鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第二章 近づく夏

13th Mov. 無料体験と結先生

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「タン、タン、ターン。タン、タン、ターン。そうそう上手よ!」
「そんなに褒めていただかなくても……。さすがにこのくらいは出来ますよ」

 今は、音符の種類を勉強している最中。数種類の音符の拍を覚えたら、作業としては親指でを押すだけ。
 音符の長さに合わせて、タイミング良くの鍵盤を押すのだ。

 だから、褒めてもらうほど難しいことをやっている訳じゃない。

「駄目よ。基礎を疎かにしちゃ。高みに上るためには基礎をしっかり作らないとね」
「高みって言われても僕はまだ、無料体験に来ただけなんですけど……」

「ピアノに限らず、何でも一緒よ。最初が肝心なの。簡単なことこそ、しっかりやって身に着けておくと後が楽なんだから」
「そうかもしれないですね」

「そうよ。だから面倒臭がらずにやりましょうね。もう一度頭から、はい!」

 何だか無料体験というより、本格的にレッスンが始まったような感じになってしまっている。どこからこうなってしまったんだろう。
 最初の挨拶は普通に終わって、無料体験をやりましょうって話で始まったはずなんだけど……。

 ※

 少し時は遡って、無料体験が始まる時のこと。
 音楽教室というものに初めて入るわけで、それはそれは緊張していた。

 男子高校生が今になってピアノをやりたくて来るなんて、普通じゃない。ピアノの先生にどんな風に思われるのか心配でならなかった。担当してくれる先生も、空き状況によって変わるとのことで誰になるかは当日のお楽しみと言われていた。

 そのため、もしかすると伏見さんのお母さんかもしれないという可能性を残した訪問となってしまい、余計に緊張していたのだ。

 教室に入ると待合スペースがあって、そこで時間になるまで待っているように言われていた。予定時刻の十分前には着いてしまい、手持無沙汰で時間を潰すのにも困った。仕方ないのでスマホを取り出して、いつものゲームを起動する。だけど、緊張しすぎて集中出来ない。早々にスマホを仕舞った。

 すると、ブースの一つのドアが開き、幼稚園生くらいの子が飛び出してくる。その後からお母さんらしき人が出てきて、必死に子供を追いかける。お母さんは、並々ならぬ脚力を発揮して、何とか僕の前で捕まえた。

 親御さんは子供をブースの方に向き直させ、中から顔を出した若い先生にお礼を述べて帰っていった。

 その子の言葉通りなら、先ほどレッスンをしていた先生は、結《ゆい》先生というらしい。結先生は、伏見さんに似ていて少し大人っぽくした感じ。

 はて? 伏見さんは一人っ子だと聞いていたから姉ではないことは明らか。
 従姉妹《いとこ》のお姉さんだろうか。

「君が野田君かな? 今日、体験の」
「はい、そうです。よろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いしますね。さあ、中へどうぞ」

 ここまでは良かった。おそらく合格点の対応だったと思う。
 でもそれ以降は思っていた展開と違ったので、僕の応対に問題があったんだろうと思う。

「野田《のだ》 拓人《たくと》です。今日は伏見さんの紹介でお邪魔しました。よろしくお願いします」
「はいはい、聞いてますよ。野田君ですね。伏見《ふしみ》 結《ゆい》です。よろしくお願いします」

 二人して挨拶ばかりしている。
 どうも綺麗なお姉さんを相手にすると挨拶するくらいしか出てこないな。米つきバッタみたいに頭を下げる動きが止まらない。
 いい加減、何か言わないと……。

「高校生ですが初心者で、全然音楽の素養もないんですけど。お手柔らかにお願いします」
「紬《つむぎ》に聞いてた通り、ユニークな子ねぇ。前から良く話は聞いていたけど、礼儀正しくて良い子じゃない」

 伏見さんから事前に何か聞かされていたようだけど、僕がユニークという評価は合っているのだろうか。ユニークとは程遠い人間だと自認しているのだけれど。

「紬さんに何を聴いたのかわかりませんが、僕は何の面白みもない普通の高校生ですよ。ふとした疑問なのですが、紬さんの従姉妹の方ですか? 紬さんによく似ていらっしゃいますが、お姉さんがいるとは聞いてなかったもので」

 最近よく感じる空気が凍り付くような時間。相手の思考が一時停止しているのが目に見えるほどに動かない表情。

 そして突然の笑い声。
「うふふ」と口に手を当てて笑うことで、口の中を見せないようにするというお嬢様笑い。……人生で初めて見たな。っと、それどころではない。僕はまた、おかしなことを言ってしまったらしい。

「お上手ねぇ。真面目なフリして案外、女の子慣れしているのかしら?」
「いえ! 全然そんなこと無くてですね! その、何か失礼なこと言ってたらすみません!」

「良いんですよ。とても嬉しかったしね。私は紬の母なの。お母さん先生とも呼ばれてるかな。確かお友達の神田《かんだ》 千代《ちよ》ちゃんもそう呼んでなかったかしら」
「そう言えば! お母さん先生に習ってたと聞いたことがあります。いや、でも本当ですか? せいぜい女子大生にしか見えないんですけど……」

「やだわぁ。紬狙いかと思ってたけど、もしかして私狙いだったの? ……私もまだまだイケるのね。だけど旦那もいるし……、いくらなんでも娘の同級生ってのは外聞もね……」
「狙いとかそういう訳ではないので! 純粋に紬さんの演奏に魅了されただけですから。だから僕も、何かひたむきに打ち込めるものを見つけて、あんな風に人の心が動かせたらなぁって思っただけですから!」

「あらあら、やっぱり紬に負けちゃったみたいね。もうワンランク高い化粧品にしないとダメかしら」
「ですから! そういうことじゃありませんって!」

「冗談よ。でも、紬の演奏に魅了されたのなら、紬自身に惹かれているってこと否定出来ないんじゃない?」
「えっ? そうなるんですか?」

 結先生は、僕の質問に答えることなく、「ふふふ」とお嬢様笑いで話を流した。だけど、最初のような純粋さ一色のお嬢様笑いよりも、下世話な話に興じた奥様方の雰囲気が滲み出ていた気がする。

「さあ、時間も無くなっちゃうし、レッスンしましょうか! 今日は気分が良いし、結先生、頑張っちゃおうかな!」

 小さなガッツポーズでやる気をアピールしてくる結先生。やっぱり、どう見ても女子大生くらいにしか見えない。
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