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真嶋 堅一(まじま けんいち)の場合(◇ホラー◇ヒューマンドラマ)
真嶋 堅一(まじま けんいち)の場合(3/3)
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バイクのカギと同じキーホルダーに付けられた鍵を回すと、アパートのドアは小さな音を立てて開いた。
靴を3足も並べればいっぱいになってしまいそうな狭い玄関で靴を脱ぎ、台所とユニットバスの間の狭い廊下を体を斜めにしながら抜ける。
すりガラスの引き戸をそっと開けると、6畳ほどの部屋に布団が二つ敷かれていて、そこには小学生くらいの女の子が二人、眠っていた。
「ヒカリ、トモ、……ただいま」
女の子たちの間に祈るように膝をついて、アキラくんは二人の体をゆする。
眠っていると思ったのに、急に唸り声をあげて起き上ったおまわりさんの姿がフラッシュバックしたけど、そんなぼくの心配をよそにアキラくんの妹たちは起き上り、大好きなお兄さんに抱きついた。
「おはよー、お兄ちゃん」
「お仕事遅かったね」
顔をぐりぐりと押し付けながら、アキラくんに頭をなでられている二人は本当に嬉しそうだ。
それに、アキラくんも優しい目をしている。
それがとてもうれしくて、ぼくはまた服の袖で顔をぬぐった。
女の子の一人がぼくに気づき、怪訝そうな声を上げる。
「おにいちゃん、その人、お友達?」
「ああ、そいつはさっき拾った手下の堅一だ」
「えっと、アキラくんの友達の真嶋堅一です。はじめまして」
そんな「拾った」とか「手下」なんて紹介をされたくなくて、ぼくは自己紹介する。
笑いながら振り返り、ぼくを見たアキラくんの目が、まん丸く見開かれた。
「もう一人は?」
妹さんの口から無邪気にされた質問。
その意味に気づいて、ぼくは全身に鳥肌が立つのを感じた。
「ヴァあぁぁアぁァ……」
背後から、あの唸り声が聞こえる。
しまった。玄関のドアを閉めるのを忘れてた。
後悔してももう遅い。
ぼくはとにかく、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「「きゃぁぁぁぁ!!」」
ぼくの首筋に噛みつこうとしていたゾンビは、いきなり目標を失ってぼくを乗り越え、アキラくんたちの布団の上にダイブする格好になる。
暗い廊下から、突然目の前に振ってきたその血だらけで頬肉のない恐ろしい顔を見て、妹さんたちは悲鳴を上げた。
アキラくんは女の子たちをかばいながら、とっさに布団をゾンビにかぶせる。
「堅一! 窓! 窓開けろ!」
しゃがみ込んでいたぼくは、アキラくんの言葉に引っ張られるようにして体を起こし、鍵のかかっている窓を開け放った。
ほとんど同時に、布団を頭からかぶってもぞもぞ動いているゾンビをアキラくんが持ち上げる。
ぼくにぶつかるスレスレを通って、ゾンビは窓の外へと投げ捨てられた。
一緒に落ちそうになったアキラくんの体を間一髪のところで引きずり戻す。
ぼくは肩で息をするアキラくんと呆然としている女の子たちをよそに、妙に冷静な判断で玄関のドアを閉めに向かった。
ドアに手をかけ、表を見る。
となりの部屋のドアが開いていて、たぶん今のゾンビはそこから来たのだろうと分かった。
周囲を見回すと、ぽつぽつとゾンビの姿が見える。
今まで家の中に居たゾンビが、獲物を求めて外へと出はじめたのかもしれない。
二階に居れば表に出るより安全かもしれないけど、それではすぐに食料とか水とか、そんなものが限界になるのは目に見えていた。
鍵をかけ部屋に戻る。
アキラくんは二人の妹を抱きしめて、部屋の真ん中に座っていた。
「外……どうだ?」
「うん……少しずつ増えてるみたい」
「そうか……」
妹たちの「お兄ちゃん、さっきの人なに?」「増えてるってなにが?」と言う質問に答えられずに、アキラくんはそれきり口を閉ざす。
ぼくもとりあえず座って、これからどうすればいいのか、頭を巡らせた。
5分、10分、悩んでみたが、特にこれだと言う考えは思い浮かばない。
その時、アキラくんにぎゅっとしがみついていた小さいほうの女の子が、ふと顔を上げた。
「どうした? トモ」
「お兄ちゃん、お外で何か言ってる」
耳を澄ますと、確かに何か聞こえる。
ぼくは窓に駆け寄って開き、身を乗り出した。
――カーン、カーン
遠くから聞こえる消防車の鐘の音。
それよりは聞き取りにくいけど、かすかに聞こえる人の声。
とぎれとぎれのその声は確かに「救助」「生存者」「消防署」と言う単語を含んでいた。
やがてその音は、ドップラー効果を伴って遠ざかる。
窓の下、一階の砂利の上でまだうごめいているゾンビをちらりと見て、ぼくは窓を閉めた。
「消防署で、生存者を救助してるんだと思う」
「ああ、俺にもそう聞こえた」
「消防署って、ここからどれくらい?」
「普段なら歩いて20分……バイクなら2~3分もありゃ行けるぜ」
話は決まった。
アキラくんたちは必要最低限の荷物をまとめ始める。
もともと持ち物の少ないアキラくんが「よし」と立ち上がると、何かを思い出したように壁の掛け時計の裏から封筒を取り出し、大事そうにトモちゃんのリュックへしまった。
「それ、何?」
「ん? ああ、金だよ、金」
「お兄ちゃんの“恩人”に返すお金なの」
「へぇ、恩人」
「ああ、親がいなくなった後、金に困ってな」
「知らない人が貸してくれたんだって! そのおかげで、トモたちはご飯を食べることが出来て、寒い冬に家を追い出されなくて、死ななくて済んだの」
親がいなくなった後、知らない人が貸してくれた……お金?
ちょっと嫌な感じがする。
それってぼくからカツアゲしたお金じゃないの?
「詳しく聞きたい」
「なんだよ、家族以外に話すような話じゃねぇよ」
「いやたぶんそれ、ぼくが知ってる人のことだと思う」
「マジか?! ほんとうならすぐにでも金を返して礼を言いてぇ! 教えてくれ!」
「うん、その前に、その話がほんとうにぼくの知ってる人の話なのか、詳しく教えてほしい」
「そうか……だな、この金はよ――」
アキラくんの話してくれた9か月前の出来事。
それは、彼の言うところによると、こんな話だった。
◇ ◇ ◇
その日、アキラくんはバイト先で前借りを頼んだが、無碍なく断られて途方に暮れていた。
1月の半ば、前日から降り始めた雪が積もった夕方のことだ。
銀行でも、中卒でまだアルバイトのかけもちしかしていない17歳の少年にお金を貸してくれるわけもない。
銀行の駐車場でお金の無心先を考えていたアキラくんは、にやにやと10万円を数えながら銀行を出てくる、太った中学生と目があった。
「なぁ、その金貸してくれねぇか」
ダメもとで声をかけてみる。
中学生はにやにやしたまま顔を上げ「ぼくですか?」と素っ頓狂な声を上げた。
「あぁ、おめぇだよ。なぁいいだろ? こっちは命がかかってんだよ」
「か……貸すだけなら良いですけど……でも限定のブルーレイボックスが……あの……」
消え入りそうな声でぶつぶつ言う太った中学生はなかなか結論を出さない。
ダメならダメで別の手段を考えなければならないのだ。
アキラくんは少しイラついて、結論を急いだ。
「ダメなのかよ?! いいのかよ?! どっちだ?!」
「あ! はい! いいです! 貸します!」
太った中学生は封筒を押し付けるように渡す。
まさか本当に貸してもらえるとは思っていなかったアキラくんには、その少年が神様に見えたと言う。
心の底から笑顔が湧き上がり、大声で「マジか! すげぇ!」と叫んでしまう。
その声に飛び上がった中学生は、太った体には似つかわしくない素早さで、裏路地へと走り去った。
「おい! ちょっと待てよ! おい! 名前! おい!」
何度も呼び止めたが、中学生は止まらない。
バイクで追いかけることも出来ない人ごみの中を走ってゆく中学生へ、アキラくんはただ頭を下げることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「ってわけでよ、4月に就職して金が返せるようになってから何度もあの銀行に行ってみたんだけど、未だに見つかんねぇんだ」
その人は今、目の前に居るよ。
そう思ったけど、あまりにも都合のいいアキラくんの解釈に言葉も出ない。
金髪で改造されたバイクに乗ったガタイのいいヤンキーに「金貸してくれねぇか」なんて言われたら、それが本当に貸してほしくて言っていると思う人なんてほとんど居ないだろう。
ぼくは恨みを込めて、アキラくんを見上げた。
「で、どうだ? 堅一の知ってる人に間違いねぇか?」
「……まだ気づかない?」
「何がだよ」
「それ……ぼくなんだけど」
「……は? いやいや、さすがにちげぇだろ。言っちゃ悪いがあの中学生、堅一の3倍はあったぜ、体重」
アキラくんは半笑いでぼくを見る。
確かに、今のぼくは……さすがに三分の一は言いすぎだけど、体重はあの時の半分以下になっていた。
それもこれも、偵察と言う名のジョギングを9か月間も毎日欠かさず続けたおかげだ。
「ぼくだよ」
あの時を忘れないようにと生徒手帳に挟んである、去年の生徒手帳の写真を取り出して見せる。
写真とぼくを交互に見つめ、最後にアキラくんはぼくを抱きしめた。
「なんだよ! マジかよ! 堅一だったのかよ!!」
なんどもそんなことを言い、ピン札の10枚入った封筒をぼくに渡す。
左右にヒカリちゃんとトモちゃんを従えたアキラくんは、姿勢を正して深く、深く頭を下げた。
「堅一……ありがとうございました」
「「ありがとうございました」」
この9か月余り憎み続けていた金髪が、今、本当の感謝をこめて目の前に下げられている。
お金も返って来たし、恨む気持ちはもうない。
……無いんだけど、それでも何かもやもやしたわだかまりは、完全に拭い去ると言うわけにはいかないようだった。
「いいよ、もう。頭を上げてよ」
「ほんとに感謝してんだ。俺だけじゃねぇ。ヒカリやトモの命の恩人でもあるんだぜ、堅一は」
「それを言ったら、ぼくだってアキラくんに助けてもらったし……」
それから何度もお互いにお礼を言いあい、ぼくらは固い握手を交わした。
改めて、小学1年生のトモちゃんを抱っこひもでお腹に抱え、アキラくんは玄関を出る。
幸いなことに、このアパートの駐車場にはゾンビの姿は見られなかった。
錆だらけの階段を駆け下り、バイクのエンジンをかける。
シートにトモちゃんを抱っこしたアキラくんが座り、リアシートにぼくが乗り込む。ぼくとアキラくんの間の狭い隙間に小学3年生のヒカリちゃんをはさむように乗せると、バイクは消防署へ向けて走り出した。
さすがに朝のようなスピードで走るわけにはいかなかったが、バイクは順調に進む。
しかし、あの交番があった通りへ出ると、アキラくんは急にバイクを止めた。
「どうしたの? まさかまだ警察にバイクを没収されるとか言いださないよね?」
半分茶化すように言ったぼくの言葉に、アキラくんの返事はない。
身を乗り出して進行方向を見たぼくは、その沈黙の意味を知った。
通りにあふれる、ゾンビ、ゾンビ、ゾンビ。
まるで周囲のゾンビがすべて集まったかのようなその数に、ぼくは固唾をのんだ。
そして、ゾンビの集団がエンジン音に反応し、一斉に押し寄せる。
アキラくんはバイクをターンさせ、遊歩道へ向かってアクセルを踏んだ。
「大丈夫だ! 遊歩道からでも5分もありゃあ消防署へ行ける!」
ぐんぐんと加速してゾンビを置き去りにするバイクに、ぼくはほっと胸をなでおろした。
何度も偵察に来た遊歩道。見知った大きな木が目前に迫る。
太陽の光を反射して、一本の黒い線がぼくの目に入った。
「アキラくん! ダメだ! 止まって!」
「あ?!」
首をひねってアキラくんが振り返る。
次の瞬間、その体が宙を舞った。
バイクが倒れ、ぼくも吹き飛ぶ。
ヘルメットもかぶっていないぼくたちは、冷たいアスファルトに叩きつけられた。
アキラくんの首は変な方向を向いている。
胸に抱っこひもで縛られたトモちゃんに大きな怪我はなさそうだったけど、自分ではひもを解くことが出来ずに、ただ泣いていた。
ぼくの前に座っていたヒカリちゃんは、アスファルトに顔から落ちて周囲にどくどくと真っ赤な血の池を作っている。
所々灰色の豆腐みたいなものが浮かんでいて、ピクリとも動かないのが怖かった。
ぼくはと言えば、目を動かすことは出来るんだけど、首から下が痺れていて感覚がない。
ただ息をする度に喉の奥が熱くなって、苦しかった。
「ゔぁァああァアあ……」
すぐ近くで唸り声が聞こえる。
視界の端からゾンビがゆらゆらと姿を表し、ぼくの見ている前でアキラくんに覆いかぶさった。
――ゴリッ……ぐじゅ……
嫌な音が響き、トモちゃんの悲鳴のような泣き声が大きくなる。
でもやがてそれも止み、ぼくは異様な静けさの中でゾンビがアキラくんの家族を食べる様子をただ見ていた。
どこで間違えたんだろう?
誤解は解けたと思ったのに。
友だちになれたと思ったのに。
そう考えていたぼくは、感覚のない体が、生きたままゾンビに食われていることに気づいた。
やがてぼくの視界は暗くなり、すべてが闇に包まれる。
最後にぼくは、なぜだかその闇に安らぎを感じていたのだった。
――真嶋 堅一(まじま けんいち)の場合(完)
靴を3足も並べればいっぱいになってしまいそうな狭い玄関で靴を脱ぎ、台所とユニットバスの間の狭い廊下を体を斜めにしながら抜ける。
すりガラスの引き戸をそっと開けると、6畳ほどの部屋に布団が二つ敷かれていて、そこには小学生くらいの女の子が二人、眠っていた。
「ヒカリ、トモ、……ただいま」
女の子たちの間に祈るように膝をついて、アキラくんは二人の体をゆする。
眠っていると思ったのに、急に唸り声をあげて起き上ったおまわりさんの姿がフラッシュバックしたけど、そんなぼくの心配をよそにアキラくんの妹たちは起き上り、大好きなお兄さんに抱きついた。
「おはよー、お兄ちゃん」
「お仕事遅かったね」
顔をぐりぐりと押し付けながら、アキラくんに頭をなでられている二人は本当に嬉しそうだ。
それに、アキラくんも優しい目をしている。
それがとてもうれしくて、ぼくはまた服の袖で顔をぬぐった。
女の子の一人がぼくに気づき、怪訝そうな声を上げる。
「おにいちゃん、その人、お友達?」
「ああ、そいつはさっき拾った手下の堅一だ」
「えっと、アキラくんの友達の真嶋堅一です。はじめまして」
そんな「拾った」とか「手下」なんて紹介をされたくなくて、ぼくは自己紹介する。
笑いながら振り返り、ぼくを見たアキラくんの目が、まん丸く見開かれた。
「もう一人は?」
妹さんの口から無邪気にされた質問。
その意味に気づいて、ぼくは全身に鳥肌が立つのを感じた。
「ヴァあぁぁアぁァ……」
背後から、あの唸り声が聞こえる。
しまった。玄関のドアを閉めるのを忘れてた。
後悔してももう遅い。
ぼくはとにかく、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「「きゃぁぁぁぁ!!」」
ぼくの首筋に噛みつこうとしていたゾンビは、いきなり目標を失ってぼくを乗り越え、アキラくんたちの布団の上にダイブする格好になる。
暗い廊下から、突然目の前に振ってきたその血だらけで頬肉のない恐ろしい顔を見て、妹さんたちは悲鳴を上げた。
アキラくんは女の子たちをかばいながら、とっさに布団をゾンビにかぶせる。
「堅一! 窓! 窓開けろ!」
しゃがみ込んでいたぼくは、アキラくんの言葉に引っ張られるようにして体を起こし、鍵のかかっている窓を開け放った。
ほとんど同時に、布団を頭からかぶってもぞもぞ動いているゾンビをアキラくんが持ち上げる。
ぼくにぶつかるスレスレを通って、ゾンビは窓の外へと投げ捨てられた。
一緒に落ちそうになったアキラくんの体を間一髪のところで引きずり戻す。
ぼくは肩で息をするアキラくんと呆然としている女の子たちをよそに、妙に冷静な判断で玄関のドアを閉めに向かった。
ドアに手をかけ、表を見る。
となりの部屋のドアが開いていて、たぶん今のゾンビはそこから来たのだろうと分かった。
周囲を見回すと、ぽつぽつとゾンビの姿が見える。
今まで家の中に居たゾンビが、獲物を求めて外へと出はじめたのかもしれない。
二階に居れば表に出るより安全かもしれないけど、それではすぐに食料とか水とか、そんなものが限界になるのは目に見えていた。
鍵をかけ部屋に戻る。
アキラくんは二人の妹を抱きしめて、部屋の真ん中に座っていた。
「外……どうだ?」
「うん……少しずつ増えてるみたい」
「そうか……」
妹たちの「お兄ちゃん、さっきの人なに?」「増えてるってなにが?」と言う質問に答えられずに、アキラくんはそれきり口を閉ざす。
ぼくもとりあえず座って、これからどうすればいいのか、頭を巡らせた。
5分、10分、悩んでみたが、特にこれだと言う考えは思い浮かばない。
その時、アキラくんにぎゅっとしがみついていた小さいほうの女の子が、ふと顔を上げた。
「どうした? トモ」
「お兄ちゃん、お外で何か言ってる」
耳を澄ますと、確かに何か聞こえる。
ぼくは窓に駆け寄って開き、身を乗り出した。
――カーン、カーン
遠くから聞こえる消防車の鐘の音。
それよりは聞き取りにくいけど、かすかに聞こえる人の声。
とぎれとぎれのその声は確かに「救助」「生存者」「消防署」と言う単語を含んでいた。
やがてその音は、ドップラー効果を伴って遠ざかる。
窓の下、一階の砂利の上でまだうごめいているゾンビをちらりと見て、ぼくは窓を閉めた。
「消防署で、生存者を救助してるんだと思う」
「ああ、俺にもそう聞こえた」
「消防署って、ここからどれくらい?」
「普段なら歩いて20分……バイクなら2~3分もありゃ行けるぜ」
話は決まった。
アキラくんたちは必要最低限の荷物をまとめ始める。
もともと持ち物の少ないアキラくんが「よし」と立ち上がると、何かを思い出したように壁の掛け時計の裏から封筒を取り出し、大事そうにトモちゃんのリュックへしまった。
「それ、何?」
「ん? ああ、金だよ、金」
「お兄ちゃんの“恩人”に返すお金なの」
「へぇ、恩人」
「ああ、親がいなくなった後、金に困ってな」
「知らない人が貸してくれたんだって! そのおかげで、トモたちはご飯を食べることが出来て、寒い冬に家を追い出されなくて、死ななくて済んだの」
親がいなくなった後、知らない人が貸してくれた……お金?
ちょっと嫌な感じがする。
それってぼくからカツアゲしたお金じゃないの?
「詳しく聞きたい」
「なんだよ、家族以外に話すような話じゃねぇよ」
「いやたぶんそれ、ぼくが知ってる人のことだと思う」
「マジか?! ほんとうならすぐにでも金を返して礼を言いてぇ! 教えてくれ!」
「うん、その前に、その話がほんとうにぼくの知ってる人の話なのか、詳しく教えてほしい」
「そうか……だな、この金はよ――」
アキラくんの話してくれた9か月前の出来事。
それは、彼の言うところによると、こんな話だった。
◇ ◇ ◇
その日、アキラくんはバイト先で前借りを頼んだが、無碍なく断られて途方に暮れていた。
1月の半ば、前日から降り始めた雪が積もった夕方のことだ。
銀行でも、中卒でまだアルバイトのかけもちしかしていない17歳の少年にお金を貸してくれるわけもない。
銀行の駐車場でお金の無心先を考えていたアキラくんは、にやにやと10万円を数えながら銀行を出てくる、太った中学生と目があった。
「なぁ、その金貸してくれねぇか」
ダメもとで声をかけてみる。
中学生はにやにやしたまま顔を上げ「ぼくですか?」と素っ頓狂な声を上げた。
「あぁ、おめぇだよ。なぁいいだろ? こっちは命がかかってんだよ」
「か……貸すだけなら良いですけど……でも限定のブルーレイボックスが……あの……」
消え入りそうな声でぶつぶつ言う太った中学生はなかなか結論を出さない。
ダメならダメで別の手段を考えなければならないのだ。
アキラくんは少しイラついて、結論を急いだ。
「ダメなのかよ?! いいのかよ?! どっちだ?!」
「あ! はい! いいです! 貸します!」
太った中学生は封筒を押し付けるように渡す。
まさか本当に貸してもらえるとは思っていなかったアキラくんには、その少年が神様に見えたと言う。
心の底から笑顔が湧き上がり、大声で「マジか! すげぇ!」と叫んでしまう。
その声に飛び上がった中学生は、太った体には似つかわしくない素早さで、裏路地へと走り去った。
「おい! ちょっと待てよ! おい! 名前! おい!」
何度も呼び止めたが、中学生は止まらない。
バイクで追いかけることも出来ない人ごみの中を走ってゆく中学生へ、アキラくんはただ頭を下げることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「ってわけでよ、4月に就職して金が返せるようになってから何度もあの銀行に行ってみたんだけど、未だに見つかんねぇんだ」
その人は今、目の前に居るよ。
そう思ったけど、あまりにも都合のいいアキラくんの解釈に言葉も出ない。
金髪で改造されたバイクに乗ったガタイのいいヤンキーに「金貸してくれねぇか」なんて言われたら、それが本当に貸してほしくて言っていると思う人なんてほとんど居ないだろう。
ぼくは恨みを込めて、アキラくんを見上げた。
「で、どうだ? 堅一の知ってる人に間違いねぇか?」
「……まだ気づかない?」
「何がだよ」
「それ……ぼくなんだけど」
「……は? いやいや、さすがにちげぇだろ。言っちゃ悪いがあの中学生、堅一の3倍はあったぜ、体重」
アキラくんは半笑いでぼくを見る。
確かに、今のぼくは……さすがに三分の一は言いすぎだけど、体重はあの時の半分以下になっていた。
それもこれも、偵察と言う名のジョギングを9か月間も毎日欠かさず続けたおかげだ。
「ぼくだよ」
あの時を忘れないようにと生徒手帳に挟んである、去年の生徒手帳の写真を取り出して見せる。
写真とぼくを交互に見つめ、最後にアキラくんはぼくを抱きしめた。
「なんだよ! マジかよ! 堅一だったのかよ!!」
なんどもそんなことを言い、ピン札の10枚入った封筒をぼくに渡す。
左右にヒカリちゃんとトモちゃんを従えたアキラくんは、姿勢を正して深く、深く頭を下げた。
「堅一……ありがとうございました」
「「ありがとうございました」」
この9か月余り憎み続けていた金髪が、今、本当の感謝をこめて目の前に下げられている。
お金も返って来たし、恨む気持ちはもうない。
……無いんだけど、それでも何かもやもやしたわだかまりは、完全に拭い去ると言うわけにはいかないようだった。
「いいよ、もう。頭を上げてよ」
「ほんとに感謝してんだ。俺だけじゃねぇ。ヒカリやトモの命の恩人でもあるんだぜ、堅一は」
「それを言ったら、ぼくだってアキラくんに助けてもらったし……」
それから何度もお互いにお礼を言いあい、ぼくらは固い握手を交わした。
改めて、小学1年生のトモちゃんを抱っこひもでお腹に抱え、アキラくんは玄関を出る。
幸いなことに、このアパートの駐車場にはゾンビの姿は見られなかった。
錆だらけの階段を駆け下り、バイクのエンジンをかける。
シートにトモちゃんを抱っこしたアキラくんが座り、リアシートにぼくが乗り込む。ぼくとアキラくんの間の狭い隙間に小学3年生のヒカリちゃんをはさむように乗せると、バイクは消防署へ向けて走り出した。
さすがに朝のようなスピードで走るわけにはいかなかったが、バイクは順調に進む。
しかし、あの交番があった通りへ出ると、アキラくんは急にバイクを止めた。
「どうしたの? まさかまだ警察にバイクを没収されるとか言いださないよね?」
半分茶化すように言ったぼくの言葉に、アキラくんの返事はない。
身を乗り出して進行方向を見たぼくは、その沈黙の意味を知った。
通りにあふれる、ゾンビ、ゾンビ、ゾンビ。
まるで周囲のゾンビがすべて集まったかのようなその数に、ぼくは固唾をのんだ。
そして、ゾンビの集団がエンジン音に反応し、一斉に押し寄せる。
アキラくんはバイクをターンさせ、遊歩道へ向かってアクセルを踏んだ。
「大丈夫だ! 遊歩道からでも5分もありゃあ消防署へ行ける!」
ぐんぐんと加速してゾンビを置き去りにするバイクに、ぼくはほっと胸をなでおろした。
何度も偵察に来た遊歩道。見知った大きな木が目前に迫る。
太陽の光を反射して、一本の黒い線がぼくの目に入った。
「アキラくん! ダメだ! 止まって!」
「あ?!」
首をひねってアキラくんが振り返る。
次の瞬間、その体が宙を舞った。
バイクが倒れ、ぼくも吹き飛ぶ。
ヘルメットもかぶっていないぼくたちは、冷たいアスファルトに叩きつけられた。
アキラくんの首は変な方向を向いている。
胸に抱っこひもで縛られたトモちゃんに大きな怪我はなさそうだったけど、自分ではひもを解くことが出来ずに、ただ泣いていた。
ぼくの前に座っていたヒカリちゃんは、アスファルトに顔から落ちて周囲にどくどくと真っ赤な血の池を作っている。
所々灰色の豆腐みたいなものが浮かんでいて、ピクリとも動かないのが怖かった。
ぼくはと言えば、目を動かすことは出来るんだけど、首から下が痺れていて感覚がない。
ただ息をする度に喉の奥が熱くなって、苦しかった。
「ゔぁァああァアあ……」
すぐ近くで唸り声が聞こえる。
視界の端からゾンビがゆらゆらと姿を表し、ぼくの見ている前でアキラくんに覆いかぶさった。
――ゴリッ……ぐじゅ……
嫌な音が響き、トモちゃんの悲鳴のような泣き声が大きくなる。
でもやがてそれも止み、ぼくは異様な静けさの中でゾンビがアキラくんの家族を食べる様子をただ見ていた。
どこで間違えたんだろう?
誤解は解けたと思ったのに。
友だちになれたと思ったのに。
そう考えていたぼくは、感覚のない体が、生きたままゾンビに食われていることに気づいた。
やがてぼくの視界は暗くなり、すべてが闇に包まれる。
最後にぼくは、なぜだかその闇に安らぎを感じていたのだった。
――真嶋 堅一(まじま けんいち)の場合(完)
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