愛と欲の主従

瀬楽英津子

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愛と欲の主従〜5

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 受け止めきれない感情が、立花の胸の中でどろどろと渦巻いていた。
 怒り、憎悪、恨み、辛み、痛みや苦しみ、悲しみなど、まるでこの世に存在する全てのマイナスの感情がごちゃ混ぜになって襲い掛かってくるかのようだった。
 真琴を傷付ける克己が許せない。母親を傷付けた父親への恨みも未だ胸の中に根強く残っている。
 しかしそれ以上に、自分自身に対する畏れのようなものが立花を震撼させていた。
 手のひらにはっきりと残る感触。この、ずっしりと重く冷たい感触をどうして今まで忘れてしまっていたのか、立花自身にもよく解らない。
 しかし、ふいに甦った感覚に、自分が、今までにないほど激しく動揺していることはよく解った。
 余計なことをしたのだろうか、とふと思う。

『母さんのことが心配なら、黙って父さんの言うこと聞いてなさい』

 あれほど言われていたにもかかわらず、また余計なことをして母親を苦しめた。
 しかし、他にどうすれば良かったというのか。

『ごめんね寿一。今度はちゃんとした両親の元に生まれてくるんだよ』

 理解出来ない。
 俺たちは悪くない。
 死ぬのは俺たちじゃない。
 こんな奴のために、どうして俺たちが死ななければならないのか。
 あの時の憤りが再び甦る。
 そう。
 死ぬのは父親だけでじゅうぶんだ。
 父親だけ死ねばいい。
 父親だけ。
 朦朧とした意識の中で、母親と取っ組み合う父親を睨み付ける。
 その時、まるで、見えない力に差し出されたかのように、血の付いた包丁の柄が立花の視線のすぐ先に転がった。
 だから掴んだ。
 それなのに、一体何がいけなかったのか。
 自分は正しいことをした。
 父親は死に、暴力からも解放された。
 ようやく手に入れた安息の日々。
 それなのに、どうして幸せになれなかったのか。どうして母親は死んだのか。
 胸の奥に閉じ込めていた思いが、悲痛な咆哮となって喉を突き破る。
 同時に、脇腹を押さえながら走り去る真琴の後ろ姿がふと脳裏に甦った。
 真琴も死んでしまうのだろうか。母親みたいに。
 思うが早いか、心臓が早鐘を打ち始め、恐怖にも似た戦慄が立花の背筋を駆け上がった。
 そんなことにでもなったら、自分がどうなってしまうのか自分自身でも解らない。
 楽しいことなど何一つ無かった青春時代、真琴の存在だけが立花の心の支えだった。
 母親の死を乗り越えられたのも真琴の存在があったからだ。
 母親の死後、喪失感から生きる意味を失いかけた立花をこの世に踏み止まらせたのは、立花の中にあった、いつかまた真琴に会いたいというかすかな希望だった。
 真琴とは中学を卒業後完全に疎遠になってしまったが、真琴への思いは立花の心の真ん中にいつもあり、真琴を思い出さない日はなかった。
 いつかまた会いたいと思っていた。
 しかしそれも生きていればこそ。死んでしまったら永遠に叶わない。真琴への切なる思いが、立花を死の誘惑から引き戻した。
 生気を取り戻した立花は、風の噂で真琴が東京へ出たことを知り、数少ない情報を頼りに半ば衝動的に上京した。
 仕事の当てなどなかったが、ガタイの良さと見てくれからその筋の人間に声を掛けられ、事務所の使いっ走りやボディーガードなど経て、お世話になっていた事務所が解散するタイミングで紹介されるがままに『ツキアカリ』のバーテンダーになった。
 客商売は立花の本意ではなかったが、だからこそ、真琴と再会した時は、偶然ではない運命めいたものを感じた。
 その真琴がこの世からいなくなってしまうなど、想像しただけで立花は気が狂いそうになる。
 唯一の肉親である母親を失い、唯一の想い人である真琴まで失う。
 輝かしいことなど何もなかった人生の中で、ともに庇い支え合って生きてきた母親を失くし、青春時代の全てであった真琴まで失くそうとしている。
 もはや自分自身の生きる意味といっても過言ではないほど大きくなった真琴という存在を失くしてしまうなど、今の立花に耐え得る筈もなかった。
 そんなことは絶対に起こってはならない。
 怒りとも恐れともつかない感情が、立花の打ちひしがれた心を再び奮い立たせた。
 真琴を母親のようにさせてはいけない。
 俺が真琴を助けなければならない。母さんのぶんまで。
 心の声がひとりでに漏れ出る。

「大丈夫……今度は失敗しない。もう子供じゃないんだ……」

 鳴り止まない雷鳴のように、それは立花の耳の奥でずっと響き続けた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


「言うこときく……から……これ、とってッ……」

 掠れた声が、血の味の混じった吐息とともに喉を押し上げる。
 叫びすぎて傷付いた喉がヒリヒリ痛み、呼吸するたび胸の奥がヒュウヒュウと鳴る。
 足掻いたところでどうなるわけでもないと解っていながらもそうせずにはいられないのは、目の前にいる克己が、真琴の知っている克己ではなくなってしまっていたからだった。
 立花が現れてからというもの、克己が日増しに暴力的になっていたのは真琴も身をもって実感している。
 しかし、今の克己は完全に別人だ。もはや、怒りが治まるのを待つ、などというレベルの話しではない。
 映画や小説の中の話だと思っていた死と隣り合わせの状況が、真琴の防衛本能を引き出した。

「おねが……い……なん…でも……する……から……」

 自由にならない身体を捩りながら、真琴は、振り絞るように訴えた。
 克己は真琴を見ようともせず、真琴の股の間に割り込ませた身体を丸めて淡々と作業を続ける。

「なにもしてくれなくて大丈夫だよ。これでもう悪さも出来なくなるからね……」

 暗い、輝きのない瞳。冷ややか、というのとも違う、何を考えているのかわからない不気味な影を纏った瞳でチラリと真琴を見、ペニスの根元に巻かれたカフリングとペニスを収めた筒状のケースを連結し、南京錠を嵌めて施錠する。
 カチリと音が鳴るのを確認すると、鍵穴から抜いた小さな鍵を指先で見せびらかすようにヒラヒラと揺らし、「これでよし」と満足気に笑った。

「こんな……ひどい……」

「ひどい? 彼氏の目を盗んで浮気する真琴のほうがよっぽど酷いだろ? ああそうだ。一番大事なココもきっちり塞いでおかないとな……」

 言うなり、真琴のお尻を持ち上げ、後孔が天井を向くよう、両膝が床につきそうなほど深く身体を折り曲げる。
 無理な姿勢を取らされ、真琴は満足に声を上げることも出来ない。
 しかし、剥き出しになった後孔にローションが垂らされると、嘔吐(えず)くような悲鳴が漏れた。

「ひぐッ!」

 これからされることを身体が本能的に察知して窄まりを固く閉ざすが、克己は構わず、度重なる挿入で赤く腫れた窄まりの縁をくるくると指先でなぞり、充分にローションを馴染ませた後、窄まりの真ん中からつぷりと中に差し込んだ。

「あひぃッ!」

「凄っごい柔らかい。俺に掘られてフワフワグチュグチュになってるの、凄くやらしい……」

「やあッ、そんな……動かしちゃ……」

 真琴の反応を面白がるように、克己は、ローションで濡れた指をぐにぐにとひねりながら乱暴に後孔を掻き回す。
 真琴の身体を知り尽くした克己が弱い部分を責め立てない筈はない。ゴリゴリと気持ちの良いところを抉られ、真琴の身体は嫌でも火照りを上げた。

「ホント、感じやすいよな。でも、我慢しないと辛いことになっちゃうぜ?」

 真琴のペニスは、鳥籠状に編まれた金属製のケースに拘束され、根元を睾丸を通した状態でリングに固定されている。
 ペニスの収納ケースは、萎えた状態のペニスがかろうじて入るくらい大きさで、とても勃起したペニスを収納出来る代物ではない。
 しかし、克己の指は真琴の性感帯を容赦なく突き、真琴のペニスを勃起状態へといざなう。必死で気を紛らわせるものの、鉤形に曲げた指で感じるところを何度も素早く刺激され、真琴のペニスは瞬く間に収納ケースをギチギチに埋め尽くすほど膨れ上がった。

「痛ッーーー!」

 同時に、強烈な痛みが真琴に襲い掛かる。
 収納スペースが無いからといって勃起が治まるわけではない。真琴のペニスはなおも膨張を続け、鈍く光る金属の籠に食込みながら真っ赤に腫れ上がっている。
 ペニスを握り潰されているも同然の衝撃に加え、身体を折り曲げられている窮屈な姿勢が苦痛に拍車をかける。
 未だかつて経験したことのない想像を絶する痛みに、堪え切れない悲鳴が真琴の喉から迸った。

「痛いッ! 痛いッ!」

「だから言ったのに。これ以上大きくなったらタマが引っ張られてますます痛くなる……」

「いやぁッ! 取って! これ、取ってぇッ!」

 渾身の力を振り絞ってイヤイヤをする真琴を、克己は、後孔に突き立てた指をわざとクチュクチュ音を立てて小刻みに上下させながら、愉悦の表情で眺めている。
 その目が不気味に細まり、唇が悪辣な笑みを浮かべた。

「あーあ、真っ赤になっちゃってる。これじゃあお尻に栓する前にチンコが潰れちゃうかも知れないな……」

「いやっ! いやあぁッ! お願いッ! か、克己ッ! いやッ! いやぁぁぁッ!」

 洒落にならない状況に、身の毛もよだつような恐怖が真琴の背筋をザッと駆け上がる。
 なりふり構っている場合ではない。大声を上げればどんなことになるか察しがつかないわけではなかったが、想像を超えた痛みと恐怖が真琴の心のタガを外した。
 本能的な衝動に突き動かされるまま、真琴は、必死に手足をバタつかせ狂ったように泣き叫んだ。

「暴れない!」

 克己は、それすらも想定済みとばかり顔色一つ変えずに真琴の反撃を抑え込む。
 絞り込まれた筋肉質な身体を持つ克己にとっては真琴を抑え込むなど屁でもない。ましてや連日の性暴力で憔悴した今の真琴なら、赤子の手を捻るよりも容易だった。

「いやいやッ! 離してッ! 取って! これ、取ってぇぇッ!」

「しっ! 大きな声を出したら近所迷惑だろ? 言うこと聞けないなら、この前みたいに口も塞いじゃうよ?」

「あッ! やあぁッ!」

 前回使われた口枷が頭に浮かび、真琴がギョッと震え上がる。
 硬いゴムボールを噛ませて拘束するそれは、前面に鼻まですっぽりと覆うカバーが付いており、装着されたが最後、声を上げることは愚か呼吸することさえ極端に制限されてしまう過激なものだった。
 アレを装着された状態で今のこの地獄のような苦痛を乗り切れるとは思えない。訪れるべきして訪れた絶望に、威勢よく迸った悲鳴は切ない啜り泣きに変わった。
 
「そうそう、いい子だ。真琴の喘ぎ声はすっごくそそるから、本当言うと塞ぎたくないからね……」

 しゃくり上げる真琴を満足気に見下ろすと、克己は、真琴の後孔からゆっくり指を引き抜き、代わりにアナルプラグを挿入した。
 すでに充分ほぐされた後孔はすんなりとそれを飲み込むが、指よりも何倍も太く長い異物を挿入される衝撃は免れない。
 ひぐっ、と引き攣るような悲鳴が真琴の口から漏れる。
 皮肉にもそれは克己の言う、情欲をそそる喘ぎ声らしかった。

「我慢出来なくて漏れちゃう声ってエロいよな……。甘ったるい声でアンアン言う奴もいるけど、あからさまなのは返って興醒めだ……」

 克己の猫撫で声にゾッとする暇もなく、逆さまに持ち上げられたお尻を下ろされ、真琴の両足と背中がようやく床に付く。
 窮屈な姿勢を解かれたことで息苦しさからは解放されたが、籠型の拘束具に押し込められたペニスは今なお金属の帯を食い込ませながら壮絶な痛みを上げている。
 床に下ろされて腸が下がったせいで、挿入されたアナルプラグがより深い位置まで抉り込み、腸壁を圧迫していることも新たな刺激となった。
 その刺激を増幅させるように、後孔に埋め込まれたアナルプラグが突然ブルブル震え出す。
 克巳がリモコンのスイッチを押したのだ。ペニスの痛みに翻弄されてアナルブラグが電動であることを忘れていた。

「あああうッ……ひぐうッ……いやぁぁぁッ……」

「さっきから、イヤ、イヤばっかだなぁ。そんなこと言うわりに、こっちはヌルヌルしてるけど?」

 首を横に振って抵抗する真琴をよそに、克巳は、背中を丸めて真琴の下腹部にぐっと顔を近づけ、金属製の貞操帯にガッチリと掴まれたペニスを至近距離から凝視する。
 下向きに装着されているため真琴からは見えないが、下腹部に感じる克巳の鼻息の荒さから、克己の興奮を煽る状態になっていることは察せられた。
 これほどの苦痛を加えられながら、それでもなお反応してしまう自分に真琴は羞恥を覚えずにはいられない。
 しかしそれも長くは続かなった。

「いぎっ!」
 
 突然ペニスの先からゾクゾクとした痺れが駆け上がり、真琴の身体が硬直する。
 感傷に浸っている場合ではない。
 排尿するために開けられた孔、コックケージの中央に丸く開いた親指大の孔から、克巳が指先を鈴口に当ててぐりぐりと擦り始めたのだ。
 それだけにとどまらず、今度は、身を屈めて真琴の股の間に這いつくばって孔の中に舌を差し入れる。

「やぁ……あッぁぁ……」
 
 冷たく感じるのは、真琴のペニスが熱く滾りすぎているせいだろう。その冷たさが刺激への体感を何倍にも増幅させ、嫌でも鈴口に意識を向けさせる。
 痛みの奥底から這い上がる甘美な痺れに、真琴のペニスはいっそう昂ぶり、拘束具をめり込ませながら痛々しく膨れ上がる。

「舐めても舐めてもどんどん溢れてくる。ひょっとして痛いことされるのに目覚めちゃった?」

「ぎぃッ! ……ひッ……ひぐぅ……」

 尋常でない痛みとジリジリと焼け付くような腰の疼き、絶え間なく襲い掛かる衝撃に、真琴は、まともに息を吸うことも出来ない。
 ただ身体を硬くして耐えることしか出来ない真琴の脳裏を死の影が行き来する。

 ーーーこのままじゃ本当に死んでしまう。

 これまで幾度となく感じた恐怖が、真琴の中でにわかに現実味を帯びてきた。
 こんなところで死にたくはない。
 しかし一方で、今のこの苦痛がこの先もずっと続くのだろうかと思うと、いっそ死んでしまった方が楽なのではないかとさえ思う。
 そんな気持ちに呼応するかのように、真琴の呼吸はどんどん速くなり、目の前の景色が霞み出す。
 ヒッ、ヒッ、ヒッ、と今にも窒息しそうな呼吸音を上げながら、真琴は、真っ白に埋め尽くされていく視界の先を眺めた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 

 身体中が痛かった。
 二、三度瞬きしてぼんやりした目の焦点を合わせる。
 いつもの天井。

 ーーーなんだ、まだ生きてたのか。

 みしみしと軋む身体を庇いながら頭を起こして周りを見渡す。
 克己の気配はない。
 もっとも、目覚めてすぐ、手首に当たる冷たい感触に気付いた時点ですでに克己が部屋を出た後であることは理解していた。
 部屋を出る時は、必ず天井からぶら下がる手錠に真琴の両手首を繋ぎ、万年床の敷かれた和室の襖をぴっちりと閉めてから出て行く。
 逃げられないようにするための克己なりの対処法なのだろうが、連日の苛烈な性暴力に心身共に疲れ果ててしまった真琴に、もはや逃げ出す気力は残っていない。
 全裸のまま鎖に繋がれ、食事や排泄さえも克己に監視される日々。克己の用意する食事は、普段の真琴には手の出ない高級店のテイクアウトばかりという気の配りようであったが、克己に排泄を見られるのが嫌で真琴は殆ど食べておらず、体力的にも逃げ出せる状況ではなかった。
 とにかくいつも身体中が痛くて辛い。
 とくに今は、下腹部に纏わり付く貞操帯の不気味な重みが、真琴を絶望で押し潰そうとしていた。
 真琴の股で禍々しく光るそれは、真琴の小ぶりな陰嚢を締め上げ、傷付いたペニスを鉄の籠にガッチリと捕らえて逃がさない。
 萎えきっているせいか、あまり痛みは感じない。
 しかしもう一度あの痛みに襲われたら、耐えられる自信はなかった。
 早くラクになりたい。
 後孔にはアナルプラグが深々と埋め込まれ、うかつに腰を捻れば絶妙に計算されたフォルムが真琴の感じるところを刺激し甘い疼きを呼び起こす。
 留守にしているとは言うものの、いつまた克己が戻ってくるとも限らない。
 その前に、今のこの地獄のような状況を終わらせたかった。

「これで首を締めたら死ねるかな……」

 痛みへの恐怖に駆られた真琴の心の隙間に、死への誘惑が忍び込む。
 立ち上がった状態で片方の手に繋がれた鎖を首にぐるぐる巻きにして前に倒れれば、今の自分の体力なら簡単に死ねる気がする。
 思い、全身を襲う痛みに耐えながらゆっくりと上体を起こした。
 片手を布団の上について膝を立てると、貞操帯がペニスの付け根にズシリと重くのし掛かり、真琴の死への欲求に拍車を掛ける。

 ーーーいやだ! いやだ! いやだ!

 一刻も早く逃げ出したい。
 突き動かされるように、真琴は反対側の膝も同様に立て、布団の上についた手で身体を支えながらお尻を浮かした。
 すると、ふいに、玄関の方からガチャガチャとドアノブを回す音が聞こえ、真琴はギョッと肩を竦めた。
 
 ーーー克己だ。

 こんなことをしているのがバレたら何をされるか解らない。
 思いながらも、真琴の身体は恐怖のあまりその場に凍り付いてしまったかのように動かなかった。
 ドアノブを回す音はさらに激しさを増し、やがて乱暴にドアを開ける音に変わる。直後、ドス、ドス、と、いつもより大きな足音が近付き、目の前の襖がパンッと開いた。
 もう終りだ。
 絶望に駆られ、真琴はぐっと息を飲んだ。
 しかし、次の瞬間、現れるはずの顔とは違う別の顔が視界に飛び込み、真琴はたちまち仰天した。

「た……ちばな……?」

 確かめるまでもない。
 額の傷痕を強張らせながら、立花が、襖を開けた姿勢のまま、時が止まってしまったかのように立ち尽くしている。
 その顔がみるみる険しく歪み、瞳が鋭い光りを放ち始めた。

「これは……どうしたんだッ……!」

 立花の視線は真琴の股間に注がれている。
 その、痛みを堪えているかのような辛そうな表情を見た途端、真琴の中に張り詰めていたものが一気に溢れ出し、大粒の涙となって頬を流れ落ちた。

「たちばなッ……」

 どういう心境なのか真琴自身にもよく解らない。
 立花に知られたことが悲しいのか、腹立たしいのか。立花が現れて驚いているのかホッとしているのか。立花から逃げ出したいのか、縋りたいのか。そのどれでもないし、その全てであるような気もする。
 ただハッキリと解っているのは、自分の胸の内側から、立花を呼ぶ声が、自分でもどうしようもほど激しく溢れ出てくることだった。
 まるで自分の知らないもう一人の自分が必死で叫んでいるかのように、真琴の口から止めどなく立花の名前が溢れ出る。

「たちばなッ……! たちばなッ……!」

 子供のように泣きじゃくる真琴を、立花は、ぎこちない手付きで抱き止めた。

「大丈夫だから……も……泣くな……」

 緊張気味に言い、再び真琴の股間に視線を落とす。

「これもアイツがやったのか……」

 真琴はもう以前のように克己を庇えなかった。
 黙ったまま頷く真琴を、立花は鎮痛な面持ちで眺めていたが、やがて、ふと思い出したように、その震える身体を仰向けに寝かせ、両膝を立たせて股の間に腰を据えた。

「これ、抜くぞ」

 背中を丸め、左右に開いた股の間を覗き込んで真琴の後孔に埋まったアナルブラグを慎重に引き抜く。
 それが済むと、今度は真琴のペニスに嵌った貞操帯にそっと手を掛けた。

「無理だよ……鍵が掛かってるんだ……」

「こんな鍵、どおってことない……」

 真琴の不安を払拭するかのように言うと、立花は、ズボンのポケットからUの字型に曲がった針金を取り出し、貞操帯を固定する南京錠の鍵穴に差し込んでいとも簡単に施錠を解除した。
 同様に。手錠、首輪、足枷と順番に拘束を解き、真琴の背中を抱いてゆっくりと上体を起こす。
 絶対に逃れられないと思っていたことから逃れられた奇跡のような状況に、諦めたはずの希望が真琴の胸に再び湧き上がる。
 しかしそれも束の間、どこからともなく向けられる舐めるような視線に、真琴は再び絶望の淵へと落とされた。

「も……いいから……お前は早くここから逃げなよ……」

「何言ってる! 俺は蜂谷を助けに来たんだ」

「無理だよ! 監視されてるって言っただろ? 早く逃げなきゃ……お前だって……どうなるか……」

 言い返したものの、涙で喉が詰まって上手く言葉が出てこない。
 堪らず唇を噛み締めると、立花の大きな手が涙を拭うように頬に触れた。

「どうなったって構うもんか」

 あの頃と同じ、中学の時、いつも物陰からこっそりと伺っていた、控えめな、それでいてその内側に情熱の炎を赤々と燃やしているような瞳が、傷痕の走る瞼の奥から真琴をじっと見捉える。
 その、切なく訴えかけるような瞳の縁に、小さく光る粒が見えた。

「なんで……お前まで泣いてんの……」

「蜂谷が泣いてるから……」

「俺が泣いてるから……?」

 深い憂いを帯びた目が、切ない涙を溜めながら真琴を見返す。

「蜂谷には泣いて欲しくない。蜂谷にはいつも笑ってて欲しいんだ。いつも笑って……キラキラ輝いてて欲しい……」

「立花……」

 トクン、と、真琴の心臓が高鳴る。
 先に動いたのはどちらだったか。手を伸ばすと同時にキツく抱き締められ、真琴は、立花の胸に顔を埋める格好になった。
 逞しい胸板の感触。鼻先に漂う立花の蒸れた汗の匂いが、懐かしい青春時代の記憶を呼び覚ます。
 自分が一番輝いていたあの頃。周りには笑い声が溢れ、振り返れば立花の熱い視線がいつもそこにあった。
 ストーカーのように付き纏う立花を、仲間たちは気持ち悪いだの危険だのと警戒したが、真琴自身は立花に対してそれほど悪い印象は抱いていなかった。
 むしろ、立花から向けられる憧憬と羨望の入り混じった視線に、優越感にも似た心地良さを覚えていた。
 傍目には立花の一方的な付き纏い。しかし今となっては、立花がいつも自分を見ていたように、自分もまた立花の視線を探していたような気もする。
 自分自身が把握していたよりもずっと、自分は立花のことが気になっていたのだと今更ながら気付かされる。
 恋心と呼ぶのは無謀だが、あのまま月日を重ねていたら、或いはそうなっていた可能性もゼロではない。
 事実、立花の真っ直ぐな瞳を思い出すと、真琴の胸に温かい灯りがふわりとともる。
 立花の視線が心地良く、その一途さに密かに胸を高鳴らせていた懐かしい日々。
 それが、どうしてこんなことになってしまったのか。
 こんなことになるなら上京なんてするんじゃなかった。あのまま立花のそばにいれば良かった。
 抱き締められた温もりが、真琴の胸を余計に切なく叩く。
 
「立花を好きになれば良かった……」

 心の声が切実な響きとなって溢れ出る。顔を上げると、立花の憂いに満ちた瞳と目が合い、真琴はますます堪らない気持ちになった。

「お前はあんなに俺を見てくれてたのに……どうして俺は応えてやれなかったんただろ……」

「蜂谷……」

「もう遅いかな……」

 衝動的に、真琴は口走っていた。

「俺が今、お前を好きだって言ってももう遅いかな……」

 立花は、仰天したように大きく目を見開き、しかしすぐに気難しげに眉を顰めた。

「す、好きだなんて……きっと気が動転してるんだ……」

「してない」

「だとしても……お、俺は……蜂谷と、こうしてまた会えただけで充分だし……それを……そんな……好き……だなんて……」

 あの頃と同じ、いつも熱い視線で見詰めるくせにいざ目が合うと、たちまち視線を逸らして逃げ出した立花が、今再び真琴の目の前であたふたと視線を泳がせている。
 その厳つい顔には不釣り合いな困り顔を見た瞬間、真琴の中で何かが弾けた。
 考えるよりも先に身体が動き、真琴は反射的に立花に飛び付いた。

「はち……ッ……!」

 両手で立花の頬を挟み、噛み付くように唇を奪う。
 立花は、最初こそガチガチに固まっていたものの、真琴が舌先で促すと、押し切られるように唇を開いた。
 舌と舌を交互に絡ませ合い、互いの口の中の感触を確かめ合う。
 絡めていた舌をほどいて唇を離すと、二人の舌の間を唾液の糸がツーっと伸びる。
 再び舌を絡ませ合いながら、立花の襟首を掴み、立花に覆い被さるように布団の上に押し倒しだ。

「俺を、抱いて……」

 下敷きになった立花の喉がゴクリと波を打つ。
 体格差から言えば真琴など簡単に払い退けれるはずが、そうしないのは、それだけ立花が動揺している証拠と言えた。
 むしろ劣勢に追い込まれたかのように、立花は情けなく顔を歪めた。

「だ、だめだ、こんなの……」

「俺がいいって言ってるんだ」

 立花がここにいることは既に克己に知られている。
 次に克己を怒らせたら、無事ではいられないことは解っていた。
 今度こそ死んでしまうかも知れない。どうせ死ぬなら一度ぐらい優しく大切に抱かれてから死にたかった。
 立花の驚いた目を真っ直ぐに見据えながら、逞しい胸元に縋り付き、逃げようとする腰を両足で挟んで押さえ付けた。
 密着した下腹部に立花の股間が当たる。お腹の隙間に手を入れてジーンズ越しに触れると、立花の腰がビクンと震えた。

「硬くなってる……」

「さッ、触るなッ!」

 拒絶する素振りとはうらはらに、立花の股間はみるみる硬く大きくなっていく。

「我慢しないで……」

 耳元で囁き、ジーンズのファスナーを下ろして黒いブリーフの上から硬くなった輪郭を上下になぞった。

「だ、ダメだって!」

「こんなに硬くなってるのに、どうして?」

「そういう問題じゃなくて……こ、こういうのはよく解らない……」

「まさか初めてじゃないだろ?」

「お、男とは……初めてだ……」

 困っているような不貞腐れているような表情で言いながら、立花が真琴から目を逸らす。
 青春時代を彷彿とさせる立花の表情に、真琴の胸に再び熱い感情が込み上げる。
 望郷の念か、過ぎ去った過去への執着か。込み上げる感情の意味は、正直真琴自身にもよく解らない。
 ただ、泣きたい気持ちと、目の前でもじもじとうつむく立花への愛おしさが同じ勢いで胸を突き上げた。

「どうやってするかは解る?」

「なんとなくは……」

「なら大丈夫。男も女も一緒だよ……」

 衝動のままに、真琴は、立花の股間の前に前屈みになり、ジーンズとブリーフを膝下まで下ろし、こぼれ出たペニスを直に握った。
 ジーンズ越しの感触から察してはいたものの、想像を超える大きさに一瞬身構える。
 サイズはもちろん、赤黒く充血した竿には太い血管が浮き上がり、カリ首のくっきりとした亀頭は見るからに硬く、先端の割れ目は早くも先走りでヌラヌラと濡れ光っている。
 カリ首の段差に指を当てて握り、ゆっくり顔を近付ける。
 亀頭を口に含み、カリ首の溝に舌を這わせ、裏筋を舌先を尖らせてチロチロと舐めた。
 敏感な部分を刺激され、立花が、ウッ、と顔を顰める。

「は、蜂谷……ちょっと……」

「いいから、じっとしてて」

 歯を立てないよう、唇と頬の内側の肉で竿を包み、ゆっくりと飲み込んでいく。
 喉の奥まで咥えるのには慣れていたが、根元まで咥え込むのはサイズ的に厳しかった。角度を変えて挑戦すると、察したのか、立花が真琴の肩に手を置いて制止した。

「無理しなくて……いい……」

「無理じゃない、俺がしたいんだ」

 意地ではなく本心だった。
 立花に制止された時、立花に拒絶されたような気持ちに襲われ真琴はショックを受けた。
 自分でも予想だにしない反応に戸惑いを覚えたが、それ以上に拒絶されたショックが大きく、感情が昂ぶり発作的に口走っていた。

「立花は嫌なの? 俺とするの、立花は嫌?」

「そんなわけない!」

 立花の力強い答えに胸が沸き立つ。

「なら、心配しないで……俺の好きにさせて……」

 先っぽから根元にかけて一気に咥え、喉奥を窄めて亀頭を締め付けながら上下に頭を動かす。
 限界まで頬をへこませ、唾液を絡めながらじゅるじゅると音を立てて竿をしゃぶり上げると、立花が、堪らないといった様子で真琴の頭を両側から手のひらで包んで悶える。
 口の中のペニスは極限まで膨張し、真琴の口腔には収まりきらないほどの質量で喉を塞いでいた。

「蜂谷……俺、もう……」

 立花が限界に近付いていることは、舐めても舐めても溢れてくる先走りの熱さからも想像はついていた。
 それを喉奥に溜まった唾液と一緒に飲み込み、猛り勃ったペニスから口を離した。
 しゃぶっている時から感じてはいたが、改めて見ると、その大きさに驚愕する。
 果たしてこんなものを受け入れることが出来るのだろうか。不安に思いながらも、床に散乱したローションボトルの一つを手に取り、いつもよりたっぷりと手のひらに垂らして立花のペニスに塗り込んだ。
 傘の張った亀頭から根元までまんべんなく塗り込み、充分に行き渡ったところで、余ったローションを指先に集めて後ろに手を回して自分の後孔に塗り込む。
 膝を立てて立花の股間を跨ぐと、下敷きになった立花がひょいと顔を上げた。

「もう、入れるのか?」

 連日の肛虐と先ほどまで埋められていたアナルプラグのせいで、真琴の後孔は常に拡げられた状態と言って良かった。
 もっとも、克己のソレとは明らかに違う巨大サイズのペニスがすんなり入るとは思えないが、克己に盗撮されているであろう状況下で悠長に準備している暇は無かった。

「大丈夫……だから……」
 
 心配そうな立花の目を見て答え、片手でカリ首のくびれを掴み、もう片方の手で尻肉を開いて窄まりに亀頭を当てる。
 そのままゆっくり腰を落とすと、硬い亀頭がメリメリと窄まりを押し破り、真琴の顔が苦悶に歪んだ。

「んんッ……」

「だ、大丈夫なのか!」

「だい……じょぶ……。立花が……おっきい……からッ……」

 大きく息を吐きながら、一番太い、傘の張ったカリ首をやっとの思いで後孔に沈める。
 最大の難所は越えた。
 そこから少しづつ慎重に竿をめり込ませ、残り僅かになったところで、太ももに添えられた立花の手を握りながら一気に根元まで沈ませた。

「あああああッ……」

 自分の体重をもろに受けるせいで、ただでさえ長大な立花のペニスが後孔の奥深くに入り込み、まだ開かれていない部分をこじ開ける。
 ビリビリとした衝撃が走り抜け、真琴が弾かれたように背中を仰け反らせる。
 立花も、真琴の動きに釣られるように腰をビクつかせた。

「蜂谷……これ、ヤバい……」

 厳つい顔を歪めながら、立花が情けない呻き声を上げる。

「まだ……入れただけだよ……」

「でも、お、お前もヤバそうだ……」

 ほぐされているとは言え、克己によって無理矢理拡げられ傷付けられた後孔に、特大サイズの立花のペニスを受け入れるのは容易ではない。
 それでも、立花に心配そうに見詰められると、真琴は、自分が立花に大切に扱われているような気がして逆にやる気がみなぎった。

「俺は平気だから……」

 胸板に両手をつき、お尻をゆっくり前後に滑らせる。
 殆ど同時に、立花が、「うぅッ」と切ない喘ぎ声を上げた。

「なんだこれ……は、蜂谷……」

「気持ち……良い?」

 後孔の粘膜でペニスをピッタリと押し包み、お尻を滑らすスピードを早めていく。
 肉壁を抉られるような痛み、前に出す時の猛烈な圧迫感と後ろに引き戻る時の肉壁が捲れ上がるような感覚がごちゃまぜになって後孔に襲い掛かる。
 どこというわけでなく下半身全体的が焼けるように熱い。
 真琴の動きに刺激され、ただでさえ圧迫の強い立花のペニスがますます質量を増して行くのも影響した。 

「ごめん……俺、バカみたいにデカくなって……」

「あうッ……いいから……立花も、う、動いて……」 

「そんなことしたら止まらなくなっちまう……」

「止まらなくて良いよ。立花のしたいようにして」

 真琴の言葉に、立花が固唾を飲むように真琴を見返す。
 視線を合わせて見詰め合うと、それが合図のように、立花が真琴のくびれた腰に手を掛け、自分の股間にグイッと引き付けた。

「んあああぁぁぁっ!」

 引き付けると同時に、自身の熱く猛った昂ぶりを真琴の奥深くにぶつけるように腰を突き上げる。
 あまりの力強さに、真琴の華奢な身体が宙に飛び上がる。
 バランスを崩して背中を仰け反らせると、立花が後ろに引けた真琴の腰をがっしりと掴み直し、本格的に腰を振り始めた。

「あっはあああッ……ああああぁぁッ……はあああぁぁッ……はっはぁっんんッ……」

 自分の体重と下からの突き上げによる圧力に挟まれ逃げ場のない真琴の後孔を、立花の太く長いペニスが何度も貫く。
 未だかつて誰にも触れられたことのない深部に触れられる衝撃、痛みと驚きに腸壁がびくりと蠕動し、それに呼応するように焼けるような痺れが脳天を突き抜ける。

「はああああッ……あああぁッん……たっ、たちばなッ……たちばなぁッ……」

 擦れ合った結合部がグチュグチュと卑猥な音を立てる。
 真琴がもう一度立花の名を呼んだ時だった。

「は……蜂谷……ごめん……も……止まんねぇ……」

 言うが早いか、立花が、腰の上にまたがる真琴を胸元に抱き寄せ、両腕で抱き締めながら身体を反転させて体勢を入れ替えた。
 ペニスを挿入されたまま仰向けに返されたことで、今までとは違う角度に亀頭が当たり真琴が思わず悲鳴を上げる。
 しかし、そんなことで驚いている場合ではなかった。
 上になった立花が、おもむろに真琴の腰を引き寄せてペニスを入れ直し、そのまま両膝を担ぎながら真琴の上に覆い被さり激しく腰を振り始めたのだ。

「はあああッ! あぁッ……あッ……」

 逞しい巨体から繰り出される抽送に、真琴のお尻が何度も浮き上がる。
 窄まりの皺は限界まで引き伸ばされ、抜き差しするたび引き裂かれるような痛みが脳天を突き抜ける。
 思わず顔を顰めると、立花が、ふいに腰の動きを止めた。

「ご、ごめん! 痛かったか」

 痛くないと言えば嘘になる。
 しかし不思議と怖さはなかった。
 克己とする時は、だんだんと酷くなっていく痛みに怯えながら、いつか終わる、と自分に言い聞かせてひたすら耐えていた。
 しかし今、真琴の中に、耐える、という感覚は無かった。むしろこの痛みが立花との繋がりを実感させる。この痛みを乗り越え、立花と一つになりたいとさえ思った。

「平気……もっと……奥まで来て、だいじょぶ……だからッ……」

 立花の首に両腕を回してしがみつき、心配そうに眺める瞳を真っ直ぐに見詰め返す。
 本当に大丈夫なのかと瞳で訴える立花に瞬きで答えると、立花の瞳がふいに熱を帯びた。

「痛かったらすぐ止めるから……」

「ん……」

 真琴の両足を担ぎ上げる立花の腕に再び力がこもる。
 瞬間、奥まで埋まったペニスがズルリと引き戻り、ひときわ強く深部に突き込んだ。

「ああああッ……凄いッ……深いとこまで……はいってる……」

「ごめん……」

「へ、平気だから……謝らないでッ……」

 狭い後孔に、立花のガチガチに張ったペニスが抜かれては突っ込まれ、抜かれては突っ込まれ、忙しなく出入りしては真琴の細い身体を追い立てる。
 内臓を潰される圧迫感、ペニスと擦れた肉壁が焼かれるような熱さを巻き上げ、痛みを麻痺させる。
 意図的か、はたまた偶然か、カリ首のくびれが感じる部分をゴリゴリと抉り、甘い疼きを誘い出した。

「あっああッ……すご……」

「苦しくないか?」

「苦しく……ないッ……気持ちいいッ……」

 真琴の口から歓喜の声が上がるのに時間は掛からない。
 その言葉に触発されたように、立花の声が熱っぽく湿る。

「すごい……キツっ……蜂谷の中……キツくて熱い……」

「俺も……立花のが奥まで入って……凄く熱い……熱くて……きもちい……ッ……」

 欲望を阻むものは何もない。
 真琴の全てを貪るように、立花が硬く怒張したペニスを真琴の後孔に何度も何度も突き立てる。
 深く、浅く、ゆっくり、速く、入り口をぐりぐり掻き回したかと思えば、次の瞬間には一気に奥まで突き入れ、ペニスの根元を回して感じるところを探る。
 煽情的な吐息が思考を麻痺させる。
 真琴にもはや痛みはない。ただ淫猥な刺激だけが身体を火照らせ、自分の声とは思えない甘い粘り気を帯びた嬌声が自分の頭の中で響く。
 立花もまた快楽の渦に翻弄されているかのように、真琴の身体を貫きながら、真琴の名前をうわ言のように繰り返す。

「蜂谷……蜂谷……」

 高圧的な響きの一切感じられない、ただただ優しく真摯な声。
 これは愛おしい人の名を呼ぶ声だ。そう心が直感した途端、自分でも説明のつかない寂しや切なさが込み上げ、真琴は咄嗟に立花に抱き付いた。

「たちばなぁッ……」

 立花の胸元にしがみつき、広い肩におでこを擦り寄せる。

「戻りたい……」

 口走ったのは無意識だった。

「あの頃に戻りたいよ……立花……」

 もう一度、今度は意識的に呟いた。
 立花の動きがふと止まり、ややあって、低い、吐息混じりの声が真琴の頭上に降り注いだ。

「戻れるさ……」
 
 控えめながらも強い意志を感じさせるしっかりとした声に、真琴の心臓が倍速で鼓動し始める。
 促されて見上げると、たちまち立花の熱い視線が絡み付き、目が離せなくなった。

「戻れる……。こんなのは蜂谷には似合わない。蜂谷は、いつもキラキラ輝いてるべきだ……」

「立花……」

 立花の目が、悲しみに震える真琴を宥めるように優しく細まる。

「心配しないで……全部俺に任せて……」

「任せるって……一体……」

「蜂谷は何も知らなくて良い……」

 問い正す暇もなく、立花の唇が阻むように真琴の唇を塞ぐ。
 直後、止まっていた腰がグンと後孔を突き上げ、再び深く激しい抽送が始まった。

「ああああッ! 待って! そ……な、奥まで入れたら、身体、壊れちゃうぅッ……」
 
 体格差のある身体をまともにぶつけられ、真琴の華奢な腰骨が軋みを上げる。
 後孔が再び熱を上げ、鋭い快感が全身を駆け巡る。
 結合部の周りは、ローションと淫水でぐしょぐしょに濡れ白い泡を吹いている。
 快感と充足感が真琴を押し包む。
 立花の言葉の意味などもはやどうでも良いことのように感じられた。

「あっああっ……いいッ……気持ち……いいッ……」

 両手両足で立花の背中にしがみつきながら、真琴は歓喜の喘ぎ声を上げた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 幸せの余韻は長くは続かない。
 ドス、ドス、ドス、と床を踏み鳴らす音、激しい怒声と物騒な破壊音がアパートの薄い壁を震撼させる。
 克己だ。
 訪れるべくして訪れた嵐に、真琴は、肩に担いだシーツを頭まで引っ被り、両膝を抱え直して身を縮めた。

『心配しなくていい。俺に全部任せて』

 行為の後、身支度を整える立花の覚悟を決めたような真剣な表情に気圧され、真琴は、立花に言われた通り、部屋の隅で、シーツに包まりうずくまった。
 ここでじっとしていること。
 何があっても外へ出てはいけない。
 何を聞かれても知らぬ存ぜぬでやり過ごす。
 真琴の瞳を食い入るように見詰めながら、立花は何度も真琴に言い聞かせた。
 言葉にしなくとも、立花から漂う空気が、真琴に、聞き入れる以外に選択肢はないと告げている。
 立花を信用していないわけではない。
 しかし、立花が思っているほど単純な問題でないことも解っていた。
 一度キレたら何をするか解らない、克己の異常なまでの嫉妬心と暴力癖を嫌というほど見てきた真琴だけに、このまま何事もなく無事に克己から逃れられるとは到底思えなかった。
 真琴の不安を煽るように、ピッタリと閉じた襖の向こうから、今までにないほど激昂した克己の怒号が聞こえる。
 その迫力に掻き消され、立花の声は殆ど聞こえない。
 聞こえてくるのは克己の常軌を逸した罵声と壮絶な破壊音。その中に、時折り、立花の、「うッ」という苦しげな呻き声が混じる。
 克己に言い返す様子も立ち向かう様子もない。
 もっとも、もともと攻撃的な一面など持ち合わせていないかのような男だった。
 自分のことで精一杯で忘れていた。
 厳つい顔とガタイの良さから荒くれ者のイメージを持たれがちだが、立花本人は、迫力のある見てくれとは真逆の臆病で繊細な男だった。
 どれだけ月日が経とうと人間の本質的な部分は変わらない。
 襖の向こうの様子からしても、立花が一方的に暴力を振るわれているのは明白だった。
 いくらガタイが良いからといって、攻撃されてばかりではいつか力尽きる。
 じっとしていろと言われていたが、自分のせいで立花が暴力に晒されるのを黙って見ていられるほど薄情にはなれなかった。

「立花ッ……」

 抽送後の引き攣れた痛みに耐えながら、真琴は、重怠い腰を持ち上げ、四つん這いになって隣の部屋とを塞ぐ襖へ進んだ。
 克己の罵声はますます酷くなる。
 それに合わせて、何かがぶつかる音や大きな物が倒れる音も激しさを増して行く。

「この盗っ人め!」「二度と変な気起こせないようにしてやるッ!」

 放っておいたら大変なことになる。
 真琴が思った次の瞬間、突然、ドンッ、という衝撃音とともに部屋の壁がミシリと軋み、真琴は何事かと慌てて襖を開けた。
 すると、衝撃音に驚いたのも束の間、今度は、目の前に現れた光景に絶句した。

「立花……?」

 部屋の隅、玄関側の壁伝いの角で、立花が自分の額を部屋の壁にガツンガツンとぶつけている。
 ガツン、ガツン、ガツン、ガツン。
 頭を起こしてはぶつけ、起こしてはぶつけ、立花の額が壁にぶつかるたびに、天井がミシリと軋んで埃が舞い落ちる。
 克己はというと、立花に部屋の角に追い詰められ、頭の横で壁に両腕をつかれて行き場を塞がれた状態で、自分の頭上で激しく額を壁にぶつける立花を、化け物でも見るような怖気付いた目で眺めている。
 やがて白い壁に赤い血が付着し始めると、最初の勢いから一転、おろおろと落ち着きなく身体をビクつかせた。

「お、お前、なんだよ、いきなり……は、離れろよ」

 しかし立花は離れない。
 それどころか、口答えをする克己の口を手のひらで塞いで声が出せないようにして、自分の額をさらに激しく壁にぶつける。
 ガツン、ガツン、ガツン、ガツン。
 常軌を逸した立花の行動に、克己の顔がみるみる青ざめる。
 真琴もまた、額を壁にぶつける立花の殺気立った背中を見ながら、戦慄にも似た緊張を覚えていた。
 そうこうしているうちに、立花の動きがふいに止み、克己の口を塞いでいるほう手とは反対側の手がズボンのポケットからナイフを取り出し、克己に握らせた。

「これで俺を刺せよ」

「ひっぐッ!」

 部屋の角に追い詰められ、口を塞がれた挙げ句、無理矢理ナイフまで握らされ、克己は完全にパニックに陥っている。
 ジタバタと抵抗するものの、助けを呼ぶ声は立花の手のひらに阻まれ、んー、んーという呻き声にしかならない。
 窮地に立たされた克己に追い討ちをかけるように、立花が、今度は、克己の襟首をむんずと掴み上背のある身体を揺らしちながら引き摺るように克己を部屋の外へと連れ出した。
 すると、

「やめろッ!」「やめてくれぇッ!」

 今度は、突然、立花の絶叫が轟いた。

「誰かッ!」「助けてくれッ!」「殺されるッ!」

 本当に立花の声なのだろうか。状況的にはむしろ克己が方が危機的な状況に思える。しかし真琴がそう思っている間にも、立花の悲痛な叫びに、アパートの住人が何事かと外の様子を伺い辺りが騒がしくなる。
 その中の一人が、「あッ!」と声を上げた時だった。

「うわぁぁぁぁぁッ!」

 突然、これまでにないほどの立花の壮絶な絶叫が轟き、同時に、ドドドドドッ、と、地響きがするような衝撃音が真琴の耳を貫いた。
 立花と克己が階段から転がり落ちたのは確かめるまでもない。
 しかし、真琴は、気が動転して何が何だかわからなくなっていた。

 「おいッ! しっかりしろッ!」「救急車!」

 表の喧騒が嘘のように、頭の中が真っ白になり、ビィィンと痺れた耳の奥で、自分の心臓の鼓動が警鐘のようにドクンドクンと鳴り響く。
 立花と克己がどうなったのか気がかりでならないが、本能的な恐怖に身体が竦んで動けない。
 まるで自分だけが世界から遮断されてしまったかのような疎外感。
 得体の知れない恐怖、孤独感、全身を襲う不安に怯えながら、真琴は、部屋の真ん中に這いつくばったまま、前方の玄関ドアを茫然と眺めた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 上下五室の軽量鉄骨外階段の古アパート。
 二階は一人暮らしの隣人のみ、残りは空室。階段を上るのは新聞配達員かせいぜい宅配配達員。
 決行するなら平日。隣人が出掛けてから帰ってくるまでの午前八時から午後三時。かつ、克己が仕事に出掛けている間。
 全てが完璧に整っていた。
 誤算だったのは、克己が思いのほか喧嘩慣れしていなかったことだ。
 手数は多いが、決定打となる破壊力がない。計算ではとっくに流血しているはずが、口元にかすり傷が出来た程度で、目立ったダメージを負うまでには至らなかった。
 この時点で、第三者から見て圧倒的に劣勢でなければ計画が進まない。
 仕方なく自分で壁に額をぶつけて凌いだが、予定外の行動で逆に克己の戦意を削いでしまった。
 部屋の外に逃げて追い掛けさせるはずが、克己はオロオロするばかりで、追い掛けるどころか逃げ出しそうな素振りさえ見せている。
 自発的に追い掛けさせるのは無理だと判断し、手順を飛ばして、最終段階で使うはずだったナイフを握らせた。

『これで俺を刺せよ』

 凄みを効かせ、太い、筋肉質の腕をズイと差し出す。
 しかし、克己は震えるばかりでナイフを振り上げようともしない。
 計画を進めるためには、克己の襟首を掴んで部屋の外へ引き摺り出す他なかった。
 再びの想定外。
 歯車が狂う、とはこういうことなのだろう。
 無理やり外に引き摺り出された克己は、これから自分の身に何が起こるかを察して立花の腕にしがみ付いて離れない。
 克己の激情型の性質を逆手に取り、克己を逆上させて、暴れさせ、外におびき出してナイフを握らせる。
 その後は、激しく揉み合った末に、克己の脇腹にナイフを突き立て、足を踏み外したふうを装って階段から克己もろとも転がり落ちれば良い。
 騒ぎを聞きつけたアパートの住人が救急車を呼ぶ頃には、克己は、絶命もしくは虫の息。
 傍には顔をボコボコに殴られ血だらけになった男が横たわり、目の前で起こった惨劇を不可抗力による不幸な事故だと印象づける。
 思惑通りなら無罪放免。
 捕まったところで、過去の贖罪だと思えば真摯に受け止められる。
 万一死んでしまったとしても、もともと真琴に会うためだけに生きながらえてきた命だ、真琴のために死ねるのならむしろ本望とさえ思えた。
 これで克己は真琴の前から永遠に姿を消し、真琴は卑劣な暴力から解放される。
 不可抗力の果ての事故。
 真琴とは直接的に関係のないところで起きた事故だけに、真琴が過剰な罪悪感に苛まれることもない。
 身体の傷や心の傷はいつか癒え、真琴はかつての輝きを取り戻す。
 それが、一体どうしてこんなことになってしまったのか。
 実際は、ナイフは克己の脇腹には刺さらず、克己は息絶えるどころか目立った傷すら負っていない。
 一方、立花は、全身を襲う痛みに耐えながら地面に這いつくばっていた。
 克己がなにか喚いているのが後ろから聞こえる。
 ヘマをしたのだとすぐに解った。
 克己を刺して転がり落ちるはずが、寸前で交わされ、押し倒される格好で階段を転がり落ちてしまった。
 身体がグラついたと思ったら、ガツンッ、という衝撃音が響き、息が止まるような激痛が全身に襲われた。
 ガタイの良さが災いし、落下の衝撃に自分自身の体重が加わり二重の負荷がかかった。気付いた時には、立花は、騒ぎを聞き付けて外へ出てきた野次馬の目の前で、片足を不自然な方向に曲げて地面に倒れていた。
 やがて、救急車のサイレンがけたたましく鳴り響き、複数の足音が砂埃を舞上げながら近付いた。
 最悪な結末。
 克己は死なず、真琴は自由になれず、自分は無様に地べたに倒れ伏している。
 こんな結末になるとは夢にも思っていなかった。
 運命の理不尽さ、現実への絶望、不甲斐ない自分自身への憤りが怒涛のように押し寄せる。
 頭が混乱し、その後自分がどうやってその場を離れたのか全く覚えていなかった。
 目覚めた時は、立花は、病院のベッドの上で片脚をギプスで固定された状態で寝かされていた。

「あらやだ、目ぇ、開いてるじゃない! ちょっと誰か! 先生いるぅ?」

 聞き覚えのある声が、枕元を忙しなく行き来する。
『ツキアカリ』のママだ。身寄りのいない立花のいわば身元保証人。
 出勤前のこってりメイクに和服姿でやって来たママから、立花は、自分があの後救急車で病院に運ばれた手術を受けた事、その後、丸一日寝っぱなしだった事を聞かされた。

「脚と肋骨をバッキリ。全治6か月とかなんとか言ってたけど、二週間ぐらいで退院出来るってさ。ーーーってゆうか、まさか克己君があんなことしてたなんて夢にも思わないじゃなぁい? 人は見かけによらないっていうか、もうびっくり仰天よぉ」

 大袈裟に身振り手振りを混じえながら、ママは、克己が警察に連れて行かれたこと、今回の騒動で、克己が真琴を監禁、暴行していたことが明るみになり、真琴が救出されたことを話した。

「あんたの怪我も被害届け出すかどうか聞かれたけど断っといたからね。ヤクザもんから引き取っただけでも厄介なのに、これ以上鬱陶しいことに巻き込まれるのはごめんだよ。ーーーちなみに、病院代は給料天引きだから、バックれるんじゃないよ!」

 悪戯っぽく口を尖らせるママを見上げながら、立花は、徐々に甦っていく記憶に意識を向けていた。
 真琴はどうしているのだろう。
 克己はまだ生きている。
 助けるつもりがかえって状況を悪くしてしまった可能性もある。
 事の次第を知ってるはずのママが、何も触れてこないのも気になった。
 居ても立っても居られない衝動に駆られるが、ベッドに寝かされて脚を固められ、一人で起き上がることもままならない。助けたいのに助けられないジレンマが、自分自身への壮絶な怒りとなって立花を苛む。
 自分の無力か、不甲斐なさ、焦りや不安に押し潰されそうな立花をよそに、ママは、立花が不在の間の店の体力仕事や雑用の切り盛りをネチネチと愚痴り、もう何も愚痴ることが無くなった頃、ふいに、これで話はお終いとばかり、座っていた丸椅子から立ち上がった。

「さあて。そろそろ来る頃だから、あたしゃこの辺でお邪魔するかね」

「来る……?」

 呆然と見上げる立花を、ママが悪戯そうな笑みを浮かべながら見返す。
 すると、まるで示し合わせたように病室のドアが開き、大きな紙袋を抱えた人影が現れた。

「蜂……谷……?」

 真琴だ。
 いそいそと病室を出て行くママと入れ替わりに、真琴が、緩めの衣服をなびかせながら、立花のいるベッドにゆっくりと近付いてくる。
 やがて立花の枕元に辿り着くと、片手に下げた紙袋をサイドテーブルの上に置き、その傍の丸椅子に腰を下ろした。

「ど……して……ここに……」

「え……あ、うん。念の為検査してもらえってママが……」

「検査……」

「別にたいした検査じゃないよ。怪我もいつもみたいな感じだし……。それより、立花も、目、覚めて良かった……」

 ぎこちなく笑い、遠慮がちに立花を見る。
 やつれた感は否めないものの、顔色は悪くない。
 真琴のことが気掛かりで仕方なかっただけに、目の前の真琴の無事な姿に、立花は心底ホッとした。
 だからといって、克己を仕留め損なった後悔や自分自身の不甲斐なさが消えてなくなるわけではなかった。

「すまない……」

 萎縮する心を奮い立たせながら、なんとか真琴に伝える。
 真琴は、一瞬驚いたように目を丸め、すぐに、ブンブンと首を横に振った。

「なんで立花が謝るの? 俺のほうこそ、立花にこんな怪我させちゃったのに……」

「こっ、これは、俺が勝手にッ……」

「勝手にじゃないだろ?」

 真琴の、濁りのない純粋な目が立花を見据える。反論しようとするものの、真琴のどこか儚く寂しげな瞳に捉えられ、立花は、瞬きすることも出来なくなった。

「勝手にじゃない。多分……俺が望んだから……」

 口を開きかけたまま固まる立花をじっと見詰め、真琴は、シーツを掴む立花の手に自分の手を重ねてそっと握った。

「あの時は、びっくりしてパニックになっちゃったけど……あれから警察の人とかママとか色々きて、身体の傷のことや、これまで克己にされてきたこと色々聞かれて答えてるうちに、もっと早くこうすれば良かった、って……本当は、ずっと誰かに助けてもらいたかったんだ、ってことにようやく気付いたんだ……。怒鳴れるのも殴られるのも本当な嫌だったのに……俺、バカだから……克己に嫌われたるのが怖くて言えなかった……」

 言いながら、「いいや」と首を横に振り、

「俺、認めたくなかったんだ……」

 胸の澱を吐き出すように、振り絞るように真琴は言った。

「克己は、ようやく巡り会えた理想の恋人だから……。皆にも応援してもらったし、理想のカップルだって羨ましがられるのも凄く気分が良かった。ようやく手に入れた幸せだったんだ。絶対に失くしたくなかったし、自分は幸せなんだって思いたかった。
 だから、克己の暴力も、なんだかんだ理由をつけて受け入れた。だって俺は幸せなんだから。幸せなはずの自分がまさか恋人にこんな目に遭ってるなんて誰にも知られたくないし、絶対に認めたくなかった。でも、立花が気付かせてくれたんだ」

「俺……が……?」

 呆然とする立花の目の前で、真琴の長い睫毛が静かに瞬く。
 白い小さな顔がコクリと頷き、上目遣いに立花を見上げた。

「克己のこと、アイツはダメだ、って言ってくれただろ? 言われた時は、なんでお前にそんなこと言われなきゃならないんだってすっごくムカついたけど、本当は図星を突かれてムキになってたんじゃないかって思う。
 お前の言うことなんて無視すりゃ良かったのに、出来なかった。立花だけが俺にずっと本当のことを教えてくれてたんだ。昔も、俺のこといつも見ててくれたよな。克己に監禁されてる間、しょっちゅう思い出してた。俺、立花のこと嫌いじゃなかった。だから、助けに来てくれた時、すごく嬉しかったんだ……」

「で、でも、俺は、蜂谷を、た、助けてないッ……」

「助けてくれたよ?」

 優しい目が柔らかく細まり、ほんのりと赤く潤み出す。
 宥めるように言うと、真琴は、シーツを掴む立花の手をゆっくり引き剥がし、ベッドの上に両肘をついて、お祈りするように自分の両手の中に握り締めた。

「本当さ。 立花が来てくれたお陰で、俺、本当のことが言えたんだ」

 立花の凝り固まった心を解きほぐすかのように、立花の手をしっかりと握りながら、真琴は、克己の暴力行為が明るみなったこと、被害届は出さず、克己側の弁護士と示談交渉をする運びとなったことを伝えた。

「立花の入院費も出るはずだよ。ママが交渉してる筈だから、騙されて給料天引きされないように気をつけて」

 唇を尖らせ、口角をキュッと引き結んで笑う。
真琴の笑顔に、重苦しい空気がパッと晴れる。
 あの頃と同じ笑顔。かつて自分が憧れ焦がれた真琴の笑顔を目の前にして、立花は、今までとは別の意味で動けなくなっていた。
 表情、声、佇まい、漂う雰囲気の全てがかつての真琴を彷彿とさせる。ただ一つ決定的に違うのは、真琴の瞳がしっかりと立花を捉えていることだった。
 かつてのように邪険にでもなくチラリとでもなく、真琴は今、立花だけを、真っ直ぐ、瞬きもしないで見詰めている。
 その優しくたおやかな瞳の奥に、しっとりとした落ち着いた好意が灯っているのが伝わる。
 握り締める手を握り返したら、或いは何かが変わるのかも知れない。
 しかし、その手を握り締めるには、立花は憔悴しすぎていた。
 過去の過ちと、真琴を克己の手から完全に救い出せなかった後悔が立花を必要以上に卑屈にさせる。
 自分にはその資格はない。
 張り裂けそうな痛みの中、真琴の手の温もりだけが立花の胸を優しく撫でる。
 すると、ふいに、握られた手をさらにギュッと強く握られ、立花は咄嗟に目をやった。
 同時に、真琴の真剣な瞳と視線がぶつかる。
 真琴は、握り締めた手を、頬擦りするように顔の横に当てながら立花を見詰めている。
 呆然と眺めていると、真琴の大きな瞳を縁取る長い睫毛が柔らかい弧を描いた。

「でも……みんな無事で本当に良かった。立花も……俺も……克己も……」

「え……」

「ナイフ……。一つ間違ってたら大変なことになってた、って警察の人が言ってた……。刺さらなくて……本当に良かった……立花だって、本当はしたくなかったでしょ?」

 何を言われたのかすぐには理解出来なかった。

「見てたのか……?」

 真琴は、声を震わせる立花を黙って見詰めている。
 その、全てを理解し包み込むような柔らかい眼差しに、立花の張り詰めていた心の糸が切れ、熱い感情が堰を切ったように噴き出した。

「おッ、俺はッ!」

 どうしてこんなに涙が出るのか自分でも解らない。ただ、ぐちゃぐちゃになった頭の中を、真琴の言葉が繰り返し巡る。
 本当はしたくなかったーーーのかも知れない。
 この前も、あの時も。

「大丈夫。わかってるから。俺のために……ありがとう。立花がいてくれて本当に良かった……」

 自分の啜り泣く声に、真琴の涙声が重なる。
 胸が張り裂けそうな、けれどもどこかホッとしたような奇妙な感覚が全身を押し包む。
 止まらない涙に咽びながら、立花は、自分の手を握り締める真琴の手を指先で握り返した。

☆☆☆☆☆☆☆☆

 アパートでの騒動から約一ヶ月、枯葉舞い散る駅のホームに、真琴は、スーツケースを片手に立っていた。
 午後一の電車に乗るはずが、最後の荷物の宅配手続きとアパートの退去の立会いに手間取り夕方近くになってしまった。
 このぶんだと地元の駅に着くのは午後七時あたり。そこからバスで更に一時間。夕食を作って待っていると言われたが、一緒に食べれる時間には帰れそうにない。
 克己の件は、もっと拗れるかと思いきや、意外にもすんなりとまとまり拍子抜けするほどだった。
 会いたいともやり直そうとも言われない、そもそも弁護士が訪ねてくるだけで克己からは一切連絡はなく、そういうところからも、自分は克己に愛されていなかったのだと痛感した。
 代わりに、ママが予想外に別れを惜しんで泣きじゃくり、その情け深さに、改めてママと出会えたことに感謝した。
 立花とは、あれからもどっちつかずな関係が続いている。
 身体の関係を持ったのもあの一度きり。今となっては、あのひとときも夢だったのではないのかとさえ思われる。
 真琴の中に他人には見られたくない傷があったように、立花の中にも見えない何かがきっとある。
 それを乗り越えた先にしか、おそらく二人の未来はないのだろう。
 その、いつか、を夢見て真琴は一人で地元に帰ることにした。
 立花には、たった一言、『待ってる』とだけ伝えた。
 立花がいつ戻ってくるのかは解らない。
 立花のことだから、連絡をしてこない可能性もある。
 しかし真琴には、絶対に立花を見付け出す自信があった。
 なぜなら、真琴は立花のあの真っ直ぐな瞳を知っている。
 いつも物陰から伺っていた、あの、控えめな、それでいて内側に情熱の炎を赤々と燃やしているような、嘘偽りのない、真っ直ぐな瞳。
 その瞳から放たれる狂おしいほどに熱い視線を胸に奥に刻みながら、真琴は、木枯らしとともにホームに滑り込んできた電車に目をやった。


終わり
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瀬楽英津子
2023.08.30 瀬楽英津子

感想コメントをありがとうございます。
大変ありがたく、執筆の励みになっております。
遅筆な未熟者でご迷惑をかけておりますが、完結までお付き合いいただけたら嬉しいです。

解除

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