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第三章 夏の記憶
26th Mov. 変化とルール
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図書館で宿題をやる約束をした当日。
僕は開館十分前に着いてしまい、入り口前の日陰で涼んでいる。
少し自転車を漕いだだけでも汗が吹き出し、汗拭きシートが必要になるほどだ。
五分ほど経ち、汗が引き始めるころには伏見さんも登場。
半日ばかりの予定なのに、大きめのトートバックに物がぎっしりと詰まっており、とても重そうだ。
今日は勉強しても二時間ほどなのだから、一教科か二教科分くらいで良いと思うんだけど。
図書館での勉強は、場所柄もあり、ほとんどお喋りせずに黙々とこなしていく。
話したのは最初だけ。何の教科の宿題からやるかということ。
彼女は、ほぼ全ての教科を持ち込んでいて、その全てが真っ新《さら》だった。
とりあえず僕と同じ教科をやるということで数学から。
数日分、僕の方が先に進んでいるので、彼女がつっかえていると少し教えて、自分の宿題に戻るという流れを繰り返した。
※
「千代ちゃん、今はちょっと忙しくて、あまり構ってくれないの」
二人だけの勉強会を終えて、お昼の席についた彼女が唐突に切り出した。
伏見さんは、軽い調子で冗談交じりな雰囲気で言っている。けれど、少し本音が混じっているような気がした。
「仲良いもんね」
「うん、小さい頃からずっと一緒で、遊ぶのも一緒だったから。……でもね! 本当に構ってくれない訳じゃなくて、ちょっと別の予定も入るようになっただけだから! 全然不満じゃなくて、嬉しい気持ちでいっぱいなの!」
身体を前に乗り出し、力説する。決して不平不満を言いたいのではなく、祝福しているのだと表現しているようだ。
ただ、僕には彼女の寂しい気持ちというか、不安な気持ちがわかるような気がした。
今までのことが変わってしまって、いつもと違うってことに不安に感じるものなんだ。
今までの自分ではやらなかったであろうピアノ。高校一年生になって始めた僕には、その気持ちが良く分かる。何かを変えたり、変わったりするのは勇気がいるんだってことが。
「今までと変わるのって大変だよね。どんな小さなことだって」
「そうだね。なんか戸惑っている自分がいる。ピアノ関係なら、変化があってもそこまで気にならないんだけど」
「高校生でピアノの先生にまでなっちゃったもんね」
「音大も出ていないのに、ピアノの先生として扱ってくれて、生徒さんにもお母さんにも感謝してるの。うさぎピアノ教室の講師って音大卒業生じゃないと雇わないルールだったのに」
彼女は少し遠くを見るように呟く。
関係ない人には単なるルール。
それでも、音大付属の高校に落ちてしまった彼女には、重たいルールだったに違いない。
「へぇ、そうだったんだ。厳しいんだね。結先生のこだわり?」
「そうみたい。私の場合は生徒さんたちからの強い希望で特別でやらせてくれてるだけなの。それも依怙贔屓《えこひいき》みたいでちょっと嫌なんだけどね」
こんな寂しそうな彼女の表情を見たことが無かった。
神田さんとの時間が減ったことに対しても、こんなに寂しそうな顔をしていなかったのに。
経営者の母親。その娘の伏見さん。
一人っ子の彼女が、ゆくゆくは教室を受け継いでいくのは当然のことだと思う。
だけど、先生としては働けない。その教室には、講師は音大出身のみという縛りがあるから。
今回は特別な事情があるけど、自分のためにルールを曲げられていることが嫌なのは、良く分かる。そういうのって自分の力で勝ち取ったものじゃないし、ズルをしているようで、座り心地が悪いんだ。
だけど、彼女には音大という看板が無くても、生徒さんに夢を見させることが出来る特別な人だ。それだけは自信を持って言える。
「僕には結先生のこだわる理由がわからないから、何とも言えないんだけど……。それでも伏見さんの演奏を聴いて、ピアノがやりたくなって、それでその本人から指導を受けられるのは幸せなことだと思うよ」
「そうだと良いね。……ううん、そうなるようにしないといけないんだよね、私が」
「伏見さんみたいに、周りに力を与えられる人なら大丈夫だよ。きっと生徒さんに届いてるよ」
「うん。あ、ありがとう」
ちょっと強く言い過ぎてしまったかもしれない。
伏見さんは俯いてしまって、会話が途切れた。
少し話題を変えた方が良いかな。
でも僕には彼女と上手く話せる話題は多くない。
どうしてもピアノ関連になってしまう。
「来年の発表会でも演奏するの?」
「えっ? ああ、来年の発表会ね! やるよ! 生徒さんも楽しみって言ってくれているし」
「僕も楽しみだよ。僕だって伏見さんの演奏で、パワーをもらったうちの一人だからね」
「大げさだよ~。でもさ! 野田君も誰かの心を動かす演奏をしたいんでしょ? だったら野田君も演奏会出てみない?」
「それって結先生に聞いたの? ちょっと恥ずかしいけどね。伏見さんみたいに少しでもなれたらって思ってるのは間違いないかな。それにしても僕が来年の発表会に、か……。全然イメージ湧かないよ」
「五月までは大分先だしね。なら、十一月のミニ発表会も出てみる? 場慣れにもなるし、発表会のイメージ湧くんじゃない?」
ミニ発表会? 言葉だけで判断するなら、僕たちが身に行った五月の発表会より規模の小さな発表会ってことか。十一月だとピアノを始めて半年くらいになるし、そのくらい時間があれば、曲を弾けるようになってるかな。
待てよ。そもそもピアノ経験半年の初心者が出て良いものなのか。
「それって僕のような初心者が出て大丈夫なの?」
「生徒さんなら誰でも出られるよ。実際に出られるかは担当講師の判断になるけどね」
「結先生か。何だかんだ厳しい人だからどうかな」
「それは大丈夫だと思うよ。野田君は熱心に練習しているし。それに発表会の曲選びとかスケジュールもあるから、お母さんに相談するだけしておいた方が良いの。来年の発表会を目指すにしてもね」
「そっか。とりあえず次のレッスンの時に相談してみるよ。それにしても発表会って年に二回もやってるんだね」
「小さい子だと一年後の発表会が目標ってなるとモチベーションの維持が難しくてね。それとミニ発表会は、五月の本番に向けた練習会みたいな位置付けなの。緊張して本番で弾けない子も出てきちゃうから」
「なるほど。小学生の低学年の子や年長さんも多かったもんね。いきなりあんなステージに立たされて、普通でいられる方が凄いよ。確かに練習は必要かも」
「頑張って! 野田君の演奏聴くの楽しみにしてるね!」
「やっぱりそうなるよね……。当然、中野たちも来るだろうし。はぁ、今から緊張してきたかも……」
「早いよ~。あっ、もし緊張でご飯食べられなさそうなら協力するよ!」
彼女の視線が不自然に別の方向に向く。
そちらを向くと、店員さんが僕たちの頼んだ料理を運んできてくれているみたいだ。
彼女は相変わらず、大食いを隠す気が無いらしい。
僕は開館十分前に着いてしまい、入り口前の日陰で涼んでいる。
少し自転車を漕いだだけでも汗が吹き出し、汗拭きシートが必要になるほどだ。
五分ほど経ち、汗が引き始めるころには伏見さんも登場。
半日ばかりの予定なのに、大きめのトートバックに物がぎっしりと詰まっており、とても重そうだ。
今日は勉強しても二時間ほどなのだから、一教科か二教科分くらいで良いと思うんだけど。
図書館での勉強は、場所柄もあり、ほとんどお喋りせずに黙々とこなしていく。
話したのは最初だけ。何の教科の宿題からやるかということ。
彼女は、ほぼ全ての教科を持ち込んでいて、その全てが真っ新《さら》だった。
とりあえず僕と同じ教科をやるということで数学から。
数日分、僕の方が先に進んでいるので、彼女がつっかえていると少し教えて、自分の宿題に戻るという流れを繰り返した。
※
「千代ちゃん、今はちょっと忙しくて、あまり構ってくれないの」
二人だけの勉強会を終えて、お昼の席についた彼女が唐突に切り出した。
伏見さんは、軽い調子で冗談交じりな雰囲気で言っている。けれど、少し本音が混じっているような気がした。
「仲良いもんね」
「うん、小さい頃からずっと一緒で、遊ぶのも一緒だったから。……でもね! 本当に構ってくれない訳じゃなくて、ちょっと別の予定も入るようになっただけだから! 全然不満じゃなくて、嬉しい気持ちでいっぱいなの!」
身体を前に乗り出し、力説する。決して不平不満を言いたいのではなく、祝福しているのだと表現しているようだ。
ただ、僕には彼女の寂しい気持ちというか、不安な気持ちがわかるような気がした。
今までのことが変わってしまって、いつもと違うってことに不安に感じるものなんだ。
今までの自分ではやらなかったであろうピアノ。高校一年生になって始めた僕には、その気持ちが良く分かる。何かを変えたり、変わったりするのは勇気がいるんだってことが。
「今までと変わるのって大変だよね。どんな小さなことだって」
「そうだね。なんか戸惑っている自分がいる。ピアノ関係なら、変化があってもそこまで気にならないんだけど」
「高校生でピアノの先生にまでなっちゃったもんね」
「音大も出ていないのに、ピアノの先生として扱ってくれて、生徒さんにもお母さんにも感謝してるの。うさぎピアノ教室の講師って音大卒業生じゃないと雇わないルールだったのに」
彼女は少し遠くを見るように呟く。
関係ない人には単なるルール。
それでも、音大付属の高校に落ちてしまった彼女には、重たいルールだったに違いない。
「へぇ、そうだったんだ。厳しいんだね。結先生のこだわり?」
「そうみたい。私の場合は生徒さんたちからの強い希望で特別でやらせてくれてるだけなの。それも依怙贔屓《えこひいき》みたいでちょっと嫌なんだけどね」
こんな寂しそうな彼女の表情を見たことが無かった。
神田さんとの時間が減ったことに対しても、こんなに寂しそうな顔をしていなかったのに。
経営者の母親。その娘の伏見さん。
一人っ子の彼女が、ゆくゆくは教室を受け継いでいくのは当然のことだと思う。
だけど、先生としては働けない。その教室には、講師は音大出身のみという縛りがあるから。
今回は特別な事情があるけど、自分のためにルールを曲げられていることが嫌なのは、良く分かる。そういうのって自分の力で勝ち取ったものじゃないし、ズルをしているようで、座り心地が悪いんだ。
だけど、彼女には音大という看板が無くても、生徒さんに夢を見させることが出来る特別な人だ。それだけは自信を持って言える。
「僕には結先生のこだわる理由がわからないから、何とも言えないんだけど……。それでも伏見さんの演奏を聴いて、ピアノがやりたくなって、それでその本人から指導を受けられるのは幸せなことだと思うよ」
「そうだと良いね。……ううん、そうなるようにしないといけないんだよね、私が」
「伏見さんみたいに、周りに力を与えられる人なら大丈夫だよ。きっと生徒さんに届いてるよ」
「うん。あ、ありがとう」
ちょっと強く言い過ぎてしまったかもしれない。
伏見さんは俯いてしまって、会話が途切れた。
少し話題を変えた方が良いかな。
でも僕には彼女と上手く話せる話題は多くない。
どうしてもピアノ関連になってしまう。
「来年の発表会でも演奏するの?」
「えっ? ああ、来年の発表会ね! やるよ! 生徒さんも楽しみって言ってくれているし」
「僕も楽しみだよ。僕だって伏見さんの演奏で、パワーをもらったうちの一人だからね」
「大げさだよ~。でもさ! 野田君も誰かの心を動かす演奏をしたいんでしょ? だったら野田君も演奏会出てみない?」
「それって結先生に聞いたの? ちょっと恥ずかしいけどね。伏見さんみたいに少しでもなれたらって思ってるのは間違いないかな。それにしても僕が来年の発表会に、か……。全然イメージ湧かないよ」
「五月までは大分先だしね。なら、十一月のミニ発表会も出てみる? 場慣れにもなるし、発表会のイメージ湧くんじゃない?」
ミニ発表会? 言葉だけで判断するなら、僕たちが身に行った五月の発表会より規模の小さな発表会ってことか。十一月だとピアノを始めて半年くらいになるし、そのくらい時間があれば、曲を弾けるようになってるかな。
待てよ。そもそもピアノ経験半年の初心者が出て良いものなのか。
「それって僕のような初心者が出て大丈夫なの?」
「生徒さんなら誰でも出られるよ。実際に出られるかは担当講師の判断になるけどね」
「結先生か。何だかんだ厳しい人だからどうかな」
「それは大丈夫だと思うよ。野田君は熱心に練習しているし。それに発表会の曲選びとかスケジュールもあるから、お母さんに相談するだけしておいた方が良いの。来年の発表会を目指すにしてもね」
「そっか。とりあえず次のレッスンの時に相談してみるよ。それにしても発表会って年に二回もやってるんだね」
「小さい子だと一年後の発表会が目標ってなるとモチベーションの維持が難しくてね。それとミニ発表会は、五月の本番に向けた練習会みたいな位置付けなの。緊張して本番で弾けない子も出てきちゃうから」
「なるほど。小学生の低学年の子や年長さんも多かったもんね。いきなりあんなステージに立たされて、普通でいられる方が凄いよ。確かに練習は必要かも」
「頑張って! 野田君の演奏聴くの楽しみにしてるね!」
「やっぱりそうなるよね……。当然、中野たちも来るだろうし。はぁ、今から緊張してきたかも……」
「早いよ~。あっ、もし緊張でご飯食べられなさそうなら協力するよ!」
彼女の視線が不自然に別の方向に向く。
そちらを向くと、店員さんが僕たちの頼んだ料理を運んできてくれているみたいだ。
彼女は相変わらず、大食いを隠す気が無いらしい。
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