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第三章

本当に大切なこと

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 交流合宿が終わってしばらくすると中間試験があった。高校に入って初めての定期テストだ。期間としては三日もあったのに体感としてはあっという間に終わってしまった。
 どの科目でも、そして総合成績でも掲示板には先輩の名前が書かれていた。うちの学校では成績上位者が廊下に張り出されるのだ。残念ながら僕の名前はそこにはなかったが。
教室に戻ると先輩が夏服姿で『人類よ立ち上がれ! ムーンマトリックス』という怪しげな本を読んでいた。今日から衣替えなのだ。

「見ましたよ。総合学年三位だなんてすごいじゃないですか」
 話しかけると先輩は妙に不満気な表情でぼやく。
「ちっとも凄いことじゃないわよ、そんなの」
 そして矢継ぎ早に体育祭が近づいていた。先生の告知に対してクラスの反応は交流合宿の時と概ね同じようなものだった。疲れるだのとネガティブなことを言いつつなんだかんだ嬉しそうに喋っている。
 中には素直に喜んでいる体育会系の人すらいる。もっとも運動なんて死んでもやりたくないというねっからのインドア系は本当に嫌そうだけれども。僕の後ろの先輩もそのようでいつにまして憂鬱な顔をしている。

「高校生活って次から次に行事がありますね」
 先輩は横を向いたまま答える。
「本当にそうね。重要な事を忘れさせようとしているのよ。次から次からへ重要じゃないことを目の前に突き付けてね。その処理に必死にさせる。周りを見て。無邪気そうに喜んでいるわ。あるいは嫌がっていても結局はそれに気を取られている時点で大差ないわ。本当に大切なことが見えていない。拳銃の照準を合わせられてるのに靴紐が解けているのを気にするなんて死ぬほど滑稽じゃない」
 僕は軽い気持ちで茶化す。
「じゃあ聞きますけど本当に大切な事ってなんですか」
 
 こんなことを聞かれるなんて、予想していなかったのか先輩はちょっと考えこんでから僕を見つめて言った。
「君はどう思う?」
僕は恥ずかしいことに何も解答が思い浮かばなかった。先輩は助け舟を出すように語りかける。
「賭けのこと覚えてる?」
「もちろん」
「やるべきことと大切なことって、まあ殆ど一緒よね」
 僕は頷く。
「やっぱり賭けに乗るのは嫌? やるべきことあるいは大切なことを教えてよ。生きているんだっていう実感を私に味合わせてよ。私は大量生産された規格品の青春なんて欲しくないし、ちっとも羨ましくもないのよ」
 
 僕はちょっと考えてから言った。
「受けてもいいですけど、もし僕が失敗したらどうなるんですか。このままじゃ賭けとは言えない。僕にとって成功報酬があるだけだ。失敗した時に何かを失ってこそ賭けは成立するんです」
こんな馬鹿な申し出を受けてどうするんだと思わなかったわけではない。しかしその見返りは僕にとってあまりに甘美なものだった。先輩が約束を破るとは何故か考えられなかった。
先輩は長い沈黙の後にポツリといった。
「もし君が失敗したら死んじゃおうかな」

「馬鹿なこと言わないでくださいよ。それにやっぱり賭けになってないじゃないですか。先輩が自殺するんじゃ僕じゃなくて先輩が失うことになる」
 僕は無理に明るい調子で答えるしかなかった。そうしないと自殺という遠くて重い話題が現実味を帯びたものになってしまう。あくまで先輩のいつもの冗談だと思い込みたかった。
「私が死んだら君も困るでしょ」
 先輩は当然のことのように言った。僕は否定できずに黙る。先輩は畳み掛ける。
「受ける気になった?」
 ポツリと呟くように答える。
「先輩が死んじゃうなんて嫌です」
先輩は挑戦的な目で僕に問いかける。
「勝てばいいじゃない。賭けに。好きな女の子一人も救えないの」

 体育祭はあまり楽しいものではなかった。僕も先輩も特に運動ができるというわけでもないのだから、当たり前といえば当たり前だ。去年もやったはずなのに先輩のダンスはおかしいぐらいぎこちなくて思わず笑ってしまったけれども。帰ってきた先輩は憮然とした顔で開口一番にこう言った。
「君、私のこと見て笑ってたでしょう。分かるんだから」
「だって先輩、無茶苦茶だったじゃないですか」
 先輩は答えずにむっとしたまま自席に座った。じっと前方を見つめているようだ。
 
 僕はというと団体競技で組体操をやった。競技の目玉として最後には巨大なピラミッドをやらされる。僕はピラミッドの半ばぐらいを担当していた。
 上からの重みが辛くて、下が崩れないか怖い。体育の授業で練習をやらされていた時から苦痛だった。笛がなって一斉に崩れる。なんとか乗り切って自席に帰ると先輩が案の定皮肉を言った。
「文科省も考えたものね。会社に従順な企業戦士を育てるための本当にいい競技だわ。オールフォアワン、ワンフォワオールってね」
 組体操をやった後にこんなことを言われたら心に響く。そんな僕に先輩は追い打ちをかけるように微笑みながら言う。
「ところで賭けには勝てそう?」

 僕は結局賭けを受けた。とはいえまだ答えは見つけられそうにない。
「先はまだ長いじゃないですか。悠長に待っててください」
 僕達のことなどまるで気にかけていないように競技は淡々と進んでいく。昼ごはんを食べ終わると最終競技クラス対抗スウェーデンリレーが近づいていた。目玉競技だ。那須と安部さんを含むリレーメンバーがクラスごとにまとまっている席から抜け出していく。
 スターターピストルが鳴った。各クラスが大声を張り上げて応援する。中盤にさしかかったあたりで、我がクラスは必死の努力にもかかわらず下位に甘んじている。まあ一年だからしょうがない面もあるだろう。
 声援もだんだん小さくなっていってもはや声を上げるのは数人しかいない。
「現金な人たちなのね。まだ高校一年生なんだからもっとのんきに応援してあげたら良いじゃない」
 先輩は実に楽しそうに揶揄する。

 僕はアンカーである那須の方に向かって気まぐれに大きな声で叫んだ。
「頑張れ!」
 あいつは気づいてくれたのか、こちらに大きな手を振る。先輩は面食らった顔をして僕は愉快だった。そんな僕達の動きに関係なくもうトップのクラスはアンカーに入りそうだった。アンカーは陸上部の主将だという威勢のいい実況が聞こえる。さすがに本職は無茶苦茶速い。彼はバトンを受け取ると美しいフォームでぐんぐんとリードを広げていく。もうこれは決まりだろうという雰囲気が流れる。
「追う二年四組のアンカーはサッカー部期待のホープです!」
 
 実況がそう告げると一斉に応援の声が湧く。驚いたことに陸上部主将よりも速く、少しずつだが確実に距離を詰めていく。歓声がさらに大きく脹らんでいく。
 遂にゴール手前の直線の入り口で抜かした。実況が大声で観衆を煽る。ゴール直前には両手を広げて笑顔で足を緩めていた。その後ろでは陸上部主将が悔しさを滲ませた必死の形相で走っていて対照的だ。
「憎たらしいぐらい余裕ですねえ」
 ゴールテープを切った二年四組のアンカーの下には大勢の生徒が集まり、口々に声を掛けたり、肩を組んだり、ハイタッチしたりする。アンカーもそれに答えて笑い白い歯を見せる。

 その中の一人の女子生徒が話しかけながらスポーツドリンクとタオルを渡すとアンカーは一段と嬉しそうな顔になった。恋人なのだろうか。
「なんか青春してるって感じですねえ」
 やっかみとは分かりつつ皮肉を言ってみたくなった。先輩は飽きてしまったのか黙ってその光景を見つめていた。
「先輩? どうしたんですか」
「馬鹿みたい」
 先輩は吐き捨てるように答えて、その後しばらくちょっと不機嫌だった。

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