鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第五章 進み直した冬

48th Mov. 悩みとバレンタイン

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 練習を重ねて過ごした日々。今はもう2月になっている。
 数えてみれば発表会まで三か月を切っていた。
 12月から取り組んできたブルグミュラーの『無邪気』、『狩り』、『牧歌』などの課題曲は仕上がり、先生に合格をもらえた。

 課題曲は変わっていっても『指の練習曲集ハノン』という教本だけは、継続して続けている。もうほとんど無意識に弾けるようになっているが、それでもこれだけは手放せなくなった。

 そして、今日は発表会の曲を決める日でもある。

 ※

「年末からここまで良く頑張ってきたわね。課題曲は予定より早めに仕上がったし」
「ありがとうございます。発表会の曲の練習時間を多く取りたかったもので」

「そうね。ちょっと早いけど、決めてしまいましょうか」
「先生はどの曲が妥当だと思いますか?」

「うーん。野田君の考え方を尊重するなら、ブルグミュラーの『バラード』、『タランテラ』、『貴婦人の乗馬』あたりかしら。ただ、時間に余裕が出来たから、ショパンのエチュードも出来なくはないはずよ」
「……そうですか。あの、良ければ、ブルグミュラーの三曲を聞かせてもらえませんか?」

「それなら音源があるから、聴いてみて判断したら良いわ。私が弾いちゃうと演奏に引っ張られちゃうといけないし。譜面に沿った弾き方をしている音源だから、フラットな気分で聴いてみて」
「わかりました。そうしてみます」

「あの……、先生、僕でもショパン弾けますか?」
「弾けるわよ。どんな曲だって」

「そうですか……。弾けるんですね」
「そう。弾けるの。後は自分が何をどんな風に弾きたいかだけ」

「……少し考えてみます」

 ※

 発表会で弾く演奏曲決め。
 思考は堂々巡りで答えが出ない。

 自分の世界から引き揚げられた意識。
 しゃがみ込んで見上げる彼女の顔が目の前にあった。
 澄み渡る夜空。そこに煌めく星々の光が彼女の瞳を彩っている。
 湿った暖かさを感じる彼女の吐息に、僕は現実に引き戻された。

 思いもよらぬ現実に驚いて身を引いた僕。
 その僕を余所に、彼女は得意げに名探偵のように顎を撫でる。

「何に悩んでいるか当ててみせようぞ」
「えっ? 悩んでいるように見える?」

「分かるよ。拓人君が思っている以上に顔に出てるから」
「そうなんだ……。多分気が付いていると思うけど、発表会の演奏曲をどうしようかって」

「あ~! 私が当てようと思ってたのに!」
「あっ……。ごめん」

「良いよー! 発表会の演奏曲だよね。悩んじゃうのも当然だもん」
「前に紬《つむぎ》と決めたはずなんだけどさ。どうしても他の選択肢が気になっちゃって」

「お母さんとはどんな話になってるの?」
「結先生とはブルグミュラーの『バラード』、『タランテラ』、『貴婦人の乗馬』あたりかなって。ただ、時間もあるからショパンの『エチュード』もいけるんじゃないかって言ってくれて……」

「逆にそれが悩みの種になっちゃったのかな」
「そう。諦めてたって言うと言い過ぎかもしれないけど、ショパンは無理だろうって思っていたから。もしかしたらショパンを弾けるのかもって思うとさ」

「拓人君はどうしてショパンが弾きたいの?」
「それは君が……。いや、何でもない。――単に憧れかな。ショパンって誰でも知っているような人の曲を弾けるようになりたいっていう」

「……何かをしたいっていう気持ちは原動力になるもんね。どんな理由でも」
「そうだね。失敗したくない気持ちもあるし、ハッキリ答えが出なくて」

「失敗したくないよね。たくさんの人の前で演奏するんだし」
「うん。もう失敗したくないよ」

「拓人君の演奏なんだから、好きな曲を弾けば良いと思うよ。コンテストじゃないし上手く弾かなくたって、曲の解釈が独特だって」
「うん。好きな曲……。好きな作曲家はずっと変わらないんだ。ただ、僕がその人に追い付けていないだけで」

「そっか……」
「…………」

 何か言葉を返すべきだと思うけれど、何を言うのが正解か分からない。
 それにこれ以上、口を開いては余計なことを言ってしまいそうな気がする。

「そうやって頭を使った時には栄養を取らなきゃね! ちょうどここに打って付けのものがあるのです!」

 そう言って彼女が差しだしたのは、綺麗にラッピングされた四角い箱。
 結ばれたリボンは黒くて、白い部分の鍵盤がプリントされている。
 これは時期的にもアレだろう。人生で初めて同年代の女性からもらったことになるアレだ。

「チョコかな? 開けても良い?」
「もちろん! 感想をもらえると嬉しいな! バレンタインで男の子にチョコあげるの初めてだから」

「えっ? そうなの?」
「一応ね! 厳密に言うと、クラスの女子とかと一緒に、焼き菓子をあげたりとかはしたことはあるけど。一人の男の子のために手作りしたチョコをあげるのは初めてだよ」

「それは大事に食べないとだね。……やっぱり家に持って帰ってからでも良い?」
「えぇ~! せっかくだから直接感想聞かせてよ!」

「それはそれで緊張するかも」
「私だって緊張してるもん!」

「それはそうだよね。じゃあ――」

 少し震える手でリボンを解く。
 発表会でもないのに僕の手は良く震える。

 ゆっくりとした動きで開けた箱には可愛らしい顔が書かれた――くま? これは熊だよな。でも若干耳が尖っている気がする。

「……ねこ? 猫だよね! 可愛いね!」
「良かったぁ~! 可愛く作り過ぎちゃったから、どうかなって思って心配だったんだ」

 最初に熊と言いかけたが、何とか留まって良かった。
 独創的な猫形のチョコレートは熊の要素も含む可愛らしい造形だった。
 見ようによってはパンダにも見えなくもない。しかし、正解は猫だ。
 そして僕は正解したのだ。

「食べても良いかな?」
「どうぞ」

 黒猫さんを一つ摘まみ、口の中へ。
 柔らかな彼女の雰囲気とは違い、どっしりとしたカカオの味が広がる。

「び、ビターだね。美味しいです」
「千代ちゃんが男の人は甘いの苦手だって言ってたからね、ビターな感じに仕上げてみたの! 私にはちょっと渋すぎて、男の人って味覚が大人なんだなぁって感心したんだよー」

「そ、そうなんだ。確かに男の人で甘いもの苦手な人は一定数いるからね」

 神田さんの情報を100%受け止めて、しっかりと甘くないチョコを作り上げてきた彼女。料理上手でアスリートのようにピアノをやってきた彼女の完璧主義が、ビター感を予想以上に高めてしまったらしい。

 彼女の顔には、男の人のために甘くないチョコをしっかりと作り上げられたという満足感に満ちていた。
 そんな彼女の気持ちが嬉しくて、残る五個のチョコもその場で全て食べた。

 僕はチョコをもらえて嬉しい気持ちと、僕のために作ってくれたという彼女の気持ちを思い返して。

 ただ、初めてのバレンタインは思っていたより、ほろ苦かった。
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