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ためらうことなく、男に裸を晒さなくてはいけない。
心を落ち着かせようと青年は息を吐く。ひと息吸うと、アスコットタイをほどいていく。
あつらえたばかりの黒のモーニングは、まだ躯に馴染まない。生地が固くて、ジャケットを脱ぐのに手間取る。
執事は常に広い心でいなさい。そう父に教えられていたのに、いざとなると焦ってしまい手がうまく動かない。
どうにかタイを外してシャツを脱ぐと大きく息を吐く。青年……西川朔哉は顔を上げた。
朔哉の父が、傍らにいるスーツの男に話しかける。父は咲哉と同じ衣服をまとっている。
「いかがですか、暁宏さま。二十歳にしては肉がついていませんが、その分、愉しめると思いますよ」
この日のため毎朝毎晩、外を走り、重りを持ち上げ、筋肉を作ってきた。上半身はなだらかな稜線を描いている。無駄な肉を落としても雄々しい体にはならぬよう、父から注意されていた。
古びた肘掛け椅子に座っている緒方暁宏が、朔哉を眺めている。暁宏はいつも微笑みを絶やさないのに、いまは唇をきつく結んでいる。
父が朔哉に目配せをした。朔哉が口を開いた。
「下も、脱ぎましょうか」
みっともないほど、声が震えた。
もし暁宏が迷ったらそう言えと、朔哉は父から命じられていた。
言った瞬間、躯が熱くなり背に汗が噴き出た。
暁宏は片方の眉をつりあげた。
「いや、いい。抱くのはやめておこう」
食後の紅茶を断わるかのような淡々とした言い方だった。
自分の何が気にいらなかったのだろう。聞きたかったが、そんな厚かましいことはできない。暁宏の横で、父が眉間にしわを寄せた。
務めを果たせなかった息子に失望しているのかもしれない。
緒方家当主に抱かれるのが、代々執事を勤める西川家の仕事だった。
好意があっても愛情は芽生えていない相手に足を開くなんて、いくら伝統とはいえ朔哉は戸惑った。
けれど、生まれながらに背負ったのだ。
そう言い聞かせて何も言い返さず父に従った。
暁宏に断られ、怒りにも似た屈辱を感じた。肌を見せるために、年頃の女のように体を磨いてきたのに。
しかし一年経った今では、あれが暁宏なりの優しさだったのではないかと思う。
父親に命じられるまま男に貫かれるのを何ら厭わない男が不憫だったに違いない。
誰も抱いたことがないから、あの頃の自分はあんな歪んだ勇ましさが表われたのだろう。躯を合わせることの重みを知らなかった。
今だって、男とも女とも通じたことはない。
でも、もう簡単には躯を差し出さない。
この躯が愛しい。
自分の躯なのに、人に大切にされて価値がわかった。
あの頃は、己を捨てようとしていた。
あの日も、今も、暁宏の態度は変わらない。穏やかなまなざしには、憐れみも嘲りもない。
あの日できなかったことを夢見ていいのだろうか。あり得たであろう暁宏との夜を、朔哉は思い描く。もう躯を邪険に扱うことはないが暁宏になら……。
誰の肌も知らないから、性の対象として身近な暁宏を選んでしまったのだろうか。その頃にはなかった愛情が芽吹いてしまったか。
朔哉にはわからない。
二十一にもなるのに、人を慕う、愛する、触れ合う、全ての営みをしてこなかった。
愛だとしても、既に拒まれたのだから、交差することのない片思いだ。
当主に抱かれなかった西川家執事はどうなるか。主の性を満足させられないのなら、執事としての生を全うする。ただそれだけだ。
執事として一生を終える。朔哉にとってこれ以上の罰はない。
躯を捧げられなくても、心を暁宏に捧げられる。
人生の先が見えるのはつまらないのかもしれない。
しかし、日々の仕事を淡々と過ごして老いていくのも、ひとつの生き方ではないだろうか。
大きな幸運に巡り会えなくても、日常にだってきらめく幸せは潜んでいる。
緒方家の洋館の窓から見える空は毎日変わる。
昨日より青が深い。ゆうべより、赤が濃い、とわずかな色合いの変化に気づいたのは、館が己を守る箱だと朔哉が意識するようになってからだ。
箱から見える景色は『下界』だった。
生涯通じて、ただ見つめるだけの場所。
しかしそう思っていたのは、朔哉だけだった。
庭の桜が散りはじめ、花びらが暁宏のティーカップに浮かんだ瞬間。
精悍な男が館を訪れた。
鷹のような鋭い目をした男だった。
その男は、朔哉を色鮮やかな世界へと導いた。
暁宏ひとりでは、連れていけなかった世界へ。
「暁宏さま。紅茶を淹れ直しますね」
「いい」
暁宏は花びらを摘まみ上げると、テーブルの上に置いた。
「……こんなところに置いても、土には還らないな」
「ええ」
「美しいと思ったら手元に置いてしまうのは、直さないといけない私の癖だ。父親譲りの……。似たくないところが同じになるとは思わなかった」
「さようでございますか」
頷くだけの返事をする。
執事として真っ当な答えを返したものの、朔哉には暁宏の言葉の真意がわからなかった。
見目麗しい女性を集めたり、骨董品をコレクションしたりする趣味は暁宏にはない。多くの本やレコードを書斎に置いているので、『美しいもの』とはそれらのことだろうか。
「客人が来る前に、桜を見ながら優雅にティータイムとは。おまえは、つくづく俗世とはかけ離れた男だな。暁宏」
聞き慣れない声が聞こえたので、朔哉は顔を上げた。
ひとりの男性が正門の方から、ふたりがいる庭園に近づいてくる。
暁宏が、今日ひとりの宿泊客が来ると言っていた。
男は、ノーネクタイに白いシャツ。やわらかいベージュのジャケットに同系色のパンツを合わせている。
格好だけ見れば清潔そうな印象を与えるのだが、伸ばしかけのような少し長い黒髪を後ろでひとまとめにしているのが朔哉は気になった。暁宏のもとを訪ねてくる客で髪を伸ばしている男性ははじめてだ。ノーネクタイも珍しい。
シャツにもパンツにも皺がない。髪は洗髪されているらしく、脂がついていない。手入れが行き届いている。
暁宏を呼び捨てにするとは、親しい関係なのだろう。
『緒方家に踏み入れたのならば礼儀を覚えてもらわなくてはならない』
もし父が生きていれば、そんなことを言っていたにちがいない。
朔哉の父は、あの儀式の失敗から四ヶ月後に急逝した。教えられてきたことを守れなかった息子をどう思っていたか、ついに聞けなかった。
ティーポットを置くと、暁宏に一礼してから男に近づいた。
心を落ち着かせようと青年は息を吐く。ひと息吸うと、アスコットタイをほどいていく。
あつらえたばかりの黒のモーニングは、まだ躯に馴染まない。生地が固くて、ジャケットを脱ぐのに手間取る。
執事は常に広い心でいなさい。そう父に教えられていたのに、いざとなると焦ってしまい手がうまく動かない。
どうにかタイを外してシャツを脱ぐと大きく息を吐く。青年……西川朔哉は顔を上げた。
朔哉の父が、傍らにいるスーツの男に話しかける。父は咲哉と同じ衣服をまとっている。
「いかがですか、暁宏さま。二十歳にしては肉がついていませんが、その分、愉しめると思いますよ」
この日のため毎朝毎晩、外を走り、重りを持ち上げ、筋肉を作ってきた。上半身はなだらかな稜線を描いている。無駄な肉を落としても雄々しい体にはならぬよう、父から注意されていた。
古びた肘掛け椅子に座っている緒方暁宏が、朔哉を眺めている。暁宏はいつも微笑みを絶やさないのに、いまは唇をきつく結んでいる。
父が朔哉に目配せをした。朔哉が口を開いた。
「下も、脱ぎましょうか」
みっともないほど、声が震えた。
もし暁宏が迷ったらそう言えと、朔哉は父から命じられていた。
言った瞬間、躯が熱くなり背に汗が噴き出た。
暁宏は片方の眉をつりあげた。
「いや、いい。抱くのはやめておこう」
食後の紅茶を断わるかのような淡々とした言い方だった。
自分の何が気にいらなかったのだろう。聞きたかったが、そんな厚かましいことはできない。暁宏の横で、父が眉間にしわを寄せた。
務めを果たせなかった息子に失望しているのかもしれない。
緒方家当主に抱かれるのが、代々執事を勤める西川家の仕事だった。
好意があっても愛情は芽生えていない相手に足を開くなんて、いくら伝統とはいえ朔哉は戸惑った。
けれど、生まれながらに背負ったのだ。
そう言い聞かせて何も言い返さず父に従った。
暁宏に断られ、怒りにも似た屈辱を感じた。肌を見せるために、年頃の女のように体を磨いてきたのに。
しかし一年経った今では、あれが暁宏なりの優しさだったのではないかと思う。
父親に命じられるまま男に貫かれるのを何ら厭わない男が不憫だったに違いない。
誰も抱いたことがないから、あの頃の自分はあんな歪んだ勇ましさが表われたのだろう。躯を合わせることの重みを知らなかった。
今だって、男とも女とも通じたことはない。
でも、もう簡単には躯を差し出さない。
この躯が愛しい。
自分の躯なのに、人に大切にされて価値がわかった。
あの頃は、己を捨てようとしていた。
あの日も、今も、暁宏の態度は変わらない。穏やかなまなざしには、憐れみも嘲りもない。
あの日できなかったことを夢見ていいのだろうか。あり得たであろう暁宏との夜を、朔哉は思い描く。もう躯を邪険に扱うことはないが暁宏になら……。
誰の肌も知らないから、性の対象として身近な暁宏を選んでしまったのだろうか。その頃にはなかった愛情が芽吹いてしまったか。
朔哉にはわからない。
二十一にもなるのに、人を慕う、愛する、触れ合う、全ての営みをしてこなかった。
愛だとしても、既に拒まれたのだから、交差することのない片思いだ。
当主に抱かれなかった西川家執事はどうなるか。主の性を満足させられないのなら、執事としての生を全うする。ただそれだけだ。
執事として一生を終える。朔哉にとってこれ以上の罰はない。
躯を捧げられなくても、心を暁宏に捧げられる。
人生の先が見えるのはつまらないのかもしれない。
しかし、日々の仕事を淡々と過ごして老いていくのも、ひとつの生き方ではないだろうか。
大きな幸運に巡り会えなくても、日常にだってきらめく幸せは潜んでいる。
緒方家の洋館の窓から見える空は毎日変わる。
昨日より青が深い。ゆうべより、赤が濃い、とわずかな色合いの変化に気づいたのは、館が己を守る箱だと朔哉が意識するようになってからだ。
箱から見える景色は『下界』だった。
生涯通じて、ただ見つめるだけの場所。
しかしそう思っていたのは、朔哉だけだった。
庭の桜が散りはじめ、花びらが暁宏のティーカップに浮かんだ瞬間。
精悍な男が館を訪れた。
鷹のような鋭い目をした男だった。
その男は、朔哉を色鮮やかな世界へと導いた。
暁宏ひとりでは、連れていけなかった世界へ。
「暁宏さま。紅茶を淹れ直しますね」
「いい」
暁宏は花びらを摘まみ上げると、テーブルの上に置いた。
「……こんなところに置いても、土には還らないな」
「ええ」
「美しいと思ったら手元に置いてしまうのは、直さないといけない私の癖だ。父親譲りの……。似たくないところが同じになるとは思わなかった」
「さようでございますか」
頷くだけの返事をする。
執事として真っ当な答えを返したものの、朔哉には暁宏の言葉の真意がわからなかった。
見目麗しい女性を集めたり、骨董品をコレクションしたりする趣味は暁宏にはない。多くの本やレコードを書斎に置いているので、『美しいもの』とはそれらのことだろうか。
「客人が来る前に、桜を見ながら優雅にティータイムとは。おまえは、つくづく俗世とはかけ離れた男だな。暁宏」
聞き慣れない声が聞こえたので、朔哉は顔を上げた。
ひとりの男性が正門の方から、ふたりがいる庭園に近づいてくる。
暁宏が、今日ひとりの宿泊客が来ると言っていた。
男は、ノーネクタイに白いシャツ。やわらかいベージュのジャケットに同系色のパンツを合わせている。
格好だけ見れば清潔そうな印象を与えるのだが、伸ばしかけのような少し長い黒髪を後ろでひとまとめにしているのが朔哉は気になった。暁宏のもとを訪ねてくる客で髪を伸ばしている男性ははじめてだ。ノーネクタイも珍しい。
シャツにもパンツにも皺がない。髪は洗髪されているらしく、脂がついていない。手入れが行き届いている。
暁宏を呼び捨てにするとは、親しい関係なのだろう。
『緒方家に踏み入れたのならば礼儀を覚えてもらわなくてはならない』
もし父が生きていれば、そんなことを言っていたにちがいない。
朔哉の父は、あの儀式の失敗から四ヶ月後に急逝した。教えられてきたことを守れなかった息子をどう思っていたか、ついに聞けなかった。
ティーポットを置くと、暁宏に一礼してから男に近づいた。
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