甘い呪縛

瀬楽英津子

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第四話〜いばらの冠

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 最初は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃。
 その後、熱いのか冷たいのか解らないカッとした痛みが全身を駆け抜け、それも束の間、今度は一転、身体と心が冷たい氷に晒されたように急速に冷めていった。
 胸の内側がギシギシと軋み、恐ろしさと悲しさと後悔と、自分自身への腹立たしさがごちゃ混ぜになって喉元を這い上がる。
 いつ壊れてしまうのだろうとずっとビクビクしていた。
 壊れてしまったらとても正気ではいられない。しかし、いざそうなってみると、悲しいことに頭は正気なままで、代わりに身体が壊れてしまったかのようにガタガタと震えた。
 深雪は、シャワールームの床にお尻をつき、膝の上に顔を突っ伏して、背中を丸めながら頭を抱えている。
 泣いている深雪を宥めるのはずっと自分の役目だった。今となっては、もはやその役目を負う資格などある筈も無かったが、心に染み付いた長年の習慣がすぐに消えるわけもなく、竜馬の手は知らないうちに深雪の泣き震える肩に伸びていた。

「触るな……」

 無意識とはいえ、阻まれて当然の行為に、深雪は言うまでもなく拒絶した。

「深雪……」

「……何が冗談だよ……。……信じてたのに。……竜馬だけが、俺のたった一つの避難所だったのに……」

 言葉がナイフのように竜馬の胸をえぐった。

「竜馬は……俺が安らげる唯一の場所だった……それなのに……」

 安らぎの場所。
 深雪にとってのたった一つの安息の地。
 いつの頃からか竜馬に与えられた役割。
 深雪がそれを望んだのか、竜馬自身が望んだのか、今となっては、どちらが先かなどもはやどうでも良かった。
 全て壊れてしまったのだ。
 役割を全う出来なかったことに対しての不甲斐なさなのか、役割を押し付けられたことに対しての恨みなのか、竜馬はただ、怒りとも悲しみとも違う、絶望にも似た痛みに打ちひしがれていた。

「ちげーよ……」

 投げつけられた言葉を心の中で繰り返し、深雪に触れられないまま空中で止まった手をゆっくり下ろした。

「俺はお前の安らぎの場所なんかじゃねぇ……。俺も他の男と同じだよ……」

 最後の裁きを受けるように、竜馬は、胸の内側に燻り続けた思いを打ち明けた。
 
「俺はお前がお前が思ってるような人間じゃないんだ。俺は、お前に寄り付く虫と同じ……」

 ーーーいや。
 
 それ以上に卑劣で卑屈だ。

 竜馬は全てを打ち明けようとしたが、深雪の啜り泣きがそれを遮った。

「あっち行けよ……」

 涙に声を詰まらせながら、深雪は、両膝を抱えて顔を埋め、片方の手を大きく外側へ払った。

「みゆ……」

「ごめん。頼むから……今は、一人にしてくれ……」

 言い返せる言葉など無かった。
 竜馬は、身体を小さく丸めて震える深雪に、「解った」と呟き、静かに踵を返した。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「どうせだったら最後までやっちゃえば良かったのに……」

「てめぇ、なに言ってやがる……」

「だって、その様子じゃ、深雪姫はもう君のこと“ヘイブン”とは思ってないわけだろう? ようやく普通の男になれたんだもの、そのチャンスを利用して、さっさと自分のモノにしちゃえば良かったじゃない……」

 鋭く光った竜馬の視線に、比留間が薄い唇をニヤリと吊り上げる。
 一人にしてくれ、と言われたものの、シャワールームに置き去りにした深雪が気に掛かり、深雪が帰宅するのを見届けようと下駄箱で待つことにした。
 校庭を歩いて向かう途中、学生寮へ戻る比留間と偶然出くわした。
 比留間は、竜馬を見るなり、暗闇でお化けにでも遭ったような顔で驚いた。

『なに、その顔! なんか酷いことでもあった?』

 比留間には既に自分の卑劣な行為を知られている。
 その、ある種共犯めいた安心感が警戒心を緩ませたのと、竜馬自身も気付いていない、誰かに聞いて貰いたいという思いもあったのかも知れない。気付くと竜馬は、深雪との事の顛末を自分でも驚くほど淡々と比留間に話していた。
 比留間は竜馬の話を平然とした顔で聞き、下駄箱で待つのは返って深雪の神経を逆撫でする、学生寮の談話室からならプールの更衣室から出て行く姿が見えるので、そこで待った方がスマートだと、談話室で待つことを提案した。
 比留間の言う通り、談話室の窓からは、プールの更衣室の入り口が真正面から見れた。
 竜馬の心中は穏やかでは無かったが、空調の効いた談話室から眺める西日に輝くプールは穏やかに水面を揺らしていた。

「それにしても、『冗談』って言ったのはマズかったね。いっそ、自分の気持ちを正直に白状しちゃえばまだチャンスはあったのに」

「チャンスなんてあるかよ」

「そうかな。君は深雪姫の安息の地だったわけでしょ? 少なくとも、そこいらの男よりずっと特別視されてたと思うけど」

 言葉通りの意味で言うなら確かに竜馬にもその自覚はあった。しかしそれはあくまで幼馴染みの友愛的な意味であって竜馬の望んでいるものではなかった。
 深雪は、幼い頃のままの関係を望んでいた。
 竜馬は深雪の全てをこの手の中に抱きたいと思ったが、深雪はただ手を繋いで寄り添いたいだけだった。
 幼少期からの長い年月が、深雪と竜馬を特別な絆で結び付けてしまった。
 深雪は、二人だけの世界にいた頃の竜馬を求め、深雪に焦がれ、欲望のままにシャツを剥いで性欲を剥き出しにする竜馬は求めていなかった。
 深雪が求めていたのは、自分のことを変な眼で見ない、何があっても自分を自分として見てくれる、昔と変わらない竜馬だった。
 それが、深雪にとっての安らぎであり、竜馬を深雪のヘイブンたらしめる所以であった。
 
「特別視なんてされたか無かったよ。俺も他のヤツらと同じだったら……」

「同じだったら、自分も彼氏の名乗りを上げて姫の争奪戦に加われたのに、って?」

 耳を澄まさなければ聞こえないような独り言に間髪入れずに言い返され、竜馬は反射的に、窓枠に並んで外を眺める比留間を振り返った。
 驚く竜馬とはうらはらに、比留間は、竜馬の、瞳を射抜くような視線にも怯むことなく、自信ありげに竜馬を見返した。

「図星? まぁ君、強そうだし、その方が手取り早いっちゃぁ、手取り早いかな。でも、残念だけど、それじゃあ深雪ちゃんは永遠に手に入れられないよ」

「どういう意味だ」

「だって、争奪戦に参加するってことは、深雪ちゃんを戦利品扱いするってことだろ? そんな、何の恋愛プロセスも踏まずに恋人になった相手に誰が本気になると思う?」

「戦利品って……」

「戦利品は戦利品だよ。優勝者へのご褒美的な……」

 面白がるような、馬鹿にするような言い方で言いながら、比留間は、竜馬を見て意味深に笑った。

「でも郷田は深雪に惚れてる。深雪だって……」

「まぁ、確かに郷田くんは深雪ちゃんに夢中みたいだね。でもだからといって深雪ちゃんが郷田くんに夢中かって言ったらそれは違うと思う。皆んな深雪ちゃんを巡って野郎どもが目の色変えて奪い合ってると思ってるけど、俺に言わせりゃ、ただの下克上ゲームだよ。王者の座を狙って戦いを挑んで、勝ったら権力から何から何まで根こそぎ持って行く。深雪ちゃんは、さしずめ勝者に与えられた王冠ってとこだろう」

「王冠……?」

「そう。勝利の象徴。王者たる証。深雪ちゃんの恋人であることは王としてのステータスだ。このゲームに参加する奴らの果たして何人が純粋に深雪ちゃんのことを好きだと思う? 殆どのヤツらは、周りを支配できる力、つまり王の座が欲しいのさ。ヤツらの狙いは、深雪ちゃん本人じゃ無くて、王者の証である、“王冠”としての深雪ちゃん。そして、王冠は常に王様のものでなければならない。つまり、郷田くんがこの学園の王様である限り、王冠である深雪ちゃんは郷田くんのモノ。深雪ちゃんはそれをちゃんと解ってて、この下らないゲームのシステムの中で、自分に与えられた“王冠”という役割をキッチリ果たしているだけさ」

 ーーー役割。

 ふいに、胸の中に冷たい風が吹き込むような白けた気持ちが走り、竜馬は思わず息を止めた。
 自分が役割を課せられていたように、深雪もまた役割を課せられていた。比留間の言葉に、自分のことは棚に上げ、そんなものに囚われ言いなりになっている深雪を蔑むような感情が湧き起こり、しかしすぐにそれが自分に向けられたものでないことへの嫉妬からくる感情だと気付き、竜馬は、自分の身勝手さに愕然とした。
 比留間は、自虐的な引き攣り笑いを浮かべる竜馬を横目に、淡々と言葉を続けた。

「その点、君は、誰より深雪ちゃんの側にいながらゲームには一切参加しなかった。僕からしたらかなり異質だよ。でも、だからこそ君を応援したいんだ」

「応援……だと?」

 訝しげに見る竜馬を、比留間は、窓枠に片肘をついて顎を乗せたまま、視線だけを下から覗き見るようにして見上げた。

「だって、隠れてあんなことするくらい追い詰められてるのに平気な顔で一緒にいるんだもん。痛々しい、って言うか、マゾにも程がある、って言うか……。
 なんてのは冗談で、君見てると、怖さ半分、そこまで深雪ちゃんのことが好きなのかって、純愛? みたいなものを感じるんだよね」

「あんなことしてるのに何が純愛だ」

「確かに、やってることは立派な犯罪だけど、深雪ちゃんを脅すわけじゃなし、誰かにひけらかすわけじゃなし。……それに、肝心なとこまではしてないんでしょ?」

「なんでそれを……」

 勢いよく振り向く竜馬に、比留間は一瞬、ヤバっ、と口元を歪め、しかしすぐに、「まあ、まあ」と誤魔化すように笑った。
 
「とにかく、こう見えて僕は君のこと結構買ってるんだ。深雪ちゃんを今の場所から連れ出すことが出来るのは君しかいない。君だって大切な深雪ちゃんがいつまでもここままなのは嫌でしょ?」

「それはそうだが、でも俺は……」

「でも何? 自分の分が悪くなったらもう深雪ちゃんはどうなっても構わない?」

「そんなことは……」

 今までとは違う比留間の厳しい視線に竜馬は一瞬たじろいだ。
 竜馬を見上げる比留間の表情は、いつもの、のらりくらりと余裕ぶった比留間からは想像もつかないほど尖り、研ぎ澄まされていた。
 
「言っとくけど、君がそうやって悩んでる間にも事態はどんどん進行してるんだ」

 まるで、一刻を争うかのように、緊迫した表情で比留間は言った。

「郷田くんのことだけど、お父さんの問題があまり宜しくないらしく、身の安全のために早々にお母さんの実家に移り住むそうだ。つまり、郷田くんはもうこの学校へは来ない。これが何を意味するか解るだろ?」

 答えるまでもなく、郷田の不在は深雪の身を危険を意味している。
 王者の不在は、つまり、王冠の持ち主がいない、ということだ。
 学校とは名ばかりの、荒くれ者が集うこの学園内に於いて、皆をまとめるボスの存在は必要不可欠であり不在という事態は有り得ない。郷田がいなくなるとなれば、後釜を狙う輩が虎視眈々と様子を伺っていることは言うまでも無かった。

「もう既に、郷田くんに負けた三年の一部と、二年がかなり騒いでる。今日明日にどうこういうことはないだろうけど、ここ一週間のうちには新しいボスが決まるだろう。そしたら深雪ちゃんは問答無用にそいつのものだ」

 それだけじゃない、と、比留間は、傍らで固唾を飲む竜馬に向かって更に身を乗り出した。

「うちのボスが決まるまで深雪ちゃんはフリーだ。前のボスのせいで深雪ちゃんが有名人なのは君も知ってるよね。理不尽な話だけど、不良の中には、深雪ちゃんと寝たってだけで箔がつくと思ってるバカもいるんだよ。深雪ちゃんが誰のものでも無い今なら、深雪ちゃんを好きなようにしても誰からも報復を受けない。後ろ盾のない深雪ちゃんなんて赤子も同然だ。こんな絶好のチャンスを奴らがみすみす見逃すと思うかい?」

 瞬間、焼けるような熱さに身体の芯を貫かれ、竜馬はグッと息を止めた。
 心臓がバタバタと騒ぎ、喉が貼り付いたように引き攣る。自然と身体に力が入り、知らずに握り締めた手のひらが、爪が食い込むほど硬く震えた。

「まさか他所の連中にも狙われてるって言うのか!」

「それと、イタズラ電話の奴ね。僕の知る限りじゃ十人は下らないかな。今までは郷田くんがしっかり守ってくれたけど、離れてしまったんじゃどうしようもない」

 比留間の声が頭の上をただ通り過ぎて行く。
 そんなことになっているとは露ほども思わなかった。
 そうとも知らず、あさましい欲望で全てを台無しにしてしまった自分が恨めしい。
 拒絶されても仕方のないことをしておきながら、被害者ヅラをして深雪から逃げ出そうとしていた自分が情けなく、悔やみきれない思いが、堰を切ったように溢れ出た。

「一番傍にいてやらなきゃいけない時に何をやってんだ俺は……」

 竜馬の心中を知ってから知らずか、比留間は、棒立ちになったまま呟く竜馬の様子を伺うように、竜馬の顔を下から覗き見た。

「そう思うなら、君が深雪ちゃんを助けてあげなよ」

「俺が……助ける?」

 比留間は、ゆっくり頷いた。

「君は、深雪ちゃんが好きなんでしょ? “王冠”じゃない、素のままの“佐川深雪”が」

 今度は竜馬が頷く番だった。
 比留間は、やはり棒立ちのまま大きく頷く竜馬を見て柔らかい笑みを浮かべた。

「なら、四の五の言わずに助けてあげなよ。深雪ちゃんをあの場所から救い出せるのは、深雪ちゃんのことを純粋に好きな君しかいないんだ。今ならまだ間に合う。後悔する前に君が安全な場所へ連れ戻してあげな」

 いい加減腹を括れ。
 比留間にそう言われているような気がして竜馬はようやく顔を上げた。
 どうせ嫌われてしまったのだ。これ以上嫌われたところで今更屁とも思わない。
 それよりも、今は、深雪を助け出すことが先決だった。
 竜馬は、背筋を正し、気持ちを奮い立たせた。
 比留間は、輝きを取り戻した竜馬の瞳を見て小さく笑った。

「そうと決まれば、さっさと深雪ちゃんのとこ行って謝っておいでよ。今だに更衣室から出て来ないってことは、きっとショックで泣いてるんだろうから」

 比留間にドンと背中を突かれ、竜馬は、足を踏み出した勢いのまま、弾かれたように駆け出した。
 
 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 部活動が終わる時間帯のせいか、更衣室は着替え途中の水泳部員たちで溢れ、シャワールームに深雪がいる気配は無かった。
 部員の一人を捕まえてそれとなく尋ねると、やり取りを聞いていた一年生が、「出て行くところを見た」と竜馬に告げた。

「佐川先輩なら、郷田先輩の知り合いという方が迎えに来て一緒に帰られましたよ?」

 嫌な予感が竜馬の頭をかすめた。
 談話室からずっと様子を伺っていたが、深雪が外へ出てくる姿は見ていない。裏側の関係者用駐車場口から来たのだとしても、いつも校門の横にこれ見よがしに横付けする郷田の迎えの車が、今日に限って裏口に止まるのは不自然だった。

「それはいつの話しだ!」

「えっと……十分くらい前だったと思います……」

 十分ならばまだそう遠くへは行っていない。しかし、人の足で追いかけたところで車には到底追いつけない。竜馬は取り敢えず比留間の元へ戻ることにした。

 事情を伝えると、比留間は、慌ててアジトに向かい、自分専用のパソコンを立ち上げた。

「やっぱり。郷田くんはもうお母さんの実家に移動中だ。一方、深雪ちゃんは……繁華街に向かってる?」

 モニターに浮かぶ赤い点を指差しながら比留間が眉を顰めて目を細める。
 よくない状況であることは、比留間の眉間に刻まれた深いシワと、下唇を噛み締める仕草を見れば一目瞭然だった。

「残念だけど、迎えに来たのは郷田くんじゃない。深雪ちゃんを狙ってたイタズラ電話のヤツだ……」

「どうしてそう言い切れる」

「言ったろ? 前にそいつのスマホに遠隔操作アプリ送り付けたって。そいつの位置情報と深雪ちゃんの位置情報が一致する」 

 比留間は言うと、驚異的な速さでキーボードを叩き、解読不能な横文字を画面に打ち込んだ。竜馬は、比留間がエンターキーを押すたびに画面上に次々と現れる小窓を訳もわからず眺めていたが、最後のエンターキーを押したと同時に突然聞こえた音声にビクリと身体を震わせた。

「これは……」

 尋ねるまでもなく深雪の声だった。比留間は画面を睨んだまま平然と答えた。

「ああ、この前、君に深雪ちゃんのスマホ調べてって頼まれた時そのままになってたヤツ。……遠隔操作でボイスレコーダーを作動させる。つまり盗聴」

「盗聴!?」

「文句は後だ。今は深雪ちゃんが誰と何処にいるかを特定するのが先だろう?」

 スピーカーを繋ぎ、音量ゲージを引き上げると、深雪の声がより鮮明に響き渡った。

『俺を何処へ連れて行く気だよっ!』
『まぁそう怒るな。可愛い顔が台無しだ』
『ちっくしょう、離せ!』
『こら暴れるな……って、痛ッてぇ! こいつ、蹴りやがった!』
『これで縛っとけ』
『さわんなバカ! あっ、やぁっ!』

 声は深雪を除いて二人。
 しかし、会話の様子と車の中という状況から、二人と、少なくとも運転手一人の計三人はいると思われた。
 車はおそらくワンボックス。深雪は後部座席に寝かされているのだろう、男の一人が言った、『脚を縛れ』という言葉からも、床がフラットで脚を伸ばして寝かせられるぐらいのスペースがあると推測された。

「クソッ! こいつら一体何者だ!」

 竜馬は冷静ではいられなかった。心臓が激しく鼓動し、身震いするほどの怒りが血液を沸かせながら全身を巡るような感覚に襲われる。
 一方比留間は、怒り狼狽える竜馬を諫めるように、驚くほど冷静に作業を進めた。

「黙って聞いてればそのうち誰かの口から漏れるさ」

「そんな悠長なこと言ってられっか! 深雪は縛られてるんだぞ! 放っといたら何をされるか……」

 竜馬は反論したが、すぐに比留間に、「しっ!」と止められ、その先の言葉を飲み込んだ。

「今、名前、言ったような気がする……」

 比留間に言われ竜馬も耳を澄ませた。

『離せよ、離せったら!』
『だから、大人しくしろっつってんだろ!』

 ふいに、バン、という衝撃音が響き、深雪の、ヒッ、という悲鳴が重なった。

「アイツら深雪を殴りやがった!」

「静かに! 聞き取れないじゃないか!」

 比留間に睨まれ、竜馬はグッと奥歯を噛み締めた。
 すると、音声データの波形を見ていた比留間がふいに音量を上げた。

『……おい、俺の大事な深雪に手荒な真似するなよ』

 初めて聞く声だった。
 助手席か運転手席のどちらかに座っているのか、他の男よりも声が遠い。竜馬は突然現れた男の声に耳を傾けた。

『誰がお前のだ!』
『久しぶりに会ったのにずいぶん冷たいじゃねぇか。まさか初めての男を忘れたわけじゃないだろう?』

 ーーー初めての男? まさか、入学早々深雪に言い寄ってきた、当時の不良グループのトップか!?

 思いながら比留間を見ると、比留間も竜馬を見て大きく頷いた。

「郷田くんにボスの座から引きずり下ろされた、小林だ……。それにしても、まさか小林がイタ電の相手だとは思わなかった……。あいつが敵対勢力と絡んでるとなるとちょっと厄介だね」

 難しい表情で呟くと、比留間は、盗聴の音声を流したまま、再びキーボードを叩いて何かを調べ始めた。
 そうしている間にも、深雪の状況は刻一刻と深刻な事態へと向かっていた。

『昔はあんなにおぼこくて可愛かったのによぉ……。指一本入れるだけでピーピー泣いてたお前を、一から手ほどきして、ケツだけでイケるようにしてやった恩を忘れたのか?』
『何が、恩、だよ! てめぇが好きでしたくせに!』
『言ってくれるぜ。ケツの良さを覚えた途端、俺に隠れて他の男とヤリまくってたこのビッチ野郎が!』
『気に入らないなら別れてくれれば良かったんじゃないか! だいたい誰のせいで俺があんな……』
『俺のせいだとでも言いたいのか? てめぇの淫乱棚に上げてほざいてんじゃねぇよ! 何が、別れてくれれば良かった、だ! お前は俺のモンだったんだよ! お前の方から別れたいなんざ許されるわけがねーだろうが』
『クソッ! このゲス野郎!』
『なんとでもほざけ。店に着いたら久しぶりに可愛がってやっから』
『はん。そんなことしても郷田は来ないよ』
『それはどうかな。自分のイロを傷モンにされたとあっちゃトップの沽券にかかわるからな。あのプライドの高い郷田が我慢出来るかどうか……』

 聞くに耐えない会話に、竜馬の研ぎ澄まされた感覚が、聞くのを放棄するかのように不快な耳鳴りを起こす。
 あと少しでも卑劣なことを言おうものなら、小林の声を、スピーカーごと叩きつぶして聞こえなくしてやろうと手を伸ばした時だった。パソコンを操作していた比留間が突然竜馬を振り返り、紙とペンをよこせ、と手のひらを差し出した。

「エンプレス?」

 比留間は、メモ用紙にカタカナ五文字とその下に住所のようなものを書き殴った。

「あいつらが溜まり場にしてるクラブ。深雪ちゃんはそこに連れて行かれてる」

 竜馬は、殆ど発作的にメモを鷲掴みにしたが、すぐに比留間に上から手を押さえられ、その場に立ち止まった。

「離せ!」

「待ちなよ。相手のホームに勢いだけで乗り込むのは危険だ」

 お前の考えなどお見通し、とばかりに言うと、比留間は、パソコンのデータを小振りなタブレットに移し、紙袋に入れて竜馬の身体に、「ほれ」と押し付けた。

 その後、学生寮を出、比留間の手引きで、寮の裏口に駐まっていたワゴン車に乗り込んだ。
 比留間曰く、ワゴン車は寮へ食材を納入している近所の八百屋の配達用の車で、そこの息子は深雪のサポートコミュニティである生活隊の隊員であるという。初対面の男を足代わりに使うのは気が引けたが、一刻を争う事態に車を出してもらえるのは竜馬には願っても無いことだった。
 運転手である八百屋の青年は、比留間に、店の名前と住所を告げられると、「了解」と答え、すぐに車を走らせた。
 竜馬は助手席に座り、比留間に渡されたタブレットを膝の上に乗せ、盗聴音声を聴くためのイヤホンを指で摘んだ。
 闇雲に乗り込んだところで返り打ちにあうのがオチ。勝算を高めるには現場の状況をしっかり把握して、最善のタイミングで乗り込むことが必要があり、その為にも盗聴システムは常に作動させておけとの比留間の指示だった。
 盗聴することで、聞きたく無いことを聞いてしまうかも知れないが、くれぐれも感情的にならないよう、冷静に対応するよう注意もされていた。
 深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせ、竜馬は、意を決して、指先に摘んだイヤホンを耳に差し込んだ。

『しっかしまぁホント美形だな~。まさかコバがこんな綺麗な子の処女を奪ったとかマジ有り得ねーわ』
『なぁ、顔が綺麗な奴ってやっぱココも綺麗なの?』 
『逆に、すげぇのが付いてたらマジ興奮すんだけど……』
『変態かよ! てか、そもそも、前、使ったことあんのかね』

 男たちが笑いながらはしゃぎ、その中にガサゴソと服の擦れる音と深雪の声が混じる。
 気丈に振る舞っているものの、深雪が不安で押し潰されそうになっていることは声の感じで解った。それは幼い頃からずっと傍にいる竜馬だからこそ知り得る、かすかな音程の揺れだった。
 
『せっかく付いてんのに勿体なくね?』
『さわんな、バカっ!』
『ざーんねん。脚、縛ってっから蹴れねーんだな、これが』
『チクショウ! 離せッ!』
『そんなケチケチすんなって。その、郷田って奴にいっつもいじくり回されてんだろ? 今更嫌がるタマかよ』
『あっ、いやっ……』

 目的地にはまだ着いていない。車の中で乱暴を働くことはさすがに無いだろうとたかを括っていたが、男たちの下衆なやり取りに、竜馬は一抹の不安を覚えた。
 主犯格の男が深雪の最初の男の小林であるということも不安材料の一つだった。小林は郷田にボスの座と深雪を奪われたのだ。
 父親絡みの、ただ郷田を人質に取りたいだけの兵隊と違い、小林は郷田にも深雪にも恨みを抱いている。深雪を郷田をおびきよせる道具にするだけでなく、深雪を郷田への当て付けで容赦なく痛めつけ、陵辱された身体をこれみよがしに見せ付けるのは目に見えていた。

『ほら、じっとしてろよ、俺が今調べてやっから』
『嫌ッ! 嫌だったら! 離せっ!』
『おいお前ら、あんま勝手すんなよ』
『服の上からちょっと触るだけだって。なんだ案外普通じゃん。おっ、ちょっと硬くなってきた?』
『嫌ッ! やだっ、離せっ!』
『やっべー、マジ興奮する。ほらほら、もっと激しくしちゃおうか?』
『んぁっ! あっぅあ、ダメッ、やだっ! あぁぁっ!』

 深雪の悲痛な悲鳴が耳をつんざく。
 ただでさえズキズキと痛むこめかみが、怒りで歯を食いしばったせいで更にズキンと鋭い痛みを走らせる。イヤホンを引き抜いてしまいたい衝動に駆られたが、何とか堪え、竜馬は呼吸を整えた。
 荒ぶる気持ちを抑え、改めて音声に集中する。
 深雪の抗う声の奥に、カチカチ、というウインカーの音が微かに響いた。
 車を停めるつもりだ。
 ほどなくして、『着いたぞ』と小林の声が響き、ガーッと、ドアをスライドさせる音が響いた。

『ビップに連れて行け』
『はいよー。一緒に行こうね、可愛こちゃん』
『ちょっ、何する……バカっ、下ろせっ!』

 クラブ、エンプレスのビップルーム。
 場所は特定出来た。
 竜馬は、車に乗って初めて運転席へ顔を向けた。

「あとどれくらいで着きますか?」

 運転手の八百屋の青年は、「十五分以内にはなんとか」と答え、アクセルを踏み込んだ。
 十五分もあれば事態はかなり進んでしまう。
 竜馬の不安を煽るように、突然、イヤホンの向こうで煌びやかな電子音が大音量で鳴り響き、今度は一転、防音室へ入ったかのようにシンと静まり返った。

『この時間じゃさすがにまだ誰も来てないな』
『ばーか、その為にこんな時間から来たんだろ? どうするコバ。早いとこヤッちまわねぇとボスが来るぜ? お前からヤるならさっさとヤッて俺らに回してくれよ』
『まぁ、そう急かすなよ』

 声は、小林と、他二人の計三人。油断ならない状況に変わりはないが、メンバーが増えていないことは救いだった。
 問題はどうやって深雪を救い出すか。
 思っていると、ふいに、膝に乗せたタブレットがメールの着信を知らせた。
 比留間からだ。
 “時間を無駄にするな”というメッセージとエンプレスの見取り図。
 お陰で、ビップルームの場所を事前に把握することが出来た。これなら迷わず行ける。
 しかしホッとしたのも束の間、イヤホンから流れた今までとは違う深雪の切羽詰まった声に、竜馬の身体に戦慄にも似た震えが走った。

『ヤッ! ィヤッ、やめ……つッ……』
『こんなに感じてるくせに何言ってやがる。まだ何もしてねぇのにもう乳首こんな硬くして。見ろ、シャツの上にくっきり浮いてんじゃん』
『あっ、やだっ、触んなッ!』
『ほらここ。この、コリコリしたの何なんだよ。なんでこんな事になってんだ? あ?』
『つッ、バカ、いじんな……あっ、やだぁッ、ううっ、あぁ』

 深雪!

 思わず声に出してしまい、慌てて運転席の青年へ視線を向ける。
 詳しい事情は聞かされていないものの、深雪の一大事であることぐらいは青年にも当然察しはついている。ましてや盲信的な深雪シンパである生活隊の隊員である青年が、竜馬の叫び声に無反応でいろというほうが無理だった。

「深雪さん!!」

 青年の雄叫びとエンジンをふかす音は殆ど同時だった。
 次いで、車が猛然とスピードを上げ、急加速に付いて行けなかった身体がシートにぶつかり、その反動で竜馬の膝の上のタブレットが滑りイヤホンが片方外れた。
 片耳ゆえの聞き辛さか、ふいに自分の名前を呼ばれた気がして、竜馬は、慌ててイヤホンを挿し直した。
 すると、

『竜馬!!』

 それは、雑音に紛れながらも、ハッキリと竜馬の耳を貫いた。

『竜馬! 竜馬ぁ!』

 気のせいでは無い。深雪は竜馬の名前を呼んでいる。
 瞬間、竜馬の心臓がドクンと跳ね上がった。

 深雪!!

 叫び出したいのに、窒息しそうなほど息が詰り声が出せなかった。
 息、というより、切羽詰まった思いが喉をこじ開け、気道を塞ぎながら我先にと這い上がってくるようだった。
 気が遠くなるような息苦しさの中、竜馬は、心の中で何度も深雪の名前を呼んだ。
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肌が白くて女の子みたいに綺麗な先輩。本当におしっこするのか気になり過ぎて…?

こじらせた処女
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槍本シュン(やりもとしゅん)の所属している部活、機器操作部は2つ上の先輩、白井瑞稀(しらいみずき)しか居ない。 自分より身長の高い大男のはずなのに、足の先まで綺麗な先輩。彼が近くに来ると、何故か落ち着かない槍本は、これが何なのか分からないでいた。 ある日の冬、大雪で帰れなくなった槍本は、一人暮らしをしている白井の家に泊まることになる。帰り道、おしっこしたいと呟く白井に、本当にトイレするのかと何故か疑問に思ってしまい…?

セラフィムの羽

瀬楽英津子
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闇社会のよろず請負人、松岡吉祥は、とある依頼で美貌の男子高生、寺田亜也人と出会い、一目で欲情した。亜也人を強引に手に入れ、自分の色に塗りかえようとする松岡。しかし亜也人には忠誠を誓った積川良二という裏番の恋人がいた。 見る者を惑わす美貌ゆえに、心無き者の性のはけ口として扱われていた亜也人。 松岡の思惑を阻む恋人の存在と地元ヤクザとの関係。 周りの思惑に翻弄され深みに嵌っていく松岡と亜也人。

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