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媚薬
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「そんな……編集長は……経験ないはずじゃ」
逢坂は首を振った。
「……ひ、久しぶりだから、戸惑っただけだ。抱いた抱かれたなんて、大人ならよくあることだ。おまえには、まだわからないだけなんだ」
中島が、逢坂の胸元を掴んだ。
「編集長は、子供をあやすような気分で俺と寝たんですか」
「中島、落ち着け。昨夜のことは忘れろ」
「忘れろって、あんなに悦んでいたくせして?」
中島が吐き捨てるように言う。
夜、絶え間なく自分に注ぎ込まれた熱を、思い出した。中島に刻まれた情の数々に、逢坂は溺れた。
躯の疼きを振り払うように、逢坂は首を振った。
「遊びだったんだ。そう思ってほしい」
逢坂の胸を掴んでいた中島の手が、襟元にかかる。驚きから悲しみへと、中島の表情は変わっていく。
中島の瞳が揺らいだ。
「編集長は……編集長は遊びなら、どんな男にも抱かれるんですか!?」
逢坂が拳を握りしめる。だが、すぐに弛めた。
顔を上げ、中島の目を見て言った。
「ああ、誰とでも寝るんだよ」
中島は、腕に力を込める。顔を近づけてきた。
「……それなら、遊びでもいいです。遊びでいいから、俺と寝てください」
「しっかりしろ。一度だから遊びなんだ。二度するのは本気のときだ」
「じゃあ、俺の目を見て言ってください。俺とのことは本気じゃないと、言ってください」
逢坂は目を伏せた。逢坂の顔を中島が覗き込む。何かを読み取ろうとしているまなざしだった。
逢坂は目を合わせられなかった。
突然、中島が逢坂を解放した。
「編集長の気持ちは、よくわかりました」
トイレから出るとき、中島が振り返った。
鋭く、射抜くような目つきだった。逢坂は中島が去っても、唇を噛んでいた。シャツのボタンを止めながら、背中を壁に押しつけた。冷えたタイルで、中島が与えてくれた温もりを消したかった。
昼休みになると、中島が何度も逢坂を見てきた。他の編集者が出て行っても、中島はデスクに向かっていた。
視線を合わせないよう、逢坂はパソコンのディスプレイばかり見ていた。ときどき、シャツの襟元を弄った。上着はトイレから戻ってきたときに着た。
今日は弁当を作っていない。一食くらい抜いてもいいと逢坂は考えていた。
「俺、今日は外で食べますよ」
「ああ、わかった」
中島の言葉に、キーボードを打ちながら逢坂は頷いた。画面だけ見続けようとして前屈みになっていた。
椅子の動く音がした。中島が席を立ったのだろう。
腕を引っ張られた。逢坂は声を上げた。横に立っていた中島が逢坂の体を抱え込んだ。
力を込めず、労わるように抱き締められた。穏やかな心音が聞こえてきた。
「ひとりでも、忘れずに食べてくださいよ」
「わかっている。俺は子供じゃない」
顔を上げると、微笑む中島と目が合った。
何かを伝えようとして目だった。一瞬、瞳の光が揺らいだ。
逢坂は笑おうとした。上手く顔が作れず、下を向いた。
家に帰り一晩眠れば、だいぶ疲れは取れた。早めに起き、朝食と弁当を作った。
昼、誰もいない編集部で弁当を食べた。卵焼きにはいつものように、ほうれん草を入れた。熱せられ卵と混じった、瑞々しいほどの濃い緑を逢坂は見つめていた。
味はよくわからなかった。食べなくてはいけない、そう自分に言い聞かせ、箸を動かした。
夜、梶と約束していた喫茶店へ向かった。仕事が長引いたので、教えてもらった携帯の番号へ電話しておいた。梶は、既に喫茶店にいると言っていた。
待ち合わせ場所は大学生の頃、梶とよく通っていた店だった。飴色の壁とテーブル、深い赤のソファは、昔と変わらなかった。
梶は、一番奥のテーブルにいた。文庫本を読んでいた。ダークグレーのジャケット、ブルーブラックのシャツに同系色のネクタイを着ていた。
「ごめん、待たせただろ」
「コーヒー二杯飲みました」
梶は本を閉じると席を立った。
そっと肩を押されて、逢坂は喫茶店を出た。
連れられた場所は、青いガラス張りのビルだった。地下への狭い階段を降りていくと、街中の喧騒は遠のいた。暗い寂しげなバーに辿りついた。
中に入ると、バーテンダーが笑顔で迎えてくれた。伸ばした髪を後ろで束ねている、壮年の男だった。男は、梶の幼なじみだと言っていた。
カウンターの一番奥に梶と並んで座った。逢坂は、壁際のスツールに腰かけた。
バーなんて、年配の上司や作家に誘われたときしか行かない。カウンターの向こうに並べられた酒の銘柄もさっぱりわからなかった。
一通り眺めたあと、店内を見回した。足元から当たる淡い照明も、スピーカーから聞こえる女の甘い歌声も、全て、珍しかった。
席は数えるだけで他の客はいなかった。海の底を思わせる紺を基調とした内装だった。逢坂は壁にあったシルクスクリーンを眺めていた。紫の夜空に、無数の銀の三日月が描かれていた。
見惚れていたので、梶がバーテンダーと話をしていても聞いていなかった。
「今日は金曜だから、ゆっくり飲めますね」
「ああ。俺が飲みに行くって言ったら、みんな羨ましがったよ。安いところで飲むって言っていた」
梶に話しかけられ、逢坂は頷いた。
ほのかな明かりが、梶の顔に影を落としていた。笑っているだけだとわかっていても、何かを隠しているように見えた。
「新刊を読んでいたら、大学にいた頃を思い出したよ。昔の話の続きをあって懐かしかった」
カウンターの隅に置かれた花束の形をしたランプを、逢坂は見つめた。
「おまえは変わったけど、書くものは変わっていないな」
バーテンダーが逢坂にタンブラーグラスを差し出した。底にグリーンのチェリーが沈んだ、すみれ色のカクテルだった。
「星の誘いです。新作のカクテルですよ」
「僕が、頼んで作ってもらったんです。名前の由来はわかりますよね」
逢坂は頷き梶の顔を見た。梶は手を軽く上げて、飲めと合図してきた。
グラスに顔を近づけると、花の香りがした。逢坂はカクテルに口をつけた。
甘い液体が喉を流れ、体の深い底で小さく灯った。
「美味しいけど、強いカクテルだな。飲み過ぎたら、足元が危なくなる」
「そういうお酒なんです」
梶は、自分がオーダーしたカクテルを飲んだ。背の低いグラスに入った、琥珀色の酒だった。
逢坂の耳元に梶が囁いた。
「媚薬が入っているんですよ」
逢坂は首を振った。
「……ひ、久しぶりだから、戸惑っただけだ。抱いた抱かれたなんて、大人ならよくあることだ。おまえには、まだわからないだけなんだ」
中島が、逢坂の胸元を掴んだ。
「編集長は、子供をあやすような気分で俺と寝たんですか」
「中島、落ち着け。昨夜のことは忘れろ」
「忘れろって、あんなに悦んでいたくせして?」
中島が吐き捨てるように言う。
夜、絶え間なく自分に注ぎ込まれた熱を、思い出した。中島に刻まれた情の数々に、逢坂は溺れた。
躯の疼きを振り払うように、逢坂は首を振った。
「遊びだったんだ。そう思ってほしい」
逢坂の胸を掴んでいた中島の手が、襟元にかかる。驚きから悲しみへと、中島の表情は変わっていく。
中島の瞳が揺らいだ。
「編集長は……編集長は遊びなら、どんな男にも抱かれるんですか!?」
逢坂が拳を握りしめる。だが、すぐに弛めた。
顔を上げ、中島の目を見て言った。
「ああ、誰とでも寝るんだよ」
中島は、腕に力を込める。顔を近づけてきた。
「……それなら、遊びでもいいです。遊びでいいから、俺と寝てください」
「しっかりしろ。一度だから遊びなんだ。二度するのは本気のときだ」
「じゃあ、俺の目を見て言ってください。俺とのことは本気じゃないと、言ってください」
逢坂は目を伏せた。逢坂の顔を中島が覗き込む。何かを読み取ろうとしているまなざしだった。
逢坂は目を合わせられなかった。
突然、中島が逢坂を解放した。
「編集長の気持ちは、よくわかりました」
トイレから出るとき、中島が振り返った。
鋭く、射抜くような目つきだった。逢坂は中島が去っても、唇を噛んでいた。シャツのボタンを止めながら、背中を壁に押しつけた。冷えたタイルで、中島が与えてくれた温もりを消したかった。
昼休みになると、中島が何度も逢坂を見てきた。他の編集者が出て行っても、中島はデスクに向かっていた。
視線を合わせないよう、逢坂はパソコンのディスプレイばかり見ていた。ときどき、シャツの襟元を弄った。上着はトイレから戻ってきたときに着た。
今日は弁当を作っていない。一食くらい抜いてもいいと逢坂は考えていた。
「俺、今日は外で食べますよ」
「ああ、わかった」
中島の言葉に、キーボードを打ちながら逢坂は頷いた。画面だけ見続けようとして前屈みになっていた。
椅子の動く音がした。中島が席を立ったのだろう。
腕を引っ張られた。逢坂は声を上げた。横に立っていた中島が逢坂の体を抱え込んだ。
力を込めず、労わるように抱き締められた。穏やかな心音が聞こえてきた。
「ひとりでも、忘れずに食べてくださいよ」
「わかっている。俺は子供じゃない」
顔を上げると、微笑む中島と目が合った。
何かを伝えようとして目だった。一瞬、瞳の光が揺らいだ。
逢坂は笑おうとした。上手く顔が作れず、下を向いた。
家に帰り一晩眠れば、だいぶ疲れは取れた。早めに起き、朝食と弁当を作った。
昼、誰もいない編集部で弁当を食べた。卵焼きにはいつものように、ほうれん草を入れた。熱せられ卵と混じった、瑞々しいほどの濃い緑を逢坂は見つめていた。
味はよくわからなかった。食べなくてはいけない、そう自分に言い聞かせ、箸を動かした。
夜、梶と約束していた喫茶店へ向かった。仕事が長引いたので、教えてもらった携帯の番号へ電話しておいた。梶は、既に喫茶店にいると言っていた。
待ち合わせ場所は大学生の頃、梶とよく通っていた店だった。飴色の壁とテーブル、深い赤のソファは、昔と変わらなかった。
梶は、一番奥のテーブルにいた。文庫本を読んでいた。ダークグレーのジャケット、ブルーブラックのシャツに同系色のネクタイを着ていた。
「ごめん、待たせただろ」
「コーヒー二杯飲みました」
梶は本を閉じると席を立った。
そっと肩を押されて、逢坂は喫茶店を出た。
連れられた場所は、青いガラス張りのビルだった。地下への狭い階段を降りていくと、街中の喧騒は遠のいた。暗い寂しげなバーに辿りついた。
中に入ると、バーテンダーが笑顔で迎えてくれた。伸ばした髪を後ろで束ねている、壮年の男だった。男は、梶の幼なじみだと言っていた。
カウンターの一番奥に梶と並んで座った。逢坂は、壁際のスツールに腰かけた。
バーなんて、年配の上司や作家に誘われたときしか行かない。カウンターの向こうに並べられた酒の銘柄もさっぱりわからなかった。
一通り眺めたあと、店内を見回した。足元から当たる淡い照明も、スピーカーから聞こえる女の甘い歌声も、全て、珍しかった。
席は数えるだけで他の客はいなかった。海の底を思わせる紺を基調とした内装だった。逢坂は壁にあったシルクスクリーンを眺めていた。紫の夜空に、無数の銀の三日月が描かれていた。
見惚れていたので、梶がバーテンダーと話をしていても聞いていなかった。
「今日は金曜だから、ゆっくり飲めますね」
「ああ。俺が飲みに行くって言ったら、みんな羨ましがったよ。安いところで飲むって言っていた」
梶に話しかけられ、逢坂は頷いた。
ほのかな明かりが、梶の顔に影を落としていた。笑っているだけだとわかっていても、何かを隠しているように見えた。
「新刊を読んでいたら、大学にいた頃を思い出したよ。昔の話の続きをあって懐かしかった」
カウンターの隅に置かれた花束の形をしたランプを、逢坂は見つめた。
「おまえは変わったけど、書くものは変わっていないな」
バーテンダーが逢坂にタンブラーグラスを差し出した。底にグリーンのチェリーが沈んだ、すみれ色のカクテルだった。
「星の誘いです。新作のカクテルですよ」
「僕が、頼んで作ってもらったんです。名前の由来はわかりますよね」
逢坂は頷き梶の顔を見た。梶は手を軽く上げて、飲めと合図してきた。
グラスに顔を近づけると、花の香りがした。逢坂はカクテルに口をつけた。
甘い液体が喉を流れ、体の深い底で小さく灯った。
「美味しいけど、強いカクテルだな。飲み過ぎたら、足元が危なくなる」
「そういうお酒なんです」
梶は、自分がオーダーしたカクテルを飲んだ。背の低いグラスに入った、琥珀色の酒だった。
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