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五.富嶽を駆けよ
(六)
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辰は、立ち上がった。
もう何度目の転倒だったのか、数える気も起きなかった。
やはり、留次郎を背負ってこの雪の回廊から逃れるなど出来ないのだろうか。自分は留次郎と共に、この暗く冷たい地の底で人知れず凍り付いていく運命だったのだろうか。
判らない。辰の問いに答えてくれる者も、この場にはいない。
唯一つ判っていることは、このまま動かないままでいたのなら遠からずそれが現実となる確信だけだった。
だから、今は進まなければならない。一歩でも前へ。一寸だけでも前へ。
時折、肩越しに振り返っては背に負った留次郎を確かめる。
少年は、かろうじて呼吸を続けていた。白い呼気は今にも消え去りそうなほど細く、薄く、留次郎の口から規則的にたなびいていた。まだ息があることを確認し、辰は前進を再開する。
「がんばれ……がんばれ……がんばれ……」
それは背に負った留次郎への励ましか、それとも自分への叱咤なのか。最早、辰自身にも判ってはいなかった。
谷を挟み込むように屹立する岩壁の、一ヶ所だけ切り欠かれた様に低くなっている場所があった。まるで土を盛り上げた傾斜路のように、上から流れ落ちてきた雪が切り欠きの下でうず高く積みあがっている。
辰は立ち止まると、上方遥かに見える尾根の頂部を仰ぎ見る。夜空に向かって聳える尾根筋で、風に巻き上げられた雪が辰を誘うように渦を巻いていた。
「やっぱり……ここから尾根の上に……」
「無理だ。その疲れきった身体で、その上留次郎を背負ってちゃ、とてもこの斜面は登れぬよ」
辰の横で、塩谷平内左衛門が腕を組んで上部を見上げている。
その声音は穏やかだったが、辰にはどこまでも冷たく、酷薄であるように思えた。
「そもそも、あの雪氷の中を登っていくこと自体に無理があったのだ。だから私は止めたのだよ、女には無理なのだと」
「違います、それは私が女だったからではなく……」
「何も違わないさ。だからこうして、あんたは死ぬよりも辛い目に遭っているのだ」
「違います!」
常と変わらず藍の長羽織姿の平内左衛門を、辰は睨みつけた。
例えそれが幻だと判っていても、決して看過のできない言葉があった。
「登るのを決めたのは私です。私が今こんな目に遭っているのは、私の思慮が浅かったからです。決して私が女だったからなのではございません!」
辰は、怒りのままにその場を離れた。足が重い。身体が思うように動いてくれない。
まるで蝸牛が如き歩みで離れていく辰を、平内左衛門の幻を纏った雪塊が無表情に見送っている。
命の火が燃え尽きようとする中、わずかでも憤怒をもって心を沸き立たせてくれたこと、それだけは平内左衛門の幻へ感謝したいと思っていた。
凍りついた谷底を這いずり続ける辰に、様々な人物が話しかけてくる。
養母の静が、山のように麦焦がしの盛られた盆を手に現われ、しきりに「これを食べて元気を出しなさい」と薦めてきた。
八行が福々しい顔立ちのままに並んで歩き、辰の身体のあちこちを指差しては「それじゃ雪が吹き込んできますから、この様にした方がいいです」と手本を見せてくれた。
その一人一人に受け答えしながら、辰は少しずつ、少しずつ谷の出口へ向けて進み続ける。
それが幻聴であったとしても、この孤独な場所で一時でも寂しさを紛らわせてくれる彼等の言葉が、辰には何よりも有り難かった。
谷の両岸の岩壁は、再び辰の手の届かぬ高さとなって続いている。表面に氷を貼り付けた岩壁は、うっすらと月の光を反射しながら麓へ向かって流れ落ちている。
辰の不明瞭な視界の中で、岩壁は歪み、形を変え、やがて闇夜に沈む吉田御師町の風景となっていった。
塩谷家の屋敷の前で、誰かが富士の方角を仰ぎ見ている。夜半前を迎え、人通りの途絶えた表通りに立って、痩せぎすの男が真っ直ぐに南の空を見上げている。
その顔を認めた時、辰は走り寄ってその身に縋り付きたい衝動に駆られた。
「──万次郎さま!」
しかし、辰の声は届かない。
驚く事に、万次郎の姿は出立を見送ってくれた時のままだ。目の下に黒々と隈が浮いているのは、もしかするとあれから一睡もできていないのではあるまいか。
疲労が色濃く染み付いた顔に何処か物憂げな表情を浮かべ、万次郎は一心に富士の御山を見上げていた。
「そこでそうやっていても、まだ皆様は帰って来やしませんよ。中で待たれては如何ですか」
平内左衛門の妻の声が屋敷の中から聴こえるが、万次郎は首を振るとその場に立ち続けている。
「いえ。ここで待ちたいのです。この場所で、富士登拝という大願を成し遂げたあの方を迎えたいのです。どうぞお気遣いなく」
「何とまあ、それ程までに想われているとは。女冥利に尽きるってもんですねえ」
屋敷から響くころころとした声に、万次郎がくすりと笑った。
「私には、過ぎた嫁御です」
「あらあら、お熱い事で。お帰りになったら、たんと労ってあげてくださいな」
「勿論そのつもりです。三国一の嫁として、村を挙げて祝って差し上げたいと思っています」
「それはもう、お辰さんは何としても戻ってこなくちゃですねえ……。御満足されたら中にお入りくださいませ、お風邪でも召されようものなら、私が平内左衛門から叱られてしまいますからね」
その言葉に頷きながら、なお万次郎は誰もいない夜の通りに独り佇んでいる。
どこか寂しげな婚約者の幻影が、少しずつ、少しずつ辰の視界から遠ざかっていく。
蜃気楼のように消え去ろうとする吉田御師町の風景に向けて、辰は心の中で叫んだ。
──万次郎さま、もう少しだけお待ちくださいませ。お辰は必ずや、必ずや貴方の元へ帰ります!
留次郎を背負い直し、再び歩き出した。
そうだ、こんな所で止まっているわけにはいかないのだ。
自分には、待たせている人がいる。こんなにも、自分の無事を祈ってくれている人達がいる。
彼等の元へと帰り着き、そして富士の御山で自分が見聞したことを全ての女達に伝えるまでは、死んでも死にきれるものか。
あの実母に似た美しい御方との約束を果たすまでは、この足を止めてなるものか!
もう何度目の転倒だったのか、数える気も起きなかった。
やはり、留次郎を背負ってこの雪の回廊から逃れるなど出来ないのだろうか。自分は留次郎と共に、この暗く冷たい地の底で人知れず凍り付いていく運命だったのだろうか。
判らない。辰の問いに答えてくれる者も、この場にはいない。
唯一つ判っていることは、このまま動かないままでいたのなら遠からずそれが現実となる確信だけだった。
だから、今は進まなければならない。一歩でも前へ。一寸だけでも前へ。
時折、肩越しに振り返っては背に負った留次郎を確かめる。
少年は、かろうじて呼吸を続けていた。白い呼気は今にも消え去りそうなほど細く、薄く、留次郎の口から規則的にたなびいていた。まだ息があることを確認し、辰は前進を再開する。
「がんばれ……がんばれ……がんばれ……」
それは背に負った留次郎への励ましか、それとも自分への叱咤なのか。最早、辰自身にも判ってはいなかった。
谷を挟み込むように屹立する岩壁の、一ヶ所だけ切り欠かれた様に低くなっている場所があった。まるで土を盛り上げた傾斜路のように、上から流れ落ちてきた雪が切り欠きの下でうず高く積みあがっている。
辰は立ち止まると、上方遥かに見える尾根の頂部を仰ぎ見る。夜空に向かって聳える尾根筋で、風に巻き上げられた雪が辰を誘うように渦を巻いていた。
「やっぱり……ここから尾根の上に……」
「無理だ。その疲れきった身体で、その上留次郎を背負ってちゃ、とてもこの斜面は登れぬよ」
辰の横で、塩谷平内左衛門が腕を組んで上部を見上げている。
その声音は穏やかだったが、辰にはどこまでも冷たく、酷薄であるように思えた。
「そもそも、あの雪氷の中を登っていくこと自体に無理があったのだ。だから私は止めたのだよ、女には無理なのだと」
「違います、それは私が女だったからではなく……」
「何も違わないさ。だからこうして、あんたは死ぬよりも辛い目に遭っているのだ」
「違います!」
常と変わらず藍の長羽織姿の平内左衛門を、辰は睨みつけた。
例えそれが幻だと判っていても、決して看過のできない言葉があった。
「登るのを決めたのは私です。私が今こんな目に遭っているのは、私の思慮が浅かったからです。決して私が女だったからなのではございません!」
辰は、怒りのままにその場を離れた。足が重い。身体が思うように動いてくれない。
まるで蝸牛が如き歩みで離れていく辰を、平内左衛門の幻を纏った雪塊が無表情に見送っている。
命の火が燃え尽きようとする中、わずかでも憤怒をもって心を沸き立たせてくれたこと、それだけは平内左衛門の幻へ感謝したいと思っていた。
凍りついた谷底を這いずり続ける辰に、様々な人物が話しかけてくる。
養母の静が、山のように麦焦がしの盛られた盆を手に現われ、しきりに「これを食べて元気を出しなさい」と薦めてきた。
八行が福々しい顔立ちのままに並んで歩き、辰の身体のあちこちを指差しては「それじゃ雪が吹き込んできますから、この様にした方がいいです」と手本を見せてくれた。
その一人一人に受け答えしながら、辰は少しずつ、少しずつ谷の出口へ向けて進み続ける。
それが幻聴であったとしても、この孤独な場所で一時でも寂しさを紛らわせてくれる彼等の言葉が、辰には何よりも有り難かった。
谷の両岸の岩壁は、再び辰の手の届かぬ高さとなって続いている。表面に氷を貼り付けた岩壁は、うっすらと月の光を反射しながら麓へ向かって流れ落ちている。
辰の不明瞭な視界の中で、岩壁は歪み、形を変え、やがて闇夜に沈む吉田御師町の風景となっていった。
塩谷家の屋敷の前で、誰かが富士の方角を仰ぎ見ている。夜半前を迎え、人通りの途絶えた表通りに立って、痩せぎすの男が真っ直ぐに南の空を見上げている。
その顔を認めた時、辰は走り寄ってその身に縋り付きたい衝動に駆られた。
「──万次郎さま!」
しかし、辰の声は届かない。
驚く事に、万次郎の姿は出立を見送ってくれた時のままだ。目の下に黒々と隈が浮いているのは、もしかするとあれから一睡もできていないのではあるまいか。
疲労が色濃く染み付いた顔に何処か物憂げな表情を浮かべ、万次郎は一心に富士の御山を見上げていた。
「そこでそうやっていても、まだ皆様は帰って来やしませんよ。中で待たれては如何ですか」
平内左衛門の妻の声が屋敷の中から聴こえるが、万次郎は首を振るとその場に立ち続けている。
「いえ。ここで待ちたいのです。この場所で、富士登拝という大願を成し遂げたあの方を迎えたいのです。どうぞお気遣いなく」
「何とまあ、それ程までに想われているとは。女冥利に尽きるってもんですねえ」
屋敷から響くころころとした声に、万次郎がくすりと笑った。
「私には、過ぎた嫁御です」
「あらあら、お熱い事で。お帰りになったら、たんと労ってあげてくださいな」
「勿論そのつもりです。三国一の嫁として、村を挙げて祝って差し上げたいと思っています」
「それはもう、お辰さんは何としても戻ってこなくちゃですねえ……。御満足されたら中にお入りくださいませ、お風邪でも召されようものなら、私が平内左衛門から叱られてしまいますからね」
その言葉に頷きながら、なお万次郎は誰もいない夜の通りに独り佇んでいる。
どこか寂しげな婚約者の幻影が、少しずつ、少しずつ辰の視界から遠ざかっていく。
蜃気楼のように消え去ろうとする吉田御師町の風景に向けて、辰は心の中で叫んだ。
──万次郎さま、もう少しだけお待ちくださいませ。お辰は必ずや、必ずや貴方の元へ帰ります!
留次郎を背負い直し、再び歩き出した。
そうだ、こんな所で止まっているわけにはいかないのだ。
自分には、待たせている人がいる。こんなにも、自分の無事を祈ってくれている人達がいる。
彼等の元へと帰り着き、そして富士の御山で自分が見聞したことを全ての女達に伝えるまでは、死んでも死にきれるものか。
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