春を尋ねて 春を見ず

瀬楽英津子

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〜第二話 前触れのない始まりと終わり

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 千尋の舌が、硬くいきり勃って行く芳春のペニスに、ねっとりと熱く絡み付いていた。
 根元を浅く握り、陰茎を上に下に何度もしつこく舐め、唇の先で軽くつまんでは吸い上げる。
 貪欲なのは余裕がないせいだろう。
 芳春のズボンを下ろすと、千尋は、剥き出しになったペニスを掴み、慌ただしく口の中に咥え込んだ。
 ムードもへったくれもなく、ただ、自分のテクニックを見せ付けるかのように、芳春のカリ首を口に含んで浅く出し入れし、それが済むと、今度は、陰茎に舌を絡ませ、色んな角度から舐め上げる。
 敏感な裏スジのヒダをくすぐるように撫で、芳春が腰をくねらすと、見計らったように、陰嚢を手の平に包んで揉みほぐし、上目使いで芳春を見た。

「俺、上手いでしょ? 皆、俺のフェラは最高だって言ってくれるんだ。だからあんたも我慢しないでさ……俺、全部飲んであげるから、イキたくなったら遠慮しないで出しちゃって構わないから……」

 手の甲で顔を隠しているので千尋がどんな顔をしているのかは解らないが、芳春は、いつか見た千尋の誘うような目が自分を見据えているような気がして、気持ちを持って行かれないよう奥歯を噛み締めた。
 年齢の割に浮いたところの無い落ち着いた雰囲気に、身長も高く、顔立ちもそこそこ見栄えが良い。加えて、バーテンダーという仕事柄女性からのお誘いも多く、これまで夜の相手に不自由したことは無かったし、フェラも、セックスの回数以上に経験している。
 しかし、こんなフェラは初めだった。
 舌使いから攻めるポイントまで、千尋のフェラは、女には解らない微妙な部分を絶妙なさじ加減で攻め進む。
 まさに、痒いところに手が届く、いたせり尽せりの気持ち良さだ。
 咥えられた時は、男に股間を舐められる事に恐怖すら覚えたが、お尻を持ち上げられ、陰嚢と後孔の間を舐められる頃には、芳春はすっかり千尋に身を任せていた。
 千尋は、陰茎を扱きながら陰嚢の周りの敏感な部分を舐め、芳春のペニスが、赤黒く反り返って血管を浮かび上がらせる頃合いを見計らい、口の中にすっぽりと咥えて喉の奥まで飲み込んだ。

「ウァっ! ちょっ、お前ッ!」

 異様な熱さがペニスの先端を襲い、更に熱い奥へと飲み込んで行く。
 今まで感じたことの無い感覚にたじろぐ芳春をよそに、千尋は、唇をすぼめながら上下に頭を動かし、芳春の射精感を高めて行く。
 舌の先でチョロチョロと舐める程度ではイケない男の生態を知っているからこその攻め方だ。
 口の中の粘膜全体でペニスの様子を探りながら、片手で睾丸を揉みほぐす抜かりのなさも憎らしかった。
 苦悶に顔を歪ませる芳春を弄ぶように、ギリギリまで昂まったところで、ふいに口の中からペニスをすぽんと抜き、先程とは打って変わって、じれったく陰茎を扱きはじめる。
 突然の肩透かしに、芳春が、顔を覆っていた手を除けて千尋に目をやると、切なげに眉をしかめて喘ぐ、千尋の潤んだ瞳と目が合った。

「お前、なにしてんだ……」

「なに、って、準備だよ……。すぐ済ませるからちょっと待ってて……」

 前屈みになって片手をお尻に回し、身体をくねらせながら、んっ、んっ、と荒い息を吐く。
 男同士のセックスに詳しいわけでは無かったが、千尋が何をしているのかぐらいの知識は芳春にもあった。
 顎を突き出し、唇をヒクつかせながら同じ動作を続けると、千尋は、宣言通り、数分と経たないうちに身体を起こし、芳春のペニスを跨ぐように膝立ちをした。

「あんたは何もしなくてい……から、俺に任せて……」
 
「え……ちょっと……」

「ん? あ……正面からじゃ萎える? 後ろ向き…の方が良い?」

「そうじゃなくて……こんなことは……」

 正直、身体は、この先を求めて昂り続けていたが、芳春の気持ちは、快楽に気圧され、むしろどんどん後退っていた。
 未知なる感覚に飲み込まれてしまうのが怖い。三十歳という、後戻り出来ない年齢で、今更余計な世界に嵌まり込みたくないという抵抗もあった。
 しかし、芳春の事情など千尋には関係ない。
 ぐずぐずと返事を伸ばす芳春を、千尋は、「もう待てない」と睨み付け、お尻に手を回して、芳春の猛々しく反り返ったペニスを握り、後孔に押し当てた。
 そこから、背中を反らしてゆっくりと腰を沈めて行く。

「ああああ……あっ……あっ……」

 途端に、柔らかくなった肉壁が一斉にまとわり付き、芳春は、くゥッ、と呻き声を上げた。
 千尋は構わず、繋がった部分に体重をかけ、芳春のペニスを自分の中に受け入れて行く。
 泣き出しそうに眉を顰めながらじわじわとしゃがみ込み、根元まで完全に飲み込むと、芳春のお腹の上に両手を置き、身体を支えながら、腰を前後にグラインドさせた。

「あっ、はぁっ、あふんっ、んっ」

 焼けるような熱さと、きゅうきゅうと絡み付く肉壁の感触、想像以上の快楽と、それを煽り立てるような千尋の喘ぎ声に触発され、芳春は、無意識のうちに千尋の腰を掴みんで柔らかいお尻を自分の股間に打ち付けていた。
 
「ひッ、ぁああっ、んっ……ああぁっ」

 下から激しく突き上げられ、千尋が、耐えきれないとばかりに背中を仰け反らせる。
 白い肌に、薄桃色の紅水晶のような乳首が誘うように迫り出し、芳春を惑わせた。
 熱に浮かされていたせいだろう、卑猥に膨らむ乳輪に官能を刺激され、芳春は、吸い寄せられるように手を伸ばした。

「あんっ! や……あっ……」

 乳輪を手のひらで撫で回し、真ん中の乳首を花弁を摘むように指先で摘んで揉み潰した。柔らかかった乳首がたちまち硬く尖り、指の間で小さな粒になる。
 その粒を、指の腹で円を描くように転がし、表面をコリコリと爪で弾いた。

「あっ……ダメっ……そこっ、弱いっ……からぁっ……」

 膨らみの無い胸。うっすらとあばらの浮いた肉付きの薄い脇腹。
 男の身体だと十分認識しながらも、千尋の身体に触れずにはいられない自分に戸惑う。
 頭では否定しながらも、オスの本能が、千尋の身体を、もっと、もっと、と要求しているかのようだった。
 もはや理性は働かず、気付くと芳春は、自分のお腹の上に無防備に投げ出された千尋のペニスを掴んで扱き上げていた。

「アッ……ダメぇ……やっ……そんなことしなくて……いッ……からぁっ……」

 後ろと前を同時に激しく責められ、頼りなく収まる千尋のペニスが、芳春の手の中でみるみる硬く勃ち上がって行く。
 素直な反応が欲望の炎に油を注ぐのは男の性だろう。
 自分の愛撫によって昂まって行く姿がいじらしく、芳春は、千尋のペニスを扱く手を更に激しく動かし、同時に、めちゃめちゃに腰を突き上げた。

「いやぁ! ちょっ、ダメっ! そんなしたら俺のほうが先にイッちゃ……」

「イケばいいだろ……」

「あっ、ダメぇだめぁっ、やだぁ、も、イクっ、イッちゃ……んっ……はぅっ!」

 畳み掛けるように攻める芳春の愛撫に、千尋は、静脈の浮く白い喉を反らせるように顎を上げ、眉間に深いシワを寄せながら背中をビクビクと震わせて果てた。
 芳春は、精液を吐き出す千尋の恍惚とした顔を見ながら欲望のまま腰を振り立てた。
 果てたばかりの、まだ収縮のおさまらない肉壁が、とろけるような熱さで芳春のペニスにまとわり付く。
 身体が求めるままに奥深くを揺さぶると、千尋が悲痛な顔で、「やめて」とお腹を叩いた。

「やっ、まだダメっ……止まってっ! お願い……動かないでっ!」
 
 抗う手を掴み、指の間に指を絡めて握り合った。
 お腹を叩くのをやめさせるための行動だったが、指を絡ませた途端、千尋が芳春の手を力強く握り返し、芳春も無意識のうちに握り返していた。

「やあぁっ、も、ダメだって、止まって! やだ……も……やだやだあぁぁん」

 手を繋ぎながらセックスしたことなど、十六歳で初体験を済ませて以来、初めての経験だった。
 いや、そもそも、男とのセックス自体が初めてだ。
 苦悶の表情を浮かべてよがり狂う千尋を目の前に、芳春は、自分が自分で無いような不思議な感覚に襲われていた。
 否応なしに始まった行為だった筈が、予想外にも千尋とのセックスを受け入れ、一心不乱に腰を振っている。
 むしろ、今までに無いほど興奮している自分に驚いた。
 千尋が、イヤイヤ、と首を横に振って堪える姿がどうしようもなく身体を疼かせる。
 この顔が切なく身悶えながら絶頂へと昇り詰めていくさまをもう一度見てみたいという欲望が湧き上がり、芳春は、千尋の身体の奥深くへ昂りを押し込んだ。
 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 

 快楽に身体が反応するのは男の性分だ。
 たとえ相手が誰であっても、身体が快楽だと判断すれば素直に反応する。
 心ではなく身体が反応するのだ。
 だからこれはあくまで身体目当てなのだと芳春は自分自身に言い聞かせた。
 
 千尋が果てた後も、芳春は、本能の赴くままに千尋を犯し続け、千尋の中に何度も精液を吐き出した。
 訳もわからず一方的に始まった雑なセックスだったが、蓋を開ければ、乗っかられた筈の芳春が積極的に千尋を責め、誘った筈の千尋が快楽に悶え泣いていた。
 最初こそ戸惑ったものの、最後は自分の意思で千尋を貫いていた。
 千尋の身体の中は、芳春がこれまで経験したどの女の中より具合が良かった。
 しかし、一晩経って目が覚めると、昨夜の、熱に浮かされていたような気分から一転、後ろめたいような、憂鬱な嫌悪感に襲われた。
 千尋は芳春の身体にしがみついて眠っていた。
 いつの間にシャワーを浴びたのか、汗で貼り付いた髪はフワフワとした猫っ毛に戻り、爽やかなシャンプーの残り香を漂わせている。
 昨夜の淫靡な表情とは対照的なあどけない寝顔が、芳春の胸を更に掻き乱した。
 芳春は、千尋を起こさないよう、身体に巻き付けられた手をそっと剥がした。
 折れそうに細い手首をシーツの上に戻し、上体を起こしてベッドから降りようと身体を捻ると、ふいに、腕を掴まれた。

「置いて行かないで……」

 まるで、夢の中を彷徨っているかのように、千尋は、ぼんやりと薄目を開けて、消え入りそうな声で呟いた。

「行かないで……。俺を棄てないで……」
 
 だから、俺は、後藤さんじゃ無いって言ってるだろ?

 芳春は、喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、腕を掴む千尋の手に自分の手を重ねた。
 引き剥がそうとすると、千尋が剥がされまいと力を込める。
 だからというわけでは無かったが、それがキッカケになったのは確かだった。

「それで雇い入れた、ってわけか~。案外いいとこあるじゃない、マスター」

 常連客の加山に言われ、芳春はバツが悪そうに俯いた。
 オープンして三年。これまで男手一人で切り盛りしてきた小さなショットバーに従業員が増えたことは、常連客の間にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。 
 客商売は初めてということもあり、千尋は、気の利いた会話はおろか注文すらまともに取れなかったが、甘いマスクと植物を思わせるしなやかな身体付きは、白シャツと黒いサロンを見事に着こなし、カウンターに立っているだけで充分絵になった。
 
「他の入居者の手前、タダで住まわせるわけにはいかないんで……」 

「労働奉仕、ってやつか…」

「まぁ、そんなとこです」

「それにしたってなかなか出来ることじゃないよ。従業員を抱えるってことはそれなりに経費もかかるわけだし……。でもまぁ、千尋くんがシェーカー振るようになれば女性客がわんさか押し寄せるだろうし、目の付け所としては悪くないか……」

「だと良いんですが……」

 視線を振られた千尋が、人懐こい柔らかな瞳をキョロリと上げる。
 肩を竦めて困ったように笑う姿に、加山がフッと頬を緩める。
 緩いウェーブのかかった前髪の隙間から覗く伏せ目がちな瞳。端正な顔立ちとはうらはらに、いつもどこか自信なさげに佇む千尋の姿は、女性客ばかりでなく、男性客たちの庇護欲をも掻き立てるようだった。
 実際、客たちは千尋に寛容で、何かともたつく千尋を急かすわけでもなく、千尋が間違えて取ったオーダーすら文句も言わずに受け取った。
 加山の言う通り、千尋にシェーカーを振らせれば、カクテルの注文は増えるかも知れない。
 しかしそれも千尋がこの店にいてこその話だ。
 雇い主といえども、千尋がいつまでこの店にいるのかは芳春にも解らない。
 千尋は、後藤龍一の帰りを待つためにあの部屋にいるのだ。
 後藤龍一が帰ってくれば働く意味は無くなるし、帰ってこなくても、気持ちの整理がつけば部屋を出て行くだろう。
 来るべき日のことを考えると、芳春は、千尋を本格的に仕込む気にはなれなかった。

「修行させるつもりはないの?」

 加山の言葉を皮肉な笑いで返し、芳春は再び千尋に視線を移した。

「ビールサーバーにも手こずってるような奴ですよ? シェーカーなんか振らせたらどんなカクテルが出来るか解ったもんじゃない」

 視線の先では、千尋が、今まさに、ビールサーバーと格闘しながらグラスに注いだ泡だらけの生ビールを片手に、これを客に提供してもいいかどうか、芳春に伺うような視線を送っている。
 芳春が首を横に振ると、千尋は、泣き出しそうに口をへの字に曲げ、名残惜しそうにグラスを眺めた。
 すると、

「俺、それで構わないからちょうだいよ」

 一部始終を見ていた客がグラスを受け取り、千尋の顔にとろけるような柔和な笑顔が浮かぶ。
 親切な客に、店主として頭を下げる芳春を見ながら、加山が、「こりゃあ参ったね」と笑い、場が和む。

「あの人、つい最近来始めたばかりのご新規さんでしょ?」

「ええ。うちは本当に良いお客様ばかりで助かります」

「って言うより、千尋くんが凄いんだよ。マスター、悪いこと言わないから千尋くんに色々教えてあげなよ。あの子、絶対マスターの助けになるよ」 




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 カクテル作りで大切なのは、お酒をよく知る事だ。バースプーンを使うにしろシェイカーを使うにしろ、まずはお酒を知らないことには話にならない。
 などと、もっともらしい言い訳をつけ、芳春は、カクテル作りを教えるという名目でお酒の飲めない千尋にお酒を勧め、介抱ついでに千尋の部屋に上がり込むようになっていた。
 初めて千尋を抱いた時から、芳春は千尋の身体に溺れていた。
 心ではなく、あくまで身体に溺れている。芳春の中では、心と身体は別物だ。溺れているのは、身体であって心ではない。
 千尋も千尋で、相変わらず後藤龍一の帰りをただひたすら待っていた。
 まるで、後藤龍一だけがこの世の全て、と言わんばかりに、千尋は、龍一が帰ってきた時、自分がここにいないと会えないからと、芳春の店で働いたバイト料の殆どを家賃に充て、アパートで後藤龍一の帰りを待っている。
 千尋にとって後藤龍一はたった一つの心の拠り所だ。
 芳春の店で働くことも、芳春とセックスすることも、千尋にとっては、後藤龍一を待つための手段に過ぎない。
 千尋はこの部屋で龍一を待ち、芳春は千尋にこの部屋を提供する。
 千尋の行動も、芳春の行動も、結局は後藤龍一に繋がっている。
 狭い部屋の中で、この場にいもしない男のために繋がる。
 それは、一見虚しい行為のようにも思われたが、身体だけと割り切る芳春にとっては、その虚しさが、むしろ自分を守る歯止めとなっていた。
 虚しいからこそ、バカバカしいと切り捨てられる。
 思い悩むことすらバカバカしい。バカバカしくて悩む価値もない。
 そう思うことで、芳春は、余計な感情に振り回されることなく、身体が欲するままに千尋を抱くことが出来た。
 
「マスターはさぁ、男が好きなのぉ? 女が好きなのぉ?」

 おぼつかない足取りの千尋を玄関先で抱え上げ、靴のままベッドに運んで仰向けに放り投げた。

「痛ったぁ~い! 何すんだよマスタァ~!」

「家に帰ってまでその呼び方は止せ」

「だって、こっちの方が言いやすいんだもん。それよかさぁ、マスターは男と女、どっちが好きなのぉ? りゅうはさぁ、結局女が好きだったんだよねー。あんなにエッチしたのに、やっぱ、オッパイが好きだったんだよねー。ねー。オッパイってそんな良いもんなの? マスターも、やっぱ、オッパイが好きなのぉ?」

「いいからもう黙ってろ」

 捲り上げたTシャツを頭からすっぽ抜き、饒舌になった口をキスで塞いだ。
 アルコールの回った千尋の身体は、ほんのりと赤く火照り、甘ったるい芳醇な香りを漂わせている。
 気分が高揚しているせいか、乳首は薄紅を引いたように妖しく色付き、芳春の唇に吸われるのを待っているかのように卑猥に膨れ上がっていた。
 無性に、口に含みたくなり、芳春は唇を開いて乳輪ごと舐め吸うように口に含んだ。

「なぁんだ。やっぱ、マスターもオッパイが好きなんじゃん……」

 千尋は、乳首にむしゃぶりつく芳春の頭を抱えてケラケラと笑い、しかしすぐに、放心したような、投げやりな溜め息をついた。

「ねぇ、マスター。マスターはなんでそんなに俺のオッパイ吸うの?」

「いきなり何言ってんだ……」

「だって、全然気持ちよくないでしょ? ペッタンコだし、乳首だって小さいし。なのに何でそんなに吸ったり舐めたりすんの?」

 それが解れば苦労はしない。
 口を突いて出そうになった言葉を、芳春は胸の奥へ押しやった。
 形や大きさ以前に、そもそも男の胸を舐め回すこと自体に問題がある。
 その理由を問われても、明確な答えなど無かった。
 強いて言うなら、ただ、したいから。
 したいから、する。それ以外に理由は無かった。
 芳春は、伸び上がって千尋の頭の横に両肘をつき、不機嫌に噤んだ千尋の尖った唇を見下ろした。

「そんなこと聞いてどうする」

「別に。ただ、女の胸の方が柔らかくて気持ち良いのに何でかな、って思っただけ……」

 寂しげな瞳と、まだ何か喉の奥に言葉を隠しているような言い足りない感じが、千尋の態度に深い含みを持たせていた。

「不貞腐れてるのか?」

「なんで俺が不貞腐れるんだよ……」

「俺にはそう見えるが……」

「バカ言ってら。俺はね、マスターのことをバカにしてんの。男のくせに男の俺の乳首吸って恥ずかしくないのか、ってね」

「話を逸らすなよ……」

 愛する男を女に取られた八つ当たりか。ぼんやりとした中にも鋭い刺を含んだ視線で睨む千尋を横目であしらい、芳春は、ふたたび千尋の胸に顔を埋めた。

「ハハッ。言ってるそばからやってるし。いい歳した大人がみっともない」

 乳首の表面を下から上へとしつこく舐め上げ、乳輪を唇の先でつまんで、乳首を避けながら、そっと吸い上げては離すを繰り返す。
 散々じらしたところでまた乳首を下から上へと舐め上げ、舌の先で揉みほぐすように捏ねくり回して舐め潰した。
 乳首がだんだんと芯を持ち始めるにつれ、クスクスと笑っていた千尋の失笑混じりの吐息が、途切れ途切れの喘ぎ声に変わって行く。

「男の乳首を吸っている俺をみっともないと言ってくれたが、男に乳首を吸われてよがってるお前もたいがいだろ」

「よがっ……て……ないッ……」

 強がっていても、千尋に覆い被さった芳春の下腹部に、千尋の股間が硬く盛り上がった状態で押し付けられているのは誤魔化しようが無かった。
 芳春は、千尋の股間を刺激するようにわざと身体を密着させ、反対側の乳首を爪先で弾きながら、口に含んだ方の乳首を唇を窄めてチューッと吸い上げた。
 乳首を強く吸うと、千尋のお尻の奥がキュンと締まることを芳春は知っている。
 そのまま続ければ、キュンと締まった奥がビクンと跳ね、小刻みに痙攣し始める。
 本人が自覚している、していないに関わらず、千尋の身体は乳首のみの刺激でも絶頂を迎えられるほどに慣らされ、快楽を求めて気持ちを昂ぶらせて行く。
 呼吸が喘ぎ声に変わる頃には、芳春が息を吐きかけるだけで、千尋は、乳首をいやらしく腫らし、背中を仰け反らせて突き出した。

「あっ、あ……そんな……だめぇ……んいっやぁ…あっ……ああっ」

「だめじゃないだろ? 嘘をつくな……」

「うそじゃ……なぁっ、いやぁっ、ばかぁあぁっ……」

 口を小さく四角に開けてわななく表情が色っぽい。
 ペッタンコで、乳首も小さい、柔らかくもない。『なのに何でそんなに吸ったり舐めたりすんの?』と、今、もう一度聞かれたら、芳春は、『この顔が見たいから』と答えるだろう。
 千尋の胸は、指の隙間からこぼれる柔らかい肉もなければ、舌の上を転がる肉感的な乳首もない。
 しかし、乳首を愛撫されている時の千尋の反応は、他の何より芳春を気持ち良くさせた。
 女の喘ぐ顔よりも、千尋の喘ぐ顔の方がダイレクトに股間に響く。
 それは、本来、男の前で喘いだりよがったりすることのない“男”が、そういう反応をしているという物珍しさと、自分がそうさせているというある種の征服感みたいなものが見せる倒錯なのかも知れなかったが、たとえそうでも、千尋の、快楽にしどけなく身悶えるさまは、芳春の官能をどこまでも刺激した。

「そろそろ下も触って欲しいんじゃないのか?」

「やだぁ……あっ……」

 ズボンのファスナーを下ろし、指先を丸めて下着の上からペニスをくすぐるように撫でた。
 陰茎の形を確かめるようになぞり、輪郭にそって上下に扱き上げる。
 先端の溝に軽く爪を立てて押さえると、押し上げられて薄くなった下着の生地が先走りの染みを作り、広がった。

「相変わらずベチョベチョだな。こんなに濡らして恥ずかしくないのか?」

「マスターがっ、先っぽばっか、いじるからぁっ……んぁっ」

 目の下を真っ赤にして喘ぐ千尋に加虐心を煽られ、芳春は、千尋のペニスを下着から引っ張り出し、蜜のしたたる先端を親指の腹でグリグリと刺激した。

「ああああっ! やぁっ! ばかっ! やめ……あはっ……ぁうっ……」

 千尋がどんな気持ちで抱かれているのかは解らない。
 しかし、腕の中で喘ぎ悶える千尋は、芳春の愛撫を嫌がっているようには見えなかった。
 千尋は、むしろ受け入れているように見えた。
 後藤龍一の帰りを待ち焦がれながらも、芳春とのセックスをそれなりに受け入れている。それが寂しさ故の人肌恋しさからなのか、家主である芳春の機嫌を取るためなのかは解らない。
 しかし、どちらにしても、この行為の中に特別な思い入れは無いような気がした。
 自分と同じように、千尋もまた、肉体の快楽のみを求めているのだろうと芳春は思った。
 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 
 右手の親指でキャップを押さえ、中指とくすり指でボディを挟んで、左手を添えてリズミカルに上下にシェイクする。
 手首の滑らかな動きに感心しながら、千尋は、カクテルのオーダーを受けてシェーカーを振る、芳春の、ツンと澄ました伏せ目がちな横顔をぼんやりと眺めていた。
 ちょいワルファッションが似合いそうな外見には不似合いな、控えめで品のある綺麗なフォーム。
 飴色の薄暗い照明の中を、銀色のシェーカーが、斜め上に上がって元の位置に戻り、斜め下に下がってまた元の位置に戻る。
 シャッカ、シャッカと氷が当たる音が、低音量のヨーピアンジャズと小気味よく混ざり合い、小さなショットバーを高級バーさながらの雰囲気に仕立て上げていた。
 
 いつもはあんなに激しく求めてくるくせに、この澄まし顔は詐欺だろう。

 思いながら、背筋を伸ばし、顎を気持ち上へ向けてシェーカーを振る芳春から視線を戻すと、途中で、向かいに座る常連の加山と目が合い、千尋はドキリと瞬きした。

「なに。千尋くん、マスターに見惚れてんの?」

「え……。別に俺は……」

「隠さなくったって良いよ。マスター、カッコいいもんね。まだ三十なんでしょ? あの歳でここまで雰囲気のある人はなかなかいないよ」

「雰囲気……」

 それは、今のような、誰もが思わず動きを止めて見入ってしまうような雰囲気のことを言うのだろう。
 千尋が店を手伝うようになって早一か月。
 十五人掛けのコの字型のカウンターのみのこじんまりとした店ながら、芳春の店は幅広い年齢層に支持され、連日賑いを見せていた。
 とくに週末ともなれば、開店時間から一時間と経たないうちに満席となり、小鳥が一斉に囀り始めたかのような陽気な喧騒に包まれる。
 その中にありながら、芳春がひとたびシェーカーを手に取れば、空気は一変、気配を察した客たちがピタリと会話を止め、芳春に期待と羨望の眼差しを向ける。
 そこからは芳春の独壇場だ。
 時間にしてせいぜい十五秒。それまでの騒がしさが嘘のように、客たちが一斉に芳春に注目し、芳春がシェーカーを振る姿を息を飲んで見詰める。
 いつもは、「お客様に目を配れ」という教え通りカウンターに目を光らせている千尋であったが、この時ばかりは、他の客同様、芳春に釘付けになった。
 芳春のアクションは、これみよがしに見せ付けるわけでも恥じらうわけでもなく、控えめな中にも確かな自信に満ちた、繊細で上品な雰囲気を漂わせていた。

「優雅……なんだよね。それに凄く丁寧。気軽に立ち寄れる店だからってお酒には一切手を抜かない。外見もカッコいいけど、その気持ちがこれまたカッコいいじゃない。男の俺ですらそう思うんだから、女にモテて当然だよ」

「マスターって、モテるんですか?」

「ああ、モテるよ。歳上からも歳下からも。あ、でも千尋くんだってモテるだろう?」

「俺は別に……」

「またまたぁ。千尋くんは女からも男からもモテるタイプだよ。ひょっとして、男の経験とかもあったりして……」

 そうしている間にも、芳春はシェーカーを振り終え、キャップを外して、手前に置かれた脚の長いグラスに淡いレモン色のカクテルを注いで行く。
 愛しいものでも見るように、注がれて行く液体を熱っぽい目で見詰め、グラスが一杯になったところでシェーカーを真っ逆さまに立てて最後の一滴まで注ぎ、軽く上下に振り切り、長い指でグラスの脚を挟んで客の前にスッと差し出した。
 
「ビトゥイーンザシーツです」

 言い終わらないうちに、どこからともなく、「ヒューッ」とはやし立てるような声が飛び、店内が再びざわつき始めた。

「ビトゥイーンザシーツとはなかなかやるねぇ、あの女性」

「え?」

「一緒のベッドに入りましょう、ってお誘いだよ」

 意味深に目を細める加山のズルそうな笑顔を無言でやり過ごし、千尋は、中断していたライムのカット作業を再開した。
 まな板の上にライムを乗せ、頭とお尻をカットして、縦に半分に割る。それをさらに四つにカットして、中央の白いワタを薄く削いでトレーに並べ、また、新しいライムをまな板の上に置く。
 黙々と作業する傍らで、芳春は、ビトゥイーンザシーツを注文した女性客と親しげに話をしていた。
 アルコールの話をしているらしく、会話の中に、芳春に教わったカクテルの名前が幾つも登場する。
 芳春は、女性客の好みを聞き、お勧めのカクテルと、レシピ、名前の由来や、カクテル言葉まで丁寧に説明していた。
 切り終えたライムをトレーに乗せるついでにチラリと見ると、口元をだらしなく半開きにした女性客と目が合った。
 飴色の間接照明で誤魔化されているものの、目の下の影とフェイスラインの崩れから、女性が既に中年の域に入っていることは明らかだった。
 濃いメイクに、露出度の高いぴったりとしたTシャツ。グラマラスとファットの境い目のような体型で、Tシャツの胸元が胸の形に引き伸ばされて盛り上がっている。
 歳上からも歳下からもモテるらしいが、モテれば相手は誰でもいいのか。それともこういう女が好みなのか。

 俺にバカみたいに突っ込んで悶えてるくせに。

 思った途端、指に焼けるような痛みを覚え千尋は我に返った。

「千尋くん!」

 最初に気付いたのは加山だった。次に芳春が振り向き、千尋の腕を乱暴に掴んで上に上げた。

「何やってんだ、お前!」

 千尋は、自分の腕を伝い流れる真っ赤な血を見ながら、芳春の怒鳴り声を茫然と聞いていた。

「片付けなんて後でいいから、こっちへ来い!」

 腕を取られたと思ったら、そのまま引っ張られてカウンターの裏へ続く小さなドアをくぐらされ、奥にある倉庫兼スタッフルームの椅子に座らされた。
 事態が飲み込めない千尋とはうらはらに、芳春は、救急箱を片手に千尋の前にしゃがみ込むと、慣れた手付きで千尋の指の傷を消毒し、ガーゼを当てて包帯を巻き付けた。

「刃物を使う時はよそ見すんな、って言ってるだろ!」

 自分が怪我をしたわけでもないのに、どうしてこんなに目くじらを立てて怒るのか。芳春の周りを漂うピリピリとした空気を浴びているうちに、千尋は、喉の奥から熱い吐き気のようなものがこみ上げてくるのを感じ、グッと口を結んだ。
 心なしか、身体に力が入らないような気がする。
 頭も痛い。
 深呼吸をして気持ちを整えると、包帯を巻き終えた芳春の手がそっとおでこに触れた。

「どうしたんだ、凄い汗じゃないか……」

 千尋は、機嫌の悪い芳春から目を背けるように、厚ぼったく巻かれた包帯を眺めた。

「具合でも悪いのか……?」

 具合が悪いのかどうかは解らない。ただ、何もかもが猛烈に胸くそ悪かった。
 千尋は、芳春の手を、なんでもない、と振り払い、自分の手の甲で額の汗を拭った。

「俺は大丈夫だから、もう店に戻りなよ。まだ話の途中だろ?」

「話し……?」

 問いかけるように見る芳春を無言でかわし、話は終わりだ、とばかり腕組みして目を閉じた。
 芳春は、「おい!」と呼び掛けたが、千尋が狸寝入りを決め込むと、やがて、呆れたように大きな溜め息をついて、立ち上がった。

「なに不貞腐れてるのかは知らないが、その手じゃ仕事は無理だから、少し休んだら今日はもう帰れ……」

 千尋は、目を閉じたまま、心の中で、ケッ、と唾を吐いた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 
 身体の具合が悪いから胸くそが悪いのか、胸くそが悪いから身体の具合が悪いのか、千尋自身にもよく解らなかった。
 ただ、芳春の何もかもが癇に障り、泣きたいようなむしゃくしゃした気持ちが胸に渦巻いた。
 
 手当ての後、千尋は、芳春の呼んだタクシーに乗せられ、アパートに帰された。
 怪我をした手で接客させるわけにはいかない。
 芳春の言い分はしごく当然であったが、千尋は、自分が体よく追い払われたような気がしてならなかった。
 怪我をしたのに叱られ、使えなくなった途端、用無しとばかり放り出される。
 言われたことはちゃんとやっていたし、出来ないながらも真面目に努力していたつもりだった。
 それなのに、ほんの少し怪我をしただけで役立たず扱いだ。
 自分がぞんざいに扱われているような気がして、千尋は、どうにも我慢がならなかった。

 自分は女と話し込んでいたくせに。
 
 龍一も、あんなふうに楽しそうにしているのだろうか。
 ふと、そんな思いが頭をかすめた途端、感情のたがが外れ、押し込めていたものが吹き出した。
 可愛い。綺麗だ。良い子だ。たまらない。褒められこそすれ、けなされたことなどただの一度も無い、それなのに龍一は突然千尋の前から姿を消した。
 心当たりなど何も無かった。
 夜、いつものように何処かに帰って行き、そのまま龍一は千尋の元へは戻らなかった。
 あまりに普通で、最後にどんな言葉を交わしたのかも覚えていない。会えなくなるとは思わず、ろくに顔も見ずに送り出してしまった。
 三日経って、さすがに心配になり連絡したものの、電話はコールするばかりで繋がらず、千尋の身体目当てでやって来た友人たちも、龍一の所在をしつこく追及する千尋をうっとおしがり、次第に姿を見せなくなった。
 状況だけを見れば、棄てられた、と思うのが自然だ。
 それなのに、どうしても認めたくないと思うのは、突然棄てられてしまったことへの戸惑いと、見付けることの出来ない別れの理由にあった。
 心当たりでもあれば少しは諦めもつくのだろう。しかし、心当たりは愚か、別れの予感も、前触れすらも無かった。
 いきなり、心の準備も出来無いまま捨て置かれ、千尋は、気持ちのやり場が見つけられなかった。
 せめて理由が知りたかった。
 このままうやむやにすることは、十五歳から共に暮らした、龍一との五年間をもうやむやにするのと同じだった。

「りゅう、なんで戻ってきてくれないんだよ……」

 シートに深く背中を沈めながら、開けっ放しにした窓から、青白い外灯に浮かび上がる街並みをぼんやりと眺めた。
 タクシーは、国道から脇道に逸れ、見覚えのある景色を走り抜ける。
 シラフでいることに耐えきれず、お酒を買おうと最寄りのコンビニでタクシーを降りた。
 芳春が持たせてくれたお金でタクシー代を払い、お釣りで、缶ビールと缶酎ハイを買って店を出た。
 慣れ親しんだ家路を歩き、アパートが見えてきたところでふと足を止めた。
 一階の角に人影が見える。
 見付けた途端、千尋は走りだしていた。

「りゅう!」 

 りゅうが帰ってきた。
 りゅうが帰ってきてくれた。

「りゅう!!」

 叫びながら、がむしゃらに走り、人影に駆け寄る。
 しかし、振り向いた顔は龍一では無かった。

「お帰り千尋ちゃん。ずいぶん遅かったね」

 顎の尖った神経質そうな顔に薄い唇。唖然とする千尋を面白がるように、軟弱そうな外見とはうらはらな残忍な光を孕んだ目が、千尋を舐めるように見上げている。

「藤田さん……」

 好色そうな目で千尋を見ると、藤田は、頬の隅に企むようなニヤケ笑いを浮かべ、千尋の肩にポンと手を置いた。

「ようやく会えたね、千尋くん。ずっとずっと会いたかったんだ……」

 千尋は、息が止まったように立ち尽くした。
 触れられた肩から、悪寒にも似た痺れが広がって行く。
 失望、悲しみ、腹立たしさ。色んな感情がごっちゃになって身体を取り囲み、足元がガクガクと震えた。

 
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