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第三章

シガーキス

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 あくる日放課後の教室で先輩と安部さんと一緒に勉強しようとしていると那須が語りかけてきた。
「俺も混ぜてくれよ」
 期末試験が近づいてきているので他にもちょこちょこ勉強しているグループがいる。
「もちろん良いけど、部活は大丈夫なのか。夏の予選ももうすぐなんだろ」
 一年なのにレギュラーであることは以前に聞いていた。それなのに練習しなくて良いのかと疑問だったのだ。那須は笑いながら言った。
「知らねーのか。試験期間前は部活禁止なんだよ。まあ素振りぐらいは自宅でもできるけどな」
 知らなかった。まあ文芸部は適当だし、禁止なのは体育会系だけなのかもしれない。机を並べて四人での勉強が始まった。
 やいのやいのと皆で勉強するのは効率の面から言うと悪いのかもしれないけれど楽しい。

 しかし僕はしばらくするうち気づいてしまった。やっぱり先輩の学力は伊達じゃない。英国数理社、すべてにおいて隙がない。せいぜい理数系で那須が同じぐらいの学力があるぐらいだ。
 これではほとんど先輩が誰かに教えてもらうということがない。先輩がひたすら他の誰かが分からないところを教えてあげるだけだ。ギブ&ギブだ。

 だけれども安部さんが説明を受けて
「なるほど~。そういうことだったんですね。すごく分かりやすくて助かります」
 と仕切りに頷いている顔は全く悪気がないのでなんとも言えない。そして安部さんは恐らく皆が敢えて黙っていたであろう言葉を言ってしまう。
「なんか私が先輩や那須君からばっかり教えてもらってませんか」
 
 先輩は屈託のない顔で微笑む。
「そうかしら。私はそう思わないけれど。気のせいじゃない」
「気のせいですかねえ?」
 安部さんが似合わない申し訳無さそうな顔で答えた。そして僕の方に顔を向ける。
「杉山はどう思う?」
 そこでなんで僕に聞くんだろう……。と思うが先輩に話を合わせる。
「気のせいだと思うよ」
 安部さんは首を傾げながらまた勉強をし始めた。僕と先輩は目を合わせて笑った。その後しばらくして安部さんが先輩と那須に教えを乞うたのは言うまでもない。
 
 基本問題の解き方は決まりきってるがちょっとひねった問題になると個性が出る。先輩は良く言えば堅実だけれど悪く言えば鈍くさい解き方だ。一方那須は発想力を存分に発揮した華麗な解き方だった。

 ガシガシ問題を解いていた先輩が一呼吸入れた。ちょっと疲れたような顔で放心している姿も魅力的だ。
「もうこんな時間。早く帰らないと親がうるさいから」
 時計を見て先輩が言った。確かに先輩の入った通り、わりかし時間が経った。だけれども外を眺めるとまだそんなに暗くない。夏が近づくにつれて日没時間が遅くなっているからだろう。

 安部さんが先輩に続けて言う。
「じゃあ私も一緒に帰ります。結構疲れました」
 僕と那須は顔を見合わせる。結局皆帰ることになった。下駄箱のところで那須が言った。
「じゃあ俺はバスだから」
「あ、私も」
 そういうわけで安部さんと那須はバス停の方に行ってしまった。

 僕達は取り残された。
「先輩もすぐ帰るんですか?」
「当たり前じゃない。することもないし。じゃあ杉山君。一緒に帰りましょう」
 たいしたことではないのにこれから二人きりで下校するのだと思うとやけに緊張する。そのせいで動作がちょっとぎこちなくなる。誤魔化そうとすると余計おかしな動きになる。
「どうしたの。体調悪いの」
「何でもないです」
 不審な僕を先輩は心配そうにしていた。

 だがやがてその原因を察したのだろう、こんなことを尋ねてきた。
「ひょっとしてこんな風に女の子と二人で帰るの初めてだったりするの?」
 はいと答えることができなくて押し黙る。でもそれは肯定を意味してしまう。慰めの言葉が掛けられる。
「恥ずかしがること無いよ。そういうところ可愛くていいんじゃない」
「じゃあ先輩はあるんですか。こういうこと」
 ちょっと間を開けてから先輩が答える。
「あるよ。何回もね」
 
 緊張していたのが何だか馬鹿らしい。全てが先輩の悪ふざけなんじゃないかという気すらする。そういう思いが浮かんでも心臓が高鳴るのを抑えきれない。
 自転車置き場に近づくともう時間が遅いからだろう。ほとんど空だった。僕の自転車の周辺もすっかり引き払われている。それなのに先輩はいつまでもついてくる。疑問に思った僕はこう尋ねた。
「自転車持ってないんですか。もしかして乗れないとか」
「失礼ね。自転車ぐらい私でも乗れます。歩いて五分だから持ってないのよ。わざわざそのためだけに学校指定のもの買うのも馬鹿らしいじゃない」

 そういうことかと思いながら鍵を開け、自転車に乗ると衝撃を感じた。振り向くと荷台に先輩が。腰に手を回される。突然のことに叫び出しそうだったが平静を装って聞く。
「何してるんですか」
 先輩が笑って、僕を見つながら答えた。
「見て分からないの。二人乗りよ」
 
 二人乗りをするのはいつぶりだろうか。曖昧な記憶を辿ると小学生の頃に友達を乗せて以来かもしれない。当然だけれどペダルの踏みごたえがいつもより重い。先輩の分の重さだ。でもその重さすら心地良い。
 なにぶん久しぶりなので安定しない。速度も出ず右へ左へのよろよろ運転だ。必死にバランスを取ろうとする。先輩に後ろから背中を叩かれ、鼓舞される。
「ほら、しっかりして。振り落としたらぶん殴るからね」
 先輩から指示された方向にハンドルを切りながら自転車を漕ぐ。
「ところで歩いて五分ってことは自転車だったらすぐついちゃうんじゃないですか」
「勘がいいじゃない。その通りよ。だから寄り道しちゃうの」

「ここで止めて」
 そこは学校からちょっと離れた公園だった。そばには大きな川が流れていて、人の事情など知らない鯉がのんきそうに泳いでいた。先輩が川を眺めながら言った。
「ハンスが落ちた川もこんなふうに綺麗だったのかな」
「また『車輪の下』ですか。好きですね」
「悪い?」
 
 先輩は自転車から降りると手招きしながら言った。
「こっちへ来て」
 僕は黙ってついていく。導かれた先は奥まった草むらの中だった。建物の影になっていることもあり外からでは一瞥しただけでは人がいるとは分からないだろう。こんなところで一体何をしようと言うのか。
 
 先輩はポケットを漁って何かを取り出す。それはライターとタバコの箱だった。大して驚きはなかった。この人ならこの手のことをやっていても不思議ではない予感があったから。
 タバコの箱は随分とくたびれた感じだった。まさか箱を使い回すわけでもないし、先輩の吸うペースが遅いのかもしれない。

 先輩が僕にタバコを差し出す。
「君も吸わない」
 小さな声で反駁する。
「駄目ですよ」
「なんで一本ぐらい吸っても癌になんかならないよ」
 その言葉は先輩らしくもなく純粋な疑問を表していたように思えた。本当になんで駄目なんだろうか。

 本気で思ってもない言葉を口にする。
「法律で禁止されてるでしょ」
「真面目なのね」
 先輩はクスリと笑いながら僕を馬鹿にする。
「だいたい自転車の二人乗りだって道交法違反よ。お国はいたいけなカップルが青春するのが気に入らないのね、きっと」
 
 そんなこと全然知らなかった。
「それに一本ぐらいバレやしないじゃない。ここらへん人気が少ないし」
 そう言われてタバコを再び差し出されるともう抗うことが出来なかった。先輩の手からタバコを受け取り、口に咥える。
 さらにライターを借りるがうまく火をつけることが出来ない。なんというのだろうか回転するギザギザをうまく扱えないのだ。ボタン式だった良かったのに。
            
 しょうがなく火をつけてくださいと言おうとした時に先輩が急に顔を近づけてくる。僕は驚いて後ずさりして尻もちをついてしまった。先輩は心配して声を掛けてくれる。
「大丈夫?」
 本当は痛かったけれどそんなふうに言うのは格好悪い。
「大丈夫ですけど、何するつもりだったんですか? いきなり顔を近づけて」
 先輩はニヤつきながら尋ねる。
「何だと思う」

「キ、キスとか」
 小さな声でまごつきながら答えた。我ながら恥ずかしいが先輩の顔が目の前に来た時にぱっとそのことが思いついたのだ。
 先輩は本当におかしそうに口に手を当てて笑った。もう一度顔を近づけて尋ねる。先ほどよりもずっと近くておでことおでこが少し付くほどだ。
「しちゃうキス?」

 からかいだとは分かっているのに胸が騒ぐ自分が情けない。
「そんなこと言ってると本当にしちゃいますよ」
 精一杯真面目な顔で答える。
「動かないで」
 また顔が近づいてきた。そして先輩は僕のタバコと自分のタバコをくっつけた。ああ、なるほどそういうことか。

 先輩はちょっと得意な風で言った。
「これがシガーキスよ。フリント式ライターは慣れてないと難しいかもね」
 でも火はつかないし、当然煙も入ってこない。
「吸わないと」
 僕は恐る恐る吸う。煙にたまらずげほげほとむせる。

 そんな僕を見て先輩は笑いながら上目遣いで聞く。
「初めてのタバコはどう」
「正直に言っていいですか」
 先輩が僕の目を見つめながら答える。
「もちろん」
「すごい不味いです。それに苦い」
 
 なんとも形容しがたい味だけど少なくとも不味いということは言える。それに先輩が吸い出した時から思っていたけれど臭い。どうして大人はこんなものを吸うのだろう。

 先輩は愉快そうに答える。
「そうでしょう」 
だけどからかっていた先輩も咳込み始めた。今度は逆に僕が笑う。
「久しぶりだったからね」
 僕はとてもまずいのに捨てるのが名残惜しくて咳き込みながらタバコを吸い続ける。
「そこら辺でもう捨てるのよ」
 と忠告されても聞かずにフィルターギリギリまで吸った。口の中に残る苦い味がなんだか愛おしい。

 先輩はタバコの空箱を見つめていた。
「捨てちゃえ」
 そう叫んで先輩はタバコの空箱を投げ捨てた。拾ってタバコの吸殻と一緒にゴミ箱にきちんと入れる。

 先輩が笑い声を上げる。
「本当に真面目なのね」
「いつから吸い始めたんですか」
「そんなに昔からってわけじゃないわ。不登校になってからちょっとグレちゃったことがあってね。その時悪い友達に誘われたの」
 
 呆れて言う。
「ヤンキーですか。あながち噂も馬鹿にしたもんじゃないですね。でも先輩と不良は似合いませんよ」
 くすくすと先輩が笑う。
「その通り。そんなに悪い人たちじゃなかったと思うけどなーんか、分かんないけどぴったしこなかったのよね。まあ、あまりに阿呆だったところに愛想が尽きたのかも」
 そう言ったきり先輩は黙ってぼんやりと立ち尽くした。まるでここではない遠い世界を見つめているようだ。僕は掛ける言葉を持ち合わせていなかった。
 
 かなり時間が経ってから先輩は思い出したように僕に言った。
「そろそろ答えは見つかりそう」
 僕はしばらく考え込んだ。自分の中にあるけれども簡単には取り出せいない言葉を少しずつ絞り出していく。
「なんて言うんですかね。どきどきしたり、感情が揺れ動かされたりすることが大切なことなんじゃないですかね。あるいはそれに没入して他のことなんて全く気にならなくなるようなこと。なんか抽象的ですいません」
 先輩が僕の答えに詳しく感想を述べることはなかった。

 その代わりに銀色の腕時計で時間を確認しながらこう言った。
「なるほどね。それはそうとして帰りましょう」
 腕時計によって先輩の腕はよりいっそう細くて白く見えた。僕がそんなところを見ていることなど知らないだろう先輩は付け加える。
「家まで送ってね」
 僕は半ば呆れながら答える。
「タバコを吸って答えを言わせるためだけにここまで連れてきたんですか」
「悪い?」
 そう言った先輩の表情はとても魅惑的で僕は何も言い返せなかった。

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