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「ほんと!? マジ!? Really!?」
「発音いいな」
ネイティブ顔負けの発音を響かせ、机を両手で叩いて身を乗り出し、顔を近づけてくる。
ほんの少しでも後ろから押されたりすると、顔と顔が接着しそうだ。
これが紅浦でなければ、きっと俺の心臓が爆発しそうになっていたのだろう。
今のところ、不安はあってもトキメキは全くない。
「じゃあ何してもらおっかなぁー、えー」
ニヤニヤと白い歯を見せて顔を綻ばせながら、紅浦の指が俺の顎に伸びた。
何をされるかと一瞬身構えたが、ただ猫のように撫でられるだけだった。
顎の手前と奥を、寝かせた人差し指の全体が這う。
周囲からの注目で、俺は徐々に狼狽えそうになった。
まるで将棋でジワジワと追い込まれていく時のように。
「言っておくが、そっちって言うのは学校外の個人的なことて違いないが、至って健全なものだぞ」
堪えきれなくなる前に種明かしをするが、自分で言っていて無理があるように思える。
というより、紅浦は聞いてない。
「えー、そっちって言えば当然下ネタでしょ?」
案の定、この女版出歯亀の脳内は卑猥なことで埋め尽くされているようだ。
とりあえず俺は、紅浦の指があらぬ所へ触れる前に、手首を掴んで離した。
女子に顎を撫でられるなんて、一大イベントのような気もするが、相手が相手だけになんの高揚感もない。
「あ、そうだぁ。今までの業平の情事を教えてもらおっかなぁ。新しい作品のネタにしちゃお」
「あるわけないだろ。俺がそんな熟練者に見えるか? 第二次性徴期のチュートリアルを済ませたばかりのビギナーだぞ」
「ふっ」
突然、紅浦は顔を離して憫笑した。
「じゃあ妄想でいいよ。出来れば身内への妄想で」
紅浦の目の奥に、憐れみが浮かんだのは間違いだろうか。
ここまで来ると、俺も腹が立ってくる。
ここはこの女を信頼して、本気で脅かしてみよう。
周りに聞かれるのは致し方ない。
この女と話している時点で、俺は仲間に思われているだろう。
とりあえず、友人の富山君とクラスの潤滑油である西澤君に嫌われなければれでいい。
俺は目に力を込め、猥褻物陳列罪で捕まっても文句のいえないような顔を心がけた。
「いいんだな。本当に、ここで何話しても平気だな?」
「え、どうしたの、急に凄い顔してるけど」
自分では本当に分からないのだが、顔芸の才能でもあるのだろうか。
少なくとも、紅浦が戸惑うくらいの顔はできているらしい。
「華の女子高生が教室で⋯⋯クラスメイトが周りにいる中で、有り余る性欲を持て余した男子高校生の生々しい性事情を聞く覚悟があるんだな⋯⋯そうだな、例えば相手が⋯⋯」
言いながら俺は、卑猥な顔をしたまま紅浦と目を合わせ、さらに薄気味悪く笑う。
「えっ」
紅浦の右の瞼と眉が痙攣し、頬が引き攣った。
「ちょ、ちょっと待って業平、もういいから」
まるでつま先から皮膚を染め上げているのか、紅浦は首元から上に向かって皮膚を赤く染めた。
「いや待たない⋯⋯そうだな。よくあるのは家に連れ込んでいきなり⋯⋯おっと、相手をはっきりさせた方がいいな⋯⋯そう、今俺の」
「あああああああ! もういいって言ってるのにぃ!」
顔面を真っ赤にした紅浦は頭をでんでん太鼓のように、腕を昔流行ったパラパラダンスの超高速版のように振りながら、走って教室を出ていった。
──勝った。ついに紅浦に勝った。
溢れ出る気持ちを握りしめた拳に込めながら、俺は初勝利を静かに味わった。
俺に勝利へのヒントをくれたのは、明久里が今朝リビングで読んでいた漫画だった。
恋愛漫画のその作品の中で、主人公をいつも揶揄う女子がいたが、ある日主人公がそいつに些細な仕返しをすると、その女は本気で怒ってそれ以降主人公と気まずくなるというエピソードがあった。
その後主人公とその女がどうなったのかは知らない。その作品は最後まで読んでいない。
別に、紅浦と気まずくなって困ることは無いし、あの性格だ。早ければ明日にでも今のことを笑い話にしているだろう。だが、ほんの一時でも、朝のHRが始まるまでの数分間でもいい。
紅浦を敗走させたという事実が、俺の心に満開の花を咲かせるのだ。
「なあ、今の話って」
前の席から、富山君が口元だけ笑いながら近づいてくる。目は完全に笑っていない。
「もちろん嘘だよ。紅浦はいつも人の話に食いつくから、自分がターゲットになったらどうなるのか実験してみただけ」
俺はわざと、周りにも聞こえる程度の声で答えた。
これでクラスメイトは、俺の意図を分かって俺がクラスメイトでそういうことをしている第二次性徴期真っ盛りの人間だと思わないだろう。
もし誤解が解けなければ、明日から紅浦と一緒に変態の仲間入りだ。
そうなったらあいつに頭を下げて、一緒に文学部で官能小説を書こう。
────
ひやひやする場面があった。
それは世界史の時間、明久里が居眠りしていたことから始まった。
世界史担当の加賀先生は、自分の授業で生徒が眠ることを何よりも嫌厭していた。
そんな先生は、明久里が眠っているのを見つけると、チョークを置いて明久里を睨んだ。
皺が増えた目尻が、鋭く光った。
「碧山、これが何故か答えなさい」
明久里が眠っていことは、先生も当然知っている。
要するに、ただ何となく答えさせるために当てたわけではなく、ただの公開処刑だ。
眠っていた罰として、恥をかかせようという魂胆だ。
俺は気が気でなかった。
もしクラスの雰囲気が明久里を嘲笑する方向へ流れれば、あいつの心臓がどうなるのだろうかと。
当然、授業中だからスマホは触れない。
危なくなったら明久里を連れ出す。それを中々変化の現れない表情から判断しなければならなかった。
「おい碧山、ちょっと誰か起こしなさい」
先生の指示で、明久里は後ろから背中をつつかれて起きた。
ほとんど全員の視線が集まっている中、明久里は大きな欠伸をした。
寝ぼけた様子で何度も瞬きしながら、明久里は目を擦って先生を見た。
「ほら、ここだ碧山」
先生が板書に書かれた質問箇所を拳でコンコン、と叩く。
予想されるのは、答えられなくてしどろもどろになり、そこを先生に叱られ、笑いものにされる事だ。
「寒冷によって作物が上手く育たなくなり農業が立ち行かなくなったからです」
「⋯⋯その通りだ」
明久里は気だるそうに薄目を開けたまま、淡々と正解を言った。
恥をかかせられる条件は、明久里が答えられないか、解答を間違えた時のみだ。
先生がつい先ほど説明した箇所を答えられたということは、ひとつの言い訳が使えるようになる。
「先生、お言葉ですが私は眠ってはいません。ただ伏して耳だけを先生に傾けていただけです」
いきなりその言い訳を利用する明久里。
なぜ自ら悪目立ちするような発言をするのか。
明久里の考えていることなど、凡人の俺の頭脳では分かるはずがない。
クラス中から笑いが起こるが、これは嘲笑うわけではなく、ただ明久里のジョークが面白くて笑っているだけだ。
先生は表情にこそ表さないものの、掴もうとしたチョークを落としてしまったことから、目論見が外れて動揺していると見えた。
さすがに、明久里もまたすぐ腕を枕に夢の中へ突入することはなく、その時間はずっと目を開けていた。
────
「それにしてもびっくりしたよ碧山さん。よく揚げ鶏の攻撃を回避出来たね」
昼休み、もはや恒例のように俺の机に集まってきた紅浦と明久里と弁当を広げながら、昼食を開始した。
ちなみに、今朝教室を飛び出して行った紅浦は、HR直前には戻ってきて、その時には何故か俺にウインクしてきた。
薄気味悪く、その理由を俺はHRの間ずっと考えていたせいで、山本先生の話をほとんど覚えていない。
「はぁ、本当に眠ってる間に聞こえてきたので。あと揚げ鶏とは?」
「あはっ、眠ってるって言っちゃってるよ」
おかずのウインナーを箸から弁当箱内部へ落としながら、紅浦は吹き出すように笑った。
「ああ、そっかそっか。あのね碧山さん、加賀先生って少し某有名ファーストフード店のおじさんに似てるでしょ? だから揚げ鶏」
「はぁ、なるほど。たしかに似てる気がします」
「でしょでしょ」
明久里は同調するように頷いたが、果たして本当に某ファストフード店のおじさんを知っているのだろうか。
「ああそうだ。碧山さん部活作ったんだよね」
俺が白飯を半分ほど食べた頃、紅浦が切り出した。
結局、明久里は先程の4時間目までほとんど寝ていたせいで、紅浦は話す機会がなかった。
「はい。作りましたよ」
「えっと、なんて名前だっけ」
何故か紅浦は俺を見てくるが、明久里に教えてもらえばよかろう。
「Quality Of School部、略してQOS部です」
「あぁ、そうだったそうだった。クォスだ。キューオーエス」
左手の人差し指で弁当箱の角を叩きながら、紅浦は首を縦に振った。
「あ、部活で思い出しました」
「ん? どうしたんだ」
急に明久里は席を立つと、自分の席の方へ歩いた。
そして机の横に置いた自分の鞄に手を入れると、缶ジュースを1本取り出した。
「あ⋯⋯」
体を教室の前部分、正確には山本先生へ向けたのを確認し、察した。
明久里はそのまま教卓の前に椅子を置いて市販のパンを食べる山本先生に向かって進み、缶ジュースを教卓に乗せた。
「どうしたの碧山さん」
突然やってきたことに驚いたのか、それとも昨日のことを忘れてジュースを置いたことに驚いたのか、先生は眼鏡の位置を正した。
「昨日の約束のものです。あと5本は後日お願いします」
「え⋯⋯あーう、う、うん⋯⋯あ、ありがとぉ⋯⋯」
先生の表情が、困惑で固定され、目が左右に泳ぐ。
泳ぎ振動する目で教室を見回しながら、先生は明久里が献上した缶ジュースを手元へ引き寄せた。
明久里は先生が掠れた声で礼を言うと、すぐ俺達の元へ歩き出した。
明久里の背を凝視しながら、先生の顔は石のように静止していた。
自分から言い出したこととはいえ、まさか皆がいるタイミングで約束が果たされるとは思わかなっただろう。
明久里はこれを計算でやったのか、それとも天然なのか、その表情からは読み取れない。
「なんで先生にジュースを?」
スカートの皺を伸ばしながら、明久里は足を折りたたんで座った。
今の行動に、紅浦が疑問を投げかける。
「私と先生の秘密です」
明久里は紅浦を一瞥すると、箸を取って弁当に手を伸ばした。
今の応答から、明久里が計算で行動したことが分かる。
天然であるならば、そこは誤魔化さずにハッキリと言うはずだ。
「ふーん、まあいいや」
それほど食指が伸びないのか、紅浦はそれで引き下がる。
ところで、明久里が渡したのは自分で購入したものでは無く、我が家の生活費で俺用に自宅用に買ったジュースだということは、この場合咎めても仕方がないのだろうか。
「あ、次体育だから、食べたら一緒に行こうね碧山さん」
「はい。私は着替えませんけど」
そうだ。5時間目は体育だ。
食べてすぐの運動は体に悪いのだから、国が5時間目の体育は法律で禁止してほしい。
放課後、速やかに帰宅しようとした俺を捕まえた明久里によって、北側校舎3階の一室に軟禁された。
使われず、教室の後方にまとめられた机をふたつほど部屋の中央に並べ、それぞれの席に座る。
明久里はそそくさと鞄の中から漫画を取り出す。
家にあった漫画だ。5巻ほど重ねると、机の上に置いて読み始めた。
「お前⋯⋯部活やる気あるのか」
「ありますよ。ただ依頼が来るまでは何もすることがないので」
「ほとんど毎日漫画読むだけになりそうだな」
ほんと、素直に漫画研究部でも作ればよかったじゃないか。
それならこんな胡散臭い部と違って、もしかしたら部員が増えたかもしれない。
漫画に集中し始めた明久里をよそに、俺はぼんやりとネットサーフィンをしていた。
こんなことなら、俺もなにか本を持ってくればよかったと思う。
今から図書室にでも行って借りてこようか。
「なあ明久里、ちょっと図書室行ってもいいか」
「だめです。部活中ですよ。何考えてるんですか全く」
「理不尽すぎる」
漫画に目を向けたまま、こちらを見もせずに拒否された。
さて、部室に来た途端、一心不乱に漫画を読み始めた部長と、ただ手持ち無沙汰になったので図書館に行きたいと懇願した部員。真面目なのはどっちだろう。
だがそんなことを明久里に言っても、糠に釘、暖簾に腕押しだろう。
諦めてネットサーフィンを続けていると、まさかまさか教室の扉が開いた。
「あ、ここでよかったんだ。依頼に来たよ」
廊下からひょっこりと、恵梨が姿を現した。
「発音いいな」
ネイティブ顔負けの発音を響かせ、机を両手で叩いて身を乗り出し、顔を近づけてくる。
ほんの少しでも後ろから押されたりすると、顔と顔が接着しそうだ。
これが紅浦でなければ、きっと俺の心臓が爆発しそうになっていたのだろう。
今のところ、不安はあってもトキメキは全くない。
「じゃあ何してもらおっかなぁー、えー」
ニヤニヤと白い歯を見せて顔を綻ばせながら、紅浦の指が俺の顎に伸びた。
何をされるかと一瞬身構えたが、ただ猫のように撫でられるだけだった。
顎の手前と奥を、寝かせた人差し指の全体が這う。
周囲からの注目で、俺は徐々に狼狽えそうになった。
まるで将棋でジワジワと追い込まれていく時のように。
「言っておくが、そっちって言うのは学校外の個人的なことて違いないが、至って健全なものだぞ」
堪えきれなくなる前に種明かしをするが、自分で言っていて無理があるように思える。
というより、紅浦は聞いてない。
「えー、そっちって言えば当然下ネタでしょ?」
案の定、この女版出歯亀の脳内は卑猥なことで埋め尽くされているようだ。
とりあえず俺は、紅浦の指があらぬ所へ触れる前に、手首を掴んで離した。
女子に顎を撫でられるなんて、一大イベントのような気もするが、相手が相手だけになんの高揚感もない。
「あ、そうだぁ。今までの業平の情事を教えてもらおっかなぁ。新しい作品のネタにしちゃお」
「あるわけないだろ。俺がそんな熟練者に見えるか? 第二次性徴期のチュートリアルを済ませたばかりのビギナーだぞ」
「ふっ」
突然、紅浦は顔を離して憫笑した。
「じゃあ妄想でいいよ。出来れば身内への妄想で」
紅浦の目の奥に、憐れみが浮かんだのは間違いだろうか。
ここまで来ると、俺も腹が立ってくる。
ここはこの女を信頼して、本気で脅かしてみよう。
周りに聞かれるのは致し方ない。
この女と話している時点で、俺は仲間に思われているだろう。
とりあえず、友人の富山君とクラスの潤滑油である西澤君に嫌われなければれでいい。
俺は目に力を込め、猥褻物陳列罪で捕まっても文句のいえないような顔を心がけた。
「いいんだな。本当に、ここで何話しても平気だな?」
「え、どうしたの、急に凄い顔してるけど」
自分では本当に分からないのだが、顔芸の才能でもあるのだろうか。
少なくとも、紅浦が戸惑うくらいの顔はできているらしい。
「華の女子高生が教室で⋯⋯クラスメイトが周りにいる中で、有り余る性欲を持て余した男子高校生の生々しい性事情を聞く覚悟があるんだな⋯⋯そうだな、例えば相手が⋯⋯」
言いながら俺は、卑猥な顔をしたまま紅浦と目を合わせ、さらに薄気味悪く笑う。
「えっ」
紅浦の右の瞼と眉が痙攣し、頬が引き攣った。
「ちょ、ちょっと待って業平、もういいから」
まるでつま先から皮膚を染め上げているのか、紅浦は首元から上に向かって皮膚を赤く染めた。
「いや待たない⋯⋯そうだな。よくあるのは家に連れ込んでいきなり⋯⋯おっと、相手をはっきりさせた方がいいな⋯⋯そう、今俺の」
「あああああああ! もういいって言ってるのにぃ!」
顔面を真っ赤にした紅浦は頭をでんでん太鼓のように、腕を昔流行ったパラパラダンスの超高速版のように振りながら、走って教室を出ていった。
──勝った。ついに紅浦に勝った。
溢れ出る気持ちを握りしめた拳に込めながら、俺は初勝利を静かに味わった。
俺に勝利へのヒントをくれたのは、明久里が今朝リビングで読んでいた漫画だった。
恋愛漫画のその作品の中で、主人公をいつも揶揄う女子がいたが、ある日主人公がそいつに些細な仕返しをすると、その女は本気で怒ってそれ以降主人公と気まずくなるというエピソードがあった。
その後主人公とその女がどうなったのかは知らない。その作品は最後まで読んでいない。
別に、紅浦と気まずくなって困ることは無いし、あの性格だ。早ければ明日にでも今のことを笑い話にしているだろう。だが、ほんの一時でも、朝のHRが始まるまでの数分間でもいい。
紅浦を敗走させたという事実が、俺の心に満開の花を咲かせるのだ。
「なあ、今の話って」
前の席から、富山君が口元だけ笑いながら近づいてくる。目は完全に笑っていない。
「もちろん嘘だよ。紅浦はいつも人の話に食いつくから、自分がターゲットになったらどうなるのか実験してみただけ」
俺はわざと、周りにも聞こえる程度の声で答えた。
これでクラスメイトは、俺の意図を分かって俺がクラスメイトでそういうことをしている第二次性徴期真っ盛りの人間だと思わないだろう。
もし誤解が解けなければ、明日から紅浦と一緒に変態の仲間入りだ。
そうなったらあいつに頭を下げて、一緒に文学部で官能小説を書こう。
────
ひやひやする場面があった。
それは世界史の時間、明久里が居眠りしていたことから始まった。
世界史担当の加賀先生は、自分の授業で生徒が眠ることを何よりも嫌厭していた。
そんな先生は、明久里が眠っているのを見つけると、チョークを置いて明久里を睨んだ。
皺が増えた目尻が、鋭く光った。
「碧山、これが何故か答えなさい」
明久里が眠っていことは、先生も当然知っている。
要するに、ただ何となく答えさせるために当てたわけではなく、ただの公開処刑だ。
眠っていた罰として、恥をかかせようという魂胆だ。
俺は気が気でなかった。
もしクラスの雰囲気が明久里を嘲笑する方向へ流れれば、あいつの心臓がどうなるのだろうかと。
当然、授業中だからスマホは触れない。
危なくなったら明久里を連れ出す。それを中々変化の現れない表情から判断しなければならなかった。
「おい碧山、ちょっと誰か起こしなさい」
先生の指示で、明久里は後ろから背中をつつかれて起きた。
ほとんど全員の視線が集まっている中、明久里は大きな欠伸をした。
寝ぼけた様子で何度も瞬きしながら、明久里は目を擦って先生を見た。
「ほら、ここだ碧山」
先生が板書に書かれた質問箇所を拳でコンコン、と叩く。
予想されるのは、答えられなくてしどろもどろになり、そこを先生に叱られ、笑いものにされる事だ。
「寒冷によって作物が上手く育たなくなり農業が立ち行かなくなったからです」
「⋯⋯その通りだ」
明久里は気だるそうに薄目を開けたまま、淡々と正解を言った。
恥をかかせられる条件は、明久里が答えられないか、解答を間違えた時のみだ。
先生がつい先ほど説明した箇所を答えられたということは、ひとつの言い訳が使えるようになる。
「先生、お言葉ですが私は眠ってはいません。ただ伏して耳だけを先生に傾けていただけです」
いきなりその言い訳を利用する明久里。
なぜ自ら悪目立ちするような発言をするのか。
明久里の考えていることなど、凡人の俺の頭脳では分かるはずがない。
クラス中から笑いが起こるが、これは嘲笑うわけではなく、ただ明久里のジョークが面白くて笑っているだけだ。
先生は表情にこそ表さないものの、掴もうとしたチョークを落としてしまったことから、目論見が外れて動揺していると見えた。
さすがに、明久里もまたすぐ腕を枕に夢の中へ突入することはなく、その時間はずっと目を開けていた。
────
「それにしてもびっくりしたよ碧山さん。よく揚げ鶏の攻撃を回避出来たね」
昼休み、もはや恒例のように俺の机に集まってきた紅浦と明久里と弁当を広げながら、昼食を開始した。
ちなみに、今朝教室を飛び出して行った紅浦は、HR直前には戻ってきて、その時には何故か俺にウインクしてきた。
薄気味悪く、その理由を俺はHRの間ずっと考えていたせいで、山本先生の話をほとんど覚えていない。
「はぁ、本当に眠ってる間に聞こえてきたので。あと揚げ鶏とは?」
「あはっ、眠ってるって言っちゃってるよ」
おかずのウインナーを箸から弁当箱内部へ落としながら、紅浦は吹き出すように笑った。
「ああ、そっかそっか。あのね碧山さん、加賀先生って少し某有名ファーストフード店のおじさんに似てるでしょ? だから揚げ鶏」
「はぁ、なるほど。たしかに似てる気がします」
「でしょでしょ」
明久里は同調するように頷いたが、果たして本当に某ファストフード店のおじさんを知っているのだろうか。
「ああそうだ。碧山さん部活作ったんだよね」
俺が白飯を半分ほど食べた頃、紅浦が切り出した。
結局、明久里は先程の4時間目までほとんど寝ていたせいで、紅浦は話す機会がなかった。
「はい。作りましたよ」
「えっと、なんて名前だっけ」
何故か紅浦は俺を見てくるが、明久里に教えてもらえばよかろう。
「Quality Of School部、略してQOS部です」
「あぁ、そうだったそうだった。クォスだ。キューオーエス」
左手の人差し指で弁当箱の角を叩きながら、紅浦は首を縦に振った。
「あ、部活で思い出しました」
「ん? どうしたんだ」
急に明久里は席を立つと、自分の席の方へ歩いた。
そして机の横に置いた自分の鞄に手を入れると、缶ジュースを1本取り出した。
「あ⋯⋯」
体を教室の前部分、正確には山本先生へ向けたのを確認し、察した。
明久里はそのまま教卓の前に椅子を置いて市販のパンを食べる山本先生に向かって進み、缶ジュースを教卓に乗せた。
「どうしたの碧山さん」
突然やってきたことに驚いたのか、それとも昨日のことを忘れてジュースを置いたことに驚いたのか、先生は眼鏡の位置を正した。
「昨日の約束のものです。あと5本は後日お願いします」
「え⋯⋯あーう、う、うん⋯⋯あ、ありがとぉ⋯⋯」
先生の表情が、困惑で固定され、目が左右に泳ぐ。
泳ぎ振動する目で教室を見回しながら、先生は明久里が献上した缶ジュースを手元へ引き寄せた。
明久里は先生が掠れた声で礼を言うと、すぐ俺達の元へ歩き出した。
明久里の背を凝視しながら、先生の顔は石のように静止していた。
自分から言い出したこととはいえ、まさか皆がいるタイミングで約束が果たされるとは思わかなっただろう。
明久里はこれを計算でやったのか、それとも天然なのか、その表情からは読み取れない。
「なんで先生にジュースを?」
スカートの皺を伸ばしながら、明久里は足を折りたたんで座った。
今の行動に、紅浦が疑問を投げかける。
「私と先生の秘密です」
明久里は紅浦を一瞥すると、箸を取って弁当に手を伸ばした。
今の応答から、明久里が計算で行動したことが分かる。
天然であるならば、そこは誤魔化さずにハッキリと言うはずだ。
「ふーん、まあいいや」
それほど食指が伸びないのか、紅浦はそれで引き下がる。
ところで、明久里が渡したのは自分で購入したものでは無く、我が家の生活費で俺用に自宅用に買ったジュースだということは、この場合咎めても仕方がないのだろうか。
「あ、次体育だから、食べたら一緒に行こうね碧山さん」
「はい。私は着替えませんけど」
そうだ。5時間目は体育だ。
食べてすぐの運動は体に悪いのだから、国が5時間目の体育は法律で禁止してほしい。
放課後、速やかに帰宅しようとした俺を捕まえた明久里によって、北側校舎3階の一室に軟禁された。
使われず、教室の後方にまとめられた机をふたつほど部屋の中央に並べ、それぞれの席に座る。
明久里はそそくさと鞄の中から漫画を取り出す。
家にあった漫画だ。5巻ほど重ねると、机の上に置いて読み始めた。
「お前⋯⋯部活やる気あるのか」
「ありますよ。ただ依頼が来るまでは何もすることがないので」
「ほとんど毎日漫画読むだけになりそうだな」
ほんと、素直に漫画研究部でも作ればよかったじゃないか。
それならこんな胡散臭い部と違って、もしかしたら部員が増えたかもしれない。
漫画に集中し始めた明久里をよそに、俺はぼんやりとネットサーフィンをしていた。
こんなことなら、俺もなにか本を持ってくればよかったと思う。
今から図書室にでも行って借りてこようか。
「なあ明久里、ちょっと図書室行ってもいいか」
「だめです。部活中ですよ。何考えてるんですか全く」
「理不尽すぎる」
漫画に目を向けたまま、こちらを見もせずに拒否された。
さて、部室に来た途端、一心不乱に漫画を読み始めた部長と、ただ手持ち無沙汰になったので図書館に行きたいと懇願した部員。真面目なのはどっちだろう。
だがそんなことを明久里に言っても、糠に釘、暖簾に腕押しだろう。
諦めてネットサーフィンを続けていると、まさかまさか教室の扉が開いた。
「あ、ここでよかったんだ。依頼に来たよ」
廊下からひょっこりと、恵梨が姿を現した。
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