上 下
8 / 112

8  怖いはずなのに

しおりを挟む
 ――あの男に、これ以上好きにされてはたまらない。

 翌朝。目覚めと共に決意を新たにした。

 気を強く持たなければと頬を両手で叩いて、気合を入れた。頬が痛かったが、気合を入れるにはそれくらいが丁度良い。夜になって領主が来たら、家に帰らせろと言ってやろう。鼻息荒く寝台の上で意気込んでいると扉を叩く音がして、にこやかな笑みを浮かべた老人が現れた。

「おはようございます」
「おはよう。嬉しそうだけど、何かあったの?」
「……ああ、顔に出ていましたか。これは失礼致しました。領主様が久しぶりに笑顔をお見せになられたので、私めもついそういう顔になっていた様です」
「え、ア、アイツって笑わないのか! あ、……いや、あの、ごめん……」

 仕えている人間の前で『アイツ』呼ばわりするのはさすがにまずそうだ。口元を引き結んで黙ったシタンを見て、老人は顔をくしゃくしゃにして笑った。

「私めの前ではかしこまらず、気楽にお話し頂いて構いませんよ。……あの方が、あの様に気をお許しになられて表情豊かにお過ごしなさるのを見たのは、幼少の頃以来です」
「えぇ……?」
「それに、城へと招き入れて私めに事細かくお世話をお命じになられた御方は、貴方様が初めてございます」
「そ、そうなの? だ、だって、アイツ怖いし脅すし、ちっとも優しく、な……くもないのか」

 出される食事は美味いし、寝床も常に快適に整えられている。しかも、城に仕えている老人にまるで貴族のように甲斐甲斐しく世話をして貰っているのだから確かに扱いとしては特上だろう。

 ……気を失うまで尻を掘られた点を除いてだが。

「うーん……」

 老人の言葉に嘘はなさそうだが、聞いたままを素直に飲み込めはしない。特別な扱いをされているのだとして、一体どういうつもりなのか。何を考えているのかが解らない領主に、薄ら寒いものを感じた。

「ところで、このままお起きになられますか。それとも、もう暫く横になられますか」
「あ、とりあえず起きるよ。寝てばっかりだと体が鈍りそうだし」
「分かりました。では朝餉あさげの前にまず、身支度を致しましょう」
「ああ、うん、お願いします……」

 ――渋々ながら寝室で過ごすことになったシタンだったが、その時間は予想外に快適だった。

 老人によって運ばれてくる食事や軽食は、普段自炊して食べている物よりずっと美味い。感嘆しながら平らげて満腹で眠くなれば居心地の良い寝床がある。ひと眠りして目覚めて「まだ体が痛いよ」と、老人に愚痴をこぼすと、彼は薬草を漬け込んだ香油を使って脚や腰を揉んでくれた。

 ――まさに至れり尽くせりだった。

 夕暮れどきには体の痛みが嘘のように癒えて、いつもより調子が良いくらいになった。あれほどひどい目のあわされたというのに、単純なことにすっかり良い気分になり、夕餉も残さず平らげた。たっぷりと湯を使わせてもらい風呂などを済ませてから、新しい敷布で整えられた寝台の端に腰を下ろす。

 このまま眠れるのなら最高なのだろうが、現実はそういはいかない。

「はぁ、今夜来るって言ってたし、またやられるのか……」

 現実に目を背けて不貞寝したくなってきたが、寝こみを襲われるのも嫌だ。とにかく、帰りたいのだと訴える努力だけはしようと、膝の上で両こぶしを握り締めて、シタンは領主を待った。

 
 
 ――やがて夜闇が深くなった頃に、領主が寝室を訪れた。


 裾が長くゆったりとした藍染めの夜着をまとい、撫でつけていた髪は下ろしていた。後ろ髪は存外に長く、肩に流れたそれは胸元まであった。緩やかに波打つ見事な黒髪と、広い襟ぐりからのぞく白い肌の対比が眩しい。女性的ではないが、美しく淑やかささえ漂わせた立ち姿だった。

 どうしてこんな身分の高い美丈夫が、しがない狩人の男を脅して抱いたのだろう。とても謎だ。

「今夜の勤めはこれで終わりだ。下がって良い」
「かしこまりました。お暇させていただきます」
 
 灯り点けなどの仕事を済ませて部屋の片隅に控えていた老人が、恭しく礼をして出て行った。

 寝台に腰かけて見上げるシタンの前へと言葉もなく近寄ってきた領主は、白い手を伸ばしてシタンの頬に触れてきた。どくりと心臓が脈打って、怖さと奇妙な高揚感がない混ぜになったものに心が飲まれそうになる。けれども、ここで負けてしまったらまた抱かれて、そのままなし崩しに城に留まることになるだろう。

「――あ、あのさ、家に帰りたい……ん、だけど、だ、駄目かな……」

 意を決して、か細く声を絞り出す。

「……何故だ」

 触れた手はそのままに、感情の籠っていない声が返ってきた。

「か、狩り、して、稼がなくちゃ、蓄えもなくなるし、お、俺やもめ暮らしだから家もほっとらかしはちょっと、まずいし……、やっぱり帰りたいんだよぉ……」
 
 無表情でも怖い。怖すぎる。なぜ帰りたいかなんて、きまっている。抱かれたくないし、こんな恐ろしい領主からおさらばしたいからだ。だが、馬鹿正直に言ってしまうのもためらわれる。精いっぱい顔を背けて何とか正気を保ち、必死になって思いつく限りの当たり障りない理由を並べると、「怯えるな。何もしない」という、深い溜め息混じりの声が聞こえた。

「そ、そんな事いっても、あ、あんた、怖いんだよぉ」

 身震いをしながら横目で様子を伺うと、まだ無表情だった。……その無表情もやたらと怖いが、睨まれるよりはずっと良い。そろそろと姿勢を正して、領主の方へと向き直る。

「明日には帰らせよう。それで良いな」
「へっ? いいの?」

 どんな返答を返されるかと身構えていたが、予想外のあっさりとした返しだ。安心するよりも逆に、何か企んでいるのではないかと疑ってしまう。

「留まれと言えば、留まるのか? 貴様は」
「い、いや、留まりたくないっ!」

 首を激しく振って拒絶すると、領主の目がすっと鋭く細められた。獰猛な獣を思わせる視線に「ひぃっ!」と、悲鳴を上げて涙目になってしまう。怖すぎる。例えでなく頭から喰われそうだ。

「他所へ逃げようなどと考えるな。もし逃げるのなら、腕を斬り落とす。狩りなど出来ない体になると思え」
「にっ、逃げないっ! 逃げないからっ! そういうのやめてくれよぉ……!」

 頭を抱えて強く目を閉じて叫ぶ。ガタガタと体が震えて、声も上ずり始めていた。これ以上睨まれ続けたら、泣くどころか情けないことだが失禁するかもしれない。

「逃げなければ良いだけの事だ」
「う、ううっ……」

 身を縮めて恐怖に耐えるが、閉じたまぶたの狭間から涙が落ちるのは止められなかった。
 
「……それほど私が恐ろしいか」
「アンタみたいな貴族が怖くない平民なんて、い、いるわけないだろっ……」

 辺境地では聞いたことは無いが、他所の土地では罪を犯した罰として本当に腕を斬り落とされた者がいるらしい。平民にとって貴族という存在は、決して気安いものではないのだ。

「――そうか」

 ぽつりと、領主が声を漏らした。今までとは違い威圧感のない静かな呟きだった。

「もう、貴様が何をしたとしても、腕を斬るつもりはない。約束しよう」

 寂し気にさえ聞こえる声ともに、さらりと頭を撫でられる。

「今夜は、対価は払わせない。……心配せずに眠れ」
「えっ」

 泣き出したシタンに何を思ったのか、領主はあっさりと立ち去って行った。やっと家に帰れる。そう思ってほっとした途端、どっと疲れが襲ってきた。多分、気疲れだ。

「……もう嫌だ……」

 泣き言を漏らしながら寝台へと潜り込む。

 ……今夜は抱かれないどころか、口付けすらされなかった。

「無理矢理抱いたくせに、今日は何もしないなんて、変だな」

 あんな怖い男に、触れられるのは嫌だ。何もされないのに越したことはない。越したことは無いのだが、一人で横なっていると、腹の奥が微かに疼いて物寂しい気持ちすら湧いてくる。

「ん……」

 尻の辺りが落ち着かない。

 抱かれた余韻が残っているからだろうか。何度寝返りを打っても、一度くすぶり始めた疼きは消えない。美しい笑顔や、口付けや、さっきの寂しげな声ばかりが頭の中に繰り返し浮かんでくる。もしかしたら、恐ろしいだけの奴ではないのかもしれないという考えすら浮かんできて、わけが分からなくなってきた。

 「なんでだよ……。眠くならない……」

 平民を慰み者にする、ろくでなしの貴族だ。なにを気にする必要があるのか。

 明日はできるだけ早く城を出たいから、さっさと眠ってしまいたい。敷布を頭の上まで被って目を閉じたが、しばらくのあいだ眠りに落ちることができなかったのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

虐げられ聖女(男)なので辺境に逃げたら溺愛系イケメン辺境伯が待ち構えていました【本編完結】(異世界恋愛オメガバース)

美咲アリス
BL
虐待を受けていたオメガ聖女のアレクシアは必死で辺境の地に逃げた。そこで出会ったのは逞しくてイケメンのアルファ辺境伯。「身バレしたら大変だ」と思ったアレクシアは芝居小屋で見た『悪役令息キャラ』の真似をしてみるが、どうやらそれが辺境伯の心を掴んでしまったようで、ものすごい溺愛がスタートしてしまう。けれども実は、辺境伯にはある考えがあるらしくて⋯⋯? オメガ聖女とアルファ辺境伯のキュンキュン異世界恋愛です、よろしくお願いします^_^ 本編完結しました、特別編を連載中です!

婚約破棄したら隊長(♂)に愛をささやかれました

ヒンメル
BL
フロナディア王国デルヴィーニュ公爵家嫡男ライオネル・デルヴィーニュ。 愛しの恋人(♀)と婚約するため、親に決められた婚約を破棄しようとしたら、荒くれ者の集まる北の砦へ一年間行かされることに……。そこで人生を変える出会いが訪れる。 ***************** 「国王陛下は婚約破棄された令嬢に愛をささやく(https://www.alphapolis.co.jp/novel/221439569/703283996)」の番外編です。ライオネルと北の砦の隊長の後日談ですが、BL色が強くなる予定のため独立させてます。単体でも分かるように書いたつもりですが、本編を読んでいただいた方がわかりやすいと思います。 ※「国王陛下は婚約破棄された令嬢に愛をささやく」の他の番外編よりBL色が強い話になりました(特に第八話)ので、苦手な方は回避してください。 ※完結済にした後も読んでいただいてありがとうございます。  評価やブックマーク登録をして頂けて嬉しいです。 ※小説家になろう様でも公開中です。

ヘタレな師団長様は麗しの花をひっそり愛でる

野犬 猫兄
BL
本編完結しました。 お読みくださりありがとうございます! 番外編は本編よりも文字数が多くなっていたため、取り下げ中です。 番外編へ戻すか別の話でたてるか検討中。こちらで、また改めてご連絡いたします。 第9回BL小説大賞では、ポイントを入れてくださった皆様、またお読みくださった皆様、どうもありがとうございました_(._.)_ 【本編】 ある男を麗しの花と呼び、ひっそりと想いを育てていた。ある時は愛しいあまり心の中で悶え、ある時は不甲斐なさに葛藤したり、愛しい男の姿を見ては明日も頑張ろうと思う、ヘタレ男の牛のような歩み寄りと天然を炸裂させる男に相手も満更でもない様子で進むほのぼの?コメディ話。 ヘタレ真面目タイプの師団長×ツンデレタイプの師団長 2022.10.28ご連絡:2022.10.30に番外編を修正するため下げさせていただきますm(_ _;)m 2022.10.30ご連絡:番外編を引き下げました。 【取り下げ中】 【番外編】は、視点が基本ルーゼウスになります。ジーク×ルーゼ ルーゼウス・バロル7歳。剣と魔法のある世界、アンシェント王国という小さな国に住んでいた。しかし、ある時召喚という形で、日本の大学生をしていた頃の記憶を思い出してしまう。精霊の愛し子というチートな恩恵も隠していたのに『精霊司令局』という機械音声や、残念なイケメンたちに囲まれながら、アンシェント王国や、隣国のゼネラ帝国も巻き込んで一大騒動に発展していくコメディ?なお話。 ※誤字脱字は気づいたらちょこちょこ修正してます。“(. .*)

天寿を全うした俺は呪われた英雄のため悪役に転生します

バナナ男さん
BL
享年59歳、ハッピーエンドで人生の幕を閉じた大樹は、生前の善行から神様の幹部候補に選ばれたがそれを断りあの世に行く事を望んだ。 しかし自分の人生を変えてくれた「アルバード英雄記」がこれから起こる未来を綴った予言書であった事を知り、その本の主人公である呪われた英雄<レオンハルト>を助けたいと望むも、運命を変えることはできないときっぱり告げられてしまう。 しかしそれでも自分なりのハッピーエンドを目指すと誓い転生ーーーしかし平凡の代名詞である大樹が転生したのは平凡な平民ではなく・・? 少年マンガとBLの半々の作品が読みたくてコツコツ書いていたら物凄い量になってしまったため投稿してみることにしました。 (後に)美形の英雄 ✕ (中身おじいちゃん)平凡、攻ヤンデレ注意です。 文章を書くことに関して素人ですので、変な言い回しや文章はソッと目を滑らして頂けると幸いです。 また歴史的な知識や出てくる施設などの設定も作者の無知ゆえの全てファンタジーのものだと思って下さい。

氷の薔薇と日向の微笑み

深凪雪花
BL
 貧乏伯爵であるエリスは、二十歳の誕生日に男性でありながら子を産める『種宿』だと判明し、セオドア・ノークス伯爵の下へ婿入りすることになる。  無口だが優しいセオドアにエリスは惹かれていくが、一向にエリスと子作りする気配のないセオドアには秘密があって……? ※★は性描写ありです ※昨年の夏に執筆した作品になります。

龍の寵愛を受けし者達

樹木緑
BL
サンクホルム国の王子のジェイドは、 父王の護衛騎士であるダリルに憧れていたけど、 ある日偶然に自分の護衛にと推す父王に反する声を聞いてしまう。 それ以来ずっと嫌われていると思っていた王子だったが少しずつ打ち解けて いつかはそれが愛に変わっていることに気付いた。 それと同時に何故父王が最強の自身の護衛を自分につけたのか理解す時が来る。 王家はある者に裏切りにより、 無惨にもその策に敗れてしまう。 剣が苦手でずっと魔法の研究をしていた王子は、 責めて騎士だけは助けようと、 刃にかかる寸前の所でとうの昔に失ったとされる 時戻しの術をかけるが…

みにくい凶王は帝王の鳥籠【ハレム】で溺愛される

志麻友紀
BL
帝国の美しい銀獅子と呼ばれる若き帝王×呪いにより醜く生まれた不死の凶王。 帝国の属国であったウラキュアの凶王ラドゥが叛逆の罪によって、帝国に囚われた。帝都を引き回され、その包帯で顔をおおわれた醜い姿に人々は血濡れの不死の凶王と顔をしかめるのだった。 だが、宮殿の奥の地下牢に幽閉されるはずだった身は、帝国に伝わる呪われたドマの鏡によって、なぜか美姫と見まごうばかりの美しい姿にされ、そのうえハレムにて若き帝王アジーズの唯一の寵愛を受けることになる。 なぜアジーズがこんなことをするのかわからず混乱するラドゥだったが、ときおり見る過去の夢に忘れているなにかがあることに気づく。 そして陰謀うずくまくハレムでは前母后サフィエの魔の手がラドゥへと迫り……。 かな~り殺伐としてますが、主人公達は幸せになりますのでご安心ください。絶対ハッピーエンドです。

【完結】第三王子は、自由に踊りたい。〜豹の獣人と、第一王子に言い寄られてますが、僕は一体どうすればいいでしょうか?〜

N2O
BL
気弱でちょっと不憫な第三王子が、寵愛を受けるはなし。 ※独自設定、ご都合主義です。 ※ハーレム要素を予定しています。 イラストを『しき』様(https://twitter.com/a20wa2fu12ji)に描いていただき、表紙にさせていただきました。

処理中です...