富嶽を駆けよ

有馬桓次郎

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五.富嶽を駆けよ

(二)

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 山が、鳴動している。

 吹き寄せてくる風の嘶きが幾重にも積み重なり、まるで地の奥底で巨大な何かが蠢いているような重い音となって山を震わせている。
 それまでは山頂から見下ろす高さにあった雲海は、徐々に密度を増しながら少しずつ上へ、上へと成長を遂げていた。錦の山々を見通すことが出来た切れ間は今やどこにも無く、彼方へ落ちていこうとする陽の光を受けて不気味な赤銅色に彩られている。
 山頂を吹き渡る風は、今はまだ弱い。しかし、確実に先程よりも強くなっている。
 これが嵐の前の静けさというものだろうか、ふとそんな事を考えて、辰はその言葉の意味するところにおののいた。もしもこれから嵐になるというのなら、それに難渋するのは間違いなく自分達なのだ。

 慌てて自らの装束を確かめる。
 上は襦袢に角袖、行衣と綿入半纏を重ね、更に蓑で肩と背中を覆っている。下は股引に野袴を二枚、尻に鹿革の敷物を巻き、足下は脚絆に足袋を重ね履きして、荒縄を巻いた草鞋を履いていた。
 周囲を見回すと、誰もが辰と同じように着膨れていた。三志と八行、善行は半纏を羽織らず、背負子に縄で括り付けてある。恐らくは、必要に応じて着込もうというのだろう。
 自分もそれに倣おうと思ったが、恵行に止められた。

「あの方々は、御山に慣れているから出来るのです。貴女は着込んでおいた方がいい」
「それくらい、これから冷え込むという事なのでしょうか」
「判りません。が、冷え込まなかったら相当に運が良い、ということになろうかと」

 その言葉に、辰はぐっと奥歯を噛み締める。そんな場所へ、自分達はこれから我が身一つで踏み込んでいくのだ。

「──良いか!」

 薬師ヶ嶽役場の石室の前、下り口の石段に立った三志が、一同を見渡しながら鋭く叫んだ。

「これから七合五勺の烏帽子岩まで一気に下る。しばらくは胸突の急な斜面だ、下手に浮石なんぞへ足を置かねえよう、一歩一歩足下を確かめていくんだ」

 それは、まるでこれから戦に臨むかのような音声おんじょうだった。
 左右へ向けられる表情に寸毫も甘さなど見えず、どこまでも冷厳な眼光は辰の背筋を否が応にも震わせる。

「胸突を下っている間は斜面に腹を向け、両の腕と脚で身体を支えながら下っていけ。万が一、滑り落ちるようなことがあれば斜面に這い、身体全体を使って何としても食い止めよ。止められなけりゃ命が無いものと思え!」

 重く頷き返す男達に囲まれながら、辰は大きく深呼吸する。
 あの氷の崖のようであった胸突八丁を、これから下っていくのである。覚悟を決めなければならない。

 先頭の善行が、一歩一歩踏みしめながら斜面を下り始めた。善行のつけた道を辿り、続いて三志が両手両足を衝いて下っていく。辰は三志に続いて三番目、以降は留次郎、八行と続き、最後尾は恵行が固めて一行を俯瞰する布陣であった。
 往路にはそこかしこに雪がついていた胸突の急傾斜は、昼間の暖気で溶け流れた水によって一面に薄い氷が張っていた。
 手がかりに添えた両手から錐で突き通すような痛みが這い登ってくるが、ここで手を離せば氷盤の上を奈落の底まで落ちていってしまうだろう。辰は歯を食いしばって、指先を走る激痛に耐え続ける。

 その時が訪れたのは、胸突の半ばを過ぎて迎薬師社の屋根が間近に見えてきた頃合であった。
 ずっと下方から、斜面に沿って何かの気配が這い登ってくる。何の気無しに、辰は右の腋下から斜面の落ち行く先を覗き込んだ。

「──霧?」

 周囲全てが白い幕に包まれた次の瞬間、凄まじい圧力が辰の身体に襲い掛かった。
 ふわり、と身体が浮いたと見るやすぐに地面へ叩きつけられ、全身を走り抜けた痛みに辰は声も無く苦悶する。
 それは、渦を巻きながら山体を駆け上がってきた旋風であった。これまで辰が出会ってきたどんな風よりも強烈な、自然が生み出した悪意そのものの烈風であった。
 三志と八行が南の空に見たつるし雲、それを作り上げた猛烈なまでの大気の擾乱へ、遂に彼等は絡め取られたのだ。

「クソッ!」

 耳元で吹き鳴らされる風音の向こうから、誰かの発した呻き声が微かに聞こえてくる。

「耐えろ! そう長くは続かねえ、腹這いになって耐えるんだ!!」

 大地を抱き留める様に這いつくばった。旋風は地面との隙間へ潜り込み、辰の身体を引き剥がそうと暴れ狂う。
 どこかに身を隠せる場所は無いか、そう考えて視線を上げた刹那、すぐ脇の斜面を転がりながら滑り落ちていく黒い影を、辰は確かに見た。

「誰だ、誰が落ちた!?」

 三志の声が聞こえる。目の前に、留次郎の足はあった。だとすると落ちていったのは八行か、その上の恵行だろうか。
 次第に、旋風はその勢いを弱めていく。代わりに吹き始めたのは、横殴りの飛雪であった。先程よりも圧が弱まったとはいえ、それは辛うじて斜面に立つことが出来るというだけの、猛吹雪である事に違いは無かった。
 いまだ斜面を這ったままの留次郎の向こうで、八行が杖で身体を支えながら下界に視線を向けている。落ちていったのは、最後尾の恵行であった。
 胸突の斜面を下りきった先、雪に覆われた迎薬師社の手前に、誰かが大の字になって倒れている。辰の見下ろす向こうで、その人影はゆっくりと雪原の上に身を起こし、こちらに向けて大きく手を振っていた。

「良かった……恵行さん……大事無えみたいだ……」

 荒い息を繰り返しながら、留次郎が言う。
 その顔にはどことなく生気が無く、吹きつのる飛雪の幕に溶け込んでしまうほど青白く見えた。

「留ちゃんは大丈夫なの? 随分と疲れてるように見えるけど……」
「ちょいとだけな。でも、大丈夫だよ」

 しきりに大丈夫、大丈夫と繰り返しながら、辰を追い抜いて斜面を下っていってしまう。
 思えば早朝に五合目を出立してからここまで、禄に食事も摂っていないのだ。辰は心身共に疲れ果てていたし、それは留次郎も同じであろう。
 留次郎が夢現の間を行きつ戻りつしているように見えて、辰はその様子にどうしても不安を覚えてしまう。

「歩けなくなるくらい疲れたなら、姉ちゃんに言ってね。姉ちゃん、こう見えて力だけはあるから。留ちゃんを担いででも、麓まで連れてってあげる」

 痩せ我慢も同然の言葉に、留次郎は薄く笑うのみで何も返してくることは無かった。

 かろうじて胸突を下りきり、それまでとは幾分か傾斜が緩やかになったところで、辰は立ち上がった。
 背後を振り返り、吹雪の向こうに透かし見える山肌の様子に、ひゅっと息を呑む。

「何も、無い……!」

 往路には雪氷と黒砂が混在していた斜面は、完全に新雪で覆い尽くされていた。どこが登拝道なのか皆目判らず、ただ真っ白で平坦な雪の斜面が麓に向かって流れ落ちているように見えた。
 頂上から下り始めて四半刻も経っていないのに、これ程状況が変わってしまうものか。辰は、富士という神性が作り出げた非情なまでの世界を、言葉無く見つめ続ける。

 こんもりした雪溜まりのようになった迎薬師社の脇で、先行していた三志と善行が滑落した恵行を介抱していた。
 恵行の意識は、はっきりしている。ただし、立ち上がることができないようだった。
 御山の経験が比較的ある恵行だけに、落ちていく途中で両手両足を広げて何とかそれ以上の滑落は避けることが出来たものの、新雪の中に埋もれていた岩か何かに足を打ちつけたらしい。吹雪が覆う薄暮にもはっきりと判るほど、恵行の左足首は大きく腫れあがっている。

「……折れちゃいねえようだな。不幸中の幸いって奴だ」

 三志は恵行の足に添え木を当ててさらしで硬く縛り上げると、その左腕を取って自らの肩に回した。

「善行、そっちの肩を持て。二人で担いでいくぞ」

 その言葉に、八行が小さく目を剥いた。

「御尊師さま自ら、ですか。私が代わりましょう」
「八行、お前は先に立って道を作っていけ。恵行を抱えてちゃ足元が疎かになる、道から外れねえように、お前が俺達の前から指示するんだ」

 吹雪は、ますます勢いを増しつつあった。
 降り積もった雪は、場所によっては既に膝のすぐ下辺りまで深くなっており、ここから先は新雪を掻き分けながらの行路を強いられることになる。だが道を外して雪屁せっぴを踏み抜けば、脇を流れる大沢へまっしぐらに落ちていくだろう。
 吉田口登拝道は大沢の東尾根の上につけられており、そして大沢は御山の上部ほど切り立った崖に囲まれている。もし大沢へ滑落すれば間違いなく命は、無い。
 三志は、自分の次に経験のある八行に安全な道を見極めさせることで、この難局を乗り越えようとしていたのだ。

 行進が再開された。
 先頭を行く八行が新雪を踏みしめて道を作り、その後ろを恵行を担いだ三志と善行が、ふらふらとした足取りの留次郎が、そして最後尾から辰が、それぞれ続いていく。
 吹雪は富士の斜面を這い回るように、彼等の四方から吹き付けていた。酷くなる一方の吹雪は視界を少しずつ覆いはじめ、まるで世界の全てが白い絹布で包まれているように辰には思えた。
 彼方にぼんやりと浮かび上がった影こそが、目指す七合五勺の烏帽子岩に違いない。あそこまで辿り着けば、その下の岩室に平内左衛門と強力達の手で温かな食事も湯も用意されているはず。
 ただそれだけを信じて、辰は雪原の中につけられた細道を一歩、一歩と歩き続ける。
  
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