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第7章 ウサオイと私

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◆13

 坂の上には女子高がある。
 歩いても五分程度で着く。
 だが、幾松の乗っているベンツは渋滞に巻き込まれて、坂の途中でにっちもさっちも行かなくなっているのだった。
 坂の上かその先か、おそらくこの狭い道で事故が起きたのだろう。
 逃げ道もないから坂に入ってしまった車は、おとなしく車列が再び流れ出すのを待つしかなかった。

「待ち合わせの時間になりましたよ」

 ハンドルを握る岩槻が言った。
 淡々と事実だけを報告した感じだった。
 ルームミラーに映った細い目はいつものように微笑っていた。
 この二十年、幾松の記憶にあるかぎり岩槻は微笑みを絶やしたことがなかった。
 紙もすっかり白くなり、顔に刻まれた皺も数えきれなくなったが、その微笑んでいる目だけは変わらない。

 彼は講中ではなかったが、先々代のウサオイに拾われた恩義からもう半世紀も白尾のウサオイの家に仕えていた。
 表向きはウサオイの経営する旅行代理店の幹部である。
 しかし、彼の仕事の主たるところは他人には話せないものだった。
 ウサオイの家のためなら何でもやる――ずっと先代の幾松の相棒をつとめてきた。

 幾松にとっては、ウサオイと同様に家族といってもおかしくないような人だった。

「弥生だって馬鹿じゃないから、この渋滞を見れば時間通りに着かないことぐらいわかると思います。でも、自分から坂を下りてくるほど気は利かないから」
 とウサオイは笑った。

 彼女の娘は高校三年だった。
 母親としてのウサオイは、娘に十分すぎるほどの富と美貌を与えていた。
 今のところ、それが悪い方向に働いている様子はなかった。
 弥生が社会をなめているとしても、それは世間一般の女子高生と同じだ。

「いや、弥生はあれでわかっているんだよ。わかっていて面倒だからわかっていないふりをしているのさ。いまだって、どうせ車は登ってくるから自分が動くことはないって考えているんだよ、きっと」

「そんなイヤな娘に育てた覚えはないわ」

「覚えはなくても、そういうイヤな娘に育っているのさ」

「ウチの娘なんかどうでもいいのよ。それより幾松、あんた、まだあんなのとつきあっていたの? あれは脱落者、裏切者、負け犬――維新前だったらまちがいなくお仕置きものよ」

――明治維新があって良かった!

 こんなことを二一世紀になって本気で思った人間がいったい何人いるだろう。
 幾松は薄ら笑いを浮かべて、窓の外、いっこうに変わらない景色を眺めた。

「おれの交友関係に口をはさまないでほしいな、マサコちゃん」

「ちょっと!」

 窓にぼんやり映ったウサオイの目が怒っている。

 ウサオイを挑発するのは簡単だった。
 昔の呼び方をすればいいだけだ。
 ウサオイがまだウサオイでなく、幾松がまだ幾松でなかったころのように。

「おれのことは竜ちゃんでいいよ」

「あんた、いつまで子どもを通すつもりなのよ。いいかげんオトナになっていいはずだわ」

「オトナなら誰とつきあおうと勝手なはずだ。甚六はおれの友達だし、あんたに四の五の言われる筋合いはないだろう」

「あれはもう甚六じゃないわ。講中でも何でもない、ただのなさけない男にすぎない。関わる必要なんてないのよ」

 甚六がただのなさけない男、というのには同意せざるを得ない。
 とはいえ、それは友だちをやめる理由にはならないはずだった。

 幾松はウサオイから顔を背けたまま黙っていた。

 狭い歩道を、坂道をタンクトップでミラーグラスの男がジョギングで登っていく。
 午後四時前の渋谷をジョギングする男はどんな仕事をしているのだろう。
 男にとってはこの時間が早朝なのかもしれない。

 街にはそれぞれの時間を生きる人間がいる。
 ジョギングランナーの時間、迎えの車を待つ女子高生の時間、車のなかの母親の時間、講親と口げんかする幾松の時間、ただのなさけない男の時間。
 それぞれの時間が重なり合い、また離れる。

 ジョギングの男はリズミカルに坂を登っていき、やがて見えなくなった。


「死体は丙戌の帳元だったのね」
 ウサオイは黒いパンツの脚を組み直した。
 人に見せたい部分へ視線を集める無意識のしぐさ。
 その歳でその細さなら自慢したくなるのも無理はない。
「ただの講中なら気づかれないまますんだかもしれないけど……」

「ロクジのマンションにはアカメのとこの世話人が先客で来ていた」

「アカメの世話人? ……おかしいわね」
 とウサオイはつぶやいた。

「おかしい?」

「何でアカメの講の世話人が動いているのかしら?」

「あそこの帳元なんじゃないか。寄合があって無断欠席の帳元の様子を見にきたんだと思うんだが、調べられないか」

 ウサオイは、無理無理、と手を振った。

「アカメに電話かけて、お宅の帳元に丙戌はいませんかって訊くわけ? そんなことしてごらんなさいよ、痛くもない腹――ちょっとは痛いんだけどさ、探られることになるだけよ」

「探られるのはまずいか……。なあ、今回のロクジの件については、江の島には報告しないつもりなのかい?」

「御師のとこ? うーん、あのお爺ちゃんには、いまのところ、言わないつもりでいるけど――何よ? あんた、変な義理立てで状況を混乱させないでよ」

「義理とかそんなもんはない。ただ、あとでばれたら、かえってまずいだろう。この件はヘタをうたないほうがいいんじゃないかな」

 ウサオイには話していなかったが、銭屋に言われたことが気にかかっていた。
 老人はまだ遠いと言っていた。
 しかし、幾松はもう音楽が鳴りだしているような気がしていた。
 すでにステップを踏みちがえることは許されない状況かもしれなかった。

「ふだんは講もノリもどっちでもいいようなことを言っているくせに、やけに弱気じゃないの。何かあった? だいたいどこからばれるって言うの? あんたと丁子屋と萬蔵さんが黙っていればいいことでしょ。あの萬蔵さんは誰にも何もしゃべらない。そうでしょ? じゃあ、あと残るのはあたしと岩槻さんだけ」

 ウサオイは運転席の背もたれに手をかけて身を乗り出した。

「ねえ、岩槻さん、しゃべる?」

「ん? 何のこと?」
 と岩槻はのんきな声で答えた。

「ほらね。岩槻さんは何も知らない。幾松、これはいい機会だからはっきり言っておくけど、あんたは父親を怖がりすぎ。大番頭が何だっていうのよ」

 ウサオイは半世紀前の「戦争」を知らない、と幾松は思った。
 父親が怖いわけではないが、庄之助は無視できるような存在ではない。
 隠しきれるならいいが、隠しきれなければ相応のお咎めがあるはずだ。
 呼ばれて説教という程度ですむかどうか。

「ロクジをウチへ置いていったやつの動きも気にしたほうがいい」
 幾松はウサオイの目を見つめた。
「講中ひとりのやったこととは限らないだろ。どこかの講がまるごと動いている可能性もある」

 ウサオイは目をそらさなかった。
 正面から幾松の顔を見ている。
 心の底を見透かされているような感じ。
 父親よりも彼女に対してのほうが秘密を持ち続けるのは難しそうだ。

「たとえばアカメとか?」
 ウサオイは囁いた。

「そう、アカメの足長の講が動いているとしたらどうだ? やつらがウチをはめようとしてロクジを置いていったんだとしたら? 講親の寄合は毎月一日だろ。そこでアカメが何か言い出すかもしれない」

「あいつに何が言えるっていうのよ? 下手なことを言えば、逆に自分たちが上総屋をバラしたことがわかってしまうのよ」

 そう、それはそうなのだ。
 幾松は目を伏せて、シートに沈み込んだ。

「それに上総屋をバラしたのがアカメだとも限らないでしょう? 世話人が部屋を調べに来ていたんでしょう? 上総屋は自分の部屋で殺されたくさいって、あんた、言っていたわよね。それなら、あとから調べになんて来ないんじゃないかしら。どこかの講が講ぐるみで絡んでいるのだとしても、アカメのところの可能性はむしろ低いんじゃないの? それこそ下手に動いて、あのおじさんを怒らせると怖いわよ」

「ケンカになるかな?」

 ウサオイは幾松を追い詰めるように、シートへ手を突いて彼のほうへ身体を寄せた。
 うつむいた彼の顔を下から覗き込む。
 長い髪の先が彼の腿に触れた。

「冗談じゃないわよ。そんなことになるんだったら、あたしはとっとと頭を下げるわよ。講はヤクザじゃないんだからね。もっとスマートに。もっと穏便に行きましょうよ」

「ロクジを始末しちまった時点で、もう穏便とは言えないよ」

「それを言うなら、あんたがロクジを見つけた時点でもう穏便とは言えないの。何であんたの店の裏にあったのかしらね。恨まれているのはあんた? それとも、あたし?」

「おれは他人に恨まれるような覚えはない」

「まるであたしにはあるみたいな言いぐさね。……ま、いいわ。あたしは、あんたにつきまとっているらしい紫色の女が気にかかるの。もし、その女がサツマに通報したのだとしたら、その女こそどこかの講とつながっている可能性があるんじゃない?」

「おれのほうで調べてみる?」

「そりゃ当然でしょう。世話人のほかに誰が調べて回るのよ?」

 軽く揺れて車が動いた。ウサオイのつけている香水が匂った。
「動き始めましたよ」と岩槻が言った。
 停まっていた窓の景色が流れていた。

 坂の上に到達する前にまた車は停まってしまった。
 もう校門が見えるところまで来ているというのにあと一歩だった。

 弥生のポニーテールの頭が見えた。
 小さい頭だ。
 スタイルはいいが、脳みそが足りているか心配になる。
 ウサオイと同じように目が醒めるように美しい。
 外国の血が入っているようにも見える。
 実際、入っているのかもしれない。
 本当のところはウサオイが娘の父親について一切話さないのでわからなかった。

 どこにいようと、何を着ていようと、ただ黙って立っているだけでも人目を惹く。
 通り過ぎる人たちは必ず彼女の顔を見惚れていた。
 本人が無反応なのは気づいていないからではない。
 見られることに慣れてしまったからだ。

 弥生はまっすぐ正面を向いていて、まだこちらには気づいていなかった。
 幾松は、もう行く、と言ってベンツを降りた。
 晴れているのに風が冷たい。
 弥生に向かって坂を登っていった。

 名前を呼ぶと、少女は幾松を見つけて、うれしそうな顔をした。

「どうしたの、こんなところで?」

「いままでキミの母さんの車に乗っていたんだ。もう、ほら、あそこまで来ている。今日は御馳走だって?」

 弥生はベンツのほうへ一瞬だけ視線を投げた。
 気づかないふりを続ける。
 本当は幾松が乗っていたこともわかっていたのだろう。

「ああ、聞いたの? うん、フカヒレを食べに行くの。こんな大きいやつ」
 少女は両手を広げた。
 そんなに大きなフカヒレはこの世には存在しない。
「竜二さんも来ればいいのに。ママとふたりで食べても楽しくないし」

「おれがいても楽しくはないと思うね」

「ええ? 楽しいよお。べつに楽しくなくてもさあ……」
 弥生は一瞬言いよどんだ。
「ママとふたりきりっていうのが、ちょっと気づまりなんだよね」

「反抗期? 仲良し親子ってのも気持ち悪いから、まあ、いいんじゃないの。ふたりきりがいやなら岩槻さんにいっしょにいてもらえよ」

「うーん……お爺ちゃんじゃなあ……ねえ、何で今日ママがフカヒレおごってくれるかわかる?」

「わからない。聞きたくもないな」

「じつはお詫びなんだよ」

「聞きたくないって言ったのに話すんだな」

「最近ね、あの人、男ができたんだよ。男って言い方が気に入らないなら、恋人って言えばいいのかな。それで、こないだ、外泊してさ、そのお詫びってことらしいのよ。何だか知らないけど、恋人がいるってことが女子高生の母親としてはうしろめたいみたい。こっちは全然気にならないんだけど――」

「本当に気にならないのか」

「そういうのって、絶対気にしなきゃいけないことのわけ? それが正しい娘のあり方ってこと?」
 弥生は肩を落としてため息をついた。
「ほんと、気にならないんだけど――でも、あっちが変に気にしちゃって、会話ひとつ満足にできなくなってるのよ。ママにしてみれば今日のフカヒレは関係修復のためってことらしいの。でもさ、しゃべれないのはこっちじゃなくてあっちなんだから、べつにフカヒレ食べる必要なんてないじゃない。気にせず話せばいいだけでしょって感じなんだけどね。ま、フカヒレを食べる機会をみすみす逃がすような真似はしたくないから、そんなこと言い出さなかったんだ――」

「へえ、キミの母さんに恋人か」

「驚くこと? 前にもいたでしょ? ひとりとしてあたしには会わせようとしないけど。それってママに結婚する気がないからだよね。あたしのせいなのかな? それとも、あの人のポリシー? 竜二さんはどう思う?」

 幾松は首を振った。
 最近、やたらとどう思うのか訊かれる。
 リトマス紙にでもなったような気分だった。

「直接本人に訊いてみればいい。訊けないなら、キミだって変に気にしているってことだ。お互いさまって話さ」

「今日本当にいっしょにご飯食べない?」

「こんな大きなフカヒレを食べるんだろう?」
 幾松は両手を広げた。
「おれが行ったら自分の食べる分が減るんだぜ。それにおれにはまだやらなくちゃいけないことが残っているんだ。中華なら今度安い餃子でもおごってやるよ。今日は親子水入らずで関係とやらを修復しな」

 傍らで車が動き始めていた。
 ベンツがゆっくりと近づいてくる。
 後部座席で幾松たちを見つめているウサオイが見えた。
 何かと戦っているような厳しい表情だった。

「じゃあ、今度どこか遊びに連れて行ってよ」

「やだよ、めんどくさい」
 幾松はふと思い出した。
「――子どものころ、キミの母さんにアニメの映画へ連れて行ってもらったことがある。帰りにオムライスを食わせてもらった。あのころは優しいお姉さんだったんだよ」

 弥生は天使のように笑っていた。
 たったいま気がついたかのように、ベンツへ手を振る。
 そして、口からは嫌味――。

「わかった。ママに、いまはすっかり怖いオバサンになってしまったって伝えればいいのね」

 幾松は笑って少女に背を向けた。
 坂を下りる。
 ベンツに手を振ると、岩槻が微笑みながら軽い会釈を返してきた。
 ウサオイは困ったような顔で幾松を睨んでいた。
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