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第8章 ペントハウスの女

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◆14

 丁子屋はあまり機嫌がよくなかった。
 ただで酒を飲ませると言っても、口唇をへの字に曲げたままだった。
 学生が提出期限の過ぎたレポートを持って行っても、今日の丁子屋にはすげない態度を取られただろう。
 女子学生を叱りとばして泣かせたかもしれない。

 日ごろは学生たちから「ホトケの祝田」と呼ばれて慕われている、と丁子屋は言っていた。
 それが慕われているのか舐められているのかは置いておくとしても、「今週の嫌いな講師ランキング」では大幅に順位を上げたにちがいない、と幾松は秘かに笑った。

 丁子屋が不機嫌な理由は単純で、「車で来るな」と幾松に言われたからだった。
 子どもっぽい、と言うなら自分より丁子屋に言え、と幾松はウサオイの怒り顏を思い出していた。

「女の子のいる店で豪遊できるんだぜ。喜んだらどう?」

 幾松は丁子屋を振り返った。
 丁子屋は依然と仏頂面で、幾松とは視線を合わせようともせず、眼前のビルを見上げていた。

 それは紫の女が入っていったビルだった。
 前の壁面をネオンの点滅と強いライトで飾っている。
 積み木のように重ねられた看板の一番上。
 悪趣味をむしろ誇っているようなピンク色の大看板。
 六階の「サンスーシ」という店だ。
 今夜はそこへ行き、あの女と直接接触するつもりだった。
 ここまでは向こうが動くばかりだった。
 そろそろ先手に回ってもいいタイミングだ。

「スナックってのが苦手なんですよ」
 丁子屋はぼやいた。

「看板にはクラブって書いてあるよ」

「この辺りのクラブなんてスナックに毛が生えた程度です」

「くわしいね」

「くわしいわけじゃありません。一般論を言っているだけです」

 丁子屋は吐き捨てるように言うと、幾松を追い越して建物の入口に入っていった。



「サンスーシ」の店内は看板に負けず劣らずのビザールな内装だった。

 そんなに広くもない店なのに、入口を入ると真正面に男が全裸で甕を担いでいる彫像があって、その甕からは水が絶え間なく流れ落ちていた。
 彫像の足元の水たまりから甕へとポンプで循環させているのだろう。

 しかし、落ちてくる水の跳ね返りで、そこらの床はまるで雨の日のように濡れていた。

「この店、元は『アクエリアス』とかいったんだろうな」

 丁子屋が喉の奥で、くっくっ、と笑った。

「あら、お客さん、前にもいらしたことあるのお?」

 語尾を変に伸ばす三十過ぎの女がふたりを迎え入れた。

 幾松は女の肩越しに店の中を見回した。
 あの紫の女なら照明をかなり落とした店内でも見つけられるはずだ。
 しかし、紫の女はいなかった。

 丁子屋は最初の乾杯のあとには、すっかり機嫌を直していた。
 彼の気分を一瞬で逆転させたのは、隣に座ったマリンちゃんとそのオッパイだった。
 烏龍ハイを片手に彼女に、たぶん誰にとっても――彼女にも、オッパイにも――役に立たない雑学を披露していた。

 丁子屋が単純な男なのはわかっていた。
 きっと帰りには、また来よう、とか言い出すに決まっている。

 幾松についた女は羊に似ていた。
 鼻が長くて丸いせいだった。
 どんな仕事をしているの、と訊かれたから、ネジウリだと幾松は答えた。
 女は首をひねった。
 幾松はそれ以上くわしくは話さなかった。

 三十分ばかりそのまま飲んでいたが、紫の女は現れなかった。
 幾松は羊似の女に訊いてみた。

「全身紫色の女の子? そんな子はウチにはいないと思うけど……。もしかしたら、それって……ああ、わかった。お客さん、カン違いしているんだと思うわ。それはウチの女の子じゃないわ」

――店をまちがえたのか。

 すっかり御機嫌になっている丁子屋をマリンちゃんから引き剥がすのは難しそうだ。
 幾松が困惑気味に烏龍ハイをすすっていると、羊似の女は細い目で笑いながら天井を指差した。

「どういうこと?」

「上に住んでんのよ」

「天井裏?」

 幾松は江戸川乱歩の小説を思い出した。
 あの紫色の女が天井裏を這い回っている姿を想像した。
 しかし、よく見れば天井は石膏ボードの吊り下げ天井で、いくら女の体重だといっても支えきれそうもない。

「面白い、お客さん。天井裏に住んでるなんてどんな変態よ。ちがうわよ、その上にいるの」

「ここがいちばん上だろう? まだ上の階があるの?」

「屋上があるじゃない」

 そう言った羊似の女はなぜか得意げだった。

「屋上に暮らしているの?」

「小さい小屋があって、そこに住んでいるの。前はおじいさんとふたり暮らしだったんだけどね、いつの間にかおじいさんの姿を見なくなったわね。どうしちゃったのかしら」

「いつから?」

「おじいさんを見なくなったのは――」

「いや、そっちじゃなくて、その人たちはいつから屋上で暮らしていたんだろう?」

 羊女は首を傾げた。
 その姿はべつにコケティッシュでも何でもなかった。

「あたしがこの店で働き始めたときにはもういたもの。それより前のことはちょっとわからないわねえ。ママに訊いてあげようか」

 羊女はカウンターのほうへ手を振った。
 ママはカウンターで、少ない髪を無理にオールバックにしている初老の客の相手をしていた。
 もう何十年も水商売の世界で生きてきた貫禄があごや二の腕に垂れ下がっている。

 合図に気づいたママが、何よ? と酒焼けした声で言った。

 ママの客が振り返った。
 幾松を見る目つきが険しかった。

「このお客さんが屋上のお姉さんはいつからここに住んでいるのかって。何かウチで働いているものだとカン違いして来ちゃったらしいのよ」

「えー」
 ママの肉厚な手は初老の客の痩せた手を撫でていた。
「そんなのわからないわよ。この店を始めたときにはもういたんじゃない。でもね、お兄さん、あの人はどこかのお店で働いているわけじゃないからね。探したって無駄だよ」

 初老の客がママに何か囁き、ママは笑いながら客の腕を叩いた。

「お兄さん、頼むから面倒なことはナシでお願いね。あれでもこのビルのオーナーなんだから。あたしたちはあの人に家賃払ってお店やってんだからさ」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、働かなくてもいい身分てことか」

「あら、やだ」
 羊似の女が幾松の腿をピシャリと叩いた。
「逆玉に乗ろうとか変なこと考えてる?」

 幾松は苦笑しながら烏龍ハイを飲んだ。
 もうこの店に用はなかった。
 あとはどうやって丁子屋をマリンちゃんから引きはがすかだった。
 さすがに今帰ろうと言い出したら、来たときよりも機嫌を損ねるのはまちがいなかった。



 一時間後、帰りたがらない丁子屋を置き去りにして、幾松は「サンスーシ」を出た。
 エレベーターの前を通り過ぎて、階段を登った。

 屋上へ出る扉は施錠されていなかった。
 幾松は音を立てないようにそっと屋上へ出た。

 潮臭い風が吹いていた。
 暖かい店のなかにいたせいもあって、風は皮膚を剥ぐように冷たかった。

 屋上というのでもっと開けた空間を想像していたのだが、建物の上に組み立てられた広告用看板のせいで開放感はなかった。
 看板は、柵の内側に二階分の高さでそびえていた。

 看板を照らす強烈な白光のせいで、看板の裏はよけいに暗かった。
 看板の下から差し込むネオンの赤と青の光が、数秒ごとに幾松のいる空間を照らした。

 幾松は運河側の柵に寄って、対岸の「帝国鋲螺商会」が見えるかたしかめた。
 立ったまま見下ろしたのでは看板に遮られてしまう。
 しゃがんだのでは手前すぎて死角に入っていた。
 腰を屈めて鉄柵の間から覗くようにしないと彼の店は見えなかった。

 街の明かりを反射する運河。
 その向こうにある小さな四角い黒い空間がバックヤードだった。
 そこに人が倒れていたとしても暗くてわからない。
 紫の女がここから死体を見つけたのだとすれば、それは日の出よりもあとでなければならないだろう。

 幾松は背を伸ばし、振り返った。
 壁のような看板が作りだした異様な閉塞空間の真ん中に、台風が来たら飛んで行ってしまいそうなプレハブ小屋があった。

 紫色のカーテンのかかった窓が明るい。

――いるのか。

 幾松は足音を忍ばせて窓に近づいた。
 腰を屈め、イモリのように壁に張りつく。
 顔をガラスに寄せてみたが、なかを覗けるようなカーテンの隙間はなかった。
 耳を澄ますと人の声が聞こえた。
 男の声もした。
 会話している。
 ひとりじゃないのかと思ったが、仰々しいしゃべり方でテレビドラマだとわかった。

 幾松は次の行動を迷った。
 一度引き返し、準備を整えてから忍び込むか。
 このまま入口のドアを叩くか。
 しかし、すぐに迷う必要はなくなった。

 フラッシュのような光が閃き、小さくシャッター音が聞こえた。

「動かないで。動いたら不法侵入で警察に通報するわ」

「いま撮った写真付きで送るからね。あたしに何かしようとしても無駄よ」

 声は屋上に出る扉のほうから聞こえた。
 すぐに逃げられる位置にいるようだった。

「さっき下の店のママから電話があったのよ。あたしのことを調べている男が店に来ているって。たぶん、あんただと思ったから、店を出るときにまた教えてって頼んでおいたの。やっばり、あんただったわね」

 幾松は首だけ声のほうへひねった。
 紫の女は見えなかった。

「わかっていたなら、そっちから来てくれれば話は早かったのに」

「いつもあたしのほうから行ったんじゃ、まるでストーカーみたいじゃない」

 塔屋の左に動く影が見えた。
 青い光が女を浮かび上がらせた。
 女はスマートフォンを右手に構えて塔屋の壁にもたれていた。

「そうなのかと思っていた」

「あんたなんてタイプじゃないわ。まあ、あの太ったお友だちよりはマシって程度かしらね」

 青い光が消えて、女の姿はまた闇に溶けた。

「甚六が聞いたらきっと泣くな。本人には言わないでくれよ。あれは客の来ないバーをやっているだけで、本質はニートと変わらないんだ。あんたにそんなことを言われたら、店を開けるのさえやめて本当に引きこもっちまう」

「あんただって似たようなもんじゃないの」

 そうかもしれない、と幾松は思った。
 丁子屋に「山椒魚」だと言われたのを思い出した。
 類は友を呼ぶ、ということだ。

「あんたの目的は何?」

「おれの目的? 同じ質問をあんたにすることだよ」

 屋上が赤く染まった。
 女は塔屋の扉のそばまで移動していた。
 紫の髪が赤い光のなかで青く輝いて見えた。
 女の左手が扉のノブに伸びた。

 幾松はパーカーのポケットに六角ナットを何個か入れていた。
 女が逃げようとしても、脚に当てれば止められる。
 はずさない自信はあった。

「話し合いに来たの?」

「話し合うようなことはない。ただ知りたいだけだ」

 また闇に包まれた。
 幾松は耳を澄ました。
 遠くに電車の音が聞こえた。

「どうでもいいけど、この姿勢を続けなくちゃいけないのか。いいかげん疲れた」

「そのままでいなさい」

 声は寸前と同じ辺りから聞こえた。
 幾松から女は見えなかったが、彼の姿は窓の明かりのせいで女からは見えているはずだった。
 下手に動けば女は逃げ出すだろう。

「何でおれを追いかけ回す?」

「それって意識しすぎだとは思わない?」

 青い光が戻ってきた。
 女も動いていなかった。
 その顔は幽霊のように白い。

「死体をどうしたの?」

「何の話だ?」

「あんたの店の裏にあった男の死体よ」
 女の口ぶりは怒っていた。
「どこにかくしたのよ?」

「ウチの裏に死体があった? わけがわからない。このあいだも刑事が来て同じようなことを言っていたんだ。どういうことだよ?」

「とぼけるんじゃないよ」

 暗くなっていたので女の表情はわからなかった。
 幾松は不自然な姿勢を続けていたせいで向う脛が痛みだした。

「あんたが警察に通報したのか」

「だったらどうなのよ?」

「あんた、頭がおかしいんじゃないか。ウチのバックヤードに死体なんてなかったぜ。営業妨害で訴えてやろうか」

「いいわよ。訴えなさいよ。こっちには証拠があるんだから」

「――証拠?」

 赤い光のなか、女は笑っていた。

「見たい?」

「証拠が本当にあるなら、見せてもらいたいね」

「いいわ。じゃあ、立って。ゆっくりよ。両手は壁につけたままよ……そう、ゆっくり……急いだら逃げるからね」

 幾松は壁に張りついたような恰好のまま、そろそろと足を伸ばした。
 立ち上がりきる前に暗くなった。

「次は向こうを向いて。こっちを見たらそれっきりよ。いいわね。……両手を上に上げて。目の前に椅子があるでしょ」

 幾松は両手を上げて女に背を向けた。
 三メートルばかり先に、窓から漏れる明りでぼんやりと理髪店の椅子のような影が見えた。

「あるな。あれに座ればいいのか」

「そうよ。ゆっくりね。絶対にこっちを向いては駄目」

 言われたとおりにゆっくり歩いて椅子まで行った。

 それは幾松が子どものころに見たような、かなり古い理髪店の椅子だった。
 椅子は見えない海のほうを向いていた。
 幾松はひじ掛けに手を置いて、フットレストへ足をかけた。

「両手は上げたままよ!」

 幾松は両手を上に上げたまま椅子に腰かけた。
 体重をかけると背もたれが軋んだ。
 ヘッドレストに頭をつけた。
 青い光に照らされる。
 幾松は背後の気配に神経を集中させた。
 女の位置がわからなくなっていた。

「そのままでいなさいよ」

 声は思いもよらず近いところから聞こえた。
 バチッと爆ぜるような音がして、幾松の右肩から胸にかけて数万の針を刺されたような痛みが走った。
 椅子に押さえつけられたように身体が強張り、目の焦点がぶれた。
 一瞬、何が起きたかわからなくなる。
 ほんの数秒が数分にも感じられた。

 スタンガンを首の付け根に当てられたのだった。
 意識が遠のくこともなかった。
 ただ、肌の下の肉を直接に焼いた鉄串で貫かれるような苦痛は、スタンガンが身体から離れたあとまで残った。

 腕も足も動かなかった。
 息もできない。
 このまま窒息死するのかもしれない、と怖くなった。
 耐え難い痛みに身体をふたつに折る。
 そのまま前のめりに椅子から落ちた。
 コンクリートの床で頭を打った。
 うつぶせに倒れたまま動けない。
 数十秒後にようやく口を動かせるようになった。
 しかし、金魚のように口をパクパクさせているのに、息を吸うことも吐くこともできなかった。

 空気が肺に入ってくるまでしばらくかかった。
 呼吸できるようになっても手足は痺れたままだ。
 女に蹴られた。
 紫色のパンプスの尖った爪先が脇腹に刺さる。

 女が何か言っていたが聞き取れなかった。
 脚を掴まれ乱暴にコンクリートの上を引きずられた。
 幾松は自分が屠殺された豚になったような気がした……。



 実際、どれくらいの時間が経過したのか幾松にはわからなかった。
 一〇分なのか、三〇分なのか、一時間以上経っているのか。
 頭を打ったせいで脳震盪を起こしたようだ。
 意識が飛んでいた。

 ぶつけた頭がずきずきと疼いた。
 身体のほうは痛みはなくなったものの、まだ痺れているような頼りない感じだった。
 手足は動かせるようになっていたが、おそらくまだ立てないだろう。
 もっとも、両足首にガムテープを固く巻きつけられていたから、立てたとしてもどうにもならない。
 両手も後ろ手に縛られていた。

 あおむけに寝ている幾松の傍らに、紫の女はしゃがみこんでいた。
 笑いながら彼の顔を見下ろした。

「どう? しゃべれるようになった?」
 女の顔が青く照らされていた。
「ここ、傷があるわよ。痛そう」

 そう言いながら、女は幾松の額の傷に指を擦りつけた。
 幾松は脳髄の芯に響く痛みにのけぞった。
 女はうれしそうに笑った。



「やっぱり痛いよねえ……。
 でも、ここまで来たあんたがいけないんだからね。
 罰が当たったと思ってあきらめなさいよ。

 あたしがどれくらい前からここに住んでいたかわかる?
 あたしはここで爺さんと暮らしていた。
 変態ジジイよ。
 血がつながっていた分よけいに悪いわよね。
 あたしは小学六年生からずっと爺さんの玩具だった。

 あたしを産んだ女はあたしを棄てて男と逃げたの。
 父親が誰かなんてきっと母親だって知らないわ。
 もしかしたら爺さんだったかもしれないわね。
 あの男なら実の娘に手を出してもおかしくないもの。

 ねえ、あんた、想像できる?
 あの爺さんと暮らした八年間は、本当に地獄だった。
 学校に通っているあいだは学校にいられる時間だけが救いだった。
 いじめられたって無視されたって、まだここに帰ってくるよりはマシだった。

 中学を出ると爺さんはあたしをここに閉じ込めたのよ。
 爺さんが出かけるときは、鎖でね、柱につながれていたの。

 嘘じゃないのよ。

 下の連中だってあたしと爺さんの関係には気づいていたわ。
 でも、みんな見て見ぬふり。
 誰も助けてくれなかった。

 毎日死にたいと思ってた。

 死ななかったのはね、いつか爺さんに仕返ししてやろうと思っていたから。
 だって、年寄りだもの、待っていれば自分のほうが強くなって立場は逆転するだろうって思ってた。
 何かそういうドラマをテレビで見たのよ、はは。

 実際ね、爺さんたらだんだん勃たなくなってきて、――勃たないとあたしのせいにして殴ったりけったりするんだけど――弱ってきているのがわかった。
 あたしはあいつの萎びたチンコをしゃぶりながらもうじきだと思って喜んでいたの。

 それがねえ……最期はあっけなかったわね。
 ある朝、起きなかったの。
 あたしは手錠をはずして……爺さんは寝ているあいだにあたしが逃げ出さないよう自分と手錠で繋いでいたのよ。
 死体を傷つけてやろうかとも思ったけど、やめたわ。
 あとからあたしのせいで死んだんだなんて言われたら困るから。

 結局、変態ジジイには仕返しできなかった。
 勝ち逃げされた気分ね。
 すごく悔しかった。

 でも、爺さんはあたしにこのビルを残していったわ。
 おかげさまで働かなくても毎月おカネが入ってくる。
 もっともどれだけおカネを貰ったって、あの八年間はチャラになんかできない。

 嫌な記憶しかない。
 思い出すのも苦しいのよ。

 こんなことをあんたに話すのはね、あんたが特別だから。

 あんたも爺さんと暮らしていたでしょ?
 そう、あんたのことはここからずっと見ていた。
 いつかここに来てあたしを助けてくれるんじゃないかって思ってたわ。

 変かしら?

 いいじゃない、女の子の勝手な想像だもの。
 だから、あんたが消えたときは寂しかった。
 
 でも、あんたのお爺さんがいなくなって、あんたは戻ってきた。
 今度こそあたしを助けに来たんだと思ったわ。
 結局、あなたは助けには来なかったけど……でも、ほら、こうしてここに来たじゃない。

 これは運命だとは思わない?」

「やっぱりストーカーだ……」

「失礼ね」
 女は爪を傷に突き立てた。

「見せろよ……」

「あら、何が見たいの?」

「証拠だよ……証拠があるんだろ……見せてみろよ」

 微笑みながら女は額の傷に立てた爪をねじ込むように回した。
 目の奥にドリルを突き刺されているような痛みが走る。
 傷からあふれた血が髪の生え際を伝って耳のほうへ流れていく。

 女は空いている手でスマートフォンを操作した。
 そのあいだも幾松の傷をいじる手はとめなかった。
 持ち上げた指先が――赤い光のなか――血に汚れて黒く見えた。
 女はその血を幾松の頬になすりつけた。

「証拠――」
 と女が言った。
「わかる?」

 女はスマートフォンを幾松の顔の前にかざした。
 ディスプレイいっぱいに映っている画像は「帝国鋲螺商会」のバックヤードだった。
 幾松がここでたしかめたのと同じ位置から撮られたようだ。
 ただし明るかった。
 太陽が昇ったあとの写真だった。
 柵の内側に横たわっている上総屋の死体が明瞭に写っていた。

「……酔っ払いが寝ているだけじゃないか」

 高圧電流のせいなのか、脳震盪のせいなのか、幾松は話すのがつらかった。
 口を動かすという行為が面倒だった。
 それでも無理やり声を出した。

「酔っ払いじゃないわ」

 女は次の写真に切り替えた。
 死体の胸から上が大写しになっていた。
 頭は目を開けて横を向いていた。
 左手首の腕時計を凝視して自分の死亡時刻をたしかめているようだった。
 後頭部の傷もはっきりと写っている。
 至近距離から撮影した画像だった。

 幾松が見つけたとき、死体の顔は空を向いていた。
 目も閉じていた。
 死体の腕も身体の横にまっすぐ伸びていた。
 この写真を撮った人間が、幾松よりも早く「帝国鋲螺商会」のバックヤードにきたことはまちがいない。

「これはあんたが撮ったのか」

「ほかに誰が撮るっていうの? ネットに拡散しているわけでもないし」

「あんたがやったのか」

「あたしが殺したのかってこと?」
 女の血に汚れた手が幾松の身体を撫でながら下がっていった。
「人殺しに見える? ちょっといいわね、それ。でも、生憎とまだ人を殺した経験はないのよ。あんたはどう?」

「……おれが来たときはこんな死体はなかった」

 女の手がベルトの下へとどいた。
 幾松の股間をズボンの上からぎゅっと握った。

「そうね。朝ご飯を食べてから見たらなくなっていたわ。死体が歩いてどこか行くとも思えないんだけど――、ねえ、あんたが隠したんじゃないの? 運河に蹴落とすだけじゃない?」

「あんたが通報したんだな? 写真は送らなかったのか」

「そりゃそうよ」
 女の手に力がこもった。
「警察に捕まえさせちゃったら、こうしていじめられないでしょ?」

 幾松は鈍い痛みに顔をしかめた。

「目的はカネじゃないのか」

「それも半分ある。でも、あんた、おカネなさそうだし――」
 急に女の手がゆるんだ。
「それにあんたは関係なさそうだしね」

「よかった――それがわかったなら、このテープを剥がしておれを解放してくれよ。たしかにここまで上がってきたのはおれが悪かった。謝るよ。でも、あんた、こいつはいくら何でも悪ふざけがすぎるよ」

「やりすぎ?」

 女が笑った。
 スマートフォンを放り出す。
 そして、幾松は髪を掴まれた。
 頭蓋骨から頭皮を剥ぎ取るつもりのように引っ張られる。
 女の顔が近づいてきた。
 酸っぱい息が顔にかかった。
 口唇の間から蛞蝓のような舌が出て、幾松のあごから眉へ舐めあげた。

 女の口唇が傷口に押し当てられる。
 濡れた感触が傷を包んだと思った次の瞬間、激痛が脳天へ突き抜けた。
 女は歯を立てて傷を齧っていた。

 カチャカチャと音がしてベルトがはずされているようだった。
 髪を掴まれ頭を咬まれているので、下半身を見ることはできなかった。
 ジッパーの下げられる音がして、下腹部の圧迫がなくなったと思ったら、下着のなかへ冷えきった手が侵入してきた。

 幾松は身をよじってもがいた。

「おい、馬鹿、何をしてんだ」

 返事のかわりに冷たい掌が幾松のものをつかんだ。
 柔らかいそれを乱暴に擦りまわす。
 だるい身体を裏切るようにそれは硬くなった。

「へえ、ここだけは元気じゃないの?」

 女は幾松の耳に口をつけて囁き、彼の陰嚢を揉んだ。
 そして、耳朶を噛んだ。
 喰いちぎれそうなほど力が入っていた。
 幾松は思わず苦痛の声を上げて、頭を振り逃れようとした。
 しかし、それは逆効果でかえって耳に激痛が走った。

「痛いの、好きなんだ?」

――何言っているんだ、この女。

 しかし、彼の股間はかちこちに硬く怒張していた。
 それを女の手が強く握った。
 慣れた調子でしごき始めた。

 女はしゃがんだまま下着を下ろした。
 葡萄果汁を煮詰めたように濃い紫の下着から片ほうずつヒールの脚を抜いた。
 女は幾松を見下ろして、スカートをへその上までまくり上げた。
 折った脚を開き、白い腿の間に髪と同じ色に染められた叢が見えた。

「ほら、見なさいよ」

 かすれているのに粘りつくような声でそう言うと、女は前に腰を突き出した。
 叢の下の裂溝が青い光に照らされて灰色に見える。
 濡れて光っていた。
 雌が強く匂った。
 女は左手で自分の裂け目をまさぐり、右手は幾松のを激しくしごいた。

「何を鼻息荒くしてんのよ? もうイキそうなの? こんな恰好でチンコ擦られてイッちゃうわけ? でも、まだイッちゃ駄目だから――」

 鼻息が荒いのは女も同じだった。
 彼女は幾松の腹を跨いだ。
 淫液で濡れた手を幾松の顔に擦りつけた。

 怒張の尖端を自分の裂溝に押し当てると、女は一気に腰を下ろした。
 彼女は声を漏らし、幾松を深く呑み込んだ。

 女は幾松の胸に手を突いて腰を振った。
 ちょうど尻の下に回っている手が、女が尻を落とすたびにコンクリートのざらついた床に擦りつけられる。
 皮膚が破れたのがわかる。
 女は吠えて達した。
 幾松の身体へ身を伏せた。

 女の舌が幾松の口唇を割ってくる。
 女がまた腰を動かし始めた。
 幾松も合わせて腰を突き上げる。
 女はせかすように恥骨をぶつけてくる。
 そして、さらに激しく腰を振った。

 女は泣くような声を出すかと思えば、勝手に卑語を連呼した。

「もう、もう――イキそう?」

「ああ」幾松は答えた。

 彼は油断していた。
 会陰に何か硬いものが触れたと思った瞬間、バチッ、と音がした。
 幾松の腰が跳ね上がった。
 電気に打たれる痛みと射精の快感が同時に背筋を突き抜けた。

 女はそれから何度も何度も幾松を貪った。
 繰り返される電気ショックに、幾松は意識が朦朧となっていった。



「よかった?」
 女は精液の流れる内股を幾松のシャツの裾で拭った。
「またやろうね」

「頭がおかしいぞ、あんた……」

「頭がおかしいぐらいでちょうどいい世界じゃない?」

 女は立ち上がり、プレハブ小屋へ入っていった。
 幾松は身体を丸め、腕のあいだに足をくぐらせて、手を前に回した。
 下着を上げ、ズボンの前を締めた。
 股間が濡れて冷たい。
 強張った指で足首に巻きついたテープを剥がそうとした。

 プレハブ小屋からシャワーを流す音が聞こえてきた。

 幾松は強力なテープにてこずりながら、プレハブ小屋への注意は怠らなかった。
 気づかないうちに戻ってきた女に、また高圧電流を食らわされるなんて目には会いたくない。
 かなりの時間を使って、どうにか足を自由にした。

 手首を縛りつけているテープのほうが厄介だった。
 暗くてテープの端がどこか見えない。
 前歯で齧ってみるが埒が明かなかった。
 あごを強く噛み合わせると、頭蓋骨の下の深いところがずきずきと痛んだ。
 痛みに耐えてしばらく頑張っているうちに、シャワーの音が止まっていることに気づいた。

 幾松は両手の自由を取り戻すのは一旦あきらめて立ち上がった。
 まだふらふらした。
 転びそうになって理髪店の椅子にもたれかかった。
 腕時計を見るとまだ日付が変わったばかりだった。
 走れば終電に間に合う――もちろん、そんな体力も気力も残ってはいなかったが。

 椅子にもたれて吐き気の波が高まるのをこらえた。
 じっとしていれば波は治まりそうだった。
 頭痛と吐き気で、物を考えるのが億劫になる。

 プレハブ小屋から女が出てきた。
 髪を頭上にまとめて、ジャンパーにジーンズというラフな恰好に着替えていた。
 そして、旅行に出るような大きなキャリーケースを引いていた。
 もちろんすべてが紫色だ。

 彼女は幾松が立ち上がっているのを見ても驚かなかった。

「あたしはもう行くからゆっくりしていったら? もうここには戻ってこないつもり。調べたければなかを見てもいいわよ」

「どこへ行くんだ?」

「あら、まだいて欲しいの? やりたりない? あたしは今日はもう満足よ。またやりたくなったらこっちから連絡するわ。あんたはそれまでオナニー禁止ね」

 答える気はまるでないようだった。
 女はキャリーケースのキャスターを騒々しく鳴らしながら塔屋へ歩き出した。
 左手に握ったスタンガンを放電させて、青白い火花で幾松を威嚇しながら、扉までの数メートルを横歩きで進んでいく。

「名前ぐらい教えてくれてもいいだろう」

「ヴァイオレットとでも覚えておいてよ」
 そう言い残して女は搭屋のなかへ消えた。

 幾松は椅子の足元に尻餅をついた。
 そのまま背中と頭を床につけた。
 冷え冷えとしたコンクリートに身体が沈んでいくような錯覚にとらわれた。
 四角く看板で区切られた夜空が見える。
 雲が厚くて月も星も隠れていた。



 幾松はプレハブ小屋へ入った。
 床がギシギシと軋んだ。
〈ヴァイオレット〉と名乗った女のベッドに倒れ込んで睡った。
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