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かさぶた
しおりを挟む「私だってっ…!ママに会いたい…」
田舎町にある居酒屋のカウンター、そこに2人の女が座っていた。1人は40代後半か50代に見える若々しい女、静かに泣きながら話している姿はとても痛々しい。別のカウンター席で飲んでいた土木の兄ちゃんたちがチラチラと心配そうに此方を見ている。しかし、もう1人の20いくつかの女は、ドン引きしてた。それはもう、引いていた。
誰がどう見ても親子である2人の間には、居酒屋とは思えない程の重い沈黙が漂っていた。誰も介入出来ない程の、息が詰まる空気感、御葬式のようなそれに耐えられなかった娘のまりは、白旗を上げた。LI⚪︎Eで母の彼氏を召喚するという横暴に出たのだ。夜遅くの出来事だったため、返信が来なかったら電話しようと思っていたが、メッセージは直ぐに来た。《迎えに行きます》という安直な文章に安心しながら、まりは母の彼氏が迎えに来るまで、この地獄のような空気に耐えた。車でやって来た母の白馬の王子様は、とても心配そうな顔をして「何があったの?」と此方に声をかけてきた。どうもこうも、先程までは楽しい親子飲みだったんだ。それを、この女、もとい母は調子に乗って酒を飲み浴びて、悪酔いして、何の拍子かは知らないが、死んだ祖母を思い出して泣きはじめたのだ。そこからは以下省略だが、おかげで美味しかった唐揚げもガーリックチャーハンも、砂を噛んでいるようで最悪だった。
お会計を済ました後、私は何も言わずに母を車に乗せ、白馬の王子様に「おばあちゃんのことを思い出して泣いてしまったんです。すいません、よろしくお願いします」と言ってホテルの予約を取りながら、人っ子1人もいない道を歩こうとする。
「まりちゃんは家に帰らないのかい?」
「今日はホテルに泊まるんで、お気になさらず」
「……何があったか分からないけど、お母さんも頑張ってきたんだよ。それは分かってあげて?」
「……」
そんなこと、あなたよりも分かっていますが?
思わず頬を引っ叩きたくなる衝動を、歯を食い縛りながら、ぐっと堪える。違う、この人は悪い人じゃない、悪意のある言葉じゃない。と自分を抑え、にっこりと笑い母を任せる。何も知らないくせに、なんて、知らされていない人間にかけて良い言葉ではない。
ホテルは居酒屋から少し遠い、24時間空いているホテルが予約出来た。タクシーを呼ぼうか迷ったが、歩ける距離だろうとタカを括り、まだ居酒屋の灯りで明るく照らされた歩道を歩き始めた。
そして後悔した。
「いたっ……!」
歩いている途中で、踵に少し鋭い痛みが走った。靴を少し脱ぎ、靴下を捲ると見事に靴擦れが完成していた。靴のサイズが小さかったのに、我慢して履いてたツケが、最悪なタイミングでやって来てしまったのだ。
「最悪……!」
嫌なことは重なる。もう気分はどん底の更に底までついてしまった。駄目だ、泣きそう……ダメダメ、二十そこらの女が、この程度のことで泣くとか恥ずかし過ぎる。涙を堪えて、靴擦れなどお構いなしに、再び歩き始める。ホテルに着く頃には悪化しているだろうな、と再び気分が地の底の底に落ちそうだったため、私はいつもの癖で、自分の頭をポンポンと撫でた。
「大丈夫、大丈夫、私は大丈夫」
そして、それが1週間前の話だった。
小学校からの友達である玲と、大衆居酒屋の個室で飲み、楽しく過ごしていたのだが、ふとした瞬間、そう、ビールと酎ハイとハイボールをちゃんぽんしていた時に、母と飲んだ不味い酒を思い出してしまった。思わず眉を顰めてハイボールを飲む まりを見て、玲は不思議そうな顔をして「何かあった?」と尋ねてきた。
「うちさぁ、3ヶ月前におばあちゃんが亡くなったんだけどねー」
「ああ、言ってたね」
「そう、けどもう、やらないといけないことは大体終わって、落ち着いてきたし、私、お母さんと飲みに行ったんだよ」
「例の彼氏も一緒に?」
「違う違う、2人で!……けど、彼氏も連れて行ってたら良かった」
「え、なんで?気まずくない??」
「気まずいよ、けど、それ以上に、お母さんにドン引きしたことがあってさ」
「へえ、ドン引きねぇ……」
「……ドン引きというか……幻滅というか?」
そう言いながら、まりは片手に持っていたハイボールを一気に飲み干す。喉元で炭酸が弾ける感触、ぼーっとしてきた頭の中、若干、呂律も回っていない状態で話を続けた。
「あの人さ、ママって言ったんだよ。自分の母親のことを」
「え、あー……言う人は、言うんじゃない?」
「いや、別に全国にいる母親のことをママっていう派閥を敵にするつもりはないよ」
「じゃあ、何がそんなに嫌だったの?」
「……私が小さい時にさ、あの人、私がママって呼んだら、なんて言ったと思う?……ママって呼ぶな、気持ち悪い、だよ?」
「あー……」
「それは……あんたの親が悪い」と白黒はっきりとした性格の玲は、何か言いたげな、けれども何とも言えない表情をしながら、手元にあった梅酒を此方に渡してきた。
「とりあえず飲め飲め、嫌な記憶は酒を飲んで忘れるに限る!」
「飲むぅ……!」
嫌なことは酒を浴びるほど飲んで忘れる。大人のみが出来るストレス発散手段、日本の素晴らしい文化である。
「……親子の縁、切っちゃおうかな」
ポツリと呟いてしまった言葉、別に、本気で考えている訳ではない。ただ、そう、祖母のお葬式の時に感じてしまった母の頼りなさとか、今頃、いや、彼氏が出来る度に「私、この人と結婚する!」ムーブとか、そのママ呼び事件とか、色々あって、心が疲弊していた。縁を切るというより、距離を置きたいという意味合いが強い。
けれど、私の一言に、意を決したような表情をして玲は口を開いた。
「…あんまり言えなかったけどさ、この場を持って言わせて貰うわ」
「ん?」
「あんたの母さん、毒親だよ。いや、ごめん、言い過ぎた。うーんと……毒親イエローカードだよ」
「び、微妙すぎる……」
「後1枚のイエローカードで退場となります」
「ひぇ……」
……まあ、そう思われても仕方ないか。
玲は、普通の両親に育てられた女の子だ。だから、私の家庭はどうみても、あの子にとっては異常なのだろう。
漫画でよく見る、ありきたりな設定のような家庭だった。父親の暴力で、小学生の頃に両親は離婚、私は母に引き取られた。母は食い扶持を確保するために夜の店で働き、その客が母の彼氏となり、家に出入りしていた。
しかし、漫画でよく見るような設定はここまで。別に、その彼氏に殴られたとか、母親に外へ追い出されたとかいう虐待は受けていない。むしろ、母の彼氏は外食によく連れて行ってくれたし、欲しい漫画も買ってくれた。それは今でも感謝している。
ただ、母は恋に生きる人だった。つまり、熱しやすく冷めやすい。次から次へと新しい彼氏を爆誕させ、古い彼氏は直ぐに捨てた。おかげで、その彼氏が逆上して家のドアをガンガンしている、という状況もよくあった。
その度に、母はヤドカリのように、私を連れてアパートを転々とした。
そんな生活をしていたら、勿論、お金がない。中学校の時、母の通帳を見て、思わず笑ってしまった記憶は、今でも偶に、夢で見てしまう。母は隠し通しているつもりだろうが、一時期、家の電気が止まっていたことも知っている。むしろよく、隠し通せると思ったな、って感じだった。
「けど、愛してくれてるんだよなあ」
ボソっと、誰にも聞こえないような、小さい声で呟いた。玲は「何か言った?」と尋ねてきたが、私はヘラっと笑いながら「何でもないよ」と言った。
きっと、お前には分からない
私たちは閉店間際まで居座った後、終電を逃すまいと早々に解散した。地下鉄に揺られながら、ぼーっと座っていると、赤ん坊のベビーカーを押しながら、スマホを触っているお母さんがいた。危ないなあ……と注意深く見ていると、若いカップルがヒソヒソと話している。内容は余り聞こえなかったが「あれはないよな」「うん…こんな夜遅くに」みたいな会話の断片から推測出来る、あのお母さんへの非難。それを見て、何とも言えない気持ちになった。
子どもを育てたこともない私たちが、あーだこーだ言うんじゃないよ
そんなことを考えてしまう私はきっと、性格が悪い。そのお母さんは次の駅で降りて行った。それを機に若いカップルが「あれはない」という話で盛り上がっている。きっとこの子たちは、普通の家庭に生まれて、それが幸せと気付かずに生きているから、こういう感性なんだろう。人に自分の普通を押し付けることが、どれだけ相手を傷付けるかなんて知らないんだ。
痛みは、同じ傷を持つ者同士しか分からない。
同じ傷を持った人間しか、その人を救うことは出来ない。
貧乏な暮らしを経験した人間しか、貧乏な人間の気持ちは理解できない。いじめに遭った人間しか、いじめ被害者の気持ちは理解できない。虐待された経験のある人間しか、虐待された子どもを救うことなど出来ない。同じ傷を持っていなければ、寄り添うことは出来ても、その人たちを理解することは永遠にない。けれど、傷を持った人間は、傷を隠そうとするから、真人間のふりをするから、悪意のない言葉に傷付いて、傷口が抉れながらも普通に生活している……頑張ってんだよ、こっちだって。
もう、何も言うな。
お前たちはお前たちで、幸せに暮らしてハッピーエンドを迎えれば良い。外野に口出しするなよ。
あの居心地の悪い地下鉄からおさらばした後、深夜にも関わらず、トボトボとマイペースに帰路につく。歩道橋の上で、ふと上を見上げると、ビルの灯で見えにくいが、星空が煌めいていた。
……母は、世間一般にいう普通の母親ではない。彼氏が日替わりカレーのように代わる日もあったし……それで私も、怖い目に遭ったことはある。貧乏だったし、中学校の頃は、部活を辞めて、遊ぶお金欲しさに、こっそりバイトしていた。周りの友達はお小遣いでus⚪︎に行く中、私だけ汗水垂らしたバイト代で行ったこともある。
そんなことを言えば、悲劇のヒロイン気取りだと笑われるけど。
けれど、けれどね。そんな、どうしようもない母だけど、いつも、参観日には来てくれた。ヘロヘロのカッターシャツにヨレヨレのスーツを着て、私に手を振ってくれた。
まともな家庭でなくても、私は不幸じゃなかった。世間で言う毒親の部類にあったとしても、私は幸せだった。それで良いじゃないか。……そう思えば思うほど、心がキシキシと傷みだす。
本当は分かってる。母が私に、ママと呼ぶなと言った理由。小学高等学年の頃、周りと違い、私だけ自分のことを「まりね~」とか「ママ~」って、子ども特有の甘ったれた声で言っていたから、焦った母は《まり》を《私》に、《ママ》を《お母さん》へ矯正したことを、知っている。母は母なりに、私のことを考えていてくれた。
けれど、それは気づかない内に、私の傷になって、膿を出していたんだ。それに気付かないまま大人になって、そして、母と飲みに行ったあの日、あの一言を聞いてしまった。そしたら、その傷が再び痛み、心が軋んでいた。くだらない事だと、笑われてしまうかもしれないけれど、結構痛いんだよ。心に傷薬は効かない、痛み止めもない。幸せホルモンをいっぱい作ろうとする薬だって、一時凌ぎに過ぎない。
……いや、大袈裟だな。うん、大袈裟、そんな深傷を負ったみたいな感じ出すの、なんかやだな。けれど、何て表現すればいいんだろ。擦り傷擦り傷……なんとも微妙な言い回し。
別に、誰かに伝えたい訳でも、SNSに載せる訳でもないのに、無駄に唸りながら、真剣に考える。
すると、ツキッとした痛みが踵に走った。靴を脱ぐと、あの時の靴擦れで生じたかさぶたが、どうやら捲れたらしい。滅茶苦茶痛い訳ではないが、ツキッツキッとした痛みが踵に集中して、歩くのが億劫になった。
「あ」
そうだ、かさぶただ。
私のこの傷は、もうかさぶたなんだ。
そう思ったら、心の内側がスッと軽くなった。靴擦れで痛む足、けれど、そんなこと気にせず、私は走った。滅茶苦茶痛い。けれど走った。
この傷は何年経っても治らない。けれど血も膿も出ていない。母は毒親かもしれない。世間で言う酷い女なのかもしれない。けれど、私にっては、大好きなお母さんだ。
それで、いいじゃないか。
ゼェゼェと息を荒らげ、1人可笑しく笑った。そして、いつもの癖で自分の頭をポンポンと撫でる。
「大丈夫、大丈夫、私は大丈夫」
誰もいない横断歩道の白い部分を避けながら、私は家へと帰宅する。すると、スマホがピコンとなった。画面を見ると母からのLI⚪︎E、《ゆう君と旅行行ってま~す》と写真が次々と送信されていた。私は何とも言えない気持ちになりながらも《お土産よろしく》と返信した。
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