アネンサードの人々

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レイビック伯

第105話 慈悲の家の鳩

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 なんとなく楽しそうで上機嫌のフリースラントがルシアに軽くキスをして、ルシアが真っ赤になっているのに出くわしたロドリックは、思わず「チッ」と言ってしまった。
 もっと早く決着をつければよかったのに。あの数週間は何だったのだ。
 とはいえ、ルシアがガチガチに固まっている様子を見ると、もう少し時間はかかるかもしれなかった。
 しかし、ガチガチになっているということは、本気で嫌がってるわけではないらしい。本気で嫌ならルシアのことだ、なにか手立てを考えるだろう。それが赤くなって困っているだけということは……
 城の中では、いろいろなうわさが飛び交っていたが、所詮、婚約者が婚約者にキスされているだけである。何の差しさわりもない当たり前の情景なので面白くもなんともない。特にデラ達は面白くなさそうだったが、それはどうでもいいことだった。

「後は結婚式だけですよね?」
 ゾフがそう言い、ロドリックも答えた。
「一応」

 これ以上の波乱万丈は願い下げだ。ゾフもロドリックも、それから多分女伯も、後は結婚式だけで済ませたいと切実に希望しているに違いない。

 いつ、結婚式をやるのか知らなかったが、どうせフリースラントのことだ。用意周到に機を見て実行するだろう。
 兄妹ではないことを知らせる直近の最も適当な機会は王太子の結婚式だ。国中で、最も身分の高い貴族たちが残らず集結する王家の行事は、フリースラントの公爵家出身と言う身分と、ルシアを王女と知らしめる絶好のチャンスになる。

「そのあと、結婚式を挙げて、それから王に首都カプトルで祝賀の晩餐会を開いてもらおう。王にはその場に招待された貴族全員にしっかり説明してもらう」


 フリースラントとロドリックは、鉱山の仕事もしなくてはならなかったので、トマシンも交えて今後の計画を練っていた。兄のロジアンは華々しい騎士ぶりで戦闘や政治向きの相談相手をつとめていたが、トマシンは技術者肌でいつのまにか主に金鉱山の責任者になっていた。
 それでも、忠実な彼は、フリースラントのすべての相談にあずかっていた(ルシア問題以外)
  彼らは、王太子の結婚式よりもロンゴバルトの情勢の方に関心があった。

「なぜロンゴバルトが呑気に釣りなんかに専念しているのかさっぱりわからない。ファン島を占拠したなら、すぐにでも仕掛けてくると思っていたのに」

「しかし、ベルブルグからの最新情報によると、ルストガルデ殿は幽閉状態で、ロンゴバルトからの奴隷兵が相当数入っているようですよ」

 トマシンが割り込んだ。
 フリースラントとロドリックは、びっくりしてトマシンの顔を見た。

「一体、どこからそんな情報が入ってくるのだ?」

 ベルブルグの副修道院長ですら、そんな情報は掴んでいなかった。

「奥方様からです」

「母上が?」

「はあ。何しろ慈悲の家では鳩の飼育をされているので……」

「鳩?」

「鳥の鳩か?」

「さようで。足に手紙をくくりつけると、目的地へ飛んでいきます」

 ロドリックもフリースラントも、初めて聞く話に目を丸くした。

「奥方様はレイビック城にお着きになられると、こちらにも鳩の家を作られました」

 トマシンの指す方向には、小さな小屋ができていた。

 ロドリックもフリースラントも目が飛び出そうになった。いつの間に?

「それは、早馬よりも速いわけか?」

 何をご冗談をと言ったように、トマシンはフリースラントの顔を見た。

「ウマなど比較になりません。カプトルまでわずか2日しかかかりません。もっと早いことさえあります」

「それはまた……」

「その代わり、大変なお値段がかかります。今朝も飛んでまいりました。ほら」

 トマシンが手紙らしいものを二人に差し出した。二人は、頭をぶつけそうになりながら、必死になって文面を読んだ。どんな情報がついたと言うのだ?

『なつかしいフィニス。私の命もあとわずか。昨日は私にとって恐ろしいことが起きました。甥のセトルが西の屋敷の維持費の話をしに来たの。 紅茶のカップを甥に投げたら額に当たって、血だらけになりました。アップルパイのフォークを鼻に突き刺そうとしたらシュザンヌに止められました。もう少しだったのに……』

 字は読みにくく、文面は点々と話題が変わり、言いたい放題、フリースランとロドリックが甥のセトルとやらが気の毒になったくらいだった。少なくとも暗号文ではあるまい。署名はマルゴー・アニエスとなっていた。

「ベルブルグでも有数の金持ちのばあさんです」

 トマシンが解説した。これは、ばあさんの泣き言じゃないか。大至急、知らせるような内容ではない。

「ええ、政治的な意味はありません。セトル氏は相続人なのですが、ばあさんがこの調子なので、たまりかねて慈悲の家に預けたのです。もっとも本人は甥が嫌になったので、自分から出て行ったつもりになってますがね。慈悲の家では楽しく暮らしているようです」

「これは、ただの私信ではないのか」

 ロドリックが根本的な問題を指摘した。

「もちろんです。これで三百フローリン戴いております。奥方様の重要なお仕事のうちのひとつでございます。これから奥方様に見せに参ります。鳩便は早さが命と奥方様から言いつかっております」

 トマシンはまじめくさって、大事そうにカバンの中にしまい込んだ。

「アニエス家で、家族間のもめ事が起きると鳩便がビュンビュン参ります。その都度、三百フローリンが奥方様のお手元に入ります」

「この城と慈悲の家は連絡が取れるのか……」

 ロドリックは大家の御曹司とは思えないフリースラントの商魂の逞しさの源泉を見た気がした。ああ、いや、実の親子じゃなかったっけ。

「はい。慈悲の家は、そのほかにかなり南の方の修道院とも連絡が取れます。そちらの方から、ルストガルデ殿の情報が入ってまいります」

 二人の大男は絶句した。つまりレイビックとベルブルグ、その南の修道院は鳩便の回線がつながっていることになる。

「ほかの回線はあるのか?」

「わたくしは存じません。奥方様にお尋ねになられれば……」

 フリースラントとロドリックは、トマシンを押しのけるようにして走り出したが、途中で気が付いてトマシンから、ばあさんからの手紙を巻き上げた。

「これは俺が持っていく」

「は、はあ……」




 ふたりは奥方様の部屋をノックして中に入らせてもらい、マルゴ―ばあさんの手紙を見せた。

「困ったわねえ。マルゴーはわがままなのよ。これと同じような手紙を十通くらい受け取ってるわ」

 二人の男は素早く計算した。3千フローリンになる。一財産だ。

「ええと、すぐに亡くなるような容体ではないわけですか?」

「違うのよ。いわば死ぬ死ぬ詐欺ね。財産は甥には渡さない、慈悲の家に全額寄付すると言って、甥を脅すのが趣味なのです」

「ちなみに財産ってどれくらい?」

「3千万フローリンは下らないと思うの」

 3千万フローリン! 大金持ちの二人だが、顔を見合わせた。大金だ。それはもめるだろう。

「慈悲の家の運営が順調になったと言うのは、単に金持ちも受け入れただけ。お金があっても、嫌な思いや、つらい思いをしている孤独な女性は大勢います。探し出して、慈悲の家で暮らしてもらうのです。目が行き届くので、女中に邪険にされたりしませんからね」

「あのう、母上、立ち入ったことをお伺いするようですが、どこからそんな女性を見つけてくるのですか? たいてい、屋敷内奥深くに一人で暮らしているのでは?」

「教会の聴懺僧とか、こちらから放ったスパイの女中とか、入居者からお友達に手紙を書いてもらったり、いろいろとね」

 母はすらすらと並べ立てた。

 ふたりはあっけに取られて、いかにも上品でむしろ内気そうに見える女伯の顔を観察した。今、スパイとか言いましたよね?

「でも、亡くなったらちゃんと遺産の一部は親族にお返しするのです」

 あたかも、全遺産を受け取るつもりでもあるかのような発言だった。

「全財産を慈悲の家が受け取ってしまうと、親族が警戒して、どんなに本人が行きたがっても、離しませんからね。親族と仲の悪かった度合いに応じて、ちゃんとお返ししているのです。双方の納得はなかなか難しいのよ」

 女伯はため息をついて見せた。しかし、大家の奥方のやることとは、とても思えない。

「そこそこのお金持ちも、遠方の方も受け入れています。遠方の方とご家族が連絡を取れるように、鳩便を作ったのですよ」

 鳩の件については、女伯は自慢そうだったが、フリースラントは念のためもう少し追求してみた。

「あのう、慈悲の家の運営は、どれほどもうかったのでしょうか?」

「あら、儲かるだなんて、そんなこと……。儲けようとしているわけではないのですよ? ただ、皆さんが満足するように……」

「母上、どれほど儲けたのですか?」

「何千万フローリンかは入ってきましたが、その分、女子の教育施設を作ったり、捨て子の受け入れ施設を作ったり、鳩の連絡網を構築するので忙しかったのよ?」

「しかし、母上、その女子の教育施設とやらは、先ごろ、上流の子女が花嫁修業に数週間行くと、値は張るがなかなか淑やか風になると、ベルブルグの裕福な平民の間ではやりになっているとか……」

「あら、うれしいわ」

 ロドリックとフリースラントは、思わず、顔を見合わせた。

 世の中にこんな稼業があるとは考えたことがなかった。
 彼らは単細胞だったので、金を掘って精錬して売るとか、川の運輸を利用して貿易するとか、その程度のことしか思いつかなかったのだ。

「ベルブルグだから成り立つサービスなのよ。裕福な平民がたくさん住んでいますからね。わたくしを慕ってくれる年配の貴族や平民のご婦人方がたくさんいますのよ」

 彼らは、鳩の連絡網の場所だけ確認して、しっぽを巻いて出て行くことにした。どおりで舞踏会の招待リストの作成が迅速かつ的確だったわけだ。

 フリースラントは、大人になって初めて母と対峙してみて、穏やかで優しいだけの母ではなかったことを発見した。
 これでは、商魂がたくましすぎて、奥方様風なのは見かけだけではないか。

「いや、しかし、鳩の連絡網は使えるぞ、フリースラント」

「そりゃ使えるけど……」

「奥方様が意図して構築したのかどうか知らないが、今は非常に役に立つ。多分、本当にルストガルデ殿は幽閉されて、港は占拠されているのじゃないだろうか」

「そんな状態で王太子の結婚式なんかできるのだろうか?」

「おかしいな。何か、おかしい。王室は金に窮していたはずだ。結婚式の費用をどうやって捻出したのだろう」

 しかし、国中が王太子の結婚に沸き立っていた。豪華な式だと評判だった。
 フリースラントは金の出所について疑問を持っていた。いったいどこだろう? 王家の収入を上回る浪費だった。
 彼の計算では、もっと早い時点でインゴットを求めて王家が泣きついてくるはずだった。それがまだ来ない。請求書が一回が来ただけだ。

「レイビック伯爵は式には出るのか?」

「ルシアの婚約者だから、式そのものと翌日の披露の会に出ることになっている。ロドリックはどうなの?」

「俺は無名の修道僧だ。招待状なんか来ない」

 フリースラントは、ちょっとロドリックの顔を見た。

「有名な鋼鉄の騎士だろう? 本当はどこへでも出られるのではないのか? 特別に叙爵の話もあったと聞いたが?」

 ロドリックは首を振った。

「そんなものは要らない。俺は修道僧だ。いつかまた、総主教様のところへ戻るだけだ」

 ロドリックができるだけ目立たないように暮らしていることは知っていた。でも、たった十五年ほど前のことなので、人々は鋼鉄の騎士のことをまだよく覚えていて、特に今のようにロンゴバルトとの関係が険悪だと話題になることも多い。

「女伯はどうするのだ?」

「公式には行方不明のままだ。だから、招待状もない」

「では、ふたりでおとなしく留守番しているよ。この式が終われば何らかの動きがあるような気がする」

 フリースラントは答えなかった。彼も同じことを感じていた。
 隣国とは一触即発の緊張状態だった。王家は破産の危機に瀕している。それなのに、前回の結婚式をはるかに上回る数の招待客を迎えて王太子の結婚式は行われる予定で、国中がお祭り気分だった。

 フリースラントは何か不安を感じていた。


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