上 下
8 / 25

媚薬

しおりを挟む
「そんな……編集長は……経験ないはずじゃ」
逢坂は首を振った。
「……ひ、久しぶりだから、戸惑っただけだ。抱いた抱かれたなんて、大人ならよくあることだ。おまえには、まだわからないだけなんだ」
中島が、逢坂の胸元を掴んだ。
「編集長は、子供をあやすような気分で俺と寝たんですか」
「中島、落ち着け。昨夜のことは忘れろ」
「忘れろって、あんなに悦んでいたくせして?」
中島が吐き捨てるように言う。
夜、絶え間なく自分に注ぎ込まれた熱を、思い出した。中島に刻まれた情の数々に、逢坂は溺れた。
躯の疼きを振り払うように、逢坂は首を振った。
「遊びだったんだ。そう思ってほしい」
逢坂の胸を掴んでいた中島の手が、襟元にかかる。驚きから悲しみへと、中島の表情は変わっていく。
中島の瞳が揺らいだ。
「編集長は……編集長は遊びなら、どんな男にも抱かれるんですか!?」
逢坂が拳を握りしめる。だが、すぐに弛めた。
顔を上げ、中島の目を見て言った。
「ああ、誰とでも寝るんだよ」
中島は、腕に力を込める。顔を近づけてきた。
「……それなら、遊びでもいいです。遊びでいいから、俺と寝てください」
「しっかりしろ。一度だから遊びなんだ。二度するのは本気のときだ」
「じゃあ、俺の目を見て言ってください。俺とのことは本気じゃないと、言ってください」
逢坂は目を伏せた。逢坂の顔を中島が覗き込む。何かを読み取ろうとしているまなざしだった。
逢坂は目を合わせられなかった。
突然、中島が逢坂を解放した。
「編集長の気持ちは、よくわかりました」
トイレから出るとき、中島が振り返った。
鋭く、射抜くような目つきだった。逢坂は中島が去っても、唇を噛んでいた。シャツのボタンを止めながら、背中を壁に押しつけた。冷えたタイルで、中島が与えてくれた温もりを消したかった。

昼休みになると、中島が何度も逢坂を見てきた。他の編集者が出て行っても、中島はデスクに向かっていた。
視線を合わせないよう、逢坂はパソコンのディスプレイばかり見ていた。ときどき、シャツの襟元を弄った。上着はトイレから戻ってきたときに着た。
今日は弁当を作っていない。一食くらい抜いてもいいと逢坂は考えていた。
「俺、今日は外で食べますよ」
「ああ、わかった」
中島の言葉に、キーボードを打ちながら逢坂は頷いた。画面だけ見続けようとして前屈みになっていた。
椅子の動く音がした。中島が席を立ったのだろう。
腕を引っ張られた。逢坂は声を上げた。横に立っていた中島が逢坂の体を抱え込んだ。
力を込めず、労わるように抱き締められた。穏やかな心音が聞こえてきた。
「ひとりでも、忘れずに食べてくださいよ」
「わかっている。俺は子供じゃない」
顔を上げると、微笑む中島と目が合った。
何かを伝えようとして目だった。一瞬、瞳の光が揺らいだ。
逢坂は笑おうとした。上手く顔が作れず、下を向いた。

家に帰り一晩眠れば、だいぶ疲れは取れた。早めに起き、朝食と弁当を作った。
昼、誰もいない編集部で弁当を食べた。卵焼きにはいつものように、ほうれん草を入れた。熱せられ卵と混じった、瑞々しいほどの濃い緑を逢坂は見つめていた。
味はよくわからなかった。食べなくてはいけない、そう自分に言い聞かせ、箸を動かした。

夜、梶と約束していた喫茶店へ向かった。仕事が長引いたので、教えてもらった携帯の番号へ電話しておいた。梶は、既に喫茶店にいると言っていた。
待ち合わせ場所は大学生の頃、梶とよく通っていた店だった。飴色の壁とテーブル、深い赤のソファは、昔と変わらなかった。
梶は、一番奥のテーブルにいた。文庫本を読んでいた。ダークグレーのジャケット、ブルーブラックのシャツに同系色のネクタイを着ていた。
「ごめん、待たせただろ」
「コーヒー二杯飲みました」
梶は本を閉じると席を立った。
そっと肩を押されて、逢坂は喫茶店を出た。
連れられた場所は、青いガラス張りのビルだった。地下への狭い階段を降りていくと、街中の喧騒は遠のいた。暗い寂しげなバーに辿りついた。
中に入ると、バーテンダーが笑顔で迎えてくれた。伸ばした髪を後ろで束ねている、壮年の男だった。男は、梶の幼なじみだと言っていた。
カウンターの一番奥に梶と並んで座った。逢坂は、壁際のスツールに腰かけた。
バーなんて、年配の上司や作家に誘われたときしか行かない。カウンターの向こうに並べられた酒の銘柄もさっぱりわからなかった。
一通り眺めたあと、店内を見回した。足元から当たる淡い照明も、スピーカーから聞こえる女の甘い歌声も、全て、珍しかった。
席は数えるだけで他の客はいなかった。海の底を思わせる紺を基調とした内装だった。逢坂は壁にあったシルクスクリーンを眺めていた。紫の夜空に、無数の銀の三日月が描かれていた。
見惚れていたので、梶がバーテンダーと話をしていても聞いていなかった。
「今日は金曜だから、ゆっくり飲めますね」
「ああ。俺が飲みに行くって言ったら、みんな羨ましがったよ。安いところで飲むって言っていた」
梶に話しかけられ、逢坂は頷いた。
ほのかな明かりが、梶の顔に影を落としていた。笑っているだけだとわかっていても、何かを隠しているように見えた。
「新刊を読んでいたら、大学にいた頃を思い出したよ。昔の話の続きをあって懐かしかった」
カウンターの隅に置かれた花束の形をしたランプを、逢坂は見つめた。
「おまえは変わったけど、書くものは変わっていないな」
バーテンダーが逢坂にタンブラーグラスを差し出した。底にグリーンのチェリーが沈んだ、すみれ色のカクテルだった。
「星の誘いです。新作のカクテルですよ」
「僕が、頼んで作ってもらったんです。名前の由来はわかりますよね」
逢坂は頷き梶の顔を見た。梶は手を軽く上げて、飲めと合図してきた。
グラスに顔を近づけると、花の香りがした。逢坂はカクテルに口をつけた。
甘い液体が喉を流れ、体の深い底で小さく灯った。
「美味しいけど、強いカクテルだな。飲み過ぎたら、足元が危なくなる」
「そういうお酒なんです」
梶は、自分がオーダーしたカクテルを飲んだ。背の低いグラスに入った、琥珀色の酒だった。
逢坂の耳元に梶が囁いた。
「媚薬が入っているんですよ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※サムネにAI生成画像を使用しています

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

年上が敷かれるタイプの短編集

あかさたな!
BL
年下が責める系のお話が多めです。 予告なくr18な内容に入ってしまうので、取扱注意です! 全話独立したお話です! 【開放的なところでされるがままな先輩】【弟の寝込みを襲うが返り討ちにあう兄】【浮気を疑われ恋人にタジタジにされる先輩】【幼い主人に狩られるピュアな執事】【サービスが良すぎるエステティシャン】【部室で思い出づくり】【No.1の女王様を屈服させる】【吸血鬼を拾ったら】【人間とヴァンパイアの逆転主従関係】【幼馴染の力関係って決まっている】【拗ねている弟を甘やかす兄】【ドSな執着系執事】【やはり天才には勝てない秀才】 ------------------ 新しい短編集を出しました。 詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。

ゆるふわメスお兄さんを寝ている間に俺のチンポに完全屈服させる話

さくた
BL
攻め:浩介(こうすけ) 奏音とは大学の先輩後輩関係 受け:奏音(かなと) 同性と付き合うのは浩介が初めて いつも以上に孕むだのなんだの言いまくってるし攻めのセリフにも♡がつく

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 まったり書いていきます。 2024.05.14 閲覧ありがとうございます。 午後4時に更新します。 よろしくお願いします。 栞、お気に入り嬉しいです。 いつもありがとうございます。 2024.05.29 閲覧ありがとうございます。 m(_ _)m 明日のおまけで完結します。 反応ありがとうございます。 とても嬉しいです。 明後日より新作が始まります。 良かったら覗いてみてください。 (^O^)

男とラブホに入ろうとしてるのがわんこ属性の親友に見つかった件

水瀬かずか
BL
一夜限りの相手とホテルに入ろうとしていたら、後からきた男女がケンカを始め、その場でその男はふられた。 殴られてこっち向いた男と、うっかりそれをじっと見ていた俺の目が合った。 それは、ずっと好きだけど、忘れなきゃと思っていた親友だった。 俺は親友に、ゲイだと、バレてしまった。 イラストは、すぎちよさまからいただきました。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

処理中です...