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明智君……

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 阿部君の声は真剣そのもので、泣いているのも分かる。そして私が聞こえたのだから、トラゾウだって聞こえていた。
「ガーオー、ガガオ!」
 電話から聞こえる阿部君の声を打ち消すかのように、トラゾウが大声で叫んだ。と同時に私はトラゾウの方へ飛んだ。トラゾウを黙らせるためではない。トラが現れてパニックになろうが知ったことではない。私がトラゾウを守ればいいだけだ。だけど今はそれよりも、明智君が心配だ。私の大事な明智君が。
 私の打ったボールが明智君に直撃したのだろうか。いや、明智君の動体視力と反射神経を持ってすれば、避けるなんて容易い。たとえ美味しいお菓子に後ろ髪を引かれていたとしても。夫人のチワワだって、もうすっかり大人しくなっていたし、以前も言ったが本気を出した明智君に何かできるはずがない。考えていても意味がない。事態は切迫している。
「阿部君、明智君がどうしたんだ?」
「あっ、あ、明智君が……」
「落ち着きなさい。私がついている」
「はい。明智君が何かを食べたと思ったら、口から泡を吹いて倒れて……。意識がないんです」
「分かった。いいか、よく聞きなさい。まず、阿部君パパに電話をして、マリ先生を迎えに行ってすぐに病院まで送り届けるように、言うんだ。その後でマリ先生に電話して、明智君を治療してくれるように頼みなさい。私は警視長にドクターヘリを手配してもらうから、それで明智君を運んでもらう」
「は、はい……」
「明智君は不死身だ。そして何よりも、私たちを悲しませるような事はしない。だから落ち着いて行動しなさい」
「はいっ。でも、人間の病院でいいんですか?」
「犬も人間もトラだって、同じ命にかわりはない。マリ先生も警視長も分かってくれる」
「そうでした。すぐに電話しますね」
「ああ。私とトラゾウも、すぐにそっちに行く」
 人に落ち着けと言うのは簡単だ。私だって阿部君の立場にあったなら、取り乱していたに違いない。いや、はっきり言って、話を聞いただけで動揺している。トラゾウがそばにいてくれて良かった。
 物思いに耽っている場合ではなかった。警視長に電話だ。早朝だろうが深夜だろうが関係ない。どうかすぐに出てくれますように。
「こんな朝早くから電話してくるなんて、何かあったんですね?」
 やはり警視長だ。ただお礼を言う時間すら惜しい。
「はい。単刀直入に言います。明智君が生死の境を彷徨っているので、至急、ドクターヘリの手配をお願いします。場所は、悪徳政治家宅の事件現場です」
「分かりました」
 明智君、後で一緒にお礼を言いにいくんだからな。絶対に。
「よし、トラゾウ、明智君の元へ急ぐぞ」と言って初めて、私はたくさんの人の視線にさらされていることに気づいた。しかし構っている暇はない……いや、少しだけ。
「緊急事態なので、ここで帰らせてもらいます。ご協力ありがとうございました。それと、このトラのトラゾウの事は内緒にしてもらえませんか? 決して人を襲わない心優しいトラなんです。お願いします」
「分かりました。そのかわり、時間があったら、また助っ人に来てくださいね。もちろんトラゾウも」
「ありがとうございます。では」
 私が急ごうとしているのに、トラゾウが何か言いたげに私を見つめている。
「大丈夫かい?」
「ガオ!」
 私は、明智君よりもほんの一回り大きいだけのトラゾウに乗せてもらい、風になったかのように急いだ。明智君、今行くからな。頑張るんだぞ。
 いざ、目の当たりにすると現実とは思えなかった。身動き一つしない明智君に、阿部君が泣き崩れて必死に呼んでいる。トラゾウもすぐに阿部君に同調した。私もそうしたいのは山々だ。しかしリーダーの私には、やらなければならない事がある。リーダー業を放棄したなら、明智君に怒られるからな。
 私は、訳あって携帯電話に登録してある白イノシシ会組長の電話番号を見た。非通知でかけた方がいいのだろうか。暴力団に電話番号を知られたくないからな。明智君に迷惑がかかってしまう。だけど非通知で、あいつは出てくれるのだろうか。出なければまた考えよう。ピッピッ……出やがった。それも早い。
「もしもし、白イノシシ会の組長か? 私だ」
 落ち着いているように見えるが、私は頭がおかしくなりそうなので、礼儀知らずは許してもらおう。
「私? 誰だ? それもこんな朝早くから。果たし状なのか? 受けてたつぞ」
「違う! お前から300万円ほど奪ってしまった、怪盗だ」
「なんだと。やっぱり、果たし状だな。よし、今すぐ来い。ボコボコのギッタギタにしてやる」
「だから違うって言ってるだろ。それに、あの300万円は解決済みじゃないか。だけど今は、ああだこうだ言っている暇はない。実は、ある元政治家宅で、お前と仲の悪い白シカ組組長が襲われたんだ……」
「なにー! 本当なのか? それでワシを疑って……」
「いいから、最後まで話を聞け! 疑ってないこともないが、他にもっと疑わしい奴がいる。そんな事よりも、事件現場に来て、誰も近づかないように見張っていてくれ」
「……。お前は自分で何を言ってるか分かっているのか? 少なくとも容疑者の一人になりえるワシに、事件現場を見張れだと? 分けのわからん怪盗なんかに命令されるのは気に入らんが、それよりも事件現場に来いと言われて行くと思っているのか? 何かの罠だろ。怪盗のくせに警察のような話しぶりだし」」
「言葉足らずは謝る。それに罠でもない。でも確かに今は警察に協力している。と言えば、余計に理解してくれないか。すまん、上手く順序立てて話せていないのは謝る。私の大事な明智君が瀕死なんだ。事件現場で毒入りのドックフードを食べさせられた」
「え! あ、明智君……。誰だ? なぜ人間がドックフードを? お前、本当に大丈夫なのか? 話がめちゃくちゃだぞ」
「明智君は、ゴールデンレトリバーだ。ライオンの覆面を被ったゴールデンを知っているだろ?」
「それって、まさか……。私にフライングボディアタックをしてきたやつか?」
「そ、そうかもしれない」
「なるほど。若い衆を連れてすぐに行く。誰一人とも指一本近づけないから、安心しろ」
「助かる。だけど、お前のところのシェパードのゴンベエ君は連れてきてはだめだぞ。まだドックフードが落ちているかもしれない」
「権兵衛が行けないなら、ワシも行かない。だけど若い衆だけは行かせるから。ワシがいいと言うまで見張らせる。それでいいだろ?」
「ああ。だけどどうして急に、お願いを聞いてくれたんだ?」
「あの明智君だろ? 私を一撃で倒すなんて、なかなかの奴だ。それにそんな姑息な方法でワンちゃんを痛めつけるなんて、許されないだろ。絶対に捕まえてくれよ。あっ、それと、白シカ組をやっつけるのは、私の役目だからな。同一犯だったなら、そいつに笑顔で優しく言っておいてくれ」
 白イノシシ会組長との交渉を終えてすぐに、私は悪徳政治家夫人に話をしに向かった。夫人はきっといる。呼び鈴を押しても反応がない。しかしここで遠慮していられないので、ドアを壊してもいい覚悟で、ガンガンドンドン叩いた。
「なんですか! 警察呼びますよ」
「夫人、緊急で大事な話があります」
 私の真剣さが通じたようで、夫人はいくらか態度を柔らげてくれたように見える。
「分かりました。手短に仰ってください」
「明智君が死にそうなんです」
 夫人は明智君の名前なんて覚えてないかもしれない。だけどそんな事を考えて話せるほど冷静ではない。それに言いたい事はそれではない。しかし言葉が続かなかった。すると、怪訝な顔一つせず、夫人が対応してくれた。
「明智君て、あのバカ面のゴールデンかしら?」
「はい。助けてください」
「私に何ができるって言うの。残念だけど、医者ではないんですよ。気持ちは痛いほど分かるけど、まず、あなたは落ち着きなさい。そうしないと助かるものもで助からなくなるでしょ」
「そうですねそうですね。私が言いたかったのは……明智君を病院に運んでもらうためのドクターヘリを、ここに着陸させてください」
「いちいち断らなくても大丈夫よ。緊急事態なんでしょ。あなたは、明智君ちゃんのそばに付いていなさい」
「ありがとうございます。まだあるんです。明智君は落ちていたドッグフードを食べてから倒れたので、夫人のかわいいチワワから目を離さないでくださいね。現場には、まだいっぱいあるし、他の場所にあってもおかしくないので」
「分かったわ。私のワンちゃんがチワワだと、あなたが知っていることには触れない方が良さそうね」
「そ、そ、そ、そうですね。迷惑ついでに、もう一つ」
「まだあるの? ついでだから言いなさい」
「ちょっとした知り合いに、事件現場の見張りを頼みました。警察官ではない、どちらかと言えば警察のお世話になる者たちが、大勢来ると思います。庭をうろついていても、そっとしておいてください。迷惑はかけないと、私が保証します」
「そんなの警察の仕事でしょ。それにあなたの保証なんて……」
「今は詳しくは言えませんが、真犯人は警察関係者の可能性が……」
「そ、そうなの?」
「まだはっきりしてないので、ご内密にお願いします。あと……夫人、後ほど事情聴取に協力してもらいます。夫人が犯人でないのは確信してますが、隠している事がありますよね?」
「……。早く明智君ちゃんの所に行ってあげなさい。ヘリコプターの音が聞こえてるじゃない」
 さすが警視長だ。こんなに早くヘリを寄こしてくれるなんて。
 私は急いで明智君の元へ戻った。ちょうどヘリが着陸しようとしている。リーダーとして、今やらなければならない事をすべて終えた私の頭の中は、明智君しかいなかった。そして私の理性は飛んだ。
「明智君! 明智君! 明智君! あけちくーん! 目を開けてくれ、明智君! 私を一人にしないでおくれ。明智君! 明智君、人生まだまだこれからだろ! 明智君! 明智君! すぐに助けてあげるからな。私の命にかえてでも。だから……。あーーー!」
 気づけば私はヘリの中で明智君を抱いていた。病院に向かっているのだろう。阿部君とトラゾウもいる。泣いているだけだ。明智君はピクリとも動かない。
 明智君……。そうだな。こんな時こそ、リーダーらしさを見せないとな。涙だけは止めようがないが。
「阿部君、トラゾウ、明智君は眠っているだけじゃないか。なのに、そんな悲しい顔をしていたら怒られるぞ。なあ、明智君?」
「はいっ」「ガオッ」「……」
 一番取り乱していたのは、お前じゃないかと誰も言わない。そんな軽口は、明智君が助かってからだ。
 めちゃくちゃ泣いた私たちは、ヘリが病院に着くころにはいくぶん冷静になっていた。阿部君パパがマリ先生を病院に連れてきてるか心配をする余裕があるほどには。しかし阿部君パパは完璧に任務を遂行してくれたのだ。
 病院のヘリポートのすぐ前には、すでにマリ先生を含む医療チームが待機してくれていた。しかし、それはそれほど驚くことではないのだろう。阿部君パパだって二軍とはいえ我々怪盗団の仲間なのだ。明智君のためなら、本領を発揮できる。ただ、明智君を抱いてヘリを降りた時に驚かせられる出来事があった。
 なんとヘリのコックピットから警視長が出てきたのだ。コックピットからはもう一人出てきたので、どちらが操縦していたかまでは分からないが、警視長が操縦してきたと私は確信している。どうやら私たちが乗っていたのは、ドクターヘリではなく警察のヘリだったようだ。事情は分からないが、警視長が最善を尽くしてくれたのは言うまでもない。
 しかしただ単純に驚いた私は、抱いていた明智君を落としそうに……いや、落としてしまった。阿部君とトラゾウが身を挺して下敷きになってくれていなかったなら、私は後々明智君にしばかれていただろう。ありがとう、阿部君、トラゾウ。そして明智君には内緒にしておいてくれないだろうか。いや、今は自分の事なんてどうでもいい。
 急ぎ再び明智君を抱きかかえ、私は医療チームが用意しておいてくれたストレッチャーまで運んだ。言うまでもなく人間用だ。そしてそこにいる誰もが当たり前に行動してくれている。医療チームの誰一人として怪訝な顔一つ見せない。それどころか、明智君を乗せると同時に走り出してくれた。絶対に助けるという意思を、私は感じることができた。マリ先生だけが取り残されている。マリ先生は主治医になってくれないのだろうか。
「時間との勝負だから、走りながら説明して」
 涙の跡が残る顔でマリ先生が力強く言ってくれた。明智君がマリ先生以外の人を主治医にするわけがない。マリ先生も分かっている。明智君を乗せたストレッチャーに遅れないように、私たちは走った。
「はい。一緒にいた阿部君が説明してくれます。阿部君、頼む」
「はい」
 説明と言っても、ただ落ちていたドッグフードを明智君が食べた以外に言えることはないだろう。それでも阿部君のお手柄が一つあった。なんとサンプルになりえるドッグフードを3粒ほど持ってきていたのだ。私は阿部君に対してここまで感謝したことのないくらいに感謝した。これで明智君が助かる確率が格段に上がったはずだ。
 私たちの後ろから付いてきていた警視長が一つ受け取り、2つをマリ先生が取った。警視長はすぐさま引き返す。マリ先生は医療チームの一人に渡して、すぐに検査してくれるように言った。警視長は私たちが手術室の前に来るまでには追いついてきたので、ヘリの副操縦士の人に渡してきたのだろう。白シカ組組長を襲ったのが警察関係者だと疑っていた私は少し不安になったが、今の段階で言えるはずもない。警視長が信用しているのだから、それに値する人だと信じることにした。
 私たちは手術室に入れるわけがないので、外で待機するしかなくなった。明智君のためにこれ以上何もしてやれない自分が歯痒かった。阿部君もトラゾウも同様だ。私たちにできる事は、本当に祈る事だけなのか? いや、違う。
「阿部君、トラゾウ、捜査に行くぞ」
「はいっ!」「ガオッ!」
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