鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第四章 ほろ苦い秋

38th Mov. 彼女と彼女

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 結先生の指摘を受けて、自分なりの演奏を目指すべく、『アラベスク』に関連しそうな画像や解説を読み漁っていた。

 そうやってみると、解釈という物は色々とあって、綺麗に並んだ音符が幾何学模様みたいになっているとか、音符がブドウの房のようで現地の人々がワイン作りをしているようだというような意見もあった。
 全く同じ楽譜を見ていても、感じ方が人それぞれで面白い。

 僕はそれらを流し読みしながら、アラビアンというキーワードで出てくる画像などに目を通していた。
 そういう画像を見れば見るほどに、ヨハン・ブルグミュラーはイメージで『アラベスク』を作り上げたんじゃないかって気がしてきた。曲でアラビアンの世界観を表すというより、曲調をそっちに寄せたという感じに思えるのだ。

 元々が練習曲としての性質を持っているので、テンポなどを取り入れるためだったのかもしれない。そうなってくると難しくなるのが曲の理解という訳だ。

「どうしたもんかなぁ」

 それこそ、ショパンやバッハの超有名な曲のように世界観がある曲は、背景を理解していくという考えは分かりやすい。でも練習曲だと、そこまで深堀するものなのか?

 作曲家ヨハン・ブルグミュラーの考えを読むと、指の運びや音の揃いなどテンポが速い曲でも弾けるようにという意図のように思える。その制約の中で、曲としても素晴らしいものになっているのだから、凄いことなんだけど、その意図がある分、曲への理解というところで引っ掛かりが出る。

 『単純に曲調が格好良い』なんて感想では足らない。全然。
 正解が見えない状況のまま、作曲家ヨハン・ブルグミュラーに思いを馳せながら、ピアノの練習をしていく日々が続く。


 ※


「おーい。起きてっか? 卵焼き落ちてるぞ?」

 気が付くと中野が心配げに顔を覗き込ませていた。
 足元を見てみれば彼に言われた通り、箸に摘まんだらしい卵焼きは床に落ちていた。

「えっ? ああ。落としちゃってたか」

 みんなでお昼ご飯を食べるため、机を固めていたのだが、食べ始めで記憶はそこで途切れている。
 またピアノのことを考えて、食べる手が止まっていたようだ。

 落ちた卵焼きを拾って、蓋に置く。
 残る弁当には手が付いていない。みんなの様子を見ると半分近く食べ終わっている。急いで食べないと。

 僕の考えを察したのか、中野は紬に向かって質問した。

「そろそろだっけ? 発表会」
「うん、もう残り一カ月切ってる」

「野田はだいぶ入れ込んでるみたいだけど、大丈夫なのか?」
「お母さんに聞いてる感じだと、曲にはなってるって。今はそれ以上の部分に踏み込んでて、それで苦労しているみたい」

「ふーん。あまり分からない部分だけど、あんなになってるなら、大変なんだろうな」
「私もああなるから、気持ちは分かるんだ。曲の世界に入り込む感じって言えば良いのかな」
「紬はそれのせいで生活力が皆無になるからね。ああなると周りの方が大変なのよ」

「あー、そういう感じね。良く分かった」
「それで分かるって、なんかちょっと心外です」
「野田君よりひどいんだから、しょうがないでしょ。野田君は呼びかけに反応するし、まだまだ浅いわ」

「ま、あいつなりに頑張ってるってことか。応援したいところだけど、発表会を見に行って良いもんかね?」
「どうだろ? 私はお手伝いだから、どうしても見ちゃうことになるんだけど。知り合いに見られたくない人もいるから」
「それこそ聞いてみるしかないんじゃない? 本人に」

「それもそうだな。おーい、野田。また箸が止まってるぞ?」

 中野から名前を呼ばれて我に返る。
 急いで食べていたはずなのに、また手が止まっていた。

「ああ、ごめん。急いで食べちゃうね」
「いや、それは気にすんな。それより、発表会って俺らも聴きにいって良いのか?」

「恥ずかしいし全然下手だけど、それでも良いのなら」
「大丈夫! お母さんも拓人《たくと》君上手だって言ってたから!」

 僕の言葉に被せ気味にカットインしてきた紬。
 結先生から、僕の仕上がり具合の話を聞いているようだ。

「ふーん、君ねぇ」

「な、なによ~。良いじゃん、呼び名くらい。千代ちゃんだって、千代って名前で呼ばれてるんでしょ?」
「っ! 何で知ってるの⁈ 中野から⁈」
「俺は何も言ってないって!」

 急に矛先を向けられて狼狽する中野。
 神田さんから睨みつけられて、必死に否定している。
 その様子から、中野が漏らしたわけではなさそうだ。

「ちょろいですな~、千代ちゃん。ちょろちょろです」
「くっ、紬にカマをかけられるなんて……。屈辱だわ」
「さすがにそれは言い過ぎだろ。それより良いんだな? 見に行って。野田のことだから、今回は遠慮して欲しいっていうかと思ってたんだが」
「みんなで遊びいくのも、僕のピアノレッスンの日程なんかを考慮してもらってるしさ。迷惑かけちゃってたから、それの成果を見て欲しい気持ちもあるし。恥ずかしいことには変わりないんだけど」

「そうだよな。直前で嫌になったら言ってくれよ。場所や時間は前と一緒なんだよな?」
「うん。そうらしい。そうだよね? つ、紬」
「……うん」
「つ・む・ぎ」

「なによ~。私は紬っていうんだし、可笑しくないじゃん!」
「別に私は可笑しいなんて言ってないわよ? 単に名前を呼んだだけ」

「絶対違うもん! ねえ? 拓人くん!」
「えっ? どうだろ。そうなの? 中野」
「俺に振るなよ! う~、千代はからかってない! 以上!」
「あ~! 彼女贔屓だ~!」

 その言葉に顔を赤くする神田さん。
 中野も同じように赤くなっているが、彼の方が少し耐性が強いらしい。

「実際彼女なんだから問題なし!」

 さっきのように力技で話を終えようとしているが、紬はそれが楽しいようで、まだ二人の関係をいじっている。

 わちゃわちゃとしたいつもの雰囲気。
 みんなは僕が神経質になっているから、わざといつものようにふざけてくれているんじゃないかって思う。
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