ピンピンしていたもんな。
タクシーを拾うためには、当たり前だけど悪徳政治家宅から出ないといけない。そう、もう一度白イノシシ会の若い衆の前を通らないといけないということだ。あいつらのような強面が警備をしていることで、アリの子一匹近づけないのは良い案だった。まさか私たちが近づくのも恐いとまで考えられなかったのは、私のミスと言っていいだろう。だけど他に方法がなかったのも事実なのだ。私有地なので他人が入ってくることはまずないだろうけど、夫人のチワワ以外にもここには数々の生き物が生息している。現場を荒らされるのも困るが、まだ落ちているかもしれない毒入りドックフードをうっかり食べて明智君の二の舞いになってはかわいそうだ。それがアリの子であっても。
私たちは「お疲れさまでーす」と元気にはっきり素早く言って、白イノシシ会がいる前を足早に通りすぎた。鑑識はまだ来ていない。来ない可能性が高いが、その時は給料据え置き警部と白イノシシ会連合に任せるしかないな。何か証拠のような物が見つかっても採用されないが、犯人を追い込むくらいはできるだろう。それは期待しすぎか。給料据え置き警部と白イノシシ会がケンカをしなければ良しとしておこう。そして何より、これ以上被害者が出ないように願うだけだな。
正門まで来ると、給料据え置き警部の背中が見えた。頑張っている風を力いっぱい発揮しながら、ぼーっと立っている。ちなみに、この給料据え置き警部の頑張っている風は、それは見事なものだ。詳しく説明したいところだけど、今は急いでるので、そのうちに。興味ない人も大勢いるだろうし。
今あった事と給料据え置き警部にやって欲しい事を伝えるために声をかけようと近寄った時に、1台の車が給料据え置き警部めがけて猛スピードで飛んできた。運転しているのは、警視長だ。なので言うまでもなく、轢きはしない。ぎりぎりで止まった。
頑張っている風だった給料据え置き警部は、微動だにしない。強心臓だと誤解しないでおくれ。熟睡しているだけなのだ。立ったまま。私には見慣れた光景なので驚かない。しかし阿部君とトラゾウは目が飛び出しそうに驚き、警部の方の心配ではなく警視長の心配をしている。轢きでもしたら、犯罪者になるからだ。私たちの唯一と言っていい後ろ盾の警視長がいなくなったら、ひまわり探偵社は倒産だからな。
警視長だって、それくらいは理解している。その上で運転を誤ったのではなく、わざとギリギリで止まったのだ。おそらく一刻を争う事態なのだろう。警視長も給料据え置き警部が熟睡していることを知っていたので、そんな一見無謀なことをしたまでだ。例え当たらなくても、驚きひっくり返ってケガでもしたなら、轢いたことと変わらない。警察関係者なら、それくらいは知っているからな。
警視長は警部なんてお構いなしに車の窓を開け、私たちに呼びかけた。
「早く乗って! 明智君が……明智君が……」
てっきり明智君の意識が戻ったと言いに来てくれたと思った私の予想は裏切られたのは、警視長の強張った顔から理解できた。具体的に何も話してくれないことからも、良い知らせではないのは明らかだ。阿部君もトラゾウも、そう感じたのだろう。私たちは何も考えずに、警視長の車に乗った。
車が動き出しても、私たちの誰も話さない。行き先は病院だろう。警視長がどこから車を調達したのかも気にする余裕はなかった。先に帰ったヘリの副操縦士の人が、気を利かせて持ってきたのだろう。それよりも明智君の状態の方が気になる。なのに恐くて聞けない。警視長も運転に集中しないといけないのはあっただろうけど、どういう風に説明したらいいか分からなかったのかもしれない。警視長ほどの人でさえ。
病院に着くと、私たちは手術室へ急ごうとした。明智君はまだそこにいると勝手に思い込んでいたからだ。しかし車から降りるか降りないかで、警視長が呼び止める。そして思い出したように、明智君は集中治療室にいると説明してくれた。場所も詳しく。そして私と阿部君とトラゾウは急いだ。
よし、明智君はまだ生きている。最悪を覚悟した自分を戒めた。だけど警視長の雰囲気からして、決して楽観的にはなれない。明智君、私たちが来たのだから、もう大丈夫だぞ。絶対に助けてやるからな。
ただ、事態は深刻どころではなかった。集中治療室に着くとすぐに、中からマリ先生が何とも言えない顔で出てきて、私たちに話す言葉を選んでいる。同時に明智君の友だちとして泣き崩れるところを、医師としての使命感が支えているようだ。私は待てなかった。
「マリ先生、明智君は?」
マリ先生は無言で首を振る。え? 嘘だ。冗談と言ってくれ。今なら、まだ許す。私はもう一度尋ねた。
「明智君は助かったんですよね?」
「……明智君はよく頑張ったわ。並のワンちゃんなら、いえ、人間やゾウのような大きな生き物でさえ、あの毒を摂取していたなら、即死でしょうね。でも、明智君は……。ごめんなさい。自分の無力さが悔しい」
「何を言ってるんですか。明智君は即死ではなかったし、何十分も小康状態で病院に到着したじゃないですか。明智君が毒なんかに負けるわけないですよ。私たち、いや、世界中の人に愛されている明智君が」
「そう、明智君はまだ頑張ってる。だけど私には為す術もないの。こんなことは言いたくないけど……もう楽にしてあげて」
「ふ、ふざけるな! あっ、いや、ごめんなさい。だけど明智君が頑張ってるのに……。何か方法がありますよ」
「無理なの。できる事はすべてやったわ。このままだと、明智君の臓器は一つずつ壊れていって、今日一日もつかどうか。そしてその間もずっと苦痛が襲ってるのよ。痛いとも苦しいとも言えないだけで、明智君は……」
「マリ先生、私の体を好きに使ってくれて構わないから、明智君を助けてください。心臓でも何でも、すべて使ってくれていい。血液が必要なら、最後の一滴まで使えばいい。だから、明智君を……。私はもう何十年も生きたから十分だ。明智君はほんの5年くらいしか生きてないんだよ。頼むから私の……私の体を使って明智君を助けてください。お願いします」
「何言ってるの! そんなことできるわけないでしょ。例え人間と犬の間で移植が可能だとしても、倫理的に許されない。明智君だって望まない」
「明智君は確かに望まないかもしれない。だからそれは、明智君が寿命を全うしてから、私がこれでもかというくらいに叱られてあげる。明智君は、みんなのために生きないといけないだ。なあ、そうだろ、阿部君トラゾウ? そんな所で泣いてないで、一緒にマリ先生を説得してくれ。リーダー命令だ」
「……」「……」
「リーダー、諦めなさい。ひまわりとトラゾウだって辛いのよ。警視長だって、私だって……」
「嫌だー! 明智くーん! 聞こえてたら、返事しておくれ! まだまだ生きたいだろ? 美味しいドックフードだって、まだたくさん残ってるぞ。あの豪邸でお手伝いさんを雇って、余生を楽しくのんびり過ごすために頑張ってきたじゃないか。明智君、目を覚ますんだ。明智君なら、気合で毒なんて倒せるはずだ。負けちゃだめだ。明智君、明智君、明智君……」
泣きながら膝から崩れ落ちた私の肩に、マリ先生が優しく手をかけた。私にはもう抗う気力すら残ってない。
「いいわね、リーダー?」
いつしか私の両隣に阿部君とトラゾウがすり寄っている。それでも首を横に振ろうとしたら、阿部君が力いっぱいに私をぶん殴った。私に負けじと涙を流しながら。トラゾウは私の背中を優しくさすってくれている。自分だって悲しいし悔しいのに、私を慰めてくれているのだ。まだまだ子トラなのに。
明智君、ごめんよ。先に天国で待っていてくれるかい? 私も天国に行けるようにできるだけの事をするよ。もし無理そうなら、明智君が神様に頼み込んでくれるよね?
私は、首を縦に振った。
「私がいつそんな事をしたんだ?」
「よくもまあそんな堂々としらばっくれられますよね。その強心臓だけは褒めてあげますよ。これは皮肉ですからね」
「もしあの警察官の後頭部にあるたんこぶの事を言ってるなら、あれは……」
「あれは?」
「……げ、げん、……げんか……く……」
「自首しますか? それとも、私に警察に突き出されたいですか?」
「待て待て待て。これは事故だ。そして今すぐに手当てをしてあげれば、ただの笑い話で終わる」
「まあ……軽傷ならですけどね」
「軽傷だとも。あんなたんこぶ、ケガのうちに入らないぞ」
「リーダーがそこまで言うなら、私とトラゾウはここでリーダーの介抱ぶりを見てますよ。本当なら今すぐに逃げ出したいところだけど、それは悪徳政治家夫人と同じになってしまいますからね。では、どうぞ」
うーん……、不可抗力と言い訳したところで、何も解決しないな。もし逃げ去ってしまうと、当て逃げとなるのだろうか。難しい法律は分からないが、人としてケガ人をそのままにしておけないな。よし、救急車を呼ぶ呼ばないは別として、具合を確かめよう。ついでに、あの軟球を回収だな。その時だけは、お願いだから阿部君トラゾウ、目を逸らしておくれ。
しかしなんでこいつは、こんな所をうろちょろしてたんだ? 事件現場からは離れてるのに。いつものように正門前で警備をしていたら、阿部君と明智君が血相を変えて走ってきたのにビビって、ここまで逃げてきたのかもしれない。よほどものすごい顔をしていたのは想像できるからな。野球場での私の出番がいつ回ってくるかはっきりしないのに、いつまでも阿部君パパの車の中でダラダラお菓子を食べているから、そんなに焦るんだ。私のホームランの出番が予想外に早かったのには同情できるが。それでも早く現場に来てスタンバイしていれば余裕で対応できたのに。現場を見ていれば、足りない頭でも何かの拍子に、見逃していた証拠や事実に焦点が合うかもしれないとは考え……るわけないか。
今は終わったことよりも、この真面目巡査部長のケガの具合を心配する時だな。まったくいつまで寝てるんだ。恥ずかしさのあまり狸寝入りしてるんじゃないのか。それなら早く起きて、私を安心させやがれ。試しに「そんな所で寝てたら、うっかり踏んでしまうぞ」と言ってやろうか。……いや、やはり優しく起こしてあげよう。こいつは自分が気絶……急な睡魔に襲われた原因を今のところは知らないし、ボールさえ見せなければ一生気づかない。気にすることもないだろう。でもどこかの裏切り者が密告して、何もかも気づいてしまうかもしれない。そんな時のために、懇切丁寧に接しておけば、怒る気なんて失せるというものだ。
私は、まずは猫なで声で優しく「おまわりさん、こんな所で寝ていたら、風を引きますよ」と声をかけると同時に、阿部君とトラゾウから死角を作り、急ぎボールを回収した。二人は気を使ってくれたのか、私の猫なで声が気持ち悪かったのかは分からない。死角を作るまでもなく、俯いて地面を見てくれているようだ。
よし、第一関門は突破だ。これでこいつが何事もなく起きてくれていたなら、ハッピーエンドだったのに。世の中そこまで甘くないな。少し起こし方を変えてみるしかないようだ。今度は、ゴールデンレトリバー……いや、ワンちゃん……いや、生き物の中で最も寝起きの機嫌の悪い明智君を起こす時のように、優しく背中にフェザータッチしながら優しく声をかけてみよう。
「もしもし、おまわりさん。爽やかなお昼寝日和でせっかく気持ちよくお休みの中、声をかけてすいません。だけど風邪でも引かれたら、私は本当に悲しいので、起きてみませんか? いつもの笑顔を見せていただくと、私たちは元気をもらえますし。ねっ?」と、心にもない事をスラスラ出してみた。フェザータッチを維持するのは難しく、少々力が入ったのは愛嬌だな。すると、この真面目巡査部長の服のポケットから、透明のビニール袋がこぼれ落ちた。ドッグフードらしきものが入っている。
「阿部君、トラゾウ、病院に戻るとしよう」
「えっ? その警察官をそのままにしてですか? いいんですか? ものすごい重い罪にならないですか? もしリーダーが刑務所に入ることになっても、私たちを売らないと約束してくれますか? もし売ったら……」
「私は決して仲間を裏切らない。世界中のチビっ子たちが憧れる『リーダー』の名にかけて」
「全く重みがないし信用もできないですね。でもまあ裏切ったら裏切ったで、リーダーを……。ヘヘヘヘヘ」
「だ、大丈夫だ。私が刑務所に入ることはないが、仮に入ったとしても、阿部君を裏切った時よりも幸せに感じるだろう。せっかくこういう話が出たから、言っておくか。我々怪盗団は本職の方で刑務所に入る可能性がないこともない。だけど我々の誰がそうなったとしても、他の誰かを売る……」
「そんなことよりも、その警察官の介抱をしなくてもいいんですか? まさか死んでるから、諦めたとか? 例えそうでも、誠意を見せておいた方が心象が良いですよ」
「と、とにかく大丈夫だ。こんなたんこぶ、ケガのうちにも入らない。それに気を失っていれば、あの役立たずの警部でも確保をできるというものだ」
「確保? えっ、それって、もしかして……」
「詳しくは、後で話す。明智君のいる所でな」
「はいっ!」
「トラゾウも、それでいいだろ?」
「ガオッ!」
「問題は、どうやって病院に戻るかだな。阿部君パパは、もう車の整備に行っただろうし。給料据え置き警部には、あいつ史上一番の仕事ができてしまったし。あとは、白イノシシ会の若い衆しかいないが……」
阿部君が目を逸らしたな。うん、分かるぞ。私も恐い。なんと言っても、車の中は密室だ。逃げ場はないし、何かあっても目撃者がいない。
「仕方がない。タクシーを拾うとしよう。トラゾウはどこからどう見てもワンちゃんだから、きっと乗せてくれるさ」
「乗車拒否したら、それはそれで面白いですけどね。ねえ、トラゾウ?」
「ガッ? ガガオガオンガオガオガ」
タクシーの運転手さん、頼むから乗車拒否だけはやめてくれ。阿部君が溜め込んでいるストレスのはけ口は悲惨だぞ。私とトラゾウは阿部君を止めたい気持ちはあっても逆らえないから、無理やり笑顔を作りながら『チーム阿部君』を結成して数々の嫌がらせを忸怩たる思いでしないといけなくなる。ほ、本当に本意ではないから。まあ乗車拒否する方が悪いから喧嘩両成敗だな。ヒヒヒ。おそらくだけど、一週間は寝込むだろう。何回も言うけど、乗車拒否するのが悪いんだぞ。自業自得だ。
「時間も惜しいから、乗車拒否された時の教育はほどほどにしておくれ。私は反対だけどな」
「はいはい。タクシー代とタクシーの修理代は、リーダーが払ってくださいね」
「お、おう……」
そうか……。乗車拒否した運転手は、寝込むだけではなく、しばらく営業もできないようだな。よし、どうせなら派手にいこう。乗車拒否してくれよー。私は嫌々、阿部君の言う通りに動くだけだからな。あれ、待てよ。財布にいくら入ってたかな。記憶では1万円札は1枚もなかった。足りなかったら、病院にいる警視長に借りよう。きっとまだいるだろう。明智君の意識が戻っているなら、明智君に借りてもいい。無断で明智君のバンダナ型小物入れから財布をぬきだすのは、私の流儀に合わないからな。後で何をされるか想像もできないし。
もしタクシーの修理代が必要だったなら、警視長にも一緒に謝ってもらって少しでも安くしてもらおう。ついでに明智君も。警察のお偉いさんである警視長が凄みを見せている後ろで、明智君が狂犬病にかかっているかのような凶暴性を醸し出せば、上手くいけば修理代はほんの気持ち程度に収まるぞ。さらに嘘の半額キャンペーンでタクシー代まで安くなるかもな。
少しでもタクシー代を安くするために、とりあえず歩いて病院に向かうか。あまり早くタクシーが通りませんように。歩きながらの方が事件の概要をまとめやすいとか何とか言えば、嘘だと分かっていても阿部君は従うだろう。あまり文句を言うと、自分が払う羽目になりかねないからな。本当は迎車を頼むのが無難だと分かっていながらも、言わないのはそういうことだ。言い出した者が払うのが暗黙の了解となっているのだ。トラゾウはトラゾウで体力が底なしだから、嫌な顔一つしないだろう。空港からアジトまで走って来ても、ピンピンしていたもんな。
タクシーを拾うためには、当たり前だけど悪徳政治家宅から出ないといけない。そう、もう一度白イノシシ会の若い衆の前を通らないといけないということだ。あいつらのような強面が警備をしていることで、アリの子一匹近づけないのは良い案だった。まさか私たちが近づくのも恐いとまで考えられなかったのは、私のミスと言っていいだろう。だけど他に方法がなかったのも事実なのだ。私有地なので他人が入ってくることはまずないだろうけど、夫人のチワワ以外にもここには数々の生き物が生息している。現場を荒らされるのも困るが、まだ落ちているかもしれない毒入りドックフードをうっかり食べて明智君の二の舞いになってはかわいそうだ。それがアリの子であっても。
私たちは「お疲れさまでーす」と元気にはっきり素早く言って、白イノシシ会がいる前を足早に通りすぎた。鑑識はまだ来ていない。来ない可能性が高いが、その時は給料据え置き警部と白イノシシ会連合に任せるしかないな。何か証拠のような物が見つかっても採用されないが、犯人を追い込むくらいはできるだろう。それは期待しすぎか。給料据え置き警部と白イノシシ会がケンカをしなければ良しとしておこう。そして何より、これ以上被害者が出ないように願うだけだな。
正門まで来ると、給料据え置き警部の背中が見えた。頑張っている風を力いっぱい発揮しながら、ぼーっと立っている。ちなみに、この給料据え置き警部の頑張っている風は、それは見事なものだ。詳しく説明したいところだけど、今は急いでるので、そのうちに。興味ない人も大勢いるだろうし。
今あった事と給料据え置き警部にやって欲しい事を伝えるために声をかけようと近寄った時に、1台の車が給料据え置き警部めがけて猛スピードで飛んできた。運転しているのは、警視長だ。なので言うまでもなく、轢きはしない。ぎりぎりで止まった。
頑張っている風だった給料据え置き警部は、微動だにしない。強心臓だと誤解しないでおくれ。熟睡しているだけなのだ。立ったまま。私には見慣れた光景なので驚かない。しかし阿部君とトラゾウは目が飛び出しそうに驚き、警部の方の心配ではなく警視長の心配をしている。轢きでもしたら、犯罪者になるからだ。私たちの唯一と言っていい後ろ盾の警視長がいなくなったら、ひまわり探偵社は倒産だからな。
警視長だって、それくらいは理解している。その上で運転を誤ったのではなく、わざとギリギリで止まったのだ。おそらく一刻を争う事態なのだろう。警視長も給料据え置き警部が熟睡していることを知っていたので、そんな一見無謀なことをしたまでだ。例え当たらなくても、驚きひっくり返ってケガでもしたなら、轢いたことと変わらない。警察関係者なら、それくらいは知っているからな。
警視長は警部なんてお構いなしに車の窓を開け、私たちに呼びかけた。
「早く乗って! 明智君が……明智君が……」
てっきり明智君の意識が戻ったと言いに来てくれたと思った私の予想は裏切られたのは、警視長の強張った顔から理解できた。具体的に何も話してくれないことからも、良い知らせではないのは明らかだ。阿部君もトラゾウも、そう感じたのだろう。私たちは何も考えずに、警視長の車に乗った。
車が動き出しても、私たちの誰も話さない。行き先は病院だろう。警視長がどこから車を調達したのかも気にする余裕はなかった。先に帰ったヘリの副操縦士の人が、気を利かせて持ってきたのだろう。それよりも明智君の状態の方が気になる。なのに恐くて聞けない。警視長も運転に集中しないといけないのはあっただろうけど、どういう風に説明したらいいか分からなかったのかもしれない。警視長ほどの人でさえ。
病院に着くと、私たちは手術室へ急ごうとした。明智君はまだそこにいると勝手に思い込んでいたからだ。しかし車から降りるか降りないかで、警視長が呼び止める。そして思い出したように、明智君は集中治療室にいると説明してくれた。場所も詳しく。そして私と阿部君とトラゾウは急いだ。
よし、明智君はまだ生きている。最悪を覚悟した自分を戒めた。だけど警視長の雰囲気からして、決して楽観的にはなれない。明智君、私たちが来たのだから、もう大丈夫だぞ。絶対に助けてやるからな。
ただ、事態は深刻どころではなかった。集中治療室に着くとすぐに、中からマリ先生が何とも言えない顔で出てきて、私たちに話す言葉を選んでいる。同時に明智君の友だちとして泣き崩れるところを、医師としての使命感が支えているようだ。私は待てなかった。
「マリ先生、明智君は?」
マリ先生は無言で首を振る。え? 嘘だ。冗談と言ってくれ。今なら、まだ許す。私はもう一度尋ねた。
「明智君は助かったんですよね?」
「……明智君はよく頑張ったわ。並のワンちゃんなら、いえ、人間やゾウのような大きな生き物でさえ、あの毒を摂取していたなら、即死でしょうね。でも、明智君は……。ごめんなさい。自分の無力さが悔しい」
「何を言ってるんですか。明智君は即死ではなかったし、何十分も小康状態で病院に到着したじゃないですか。明智君が毒なんかに負けるわけないですよ。私たち、いや、世界中の人に愛されている明智君が」
「そう、明智君はまだ頑張ってる。だけど私には為す術もないの。こんなことは言いたくないけど……もう楽にしてあげて」
「ふ、ふざけるな! あっ、いや、ごめんなさい。だけど明智君が頑張ってるのに……。何か方法がありますよ」
「無理なの。できる事はすべてやったわ。このままだと、明智君の臓器は一つずつ壊れていって、今日一日もつかどうか。そしてその間もずっと苦痛が襲ってるのよ。痛いとも苦しいとも言えないだけで、明智君は……」
「マリ先生、私の体を好きに使ってくれて構わないから、明智君を助けてください。心臓でも何でも、すべて使ってくれていい。血液が必要なら、最後の一滴まで使えばいい。だから、明智君を……。私はもう何十年も生きたから十分だ。明智君はほんの5年くらいしか生きてないんだよ。頼むから私の……私の体を使って明智君を助けてください。お願いします」
「何言ってるの! そんなことできるわけないでしょ。例え人間と犬の間で移植が可能だとしても、倫理的に許されない。明智君だって望まない」
「明智君は確かに望まないかもしれない。だからそれは、明智君が寿命を全うしてから、私がこれでもかというくらいに叱られてあげる。明智君は、みんなのために生きないといけないだ。なあ、そうだろ、阿部君トラゾウ? そんな所で泣いてないで、一緒にマリ先生を説得してくれ。リーダー命令だ」
「……」「……」
「リーダー、諦めなさい。ひまわりとトラゾウだって辛いのよ。警視長だって、私だって……」
「嫌だー! 明智くーん! 聞こえてたら、返事しておくれ! まだまだ生きたいだろ? 美味しいドックフードだって、まだたくさん残ってるぞ。あの豪邸でお手伝いさんを雇って、余生を楽しくのんびり過ごすために頑張ってきたじゃないか。明智君、目を覚ますんだ。明智君なら、気合で毒なんて倒せるはずだ。負けちゃだめだ。明智君、明智君、明智君……」
泣きながら膝から崩れ落ちた私の肩に、マリ先生が優しく手をかけた。私にはもう抗う気力すら残ってない。
「いいわね、リーダー?」
いつしか私の両隣に阿部君とトラゾウがすり寄っている。それでも首を横に振ろうとしたら、阿部君が力いっぱいに私をぶん殴った。私に負けじと涙を流しながら。トラゾウは私の背中を優しくさすってくれている。自分だって悲しいし悔しいのに、私を慰めてくれているのだ。まだまだ子トラなのに。
明智君、ごめんよ。先に天国で待っていてくれるかい? 私も天国に行けるようにできるだけの事をするよ。もし無理そうなら、明智君が神様に頼み込んでくれるよね?
私は、首を縦に振った。
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真木ハヌイ
ミステリー
身近な心の問題をテーマにした連作短編。六章構成。狡猾で奇妙なカウンセラーの男が、カウンセリングを通じて相談者たちの心の悩みの正体を解き明かしていく。ただ、それで必ずしも相談者が満足する結果になるとは限らないようで……?(カクヨムにも掲載しています)
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
虹の橋とその番人 〜交通総務課・中山小雪の事件簿〜
ふるは ゆう
ミステリー
交通総務課の中山小雪はひょんなことから事件に関わることになってしまう・・・無駄なイケメン、サイバーセキュリティの赤羽涼との恋模様もからんで、さて、さて、その結末やいかに?
時の呪縛
葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。
葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。
果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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