愛の鎖が解ける先に

赤井ちひろ

文字の大きさ
上 下
36 / 77
第四章 紬

4 紬と葵

しおりを挟む
「僕は生きてますよ。ヤマト」
「良かった」
「ヤマト……」
 高見沢は信じられないものを見るように目が見開き、感謝をするように頭を垂れた。取り乱すでもなく、あきらめるでもなく、ただ現状を受け入れる。
 簡単に見えて、とても難しい。
 二人の周りだけがふわふわした温かなものが流れていた。
「良かった」
 東條は三淵を抱きしめ何度も頬を擦り付けた。
「何か飲み物買ってきますね」
「俺のカード持っていただろ、それを使え」
「自販機でカードは使いませんよ。入院して寝ぼけましたか。それにこの前返したでしょ」
 とっさの嘘だった。
「なんでだ」
「カードが磁気がどうとかって、あなた言っていたじゃないですか」
「紬にあなたなんて言われたの初めてだな」
「そうですね。たまにはいいかなって思ったんです。嫌ですか?」
「いや、紬がしたいことでイヤなことなんか何一つない」
「僕もです」
 葵はこういう時は自分のメンタルの強さが心底有難いと思った。
「買ってきます」
 そう言って部屋を出た。
「なぁ、ヤマト」
「ん? なんだ黎人」
 廊下に出た瞬間不穏な空気が部屋の中に充満した。
「あの、……やっぱり……」
 高見沢さんは何を言おうとしているんだろうと三淵は足を止めた。この期に及んで、覚悟が決まっていなかったのかと、三淵は廊下で聞き耳を立てながら舌打ちをせざるを得なかった。
「高見沢さーん、看護師さんがお呼びです」
 僕は慌てて大和さんと高見沢さんを引き剥がそうと偽の情報を流した。
「あ、あぁ、今行く……」
「呼んでいるのだよ。行って来い」
 ちょっと行ってくると出てきた高見沢は、キョロキョロ辺りを探していた。
「こっちです」
 そういうと、そこに居たのは三淵だけだった。
「葵君……看護師さんは?」
「看護師さんなんていませんよ。嘘です。あなたが余計なことを言いそうだったもんで。それに葵君って、誰ですか?」
 心臓の音がドクンドクンっと体中に反響する。
 ――もう僕はいない。
 自分自身に言い聞かせるように、高見沢に伝えた。
「待てよ。ここで迄、偽らなくてもいいだろう」
「偽るも何も、僕は紬です。それよりも急いで確認したいことがあります。自販機が壊れていたと言ってコンビニに行ったことにしたって、あまりに長ければヤマトが怪しみます」
 (これが俺が追い込んだ結果なのか……)
 (俺がコイツを殺したのか……)
 (自分はもういないという。今まで28年生きてきて、お前はもういない、なんて言われたところで、俺なら無理だ)
「お前は強いんだな」
「強くはないです」
「いや、強いよ」
「狡いだけですよ」
「狡い? どこが!」
「嘘をつきました。僕は紬さんじゃない。大切な大和さんに平気で嘘をつきました」
「平気じゃないだろう……、それにこれは俺の我が儘だ」
「一つ聞いていいですか?」
「なんだ」
「高見沢さんは何時から大和さんを愛していたんですか?」
「いつ……から?」
 高見沢の顔を見て、僕は自分の勘の良さに辟易した。
「とりあえず、紬さんの本名は何ですか。今僕は、紬って名前とヤマトと呼ぶ事と、大和さんが殺したと泣くほど苦しんでいた人が自分に似ているのだという事しか、把握できていません」
「西園寺……紬、大和の幼馴染で、気立てのいい病弱な子だった」
「そうですか。どこに住んでいるんですか?」
「大和の家だ」
「……………………」
「では仕事は?」
「していない」
「わかりました。高見沢さんに一つお願いがあります」
「なんだ……」
 青白い顔が三淵を見た。
 この人も苦しんでいる、変われるものなら変わりたいのかもしれない。
 でも僕は、大和さんを愛している。
 自分が自分でいることが大和さんを失うことになるのなら、俺は自分よりも大和さんといる未来を望む。
「休職手続きをお願いしていいですか。理由はお任せ致します」
「葵君」
「それともう二度と、僕を三淵葵と呼ばないでください。例え外で会ってもです」
 三淵は深々と頭を下げた。
 ――頭を下げたいのはこちらの方だよ。葵君……。

 その日の夕方、僕は自分の部屋を解約するべく不動産屋に行った。
 突然で迷惑をかける。土下座をするつもりで行ったそこには、僕のやることがわかっていたのだろう、高見沢さんが話をつけていた。
 これ幸いと僕は紬君が来ていた服、好きだったブランド、好みの食べ物、お気に入りの本、ありとあらゆる思いつく限りの情報をしいれた。

 高見沢さんは心配だったのだろう。
 僕の行くまま、黙ってアパートまでついてきた。
「どこまでついてくる気ですか」
「どこまでもだよ」
 はぁ、呆れるように三淵はため息をついた。
 高見沢からすれば物置くらいの小さな家だろう。珍しいのかじろじろと見ていた。
「じろじろ感じが悪いですよ」
「それは申し訳ない。中を見たことが無かったもので」
「感じが悪いですよ」
 階段を上がって戸を開ける。僕はやることが決まっていたから、何も考えず手を動かした。
「ここは?」
「僕のアパートです」
「これは?」
「僕の服やカバンや学生の頃から読んでいた本です」
「袋なんかにいれて、どうするんだ……」
「捨てるんです」
 (なんの躊躇もないのか)
「そこまでしなくても、何ならうちの別荘に運んでおいてもいい」
 僕は首を振った。
「それこそが中途半端です」
「でも……」
「でも何ですか?」
「いや……」
「高見沢さん? あー、紬君は高見沢さんの事はなんと?」
 高見沢が目をぎゅっと閉じた。
 ――僕が僕を切り捨てると、この人は毎回こんな顔をする。
 ――それこそ病院では僕のことなど知った事かと、そう言ったくせに。
「高見沢さん……高見沢さんだ。あの子は大和以外の人間は全て苗字にさんをつけて呼んでいたよ」
「そうですか。では高見沢さん、紬君はMですか?」
「それに関してはたぶん違うな」
 ――それは即答なのか。
「では、それは愛だったという事ですね」
 ――僕は勝てない大きな敵を前に、そいつになろうとしている。
 ――迷うな、葵。俺の長所は、その強靭なメンタルだろう。
「……そうだろうな。紬君は自分の心臓が悪いって事は解っていたからね」
 紬がどういう生い立ちだったのか、心臓が悪くて普段から走れない事、大和さんにどう接していたのか、覚えることはたくさんあったが時間は今日しかなかった。
「久しぶりに本気で頭をつかいました」
「君は頭がいいんだな」
「誉め言葉として受け取っておきますよ」
 ゴミがたくさん増えていく。
 人が必死になってゴミ出しをしているのに、高見沢さんは僕を黙って見ている。
 ――邪魔だ。
「見ているだけならどこかに行ってください」
「失礼……手伝うよ。何をしたらいい」
「そうですか。では、これを全部ゴミ捨て場に持っていきます」
「ゴミ捨て場?」
「庶民は自分でごみを捨てるんですよ。知りませんでしたか? さっきの病院で僕はあなたがブルジョワだという事は分かりましたから」
「わ、わかった。君は詰めて。俺が捨ててくる」
 小一時間延々に詰めては、パンパンのゴミ袋を運ばせた。
 
 
 ――これはなんだ。
 明らかに他のものとは違う。綺麗な箱が服の間に見えないように捨てられていた。そこだけが大切な何かに見えて、高見沢はゴミ袋を開けた。
 ――これは。
 綺麗な細工のそれに、高見沢は見覚えがあった。
 まだ東條が社食のアイドルに片想いをしていた頃、腕時計のカタログを見ていた事があった。
 ただの片想いのくせに、これがかわいいだの、絶対に似合うだの、お揃いにしたいだの、分不相応な事を言っていて、落としてもいないくせにと、散々揶揄った覚えがある。
 ――あいつ、結局買ったのか。
「ここにあるって事は、これ、プレゼントしたって事だよな……」
 高見沢は泣きそうになるのをぐっとこらえた。
 ――俺はもしかして、すごく残酷な事をしてしまったんじゃないだろうか。
 横を車が通った。
 車のライトに照らされた箱の中には、小さく折りたたまれた紙が入っているのが見えた。
 月明りでは分からなかったそれを、そっと広げる。
 盗み見る行為に罪悪感はあったものの、開けるべきだと、直感が働いた。
 
 『    大和さん
 
 初めてのプレゼント、すごく嬉しかった。一緒の時を刻みたい、そう言ってくれたそれは、僕にはプロポーズにうつりました。
 わざわざ月の出ている綺麗な日を選ぼうなんて言っちゃって、存外ロマンチストでしたよね。
 本当はこれだけは取っておきたかったんです。最初で最後の三渕葵への、僕へのプレゼント。
 捨てたくなんか……なかった。
 けれど、もしあなたに見つかって、あなたの紬君が浮気をしたなんて……あなたが思ってしまったら、あなたが傷ついてしまったら……僕は僕を許せません。
 これは無かった事にしてしまうけど、でも僕の心の中にずっと、大切にしまっておくから。
 許してください
   
      葵。』

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 高見沢は泣いた。
 幸いなことに雨が降り出し、流れる涙は覆い隠された。冷たく濡れる小粒の雨は、どんどん激しくなっていく。
 葵君が気が付く前にと、箱の中から手紙と時計をポケットにしまった。
 この雨が全てを隠してくれるだろう。
 俺がこれを捨てずに隠してしまうことも、雨の神様は、きっと許して下さるはずだ……。

 アパートの階段を上っていると、上から葵君が降りてきた。
「あぁ、気がついたらけっこうな量の雨が降ってくるし、帰ってこないし心配していたんですよ」
「月が、綺麗だなと思ってな」
「技術科の人間はそれが好きなんですか? よく大和さんも言っていましたよ」
「月が綺麗だって、あいつが君に言っていたのか」
「はい。月を見ると毎回、もう、耳タコでした」
 ――それは、アイラブユー、という意味だ。葵君……。
 
 
 ゴミ出しなどしたことが無かった高見沢は足も手も疲れ切って、部屋に大の字になっていた。ポケットにはあの時計が入っている。
 三淵は何もなくなった板間に胡坐をかいて座り、カーテンすらない窓辺から、綺麗な月を見ていた。

「大和さん、僕あの時、死んでもいいわって思ったんですよ」
 独り言を綺麗に拾った高見沢は、それでも何も言わなかった。

「今日はうちにこい。運転手を呼んだ。紬君だとおもっているからな、くれぐれも頼むと言われている」
「……………………」
 静かに黙って頷いた。
 
しおりを挟む

処理中です...