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第十話

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 ニーナを追い掛けている俺は、しかしその視界にニーナを写してはいない。
 全く足が速いのも褒められたものではないな!
 だが行き先はわかっている。八百屋の場所なら何度となく通ったのだから。
 俺は風景を横に流す勢いで走る速度を緩める事はしなかった。

 「っくそ!帰ったら絶対鍛え直す!」

 何時迄も女に負けてばかりはいられない。
 でないと肝心な時に俺は俺の役立たず具合を認識する事になって腹立たしい事この上ない。
 抱負も新たにしたところで八百屋が見えてきた。
 速度を落とさず中まで駆け込み、ハチの部屋の扉を勢いに任せて開けたい。けれど何事も無ければ禍根を残すだけだと判断し、入り口で一旦速度を落とした。

 「中にいるのか?」

 ハチの部屋の辺りを丹念に観察しても、人影らしきものは無い。
 テルロなら気配で感じ取れそうだが生憎今はいない。
 仕方なく住居側の玄関から中を伺い入る。
 
 「邪魔をする」

 声を掛けるが答える声は無い。

 「?留守か?病人なのに?」

 首を傾げた瞬間。ハチの部屋の方から甲高い声が聞こえた。
 俺は直ぐに部屋の方へ向いて耳を澄ませた。ちゃんと聞こうとすれば断片的にニーナらしき声と、ハチらしき声が聞こえてきた。しかも何やら争ってる風である。
 慌てて駆け出し部屋の扉を勢いに任せて開けると、そこには俺が危惧した通りの光景があった。

 「ニーナ!」

 ベッドの上でハチに押し倒されたニーナを見て、俺は頭にカッと血がのぼった。

 「貴様!ニーナに何をする!」

 押し倒しているだけでなく、嫌がるニーナの唇を奪おうとする寸前で奇しくも間に合った俺は、ズカズカと大股で近寄りハチの襟足を掴んで引き離した。そのまま投げ倒して腕を捻り上げ拘束する。
 というのは俺の希望的妄想行動だ。

 「てや!」

 それより早くニーナが巴投げでハチを投げ飛ばした。
 お陰で俺は怒りの形相で足を踏み出した状態で止まってしまった。
 ハチは綺麗な放射線を描き壁に激突した。

 「……」
 「……」

 俺とハチの無言の言葉が重なる。
 病人相手に容赦無―――――。
 ハチは激突した体勢のままズルズルと床に落ちて、ペソリと倒れた。床に広がる透明な水がハチの物悲しさを語っているようだ。
 ……俺。さっきは良く無事に済んだなー……。
 見ていられなくてふと遠い空の向こうを見るとはなしに見た俺は、少し身震いした気がした。

 「アスター君?」

 意識を遠くへやっていた俺だがニーナに呼ばれて直ぐに意識を戻す。
 キョトリと小首を傾げるニーナはなんだか可愛らしく見える。
 先程の一連の動作がなければ。

 「あー。俺、必要無かったな……」

 笑みを浮かべて見せたが引き攣ってしまった。気恥ずかしいから頬を掻いて誤魔化す。
 帰ろうかな。
 そう思った矢先、ニーナはくしゃりと今迄見せた事ない弱り顔をした。
 泣きそうだと感じた俺は、考えるより先に体を動かした。
 ニーナに向かって手を伸ばすと、ニーナはパッと身を起こして俺へ突進してくる。その勢いのまま俺の胸へ打つかり力いっぱいしがみ付いた。
 内心「ぐふっ」と衝撃が駆け抜けたが俺も男だ。元王子としても見苦しい真似はしまい。背中がミシミシ言っているがきっと気の所為だ。気の所為と思っておこう。

 「大丈夫か。ニーナ」

 問い掛けに首肯だけで答えがあった。
 軽く肩に腕を回せば一瞬ビクリと跳ねた。言葉はなくともそれだけでニーナが怖がっている事がわかる。
 俺は一瞬の逡巡をしてから、優しくそっと頭を撫でた。抱き締めるのは今は逆効果な気がしたから。
 ニーナの頭を撫でている間にハチは起き上がっていた。
 病人なのは本当らしく、ベッドに向かう足取りに力が無い。なのに横目で俺を見る目には敵意が宿っている。
 尤も敵視してるのは俺も同じだがな。ニーナを大切に出来ない者になどニーナはやらん。
 ハチがベッドをギシリと揺らす音に、漸くニーナは顔をあげてハチを見た。

 「あたし、帰る。
 人の心配無碍にする幼馴染みなんて知らない」

 強気に発言したんだろうが、その声が震えている事などハチにもわかっただろう。
 ハチは「ちぇっ」と言ってそっぽを向いた。

 「アスター君。悪いんだけど今は一人で帰りたいんだ」

 ニーナが出て行くのでついて行こうとしたのだが、後ろ姿を見せたまま言われてしまい動けなくなった。
 ニーナも一人で頭を冷やしたいのだろう。大人しく従う意思を見せれば弱々しく「ありがとう」という応えがあった。
 ニーナが出て行ったのを確認した俺は、ハチに簡単な粥とハチミツジンジャーティーをサイドテーブルに用意してやってから後を追った。
 今のニーナを本気で一人にする気はないからな。
 道すがら街の人々にニーナが向かった先を聞く。真っ直ぐ帰るなら良いが、気が落ち込んでいる時に帰るとは思わなかったからだ。
 聞けばやはり家には向かっていなかった。
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