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第五回・ガンダルヴァの城のごとく(完)

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「兵法とは、人心を掴むことが真髄なり」
 ザキは常々、弟子たちにそう教えている。
 ナグープル藩攻略後の采配に関しても、人心掌握を第一とした。
 まず、藩都占領後に議員や将校に対する処罰は無いとした。
 大将であるナグープル太守に全ての責任があるとして誅殺したから──というのが表向きの建前だが、その実は精神的な貸しを作ることにある。
 太守に与していた議員たちは反抗の意思を挫かれ、恭順せざるを得なくなる。
 将校たちも義のない太守に忠誠を誓っていたわけでもなく、ザキの寛大な処置で緊張を緩和させた。
 第二の手として、ザキは自軍の兵たちに報奨を与えた。
 それにはナグープル太守から接収した財産を充てたわけだが、ザキは副官に命じてこれを大々的に宣伝させた。
「見よ、この金銀財宝を! 中央府の走狗である太守は領民に重税を敷く一方で、私腹を肥やしていたのだ!」
 副官はザキが作製した台本通りに、大衆の前で芝居がかった大仰な仕草を演じてみせた。
「我らは領民からは一切奪わない! なぜなら! ザキ先生は、世直しのために軍を起こしたからだ!」
 さすがに芝居が過ぎるので、副官は半笑いになっていた。
 しかし、大衆には分かり易い勧善懲悪の物語が必要なのだ。
 これは効果を発揮し、人々は口から口にザキの軍を称え始めた。
「ザキの軍は大したもんだ。略奪や狼藉は一切やらん!」
「太守の野郎と違って、ザキ先生の軍はちゃんと給料が貰えるらしいぜ!」
「うちの叔父さんが商人組合とコネがあるんだ。仲介でザキ先生の軍隊に入れてもらおうぜ!」
 といった具合に、少し手を加えてやることで民衆の支持と戦力増強を得られるのだった。
 無論、敵軍から降った将兵を容易に信用はしない。能力的にも劣るので、主に後方任務に充てる。
「軍隊も国も動物も、図体がデカくなると小回りが効かなくなる。デカい図体はあくまで脅し。敵を討つのはハチの一刺しじゃ」
 ザキは精鋭戦力による高速一点突破の戦術を重視した。
 ナグープル藩攻略後、ザキは素早く軍を進めた。
 ザキの軍が6倍の敵を寡兵で破った! という名声は情報工作でガンダルヴァ全土に瞬く間に広まり、行く先々で敵軍は戦わずして降伏、もしくは自ら進んでザキの側に寝返った。
「とても敵いませぬゆえ、無益な戦いはしとうありません」
「どうか、我々もザキ先生の軍に加えて頂きたく……」
 中央府から派遣された直轄軍は抵抗したが、士気も練度も共に低く、ザキの精鋭部隊に容易く打ち破られた。
 これはザキがシューニャの習性を利用し、敵軍の側面や後方に誘導することで重圧をかけ、戦力を分散させる作戦も功を奏した。
「しかし……わしはシューニャを完全に御せるとは思っておらん。自然の全てを思い通りに出来るなぞ、ただの驕りでしかない」
 ザキは慢心せず、常に用心して、高速の騎馬隊を用いてシューニャを慎重に誘導していた。
 ガンダルヴァの藩は辺境ほど中央への忠誠心は薄く、これを機にザキに呼応する軍が相次いだ。
 かねてよりザキは中央に叛意を持つ辺境の藩に親書を送り、根回しを進めていた。
 こうして、ザキの軍勢は短期間で総数10万を超す大軍に膨れ上がった。
 首都へ通じる街道に差し掛かる頃、ガンダルヴァ南方に位置するマイスール藩の部隊がザキの軍に合流した。
「我が太守の命により加勢する……が、一応は俺の独断ということになっておる。まあ政治とはそんなモンだ。ガハハハ!」
 マイスール藩軍の髭面の将軍は豪快に笑った。
 戦争の趨勢が決するまで、表向きはこの将軍の独断専行という形を取る。
 ザキが勝てばそれで良し。万一負けても、将軍一人を切り捨てれば良い。
「しかし、ザキよ。お前は20年前から変わらんな? 全く老けとらん」
 マイスール藩軍の将軍は、中央府にいた頃のザキと同期だった。
 確かに髭面で貫録のある将軍と違って、ザキは若者のような身なりだった。
「わしはずっと隠者の生活をしておったからな。俗世と関わらず、酒も飲まんからロクに老けとらんのじゃろう」
「仙人気取りか? 羨ましい奴!」
「わしは貧乏人の上、独身じゃぞ? 隣の芝が青く見えとるだけじゃ」
 ザキは冗談交じりに、同期との再会と社交辞令の会話を済ませた。
「ザキ先生、ご報告が……」
 先行させていた斥候が帰ってきた。
 報告によれば、この先の街道と平原一帯に魔力地雷が敷設されているという。
「フム、愚鈍な中央の連中にしては思い切ったことをするのう」
 ザキは表情を変えずに地図と向き合った、
 斥候が確認した敷設地点だけでも300を超えており、このまま軍団を通過させるのは不可能だった。
「こんなモノをいちいち除去していては一ヶ月はかかるのう。迂回するにしても山岳部をぐるりと回らなければならん。今のわが軍の大部隊を移動させるには時間がかかり過ぎる」
「軍が大きくなれば、それに比例して糧食や水が必要になります。時間をかければ士気と規律にも影響が……」
 副官は輜重隊の荷馬車に目をやった。
 物資の輸送は牛馬に頼ることから、これらの餌も必要となる。険しい山岳部の移動は悪手が過ぎる。それが敵の狙いというわけだ。
「ま、これも予想の内じゃて」
 ザキは事前に対策を用意していた。
 何台かの荷馬車には、未加工の魔消石が積まれていた。
「わしはコレを投石器でブン投げて、魔力地雷を誘爆させるつもりじゃ。放出された魔力は空っぽの魔消石に吸い込まれ、地雷原には穴が空く──が」
 ザキは副官に振り返った。
「おぬしなら、どうする?」
「えっ?」
 不意に難題をふっかけられて、副官は「うーん」と腕を組んで考えた。
「……マイスール藩軍」
 副官がぼそり、と呟いた。
「マイスール藩軍はヒカソウ部隊を持っています。ヒカソウに紐で魔消石を括り付ければ、投石機より遠くに飛ばせます」
「ウム。良き兵法じゃ」
 ヒカソウとは、北方の大国からもたらされた火薬式の飛翔武器のことだ。音と見た目が派手だが、弓矢や投石器より射程が長い。
 副官の答は満足のいくものだった。
 ザキは副官の判断力を鍛錬するために、敢えて作戦を一任したのだった。
 すぐさま、副官の指導でマイスール藩軍のヒカソウ部隊が射撃準備にかかった。
「攻城用ヒカソウの尾の部分に縄で魔消石を括り付けるのです! そう、何個も! 葡萄のように! しからば石は尾のように地雷に次々と接触する。名付けてコレ、導爆索と云う!」
 副官は張り切っていた。
 暫くして、導爆索の試作品が完成した。
 巨大な発射機に、安定翼のついた長さ5メートルもの攻城用のヒカソウが備え付けられ、長い導火線が後方まで伸びていた。
 マイスール藩軍の将軍みずから、新兵器試射の指揮を執った。
「発火、はじめーーーっ!」
 将軍の声と共に、兵が松明で導火線に点火。
 火が推進用の火薬に達するや、ヒカソウが尾から火花を吹いた。
 激しい火花を散らし、鳥の鳴き声に似た大きな音を鳴らしながら、ヒカソウは空中へと飛翔。
 尾部についた導爆索が地表に断続的に接触し、その度に地中に敷設された魔力地雷が発火した。
 魔力地雷に封じ込められた雷がピカッと一瞬だけ閃光を放ち、魔消石に全てのエネルギーを吸収されて消えていく。そんな点滅が何十回と続いて、ヒカソウは地面に墜落した。
「お? 成功……したのか?」
 マイスール藩軍の将軍は、要領を得ずに首を傾げた。
 こんな支援兵器は史上初めてなのだ。手応えを感じないのも無理はない。
「ご心配なく。大成功ですよ、将軍」
 副官は満足げな顔で遠眼鏡を覗いた。
 遠眼鏡の先には、魔力を吸収して赤熱化した魔消石が転がっていた。
 それから導爆索は現地で直ちに量産配備され、進路上の地雷原は1日で除去され──
 翌朝に、ガンダルヴァ中央府への進軍が再開された。
 魔力地雷が最後の抵抗だったのか、もはや妨害らしい妨害はなかった。
 文字通り無人の野を走破したザキの軍勢は、二日後に中央府の首都を包囲した。
 当初、中央政府軍は籠城の構えを見せたが──
「議事堂にヒカソウを二、三発撃ち込んでやれ」
 とザキの命令に従い、実際に着弾を確認してから三時間後、議会は停戦交渉の使者を送ってきた。
 ザキは本陣で使者を出迎え、相手方の停戦条件の文書を開いた。
「フーーン……」
 ザキはひどく呆れた顔で文書を端から端まで読んで、横の副官に渡した。
 副官が文書に目を通すと──
「ええと……各藩への税の三年間の減免。ザキ殿を中央政府軍長官として迎え、軍の五年間の首都駐留を認める。引き換えに中央議会議員の責任は不問とし、財産と議員資格の保証を……」
 確かに呆れ果てた内容であり、副官は途中で読むのを辞めた。
 ザキは怒りもせず、ただ残念そうな顔をして
「返答は明日までお待ち頂きたい。どうぞ、お帰りはあちら」
 使者を早々に帰した。
 とっくに答など決まっている。
 明日まで待つように言ったのは。単に政治工作のための時間稼ぎだ。
 中央府を無血開城して陥落させるための。
「実はわしも相手方に手紙を送っておる。中央政府軍のクリシュナ将軍にじゃ」
 クリシュナ将軍といえば、敵軍の実質的な最高司令官だ。
 副官も良く知っている。
「クリシュナ将軍といえば、300年前から代々仕える名門軍人の家系ではないですか。説得できるのですか?」
「肩書きだけ見れば確かに忠義と家柄でガチガチの武人じゃろうな? 確かに、あの将軍は今どき珍しい武辺者じゃ。昔、あの方の下で働いていたからよう分かる。ま、話したことはないが……」
「では、どうやって説き伏せるのです?」
「あの方は……家柄という呪いにかかっておる。だから、こんな腐れた中央政府の将軍などやっておるのじゃ。背負うものが大きければ、足元を小突くだけで倒れる」
 翌日早暁、ザキは解答を出すべく軍勢を率いて陣を出た。
 城門前には、中央政府軍が陣取っていた。
 クリシュナ将軍を先頭にした精鋭部隊だった。
 ザキは馬を降りて、クリシュナ将軍に解答文書を差し出した。
 文書にざっと目を通すと、将軍の右手が上がった。
「開門せよ!」
 兵たちには僅かな動揺もなかった。
 全てがクリシュナ将軍の子飼いの部隊である。命令を忠実に実行し、首都の城門がするすると上がっていく。
「これより、我が軍はザキ殿に合流し! 腐敗した議会を制圧する! 義は我らにあり!」
 クリシュナ将軍が叫ぶと、部隊もそれに呼応して雄叫びを上げた。
「オオオーーーーッ!」
 将軍が寝返ることは、兵たちも内心察していたのだろう。
 そのままザキの軍勢と共に城壁内部へと雪崩れ込んでいく。
 兵たちの流れの中で、乗馬したザキの横に副官が馬をつけてきた。
「先生!いったい、どうやってクリシュナ将軍を説得したのですか?」
「なあに、簡単なことじゃ。戦争の後も身分と財産と家族の命を保障してやったのじゃ」
「えっ、それじゃ議会の連中と同じでは……」
「我が弟子よ、憶えておくと良い。俗世に浸かるほど人は呪縛に捉われる。名を欲し、富を欲し、子孫を欲する者ほど現世利益には抗えぬ。そんな人間に自由など存在せぬ。煩悩の炎の中で踊る、哀れな人形に過ぎぬのじゃと」
 ザキは……クリシュナ将軍の心の弱さを切り崩したのだ。
 いかな武辺者とはいえ、先祖代々積み重ねた全てを失う恐怖には勝てなかったのだ。
 首都を守る最終戦力に裏切られた議会に抵抗する力は残されていなかった。
 数時間後には、ザキの軍は議事堂を制圧。
 しかし、主要議員たちの姿はなかった。
「それで良い。手筈通りに、な」
 ザキは冷たい表情で手を振って、指示を出した。
 敢えて首都の包囲に隙間を作り、そこを議員たちの脱出ルートに選ばせた。
 罠にはまった議員と僅かな手勢は全方位から集中攻撃を受け、壊滅。
 ザキの作戦通り、ごく僅かな議員だけを捕虜とした。
「ま、戦後処理の手間を省いたというワケじゃ」
 司令官として冷徹な一面に、副官は恐怖した。
 実際、貴族化した中央議員らの門閥の処分は裁判だけでも膨大な時間がかかる。
 民衆に政府の腐敗を示し、怒りの熱を保ったまま新政府を打ち立てるなら、分かり易い悪は早々に処刑するにこしたことはない。
 その後の戦後処理も、ザキの指示通りに進んだ。
 貴族化していた議員たちの生き残りには、表向き温情をかけて流刑とした。
 だが島流しの行先は、中央府に特に搾取されていた僻地の藩だった。
「財産は全て没収。身一つでの島流し。だが行く先の住民は全て中央議員らに怨みを持っておる。ま……どんな結果になるかは自明じゃの」
 公にはザキの寛大な処置が宣伝され、実情は現地民に処刑を任せるという、残酷な采配だった。
 事務処理を行っていた副官は表情を曇らせた。
「先生……何もここまですることは!」
「我が弟子よ、心せよ。綺麗ごとだけで仕置はできぬ。根切りにせねば、連中はいつか再び国を蝕む。家柄を盾に、被害者面をして同情を集め、また議員になるかも知れぬ」
「可能性の問題ではないですか」
「その可能性を摘み、国家を安泰に導くのが政(まつりごと)である。病の源は小さい内に、迅速に切り取るのじゃ」
 ザキが酷薄な面をも露わにするのは、己を全てを教授したいという、弟子を思ってのことでもあった。
(だから……戦などやりたくないのだ)
 内心、辟易した。
 俗世の汚濁は火傷のように心身を長く苛む。

 それから二年間、ザキは首相と軍司令官の補佐として働いた。
 政府と軍の実権はほぼザキが掌握していたが、己の権力基盤を固めようとはしなかった。
 そして隣国パールシーの侵攻を防いだのを最後に、ザキはあっさりと職を辞した。
「後は皆さまにお返しします」
 それだけ言い残して、ザキは故郷に帰った。
 一切の我欲のない水鳥のごとく清廉な出立に、人々はザキを称えた。
 ──が、
「実の所、単に俗世が煩わしくなったのじゃ」
 ザキは副官にだけは本心を明かした。
「先生! 私もお供させてください!」
 副官まで辞職しそうな勢いだったので、ザキは溜息交じりに首を振った。
「それじゃわしがお前を弟子にした意味がなかろう!」
「面倒を私に押し付けるために弟子にしたのですか!」
「お前まで世捨て人になってどうするのか! お前はもう一人前じゃよ!」
 呆れがちに叱責するザキだったが、半分は弟子の言い分が当たっていた。
 ザキは再び、タジマ寺で隠遁生活に入った。
 更に半年が経ち──
 ガンダルヴァ国に、暗雲が立ち込め始めた。
 シューニャという災厄が、国境を越えて帰ってきたのだった。
 季節と共に風雨が巡り、嵐が吹くように、人の形の災いが還ってきた。
 対処法はザキが文書にして残してきたので、各藩はそれに従った。
 シューニャは災害と同じであるから、距離を取って避難せよと。
 文字にすれば簡単だが、現実はそうはいかない。
 シューニャの進路上にある全ての村、町、そして都市からの一斉避難は困難を極めた。
 人々は混乱し、世は混沌とし、経済も政治もひび割れていった。
 ついには禁忌を破り、シューニャに戦いを挑む者まで現れたが、屍を増やすだけに終わった。
 新政府は、藁をも掴む気持ちでザキという英雄に頼った。
「ふ……お前ら、わしをなんだと思っておるのだ?」
 庵を訊ねてきた使者たちに、ザキは呆れ笑いを浮かべた。
「わしはただの人間じゃ。嵐を鎮める方法など知らぬ。ただ、安全に逃げる方法を教えてやった。後はお前たちの仕事じゃ。英雄の幻にすがるのは止めろ。愚かしきことよ……」
 どうすることも出来ないし、どうする気もなかった。
 ザキは使者を冷たくあしらって追い出した。
 それから更に三ヶ月が過ぎて──冬になった。
 ガンダルヴァ国は更に乱れた。
 秋ごろにシューニャの通った地域では収穫が出来ず、避難民がそこら中に溢れていた。
 北方からの雪風が舞う頃、再びザキの庵に使者がやってきた。
 かつての副官だった。
「先生! どうか知恵をお貸しください!」
 副官は深々と頭を下げた。
 もうどう仕様もないから、ザキを頼ってきたのだ。
 ザキは一冊の本を書き終えて、墨が乾くと、そっと閉じた。
「この本をくれてやる」
「それは?」
「兵法書ではない。戒めの書じゃ。人間が人間である限り、どんな国家でも三代目で腐敗する。俗世の呪縛からは決して逃れられぬ。驕れる者よ、いつかくる滅びの日を忘れるな──という年寄りの説教本じゃ」
 とん、とザキは本の角を副官の腹に押し付けた。
 仮にも新政府の高官をしている副官は困惑した。
「しかし……我々は旧政府とは違います!」
「みんなそう言う。わしらの先祖、何千、何万人と繰り返し言ってきた。『俺たちはあいつらとは違う』『同じ失敗はしない』と。何を根拠にそう言う?」
「人は失敗から学ぶ生き物です!」
「そして忘れる生き物でもある。お前らは苦労を知る世代だ。その次の世代も親の辛苦は分かるだろう。だが孫の世代になれば、そんなものは昔話だ。知ったことじゃない。歴史など都合よく忘れるし改竄される。人の世とは忘却と滅びと再建の繰り返しでしかない。神話の時代からな」
「では本なぞ……」
「意味はない。戯れでしかない。わしという人間の、ちっぽけな遺言でしかない」
 突き放すようなザキの物言いに、不穏な言葉が混じった。
「遺言……? 先生! いったい何を!」
「フン……」
 ザキは厭世の感たっぷり皮肉の鼻息で、すっと立ち上がった。
「妹と……話してきた」
「妹御様と……?」
「姪がな……三才になる」
 副官に背を向けて、ザキが肩を落とした。
 庵の外の、霜降りの竹林に向けた表情は見えなかった。
「妹は言っておった。『この子の生きられる世の中がほしい』と。姪は……わしらの辛苦など知らずに、ニコニコと笑ってな。無邪気に……わしの膝の上で寝転がって……」
「先生……」
「わしも結局……俗世からは逃れられなかった、ということじゃ」
 ザキの声は、諦めのようであり、覚悟のようでもあった。
 その日、ザキは本を持って寺の奥院に向かった。
 奥院には、法師が二年前と変わらぬ姿で待っていた。
「殿下、お別れに参りました」
 ザキは床に坐して、深く頭を下げた。
 法師はザキの真意を悟って、暗澹たる面持ちになった。
「お前だけ……私を置いて行ってしまうのか」
「それが運命でございます。山に入って仙人にもならず、半端に俗世と関わり続けた者の……」
 ザキは脇に抱えていた一冊の本を差し出した。
「世の乱れを抑える術を書き残しました。象徴として王が君臨し、人心の拠り所となる。しかし統治はせず……という政治の形でございます。先人の知恵を、私なりに解釈したものです」
「私に……還俗しろと言うのか」
「殿下にも順番が回ってきたのです。どうか衆生を救うためにお立ちくださいませ。殿下は年に一回か二回、少し我慢するだけで良いのです」
 ザキが顔を上げると、法師は悲嘆に暮れていた。
 法師が顔を覆う素振りを見せたので
「それが、私の最後の願いでございます」
 少しだけ呪いの言葉を刻み付けた。
 ザキは立ち去り、奥院には法師と本だけが残された。
「あぁ……やりたくない。やりたくないというのに……。ザキめ……! これでは逃げられんではないか! 私はもう逃げられんではないか……っ!」
 運命に対面させられた痛苦と、ザキとの永訣の悲しみに焼かれる男の咽び声が、いつまでも響いていた。
 同日、シューニャがこちらに向かっているという情報が入った。

 ザキの指示で副官が必要な道具を揃えて、全ての準備が終わったのは一週間後。
 全ての街から人の姿は消えていた。
 シューニャの襲来を恐れて、数万人の住民が避難したのだ。
 季節は冬。山野の獣も息をひそめる季節である。
 世界は生命が生まれる以前の原始を思わせる静けさだった。
 雪の気配がないのは幸いだった。
 時たま塩辛く凍える北風が吹きつける夕刻──
 ザキと副官は、メール山の中腹にある洞窟を訪れていた。
 日の暮れた世界に、地下へと続く蒼い穴がぱっくりと口を開けている。
「あそこに……本当にいるのですか?」
 副官は不安げにザキを見た。
「ああ、いる。あやつはこの奥で……わしを待っておる」
 ザキは長袖の厚着に大小二刀を携え、静かに佇んでいた。
 殺気も緊張ない自然体で、ザキはシューニャの気配を感じていた。
「わしなりに……色々と調べた。なぜ異界から人の怨念が形を成して落ちてくるのか。始まりは500年前、このメール山の魔消石が掘り尽くされた頃と重なる」
「魔消石と何か関係があるのですか?」
「恐らくは……大地の地場の乱れじゃろう。魔消石の発する磁場が減り、それが異界の何かと干渉して偶然……落ちてくるようになった。ゆえに──」
 ザキは、洞窟の上に目をやった。
 岩肌の色が蒼から黒に変わる境目の亀裂に、ヒカソウに用いる火薬が大量に仕掛けられている。
「──磁場の流れを再び乱す。魔消石の洞窟を地下深く埋没させることでな。魔消石は全ての熱を奪うが、物理的な衝撃は吸収できぬ。崩れる岩の重さで、全てを打ち崩す」
 ザキは副官の隣に視線を映した。
 そこには、火薬に点火するためのヒカソウの発射台が設置されていた。
「ならば先生! このまま爆破してしまえば!」
 副官が声を荒げると、ザキはその口を閉じるような仕草をした。
「荒ぶる自然を鎮めるには、古来より生贄が必要なのじゃよ」
「そんなのは迷信です!」
 哀しみに顔を歪ませる副官を諭すように、ザキは首を横に振った。
「あの男は……心ある嵐なのじゃ。きっと最初から人間ですらない……数多の剣者たちの無念の集合体なのだろう。親も子も友もなく、一人ぼっちなのじゃ。だからな、共に逝ってやるのが慰めなのじゃ。この役目は……わしにしか務まらぬ」
 ザキは死を覚悟した者とは思えぬ、穏やかな表情だった。
 その言葉に一切の偽りはない。
「さらばじゃ、我が弟子よ。世の理を元に戻すのだ。こんなことが二度と起きぬように、な」
「先生……!」
 副官は涙を堪えて歯を食いしばった。
 それが、最後の別れだった。
 ザキは洞窟の中に踏み入った。
 吐息が白く凍りつく極低温の内部は、青白く発光していた。
 おかげで、友の姿はすぐに見つけられた。
 冷たい岩の上に、あの日のように座していた。
「来てくれたか……ザキ」
 先に声を出したのは、シューニャの方だった。
「お前なら……来るという予感があった」
 掠れたシューニャの声は、消えかけた人間性の最後の足掻きのようにも聞こえた。
 ザキは抑揚の薄いシューニャの声に、確かな情を感じ取った。
「そなたの道連れが務まるのは……わしくらいしかおらぬものな?」
 ザキは親しげに笑いながら、腰のタジマ刀を抜いた。
 抜刀の気配を感じ、シューニャは瞬時に立ち上がり、同時に抜いていた。
 常人ならば目視不能の速度だが、ザキには見えていた。
「さあ、共に逝こうか……我が友よ」
 ザキは霞構えで間合いを詰める。
 シューニャも自然と霞構えで相対した。
「いざ……刃の向こうの極楽へ。いざ……!」
 二者が音もなく地を滑る。
 互いに生も死も敗北も勝利もなく、水面に映る月のように、静寂から自在に変化していく空の境地に達していた。
 一呼吸の瞬きで間境を超え、二人は同時に刃を振るった。
 音もなく、二つの刀身の蒼い残光が虚空に走った。
 僅かに……ほんの僅かに、シューニャの刀の切っ先がザキに触れるのが早かった。
 刃がザキの右腕に触れて──ガキン!
 と、不自然な音を立てて砕け散った。
 ザキはこれを予測して、長袖の下に鋼の手甲を付けていたのだった。
 人体を切断する以上の余力はこめないシューニャの剣戟は鋼を切り裂けず、金属疲労も加わって粉砕された!
 だが、シューニャの反応は神速だった。
 その身を構成する数多の剣豪の技量がなせる技か、流れるような体移動でザキの剣戟をかわし、腕をねじり上げて刀を奪おうとする!
 シューニャは体移動でザキの側面に回り込み、この体制からでは残った脇差を抜いての刺突も不可能!
 しかし──ザキは、それすらも予測していた。
「フ……!」
 ザキの顔に一瞬、哀しげな笑みが浮かび、同時に脇差を抜刀し──
 我が身もろとも、シューニャを貫いていた。
 相打ち狙いの一刺し。
 約60cmの大脇差は、密着した互いの胸を貫き……致命傷に至っていた。
「フフフ……試合は相打ち。しかし……勝負は、わしの勝ちじゃ……!」
 ザキの吐血混じりの呟きと共に、凄まじい爆音と震動が洞窟を襲った。
 副官が最後の仕事をやり遂げたのだ。
 天井が崩れ、上層の岩盤ごと洞窟が崩落していく。
 シューニャはザキを抱くような形で、どさりと床に崩れ落ちた。
「そうだな……お前の勝ちだな。ザキ……」
 その声は穏やかで、満足げだった。
 シューニャは剣者として敗北し、災厄として埋葬されるというのに、生まれて初めて何かを達成した、満ち足りた顔をしていた。
 奇縁で結ばれた男と災厄は、共に無へと還っていった
 全ての執着からの……解放であった。
 この後、ガンダルヴァ国に空から人の形をしたモノが落ちてくることは、二度となかった。
 ザキの副官は晩年、師の教えと一連の事件を本としてまとめた。
「シューニャとは、虚ろなるもの。陽炎の如く、水月の如く、虚空の如く、響の如く、ガンダルヴァの城のごとく……」
 本の結びの一文である。
 ガンダルヴァ国の由来は、幻術を用いる神の名前。
 ガンダルヴァの城とは、蜃気楼のことを云う。
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