アネンサードの人々

buchi

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サジシーム

第109話 礼拝堂へ放火

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 この匂いは……ロンゴバルト?

 フリースラントは、はっとした。

 彼は耳を澄ませた。

 教会は静まり返っている。

 王と王妃の入場だ。


 だが、教会の外から、かすかに声が聞こえてくる。フリースラントの耳は、いくつかの声を追った。
 人間には聞き取れないほどかすかな音と匂い。
 近い声は衛兵だった。他愛のないことをしゃべっている。だが、遠くから聞こえるかすかな人声は、おそらく外国語だ。意味がどうしても分からない。

 ロンゴバルト人の異様な多さに驚いた港から、ここまでの距離は半日。
 目立たないよう、夜の明けきる前に街道を移動して、結婚式見物の大衆に紛れ込んでしまえば……不可能ではない。

 フリースラントがビクッとした。

 彼は火の匂いを嗅ぎ取ったのだ。枯れた木が燃えている。ロンゴバルトの匂いもどんどん強くなる。近づいてくる。

 いよいよ王太子と花嫁の入場だった。

 王太子は膨れ上がった腹の上に白とグレーと青の花婿衣装を身にまとい、花嫁は純白の衣装だった。深くベールを下ろし、一歩一歩祭壇に近づいていく。
 祭壇では、老年の主教が真紅の衣装と黄金の笏を身に着けて、彼らを待ち受けていた。

 人々は、全員そちらに注目した。誰もほかの者のことなど見ていない。
 かすかに称賛のざわめきとため息や、よく見ようと人々が動いたために衣擦れの音が、今まで静かだった会場を満たした。

「ルシア」

 フリースラントはルシアの手を握った。

「ここを出よう、ルシア」

 フリースラントはルシアの耳元で囁いた。

「なぜ?」

 ルシアはフリースラントの顔を振り返ってみたが、そのただならぬ表情を見て黙った。

 彼らの席は最前列の一番端だった。
 さっき威風堂々としたカプトルの主教に従って、大勢の僧侶たちが祭壇の脇の小さな出入り口から出てきたのをフリースラントは見ていた。あそこから外に出られるかもしれない。

 フリースラントはルシアの手を握り、身をかがめ、祭壇の脇の小さな出入り口を目指して這うように移動した。

「どうしたの? 何なの? フリースラント」

 彼らの席は最前列だったが、一番隅だった。最も目立たない。
 何人かの貴族たちが、この一番大事な時に出て行こうとするおかしな二人を不審そうに見た。たが、たいていの者は気付きさえしなかった。花婿と花嫁を見ていたのだ。

 結婚式どころではない。

 扉を強引に開けて入った通路の先には、祭壇の下に続く階段があった。祭壇の下に何があるのかフリースラントも知らなかった。だが、どこかに出口があるはずだ。

 少し通路を進んだところで、下っ端の僧侶に出くわした。

「なんだ? どうしたんだ?」

 僧侶は面食らって、フリースラントにぞんざいな口をきいた。結婚式の真っ最中、それももっとも大事な儀式の時に抜け出す参列者なんて見たことがない。

「出口はどこだ?」

「いったい……」

「いいから答えろ」

 フリースラントは僧侶の肩をつかんだ。

「言うんだ!」

 僧侶は恐ろしい力におびえて、震える指で指した。相手は高位の貴族だった。何を考えての行動か知らないが、従った方がいい。

「鍵がかかっております。開きませんぞ?」

 フリースラントは、ドアの方を見た。確かに光が四隅から漏れていた。彼は走り寄ると肩で押した。大きな音がして、蝶番が外れ、ドアが開いた。陽の光が差し込み、同時にロンゴバルト兵のにおいが広がった。

「早く!」

 フリースラントはルシアを手招きした。
 ルシアはフリースラントの顔から、緊急事態だと悟ったのだ。彼女は一言も言わず、フリースラントの指示に従った。

 ドアのすぐ外までは、まだ来ていないはずだ。まだ、匂いは遠い。

 運よく巡回していた騎馬の警備兵が一人気が付いて、そばに寄ってきた。

「どうかされましたか?」

 二人の衣装は、どう見ても参列者の正式な礼服だった。騎馬の兵は胡散臭そうに聞いた。

「ウマを貸してくれ」

「え? なぜ?」

 フリースラントは、騎馬の兵の足をつかんで引きずり下ろした。

「何をする?!」

 兵は叫んだ。

「ロンゴバルトが来ている」

「え?」

「衛兵に連絡しろ。ロンゴバルトの数は多いぞ」

 フリースラントは、驚きで口もきけないでいる兵から剣と弓矢を取り上げ、ルシアをウマに乗せると走り始めた。ロンゴバルトの匂いのしない方へ。

「ルシア、宿の方角はどっちだ?」

 ルシアはすぐさま教えてくれた。王宮に住んでいたルシアの方が方向は詳しい。彼らは一直線に教会から離れていった。

 ルシアはさすがだった。彼女はフリースラントの様子がおかしいと気づくと、何も聞かなかった。ただ、ついてきた。
 たとえ、新しく与えられた恋人と言う立場に戸惑っていたとしても、彼女はフリースラントを深く理解し信頼していた。彼の表情を見ただけで事態の深刻さを悟って、抵抗したり問いただしたりせず、聞かれたことに正確に答え、フリースラントの意図を読み取り一緒に動いた。


 ロンゴバルトは教会の周辺に集中していた。フリースラントの目なら、徐々に彼らが教会への距離を縮めて行っていることが見て取れた。思っていたより人数が多い。

 フリースラントは、ウマを走らせながら、教会の正面入り口を振り返った。
 入り口では、数名の衛兵が暇そうに立っていた。
 この距離では、多分、普通の人間は入口さえ、見えないだろう。

 馬上のまま、彼は、弓に矢をつがえ、放った。

「フリースラント、なぜ、矢を放ったの?」

 ルシアが、解けた金髪の頭をこちらに向けて聞いた。

 矢は、教会の正面玄関の扉に見事に命中し、度肝を抜かれた衛兵が大騒ぎを始めているのがわかった。

「警告さ」




 幸いなことに宿はロンゴバルトの匂いと反対側にあった。

「どうされました? フリースラント様? まだ、式の真っ最中では?」

 ゾフが驚いて出迎えた。

「式は中断されるだろう。教会の周りにはロンゴバルト兵が大勢来ている」

「そんな。そんなはずはございません」

「上って見ろ。最上階から確認してきてくれ」

 ゾフは大急ぎで階段を駆け上がり、フリースラントは、驚いて出てきた宿の亭主に言いつけた。

「目立たない馬車を持ってこい。ウマを付けてくれ」

 アッと言う叫び声がして、ゾフが転げるように階段を駆け下りてきた。真っ青な顔をしている。

「大変でございます。フリースラント様。王宮の教会の方で火の手が見えます」

「ええ?」

 宿の亭主は言いつけられたことも忘れ、顔色を変えて階段を駆け上っていった。

「教会に火?」

 呆然としているルシアに向かってフリースラントは言った。

「ルシア、着替えて来い。女中の服を借りるんだ。侍女のシューラにも女中の格好をさせろ」

 彼は宿の亭主に続いて自分も階段を上がった。

 フリースラントは、宿の亭主やゾフとは目が違う。遠目が利く。
 彼は礼拝堂の様子を見た。

 火の手は片側だけから上がっていた。だが、教会は窓が多い作りだった。中から火が見えないはずがない。あれだけ派手に火の手が上がっていたら、熱も相当あるだろう。教会の中のパニックは、想像に難くなかった。

 急いで駆け下り、ゾフに向かって彼は聞いた。

「ロジアンとトマシンはどこだ?」

「シューラと一緒に、町の様子を見物に出かけました」

 ゾフは事態に動転した様子で、震え声で答えた。

「先に出る。ゾフ、来い」

 彼はそれから、戻ってきた宿の亭主に言った。

 亭主はすっかり顔色を変えて、おろおろしていた。

「なぜ火事になったのでございましょう」

「ロンゴバルトが火を放ったのだろう」

「まさか。失火ではございませんか?」

 亭主は呆然として聞き返した。

「この目でロンゴバルト兵を見たのだ。だが、心配するな。狙いは教会に集まった王族と貴族たちだろう。ここへは来るまい。急いで、普通の馬車にウマを付けてくれ」

 亭主に言いつけると、彼自身も大急ぎで下男のうちでもっとも体格のいい男の服を借り、台所で食料品を確保した。

 その時、ロジアンとトマシンがシューラと一緒に大慌てで帰ってきた。

「亭主! 大変なことになった。大勢のロンゴバルト兵が教会を包囲している。フリースラント様を助けなくては!」

「とりあえず、シューラをここで匿ってください。我々はすぐ出ます……」

「ロジアン! トマシン! 出るな」

 フリースラントが大声で叫んだ。

「フリースラント様?」

 フリースラントが階段を駆け下りてきた。


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