上 下
33 / 62

被害者は……まさかのあの男

しおりを挟む
 集中治療室の匂いで、予防注射をされた時の事を思い出したのか? あの時の事は今でもトラウマだもんな。注射が嫌すぎて暴れる明智君は、獣医さんをボコボコにしてしまったのだ。なけなしの給料をはたいて、私はお詫びの品をこれでもかと買って謝りに行った。一ヶ月の間、一日一食は本当に辛かったよ。明智君はしっかり3食だったけどな。それに明智君も一緒に謝りに行っているはずのに、明智君が私の後ろで睨みを利かすものだから、獣医さんは怯えながら私にちくちく文句を言い続けた。何度、明智君をけしかけてやろうかと思ったことか。しかし二度も獣医さんを襲ってしまうと、確実にブラックリストに載る。私は平身低頭で獣医さんからの叱責に耐えた。
 医療用アルコールの匂いを嗅ぐたびに、あの時の飢餓感や屈辱感や絶望感や無力感などを思い出す。うん? トラウマになっているのは、私……私だけじゃないか。予防注射の再挑戦では、明智君は鼻歌交じりで受けていたぞ。むしろ怯えていたのは、獣医さんの方だった。
 じゃあどうして明智君はこんなにも思い詰めたようになっているんだ? ああ、そうか。被害者がとてつもなく臭かったのだな。ごめんよ、明智君。
 捜査とは必ずしも華々しいものではない。地道な事もして、汚れる事もあり、目を逸らしたいものでもしっかりと直視して、近寄りたくものにも至近距離まで近づき、より好みせずにあらゆる不快なものから逃げてはいけない。誰もやりたがらない事でも何でも率先してやる強い心が必要なのだ。
 と、阿部君と明智君を前にして演説したいが、やめておくか。阿部君と明智君が私の話を聞かないからではない。これ以上尊敬されると、私を神格化しかねない。そうなると今までのようなフレンドリーな怪盗団が、重々しい存在になってしまう。それは私の好みではないのだ。やはり怪盗は楽しくないと絵にならない。
 理想の怪盗論は置いとくか。今は名探偵……探偵王の本文を全うする時だ。うーん、事件が解決するまでは名探偵のままでいいか。まだ探偵王の肩書きに慣れていないし、何より私は謙虚だからな。
 謙虚な私が天才的な推理を続けるぞ。明智君が落ち込むくらい臭かったのなら、被害者の家まで辿るのも容易だろう。さらに、その匂いが加害者にも残っている可能性がなくもない。しかし悪徳政治家夫人に対して、明智君は臭い素振りは一切見せなかったな。夫人は犯人ではないのだろうか。本人の匂いならまだしも、付着した匂いなんて一日あれば取れる。どちらにしても被害者が判明すれば、夫人との関係だってすぐに分かる。動機も、被害者の匂いが加害者の逆鱗に触れたと考えれば、裁判官は十分に納得する。仮に夫人が犯人でないにしても、被害者の身元が分かれば事件は解決したようなものだ。名探偵の私には十分すぎる情報となるのだから。
 謙虚な名探偵の私が名推理を誰に披露することもなく一人ボソボソと呟いている間に、阿部君が戻ってきていた。明智君が出入りした後の集中治療室でパニックが起こらなかったからだな。よほどゆっくりじっくり慎重に確認したのか、随分と時間が経っていたが。私はてっきり阿部君は家まで帰って鍵を閉め閉じこもっていたかもと思っていたが、見つからないようにこっちを監視していたようだ。怪盗のスキルが生きたようだな。阿部君が実戦でそんなスキルを一度として使ったことはないが、この私ですら気づかなかったのだから、ほんの少しだけ見直したぞ。
 褒めて伸ばそうとした私には目もくれず、阿部君はすぐそばまで来て明智君を心配そうに見ている。もしかしたら明智君が豪華な晩ごはんを食べられる体調にないかもと気が気でないのかもしれない。豪華な晩ごはんはみんなで食べた方が美味しいのだ。でも体調が悪いのが私だったなら、阿部君はそこまで心配しただろうか。するに決まっている。豪華な晩ごはんを作るのが私の役目なのだからな。いや、私が具合が悪かろうが、阿部君は料理をさせるだろう。さらに無理やりにでも料理を食べさせる。それも美味しそうに食べるように優しく助言するだろう。片手に包丁も持ちながら。もちろんその包丁で阿部君が料理することはない。ただの凶器だ。結果、栄養をつけた私はすぐに元気になる。阿部君のおかげだと感謝する。阿部君の意図はそこにあったのだろう。やはり阿部君は私の事も心配してくれたということだな。
 私が必死に阿部君をいい人にこじつけていると、私に聞かれたくないのか、阿部君が明智君の耳のそばまで顔を近づけてヒソヒソと何か言っている。かろうじて明智君もボソボソと呟いたようだ。なんだろう? こんな疎外感は初めてだ。いつもの2対1の構図とはかけ離れている。私を無視するにしても、蔑んだ視線を送ってくるのがお約束だろ。今の二人は、まるで私には一切関わりたくないようだ。ああ、そうか。マリ先生に聞かれたくないのだな。きっと。
 気づけば、阿部君までもが明智君のように焦点が合っていない目で、答えのない答えを探している。この世の終わりを確信しているかのようにも見える。マリ先生が二人の目の前で手を振っているのに、瞬きすらしない。このままだとマリ先生は精神科の医師を連れてきかねない。解決できるのは私だけだというのに。これは私たち探偵団ではなく、怪盗団の方に関係があるに違いない。なのでマリ先生がいては話しづらいだろう。まずはマリ先生に消えてもらわないとな。阿部君と明智君に私の声が届くなら、私たちが立ち去りたいところだけど、まだ難しいな。
「マリ先生、この二人は仕事で何か大きなミスをしたのを思い出したようです。こんな事は日常茶飯事なのに、いつもこうなるんですよ。部外者の人がいると告白しづらいだろうから、席を外してもらえないですか?」
「本当ですか? 逆ではなくて? ミスするのは、あなたのように見えるというか確信してますけど。でもまあ、どちらにしても、私がいない方が話しやすいわね。二人とも役立たずのおじさん相手に、ムキになって暴力を振るわないでね。気持ちは分かるけど、パワハラか傷害で訴えられるだけだからね」
 ひどい言われようだな。阿部君と明智君がこうなってしまった時に、少しでも私が関わっていたか冷静に考えてくれないだろうか。医師は頭がいいのだから。どう考えても、明智君が被害者に接見したのがきっかけになったはず。そしてその瞬間に、マリ先生は立ち会っていただろ。
 マリ先生への仕返しは後々考えるとしよう。今は、もう少しだけ大事な事がある。それは明智君と阿部君がおかしくなった理由を考えないといけない。
 明智君だけがおかしくなっていたなら、被害者が臭かったで終わらせることもできた。しかしよく考えてみれば、第一発見者である阿部君はそんな事は一言も言ってない。犬である明智君の鼻と比べてはいけないとは言っても、明智君が廃人のようになるほどの匂いなら、阿部君だってそれについて何か言ったはずだ。
 明智君は被害者の匂いで誰かが分かったのだ。それもただ知っているというレベルではない。一応断っておくと、阿部君だけでなく明智君も、この被害者を痛めつけた犯人ではない。根拠も証拠もない。ただ、私は阿部君と明智君を知っている。それだけで十分だろう。
 ではどうして阿部君と明智君が、まるでこの世の終わりのようになっているのだろうか。被害者が阿部君と明智君にとって大事な人というわけではない。それなら悲しみに暮れるはず。この二人に人の心があるなしは考慮にいれない。私が知らないだけで人並みに悲しくなることだってあるのかもしれないのだから。
 高度な消去法を駆使した結果、私が導いた答えは、知っているが会いたくない人だ。かつ二人に共通の人物だろう。候補は二人いる。確かそのうちの一人は、お願いを聞いてくれるなら、すべて水に流すと言ってくれた。聞いたのは私だけだったが。二人は私を置いてそそくさと逃げた後だったからな。だけど、私は二人にその旨を伝えたはず。もう一人の方も不思議と似たような展開になった。しかし、私は二人に肝心な事を伝えなかったのかもしれない。わざとではない。それどころではなかったし、先の人と似ているのだから、二人が察したと勘違いしていたのだろう。というわけで、被害者を、私は断定できる。
 万年巡査部長から巡査に降格した元年下上司は、この被害者の服がセンスが悪いとか言っていたな。個人をバカにするつもりはなかっただろう。ただ思った事を何も考えずに発言しただけだ。あいつは、そういう奴なのだ。
 そんな元年下上司の新巡査は、被害者が誰だかを知らされた時にチビるだろう。そして私たちに懇願する。あの発言を忘れてくれと。私は、元年下上司の新巡査の相手なんてしていられないので、生返事をするだろう。明智君は口止め料を要求したいところだけど、恐喝という犯罪になるかもしれないよと助言されて、泣く泣く諦める。悔し紛れにくしゃみを浴びせることだけは忘れないが。阿部君はここぞとばかりに、説教という名の助言をするのだろう。嬉々として。私は見て見ぬ振りをする。これで阿部君のストレス解消になるのだから。いや、見て見ぬ振りは嘘だ。阿部君の後ろで明智君とともに必死で笑いを堪えているのが目に浮かぶ。
 答え合わせをしよう。被害者の身元の答え合わせだぞ。元年下上司の新巡査に対する明智君と阿部君の対応ではないからな。すると、涙目の明智君が私の足に、涙と鼻水を遠慮なく垂れ流している阿部君が私の手に、しがみついてきた。泣くほど嬉しいのだろうか。元年下上司の新巡査に対する仕打ちが。分からなくもないがな。
 いや、でも、今の二人は元年下上司の新巡査の事なんて眼中にない。普通に怯えているだけのようだ。それでも阿部君はこんな時でも、私の服で涙と鼻水を拭いている。明智君は涙と鼻水が出なかったのが悔しそうに見えなくもない。こんな本気で泣きながら私を頼りにしている二人を見たのは初めてだ。これにより私は自分の推理の正しさを確信した。
 被害者が着ていた服を見せられた時にピンと来るべきだったかもしれない。今どき、和服の裃を普段着にしている人なんて知れているのに。私がそんなミスをするなんて、どこかで驕りがあったのだろうか。シャーロックホームズを継ぐのは自分だと。うーん、ここは初心に帰ってホームズの好敵手で妥協しておくか。遅まきながら被害者が誰かを突き止めたし。何よりも本職は怪盗なのだからな。
 阿部君と明智君は放心状態からは抜け出したので、ひとまず一人と一頭を連れて駐車場で待っている阿部君パパの車に急いだ。そこでなら、人に聞かれたくない話を気を使わずにできるだろう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

嘘つきカウンセラーの饒舌推理

真木ハヌイ
ミステリー
身近な心の問題をテーマにした連作短編。六章構成。狡猾で奇妙なカウンセラーの男が、カウンセリングを通じて相談者たちの心の悩みの正体を解き明かしていく。ただ、それで必ずしも相談者が満足する結果になるとは限らないようで……?(カクヨムにも掲載しています)

虹の橋とその番人 〜交通総務課・中山小雪の事件簿〜

ふるは ゆう
ミステリー
交通総務課の中山小雪はひょんなことから事件に関わることになってしまう・・・無駄なイケメン、サイバーセキュリティの赤羽涼との恋模様もからんで、さて、さて、その結末やいかに?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

時の呪縛

葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。 葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。 果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...