恋の魔法はAAA

波奈海月

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 終業を迎え一人帰途につく。これといって誰かと約束もしていない日はこんなものだ。家の近くのコンビニで夕食用の弁当を買い込み、部屋に帰る侘しさもいつものことだ。
 それにしても今日は疲れた。不破が帰ってしまったことを野瀬に話して今後の対応を訊いたが、あっさり先方のいいようにしてくれと言われた。いくら御曹司でも社会人としてそれでいいのかと問いたいが、融資をしてもらう側として強く言えないようだ。何せ小さな会社なのだ。
 それからどういうわけか梅木戸が、顔を会わせるたびやたらにやついてきた。給湯室での話を真に受けたわけではないが不気味でしかない。
「はぁ、ただいま、と」
 単身者向けのワンルームマンション、狭い玄関で靴を脱いだ純玲は、返る応えがなくても習慣となった言葉を口にした。
 だが待ってましたとばかり、奥から小さなものが勢いよく文字どおり飛んでくる。
「おう! やっと帰ってきたかスミレ!! 待ちくたびれたぞ」
「ひっ!?」
 妖精王子のリリが背負った箱から出ている透明な翅を忙しく動かし、純玲の目の高さでホバリングする。
「なあなあ、昨日のウマい飲み物、飲ませろスミレ」
「……まだ、いたんだ」
 この問題があったのを忘れていた。今朝、帰ってきたときには消えていればいいと願って出かけたが、ことは簡単にはいかないようだ。
「当ったり前だろっ。オレはお前と契約したんだぞ」
 そうだった契約。妙なものと交わしてしまった。自分の軽はずみな行動を言い訳できるのなら、酔っていたのだ夢だと思っていたのだと、今からでも叫んで取り消したい。
 あ、いやできる。言っていたではないか、クーリングオフ。
 五歩も歩けばキッチンというかリビングというかLDK。朝見た光景のまま、ビールの空き缶が転がっているテーブルの上にコンビニの袋を置くと切り出す。
「リリ、だからそれなんだけど。解約を……」
 どうあっても夢でないなら、さっさと終わらせるに限る。昨日の今日なら大丈夫だろう。クーリングオフの期間は契約した日も含めて八日間。
「クーリングオフはきかねえぞ」
 澄ました顔でリリはテーブルの上に降り立った。同時に翅がしまわれる。
「なっ!? どうしてだよ。昨日も契約のときちらっと言ってただろ!?」
「きかねえからきかねえってんだよ」
 消費者センター持ち込み物件にクラスチェンジか?
「はぁ、お前ってさ、案外抜けてるんだな」
「何がだよ」
 呆れたと息をつく態度にむかつき、ぞんざいに返す。
「ちゃんと今日本契約の証のものがお前宛に届いただろ?」
「本契約の証? 今日届いた? ……え、まさかそれ――?」
 すぐさま思いついたのはあれしかない。宛名しか書かれていない封筒で来た小包。中身は眼鏡。
「眼鏡だぞ?」
「おうそれだ。持って帰ってきたんだろ? 早く出せ」
 出せと言われなくても出してやる。純玲はカバンから眼鏡の入った封筒を取り出しテーブルに置いた。
「ふうん、やっぱりな。昼だったかな、ビコビコ来たんだよな」
 まるで格闘するように封筒から中のものを引っ張り出したリリは、大切そうにケースを撫でた。
「ビコビコ? 何がきたんだよ」
 昼といえば、純玲が会社で封筒を開けたころだ。
「お前がこれに登録し、契約が完全有効になってことだ」
 登録って何だ? 知らない、とばかり純玲は首を振る。そんなことした覚えはないのだ。まさか試しに眼鏡をかけたことが登録になるのか?
 怪訝そうに首を傾げる純玲に、リリがやれやれと肩を竦ませた。
「この紋章のところ、触っただろ?」
「その紋みたいなとこなら触ったけど」
 ということは、あの光ったときに登録されたということか。
「指紋認証システム完備の特殊妖精眼鏡ケースだ。これで中の眼鏡を取り出せる人はお前だけだってことだ。それで妖精との契約も決定となり、もう解約はできねえ」
「指紋認証システムって、ちょっと待てよ! 解約できないってどういうことだよ」
「そういう約定になってんだからしょうがないだろ」
 うるさそうに眉根を寄せたリリはぶうぅっと脹れる。
「そんなの知るかよ。昨日そんな説明しなかったじゃないか」
 それを言うと、リリは一瞬怯んだ表情を見せた。
「……オレだって、てっきりこっちに送られてくるって思ってたんだ。送られてきたら説明しようってな」
「どうだかね」
 分かったものじゃない。素っ気なく返してやる。
「だったらな、スミレ。分かんないならそのまま持って帰ってくればいいじゃないか」
 リリはますます眉を寄せ、真っ赤になって言い返してきた。
「差出人が分からない荷物が届いたんだ。中を確かめてみるだろ」
 言い合いは感情を高ぶらせたほうが分が悪い。冷静さを失うわけにはいかないと、努めて平静に返す。
「そうだ。封を開けて中を見るまではよしとしてやろう。だがなスミレ。お前この眼鏡をかけたよな」
 ケースの蓋を開け、中に頭を突っ込んでいたリリは、にやりと顔を上げた。
「それは――っ」
 どきりとする。見ただけでリリにはそこまで分かってしまうのか?
「そこまでやっておいて、今さら取り消しなんて無理だぞ」
 ふふん、とどこか勝ち誇ったような顔をして、リリが立ち上がった。
「けどさ、その眼鏡が何ていうか……」
 そうだ、どうしてあんなにも警戒心がなかったのだ。ちょっとだけなら構わない、と思ったわけではない。
「かけろって言われたんだろ。眼鏡のほうもお前が契約者だって分かったんだろうな」
「そんな薄気味悪い。眼鏡に意思があるみたいで」
「薄気味悪いっていうな。これは妖精眼鏡だぞ。人の感覚で測るな」
「あ、ごめん」
 言われてみればそうだ。相手は人外の妖精。自分の感覚で判断してはいけない。そう思い謝れば、リリがいささか拍子抜けた顔つきになった。
「……ともかく。これに指紋登録してしまったんじゃ、解約は無理なんだ。それとも違約金払うか?」
「は? 違約金って――」
「十万フルフル。そうだな、人の価値に換算して四十八万三千円ってとこかな」
「そのハンパな数字は何!?」
 微妙な金額だ。働いている身、かき集めれば払えないこともないが、悪徳商法もいいところだ。よく確かめずに触ってしまったのは自分にも落ち度はあるかもしれないが、あの場合誰だって触るだろう。でないと中を確かめられないではない。
「あ、言っとくが契約書にサインしたのはお前だからな。紋章触って指紋登録しちまったのも、眼鏡をかけたのも」
 追い討ちをかけるように言い放ったリリは、契約は契約だとこれも朝から場所が変わっていない用紙を指差す。
 渋面を作った純玲はその契約書を手に取る。破り去ってやりたいと思ったが、昨日はなかったはずの項目に印が書き加えられている。
「何だよ!? またチェックが増えてるぞ!?」
「おう。お前が指紋認証システムつき眼鏡ケースを受領しました、ってことだ」


「まあなんだぁ、そういうことでー、さっそくオレはー、お前の願いを叶える仕事をするぞぉ。オレは皆の模範となるべき王子だからなぁ」
 リリは、背中の翅をパタパタさせて宙に浮き、自分と同等サイズのビール缶を器用に持ち上げて飲んでいた。いつも背負っている箱が質量無視の四次元ボックスなら、リリの胃袋も四次元だ。三五〇ミリリットルの液体が入っていくのだから。
「へいへい」
 もうどうとでもしてくれ。今の純玲の正直な思いだ。
「で、お前の願いだがー、恋を叶えるってーことでー、いいかぁ」
 ふにゃふにゃと顔を緩ませたリリは、ろれつも怪しい酔っ払いに他ならない。
「っ! 俺、願い言ったか?」
 一度もリリの前で口にした覚えはない。
「なんだ、やっぱりそうかぁ。今日この部屋の中いろいろ探索したんだ。一人で暇だったからなぁ。まずは契約者のニーズをきちんと把握するのも担当妖精の基本だからなぁ」
「部屋を探索?」
 純玲は自分の部屋を見渡す。どこにでもありそうな独身男の部屋だ。
「ま、こんな色気のないとこに住んでんだ。恋人がいればもっとこうほんわかピンクの気があるもんだからな。スミレお代わり」
「ほんわかピンクって……」
 からんと飲み終えた缶を転がし、リリは次を要求した。純玲は仕方なく冷蔵庫から持ってきたビールのプルトップを引いて、リリの前に置いてやる。
「まあ安心しろー。恋を叶えるのはオレたち妖精の最大得意ジャンルだ。むしろこれこそが真骨頂といっていいー」
「そういうもんですか」
 せっかく買ってきたコンビニの弁当も食べる気が失せ、純玲は少しつついただけで箸を置いた。
「それウマそうだな。何ていう食いもんだ?」
「……生姜焼きだよ。食べてみる?」
「うん、食べる! 人の食するものはいろいろウマいな」
 言ってるそばから生姜焼きに食らいついたリリは、顔中をタレまみれにする。
「お前、箸とか使わないのか?」
 もうお前呼びで十分だ。どこが王子だ。こんな直接口をつける食べ方をするなんて。純玲は、仕方ないと口に入りやすいように小分けにしてやった。
「何だ? こんな立派な手があるじゃないか。おお感謝するぞスミレ、食いやすくなった」
 両手で肉片を持ちはぐはぐと平らげていくリリは、ある意味間違ってはいないが小動物そのものだ。
「で、恋を叶えるって、具体的にどうするんだ?」
「そうだった。これを使うんだ」
 リリは手についた生姜焼きのタレを嘗めると、背中の箱から器用に何か取り出した。相変わらず大きさにそぐわないサイズのものが出てくる。
「飴?」
 両端をねじった赤い水玉模様の包みは見るからに飴だった。
「そうだ。妖精国特製の恋を叶えるアイテム。その名も恋乳れんにゅうキャンディだ。これは『シリーズ1』イチゴミルク味のバージョン1.41な。これを一つ口に入れたら、ほんのりいい気分になって前にいる人に恋をする、っていう代物だ」
「で、これを何に使うんだ?」
「だからー、自分を好きにさせたいヤツに嘗めさせるんだよ。そしたら相手は最初に目にした人に恋をする。つまり晴れてお前に恋人ができるってことだ」
 純玲は大きさも包みもどこかのメーカーを髣髴ほうふつとさせる恋乳キャンディをつまみ上げた。
「こんな飴で? 人間が口にして大丈夫なのか?」
「妖精アイテムをバカにするなよ。だったら試してみるか? 嘗めてみろよ」
「やだよ。これ嘗めたら恋してしまうんだろ? ここにいるのはお前だけじゃないか」
 そんな得体の知れないもの口にしたくない、というのが本音だ。
「安心しろ、妖精が相手のときは効果ないから。ほれっ」
 そういうことじゃない、と拒否する暇はなかった。リリの動きは素早く、純玲がつまんでいた恋乳キャンディの包みを解くとぽいっと放り投げた。純玲の口の中に。
「うぐっ。これ何?」
 口の中に甘酸っぱいイチゴミルク味が広がっていく。
「だから恋乳……おいスミレ? どうしたんだスミレ!?」
 リリが驚いた顔で純玲を覗き込む。
「何か変だ、体が熱くなってくる」
 体の奥でぽっと火が点るようだった。頭の芯も痺れてくる。だが決して嫌な感じはしない。
「あ、リリが増えてる。双子? 三つ子?」
 ビールで酔っていたわけでもないのに、視界がぐるぐると回り出した。
「おい、ただの『シリーズ1』バージョン1.41だぞ!? そりゃ恋乳はその気にさせる効果もあるが、せいぜいぽーっとする程度だ。まさかお前、童貞?」
「悪かったなー、童貞で――」
 目の前には傍若無人だが愛らしいぷにぷにほっぺのリリの顔があった。純玲はリリをつかむとその小さな口に吸い寄せられるように口づけた。
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