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三.甲州上吉田
(四)
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「高山の……いいえ、残念ながら」
首を振る辰に気を悪くするでもなく、経文を諳んじるような声音で万次郎が続ける。
「今をさること三百年ほど昔、弾正信長公、太閤秀吉公、それに東照権現様にお仕えした、切支丹の将です。三人の天下人に仕えた彼は、最後の東照権現様が発した伴天連追放令によって遠く呂宗まで流され、間もなくその地で没しました」
切支丹。
不意に流れてきたその一言に、辰の背筋へ冷たいものが走る。
それは、ただ信仰と呼べるほど生易しいものではない。その教えに染まっていると見なされたら一族郎党の皆が獄門は免れ得ない、恐ろしい邪教の徒。それが、辰も含めた庶民一般の切支丹に対する認識だったのだ。
震え上がる辰の心象を知ってか知らずか、万次郎は微笑を浮かべたまま言葉を重ねた。
「しかし彼の奥方と子供は、伴天連の教えを捨て去ることで日ノ本へ戻ることを許され、加賀の前田様の庇護の下で現在まで血脈をつなぐことが出来たのです──我が高山家は、その係累に連なる家とされています」
「で、では万次郎さまも……!」
「ああいえ、ご心配なく。我が家には最早、伴天連のバの字も残されてはいません。童の頃に寝物語として、口伝されてきた摩利弥の話を聞かされたくらいですね」
なんだ──と、辰は胸をなでおろした。
幾ら女の身で富士の高嶺を目指そうとする撥ねっ返りとはいえ、将来の夫となるべき人が実は切支丹であった等ということは、流石に我が身には重過ぎる話であった。ただ嫁に行くだけでは済まない、求められる覚悟の度合いが違い過ぎる。
安心する様が見てとれたのだろう、万次郎は鼻先を掻きながら苦笑する。
「ハハ……まあ、その話を聞くとすぐに寝入ってしまったので、詳しくは覚えちゃいないのですが……」
詳しく覚えていなくて良かったと思いますよ。そう、辰は心中でしみじみ呟く。
「それでですね。何でも伴天連の教えでは、天帝の前において人は身分や男女も関係なく、どこまでも等しい存在なのだそうですよ」
「それって……」
「ええ。仙元菩薩の御前において、人は等しく平らかと説いた角行東覚さまや食行身禄さま、そしてそこに男女も含めた小谷三志さまの教えと、伴天連の教えはどこか似ていますよね」
確かに、興味深い。
遥か大海に隔てられた二つの地域で、それぞれ伝えられてきた異なる教えの中に、まさか同様の思想が流れていようとは。
辰は、その意外な類似性にどこか不思議な感慨を得ていた。
二つの教えが、今日までの長い歩みの中で互いに触れ合うことは無かっただろう。それでも、各々が遠大な思考の旅を続けてきた末に同じ地点へ至ったというのなら、あるいは人の真理もまた不変のものなのかもしれない──。
辰は、決して宗教者ではない。
富士講の教義に触れたのだって富士登拝という大願を抱えて以降の話で、それまでは盆暮れ正月に近所の権現を参拝する程度の、至って普通の庶民だったのだ。
だが、小谷三志と出会って不二孝の思想に触れ、今また万次郎に二つの教えの類似性を指摘される中で、怒濤のように自らの心中へ流れ込んでくる何物かがあることに気付いていた。
その正体が何であるかは、判らない。しかし、それは人として見逃してはならぬもの、もしかすると生涯を掛けて考え抜かねばならぬものだと、辰は思い始めていたのだ。
「──お辰さん。私がどうして貴女の富士登拝を手助けするのか、その理由を知りたいのでしたね」
ハッとして、辰は将来の夫を見た。万次郎は、まるで玩具を見せびらかす童のような笑みを浮かべている。
それでいて瞳には強い熱情が宿り、辰はその熱さに惹き込まれていく思いがした。
「私の妻にと見初めた方が、一生一度の大願として富士の頂に立ちたいと願っておられた。ならば夫として、その願いを叶えて差し上げたい。それと共に我が家から失われてしまった教えが、形を変えて成就するその様を、この目で見てみたい──貴女が富士の頂に立つこと、その事に私も一生一度の大願を掛けたのですよ」
その真摯な言葉に、辰は息を呑む。
──この方も、また。
自分が、女の身でありながら富士の頂へ立とうと大願を掛けたように。三志が、男女和合の成就のため富士の女人開山を願い続けていたように。
万次郎もまた、辰が富士の頂を究めることで開かれるであろう新たな時に、恋焦がれてきたのだ。
胸中が、乱打される鼓のように高鳴っていく。
それは、万次郎の真意が判ったからだけではない。願いを同じくする目の前の人物と、この先も末永く、共に手を携えて歩んでいける事への純粋な喜びであった。
万次郎の両手を、がしりと掴む。
「万次郎さま!」
「は、はいっ!?」
目を丸くする万次郎へ、辰は一息に告げた。
「無事に戻ってきたら、私と夫婦になりましょう!!」
万次郎は、呆気にとられている風だった。
当然である。二人は許婚である以上、近い将来においてそうなることが決まっているのだ。
だが、あえて辰は確定された未来を告げた。今のこの気持ちは、それで必ずや万次郎に伝わるはずだと信じていた。
やがて、万次郎がそっと辰の手を握り返してきた。
まるで壊れ物でも扱うように、それは柔らかく慈愛に満ちた感触だった。
「……百姓の暮らしは大変ですよ。幾ら我が家が名主庄屋とはいえ、毎日が空を睨みながらの神仏頼み、運任せの生活であることは変わりません」
「大丈夫です、私は元々百姓の生まれですから!」
「それに、私は男の癖にひ弱な身体です。貴女に過大な負担をかけてしまうかも知れない」
「どんと来いです、万次郎さまの一人や二人、この大きな身体で担ぎ上げてみせます!」
支えてみせます、ではなく、担ぎ上げてみせます、というところが辰の辰たる所以であろう。
万次郎は一つ、大きく頷いた。春の陽のような温かい笑顔を浮かべながら。
それは辰の想いを、しっかりと万次郎が受け止めた証であった。
「ならば私は、ここで貴女を待っています。存分に本懐を遂げられた後、無事に私の元まで帰って来てください」
辰は、くるりと身を翻した。最早この場に思い残した事など、何も残されてはいない。
全身を駆けめぐる幸福感に身を震わせながら、富士に向かって駆けていく。なるべく目立たず騒がずに、という登拝の条件すら忘却の彼方へ放り投げ、辰は靄がかった空に向けて高らかに告げた。
「大望を、果たして参ります!!」
首を振る辰に気を悪くするでもなく、経文を諳んじるような声音で万次郎が続ける。
「今をさること三百年ほど昔、弾正信長公、太閤秀吉公、それに東照権現様にお仕えした、切支丹の将です。三人の天下人に仕えた彼は、最後の東照権現様が発した伴天連追放令によって遠く呂宗まで流され、間もなくその地で没しました」
切支丹。
不意に流れてきたその一言に、辰の背筋へ冷たいものが走る。
それは、ただ信仰と呼べるほど生易しいものではない。その教えに染まっていると見なされたら一族郎党の皆が獄門は免れ得ない、恐ろしい邪教の徒。それが、辰も含めた庶民一般の切支丹に対する認識だったのだ。
震え上がる辰の心象を知ってか知らずか、万次郎は微笑を浮かべたまま言葉を重ねた。
「しかし彼の奥方と子供は、伴天連の教えを捨て去ることで日ノ本へ戻ることを許され、加賀の前田様の庇護の下で現在まで血脈をつなぐことが出来たのです──我が高山家は、その係累に連なる家とされています」
「で、では万次郎さまも……!」
「ああいえ、ご心配なく。我が家には最早、伴天連のバの字も残されてはいません。童の頃に寝物語として、口伝されてきた摩利弥の話を聞かされたくらいですね」
なんだ──と、辰は胸をなでおろした。
幾ら女の身で富士の高嶺を目指そうとする撥ねっ返りとはいえ、将来の夫となるべき人が実は切支丹であった等ということは、流石に我が身には重過ぎる話であった。ただ嫁に行くだけでは済まない、求められる覚悟の度合いが違い過ぎる。
安心する様が見てとれたのだろう、万次郎は鼻先を掻きながら苦笑する。
「ハハ……まあ、その話を聞くとすぐに寝入ってしまったので、詳しくは覚えちゃいないのですが……」
詳しく覚えていなくて良かったと思いますよ。そう、辰は心中でしみじみ呟く。
「それでですね。何でも伴天連の教えでは、天帝の前において人は身分や男女も関係なく、どこまでも等しい存在なのだそうですよ」
「それって……」
「ええ。仙元菩薩の御前において、人は等しく平らかと説いた角行東覚さまや食行身禄さま、そしてそこに男女も含めた小谷三志さまの教えと、伴天連の教えはどこか似ていますよね」
確かに、興味深い。
遥か大海に隔てられた二つの地域で、それぞれ伝えられてきた異なる教えの中に、まさか同様の思想が流れていようとは。
辰は、その意外な類似性にどこか不思議な感慨を得ていた。
二つの教えが、今日までの長い歩みの中で互いに触れ合うことは無かっただろう。それでも、各々が遠大な思考の旅を続けてきた末に同じ地点へ至ったというのなら、あるいは人の真理もまた不変のものなのかもしれない──。
辰は、決して宗教者ではない。
富士講の教義に触れたのだって富士登拝という大願を抱えて以降の話で、それまでは盆暮れ正月に近所の権現を参拝する程度の、至って普通の庶民だったのだ。
だが、小谷三志と出会って不二孝の思想に触れ、今また万次郎に二つの教えの類似性を指摘される中で、怒濤のように自らの心中へ流れ込んでくる何物かがあることに気付いていた。
その正体が何であるかは、判らない。しかし、それは人として見逃してはならぬもの、もしかすると生涯を掛けて考え抜かねばならぬものだと、辰は思い始めていたのだ。
「──お辰さん。私がどうして貴女の富士登拝を手助けするのか、その理由を知りたいのでしたね」
ハッとして、辰は将来の夫を見た。万次郎は、まるで玩具を見せびらかす童のような笑みを浮かべている。
それでいて瞳には強い熱情が宿り、辰はその熱さに惹き込まれていく思いがした。
「私の妻にと見初めた方が、一生一度の大願として富士の頂に立ちたいと願っておられた。ならば夫として、その願いを叶えて差し上げたい。それと共に我が家から失われてしまった教えが、形を変えて成就するその様を、この目で見てみたい──貴女が富士の頂に立つこと、その事に私も一生一度の大願を掛けたのですよ」
その真摯な言葉に、辰は息を呑む。
──この方も、また。
自分が、女の身でありながら富士の頂へ立とうと大願を掛けたように。三志が、男女和合の成就のため富士の女人開山を願い続けていたように。
万次郎もまた、辰が富士の頂を究めることで開かれるであろう新たな時に、恋焦がれてきたのだ。
胸中が、乱打される鼓のように高鳴っていく。
それは、万次郎の真意が判ったからだけではない。願いを同じくする目の前の人物と、この先も末永く、共に手を携えて歩んでいける事への純粋な喜びであった。
万次郎の両手を、がしりと掴む。
「万次郎さま!」
「は、はいっ!?」
目を丸くする万次郎へ、辰は一息に告げた。
「無事に戻ってきたら、私と夫婦になりましょう!!」
万次郎は、呆気にとられている風だった。
当然である。二人は許婚である以上、近い将来においてそうなることが決まっているのだ。
だが、あえて辰は確定された未来を告げた。今のこの気持ちは、それで必ずや万次郎に伝わるはずだと信じていた。
やがて、万次郎がそっと辰の手を握り返してきた。
まるで壊れ物でも扱うように、それは柔らかく慈愛に満ちた感触だった。
「……百姓の暮らしは大変ですよ。幾ら我が家が名主庄屋とはいえ、毎日が空を睨みながらの神仏頼み、運任せの生活であることは変わりません」
「大丈夫です、私は元々百姓の生まれですから!」
「それに、私は男の癖にひ弱な身体です。貴女に過大な負担をかけてしまうかも知れない」
「どんと来いです、万次郎さまの一人や二人、この大きな身体で担ぎ上げてみせます!」
支えてみせます、ではなく、担ぎ上げてみせます、というところが辰の辰たる所以であろう。
万次郎は一つ、大きく頷いた。春の陽のような温かい笑顔を浮かべながら。
それは辰の想いを、しっかりと万次郎が受け止めた証であった。
「ならば私は、ここで貴女を待っています。存分に本懐を遂げられた後、無事に私の元まで帰って来てください」
辰は、くるりと身を翻した。最早この場に思い残した事など、何も残されてはいない。
全身を駆けめぐる幸福感に身を震わせながら、富士に向かって駆けていく。なるべく目立たず騒がずに、という登拝の条件すら忘却の彼方へ放り投げ、辰は靄がかった空に向けて高らかに告げた。
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