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第三十二話 知られざる戦い

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 ジャックが出て行った後、私はその場から動けなかった。
 やる気が起きないっていうか……力が入らないっていうか。

(まずは掃除しなきゃ……舐めた真似した奴らに仕返しして……そうだ。取って来た薬草も調合しないと)

 色々とやることはたくさんあるのに、なぜだか動けない。
 そう、だってまだサシャが目覚めてないもの。
 この子が起きないと始まらない。私は薬師なんだから、患者の様子は最後まで見なきゃ。

 ──本当に、それだけ?

 ギリ、と唇を噛みしめた。

(いつから私はこんなに弱くなったのかしら。情けない)

 たかが下僕一人。元から期待していなかった戦力だ。
 元々、私一人でやっていけるように計画は立てていたんだし。
 ちょっと料理係と掃除係と雑用係と荷物持ちと番犬役が居なくなったくらいで、私が薬屋を出来なくなる理由にはならない。

(…………いえ、誤魔化すのは止めましょう)

 正直に言って、私はこの先一人でやっていける気がしなかった。

 私が薬屋を始めてから、隣にはずっとジャックが居た。
 あいつが頼んでもないのに私の世話を焼いていて、他人が勝手に引いてくる線を引かず、図々しく乗り込んできてくれたおかげで、助けられたことがどれだけあるだろう。

 確かに私はいい薬を作れるし、自他ともに認める美貌もある。

 でも、それだけ。

 あいつみたいに美味しい料理は作れないし、
 あいつみたいに丁寧に掃除することも出来ない。
 あいつみたいに体力もないし、走ったらすぐにバテるし、カッとなったらすぐに手が出る。

(……なんだ、私。何も出来ないじゃない)

 何も出来ないのに、もう知ってしまった。

 二人で一緒に食べる食事の温かさを。
 嵐の日に一つ屋根の下に誰かが居る頼もしさを。
 信頼できる人間と一緒に薬屋をやっていける楽しさを。

 あーあ。
 ほんと愚かね、私。

 もうとっくの昔に、大事なものだと分かってたはずなのに。
 気兼ねなく話せて、ありのままで居られて。
 こんな人間にはもう出会えないって、分かってたはずなのに。

「……色々あったわね」

 少し周りを見渡すだけで思い出す。調合室で余計なものに触れようとしたあいつを叱ったこと、私が転ぼうとしたらあいつが抱き留めたこと、飯が出来たぞと呼んできたあいつがひょっこり顔を出してきたこと。お母様と作り上げたはずの場所は、いつしかあいつとの思い出に染められていた。

「もう、遅いけど」

 ジャックはもう戻らない。
 きっとその方がいい。
 王族ともめ事を起こす女なんてあいつにとっても良くない。
 サシャが目覚めたら事情を言って解雇したほうがいいかしら。

 こんな事に巻き込んでしまって、本当に申し訳ないわ。

「……んみゅ」
「サシャ?」
「お姉ちゃん!」

 ぷるりとまつ毛が震えて、サシャはゆっくり目を開けた。
 ぼんやりした瞳が私を捉え、続いてリリを見る。

「ラピス様……リリ……」
「お姉ちゃん、よかった!」

 リリが感極まって抱き着いていた。
 私は思わず立ち上がったけど、行き場のない手は動かなくて、力なく下ろした。
 ……とにかく、よかった。目覚めて。

「調子はどう?」
「大丈夫です……ちょっと頭を打っただけですから……」

 ちょっとどころじゃない傷だったけど。
 まぁ、確かに重傷というほどではなかったわね。
 見たところふらついてる様子はないし、頭もハッキリしてる。

 ……これなら安心しても大丈夫かしら。

「もぉ~~~心配したんだからね、お姉ちゃんのばかぁ!」
「ごめんね、リリ」

 サシャは妹の頭を撫でながら周りを見渡した。
 頭の上に疑問符が浮かぶ。

「ところで、ジャック様は?」
「あいつなら出て行ったわよ」
「え?」

 サシャは目を見開き、慌てたように身体を起こした。

「で、出て行ったって!? どういうことですか!?」
「言葉通りよ。もう付き合ってらんないんですって」

 まぁ、無理もない事だけど。

「元々あいつはこれ以上私に尽くす謂れなんてなかったのよ。ただ、お互いにずるずると引き伸ばしていただけで……あいつにはあいつの人生がある。これ以上引き止めておくのも悪いでしょ」
「……そんな」
「お前も、辞めたいなら早く言いなさいよ。私は別に、怒ったりしないから」

 むしろこちらから解雇を言い渡すべきなのだけど……。
 いきなり放り出したら行く当てのないサシャは困ってしまうはず。

 そうだ。伝手を辿って職場を見つけてあげてもいいわね。
 この子くらい能力が高ければ、いくらでもいい職場は見つかるもの。

「ねぇサシャ、お前も……」
「……か」

 掠れるような囁きに私は眉根を寄せた。

「なに? 聞こえないけど」
「ラピス様の、ばか──────っ!!!!」

 目の前で銅鑼が鳴らされたみたいな大声だった。
 きぃーん……と耳鳴りがした私は唖然として、

「な……」

 言われた言葉を理解するにつれ、腹が立ってきた。

「ば、馬鹿って言った方が馬鹿なのよ! お前、師匠になんて口の利き方してるの!」
「馬鹿だからです! 馬鹿師匠! もう、ばかばかばかばか、ばか!」
「馬鹿はお前よ! 病み上がりなんだから寝てなさい!」

 サシャが私の胸をぽかぽかと叩いてくる。
 全然痛くないけど、安静にしてないとせっかく閉じた傷口が開いちゃう。
 無理やり寝かせようとしたらサシャが涙を溜めた目で見上げて来た。

!?」
「え……」

 切実な瞳をまっすぐに見ることが出来ずに目を逸らす。

「……お前は起きてないから知らないのよ。あいつは本心で言ったの」
「……だから、馬鹿なんです」

 サシャはため息をついた。

「ジャック様が血まみれで倒れていた日のこと、覚えてますか」
「……えぇ」

 初めてジャックを見たのは私が薬屋に来た翌日の朝。
 あいつはなぜか血まみれになって見せの前に倒れていた。

『で、なんでその毒男が私の店の前で血まみれで倒れてたの』
『死んでも言わねー。かさぶた取るなり何なりしろや』

 どれだけ聞いてもあいつは理由言わなかった。
 その頑なまでの態度に呆れて私は何も聞かないことに決めた。

 二度目は薬屋に慣れてきて、翌朝、ジャックが調合室にいなかった時。

『……なんでそんな怪我してんのよ』
『別に。夜中に酒場に行ったら平民が見下した目で見てきやがったから喧嘩売った。んで負けてこのザマだ』

 平民と喧嘩なんて嘘だってすぐに分かった。
 それでもあいつは理由を言わなかったから、私も何も聞かないことにした。

 私たちには境界があった。
 その境界を踏み越えて聞くことは、私たちの関係に皹を入れるような行為だと思っていた。

(そういえば、この子は……あの時)

『あの、ジャック様。怪我……』
『なに。なんでお前がこいつの怪我を? こんな朝早くに来たの?』
『もう二の鐘が鳴ったあとですよ。私はお店に来たらジャック様が怪我してたから……あの、ラピス様に言うなって言われて、それで』

(この子は、本当の理由を知ってるの?)

 視線で問いかけると、サシャは目を伏せた。

あの日も・・・・来てたんです・・・・・・。今日と同じ人たちが」
「……え?」

 今日と、同じ?

「その時だけじゃありません。あの人たちは何度か夜中に来て、店をめちゃくちゃにしようとしました。でも、ジャック様が止めてくれていました。血まみれになった日は、すごく強い人が来たみたいで、ジャック様でも敵わなくて、それでもあの人は、ずっとお店を守っていました」
「そんな……」

 私は思い出す。下町に来た初めての夜を。
 あの日、私は外が騒がしくて眠れなかった。
 下町で寝泊まりしたのは初めてだから、こんなものかって思ってたし、サシャの言う通り、あれから何度か外が騒がしい夜があったから、これが普通なんだって思っていた。

 ──だけど。

「あの人は!」

 サシャは私の胸に縋りついて、泣きながら叫んだ。

「ずっと守ってたんです! この店を、ラピス様の居場所を!」

「あなたが幸せに暮らせるようにって、何も気にせず居られるようにって!」

「たった一人で、わたしにも、黙ってろって……」

 言葉の一つが、全身に血液を送る鼓動の音みたい。
 ぶわ、と身体が熱くなって、頭がぐちゃぐちゃになりそう。
 何が何だか分からなくて、私は戸惑いながら呟いた。

「なんで私に言わないのよ……知らせれば対策くらい……」
「あの人は……自分が傷ついてラピス様を守れるなら、それでいいんですよ」

 サシャは目を細めて言った。

「そう言う人だって……もう知ってるでしょう?」

 ……。
 ………………。

 あぁ。
 そうだ。そうだった。

 いつだって憎まれ口を叩いて、強気で、悪しざまに振舞って。
 サシャの時も、私を危険から遠ざけようと自分から悪役を買って出た。

「でも、なんでそこまで」
「それは本人から聞いて下さい。わたしの口からは言えません」

 分からないことがいっぱいだった。
 だってサシャの話が本当なら、初めて会った日に血まみれで倒れていた理由が分からない。
 あの時、私たちはまだ会ったこともなくて、向こうも私を知らなかったはずなのに。

「ほら。何してるんですか」

 サシャは私の胸を押して言った。

「私たちは大丈夫ですから、行ってください」
「でも」
「大丈夫です。店が滅茶苦茶になった以上、あの人たちの目的は達成されているから、私たちみたいな平民を襲う理由はないはずです。だから……早くあの人を、迎えに行ってください」
「リリがお姉ちゃんをまもるから! だからいって! ラピスお姉ちゃん!」

 …………。

「分かった。行ってくる」
「はい、お帰りをお待ちしております」
「いってらっしゃい、だぜ!」
「帰ったら駄犬にご飯作らせるから待ってなさい」

 胸がスッキリしていた。
 あれほど動かなくなった体が羽みたいに軽くて、私は店を飛び出した。


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