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国崩し・東瀬織と悪意の箱のこと

国崩し・東瀬織と悪意の箱のこと9

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 南郷十字が療養している隠れ家は、温泉地の別荘の体を取っている。
 外観だけでなく内装も紛れもない上流向け別荘なので、温泉も引いてある。
 やや鉄の香りのする硫酸塩泉は源泉かけ流しで、浴場には濃厚な湯気と温泉の香りが充満していた。
 旅館の浴場に比べればはこじんまりだが、一般家庭の風呂場としては広すぎる、絶妙な間取りの内湯には、南郷がいた。
 裸だった。
 湯気の中に、うっすらと引き締まった上半身が浮かんでいる。
 これから風呂に入るのだから裸なのは当然だろう。
 しかし、腰にタオルを巻いている。
 まるでテレビのバラエティ番組でタレントが風呂に入る時のように。
 まるで誰かに局部を見られるのを恐れているように。
 当たり前だ。
 浴場には、他にもう一人いるのだ。
 防水エブロンをつけた女が――右大鏡花が、南郷の背後に立っている。
 湯気の中で、眼鏡を曇らせた女が一人立っている。
 その頬が赤く上気しているのは、果たして湯気の熱さのせいなのだろうか。
「はぁ、はぁ、はぁぁぁっ……」
 鏡花の声が震えている。
 明らかな歓喜に震えている。
 南郷は困惑していた。
「ううぅ……」
 背後からの――無言のプレッシャー。
 実は、このシチュエーションは今日が初めてではない。
「なあ、鏡花……」
「はいっ! なんでしょうかっ!」
 嬉しそうに反応する鏡花。南郷とは真逆の顔をしている。
「いちいち風呂についてこなくて良いと……何回も言ってるだろう……」
「でも、兄さん……片腕じゃ洗うの大変じゃないですか?」
 鏡花は南郷を執拗に兄と呼ぶ。
 どうして家の中でまで偽装兄妹でいなければならないのか。
 もう訂正させるのも疲れた。
 南郷は今、右腕の人工筋肉製義手を欠損している。
 確かに片腕で体を洗うのは不自由なのだが……。
「他人に介護されるほど困っていないと……」
「兄さんのお世話が私の仕事です!」
 それを言われると弱いのである。
 いわば介護で派遣されてきた人に「俺は大丈夫だから、お前は仕事をするな」と要介護の当人がゴネるのと同じで、介護職の人はよほどのロクデナシでもなければハイソウデスカと引き下がれない。
 こんなやり取りに人生の時間を費やすほど無駄なことはない。
 南郷が少し大人になって、鏡花の仕事を受け入れてやれば丸く収まる。
「……分かったよ」
 結局、今日も南郷が折れることになった
 他人に髪を洗われるのは床屋と同じだと思えば気にもならない。
 体に触られるのはマッサージと思えば納得できる。
 だが――
「ふう……お風呂は暑いですねぇ……。温泉だから……」
「そうか……」
「湯気も凄いから汗かいちゃいました……」
「そうか……」
「私も、お風呂……ご一緒して良いですか……?」
 いやいや、それは納得できないだろう。
 南郷が何も言わないと、鏡花は沈黙を肯定と捉えて脱衣所に一旦下がって服を脱いで再出撃してくる。実際、前に一度無視したら裸にバスタオル姿でやって来たので、座視できないのである。
「良いわけないだろう……」
「えぇっ……今日もダメなんですか……?」
「お前、何回も言い続けたら、いずれ俺が混浴にオーケー出すだろうとマジで思ってんのか……」
「でも兄さん、色々と私のこと受け入れてくれてますし……」
「あのね……妥協にも限度というものがあるから」
 南郷は諭すように言ったのだが、きっと鏡花は明日も明後日も我を通そうと南郷の心の壁に挑み続けるだろう。
 鏡花はしょんぼりした顔を演じて見せているが、それも南郷の同情を誘うための罠だ。
 南郷は思う。
 右大鏡花は油断のならない女だと。
 鏡花はどういうわけか、体のラインが出る服装を好む。
 たとえば、それは別に派手な服ではなく一般的なニットセーターとデニム生地のボトムスなのだが、果たして鏡花本来の服の趣味なのか? という点には疑問が浮かぶ。
 もちろん、南郷は鏡花の私服など知らない。
 そんな親密な付き合いをした覚えはない。
 だが、鏡花は今の私服を着るようになってから、南郷の目をやたらと気にしている。
 服の感想を面と向かって要求してはこないが、食事中も会話中もチラチラチラチラと南郷を見ては「わたしの格好に何か思うところありませんか?」と無言で訴えかけてくる。
 それが南郷の勝手なイメージかというと、決してそうではない。
 食後に食器を片づける時、ベッドのシーツを取り換える時、階段を上がる補助をする時、南郷に接近する機会があれば、鏡花はほんのりと体を密着させてくるのだ。
 ふわっと鏡花の胸が背中に当たることもある。
 ふわっと鏡花の髪の香りが鼻に触れることもある。
 ふわっとさりげなく、鏡花の唇が頬を掠めることもある。
 南郷は鈍感な男ではない。
 ラブコメ漫画の主人公であるまいし、鏡花の異変に気付かないわけがなかった。
(あいつ……)
 油断のならない女だ。
 しかし今は、敢えて口には出さない。
 敢えて拒絶も肯定もしない。
 曖昧な態度に甘んじるのは、南郷なりに考えてのことだ。
 まだ時期ではない、と。

 この別荘と外部との主な連絡手段は直接の伝令の他に、いくつかある。
 密なやりとりが不要な簡単な会話なら、アナログ回線の電話も使用する。
 南郷が散歩に出かける先、温泉街の片隅の小さな個人商店は連絡用の拠点だった。
 ここは宮元家の息がかかった諜報用定点の一つだ。
 店の人間には何十年も前から「別荘の人間がたまに電話を使う」とだけ説明され、毎年一定の金額が対価として振り込まれるだけで細かい事情は知らされていない。
 なので、携帯電話が普及してからは年間利用者が二桁に満たないような、色あせた旧式の公衆電話が今も維持されている。
 南郷は決まった時間に店に来て、公衆電話に100円玉を入れて定時連絡を行う。
「もしもし」
『もっしもーし?』
 電話の相手は、軽薄な若い女だった。
 南郷が雇っている忍者の一人、碓氷燐である。
 燐もまた、同じような諜報定点の公衆電話から話している。
「風邪薬がなくなりそうだ。一番高い奴を買ってきてくれ」
『はーい。そんだけ?』
「おかずと米も欲しい」
『おかっ……? ううん、分かった。すぐに買って帰るね』
 最後に燐は少し困惑した様子で、手短に電話を切った。
 これらは一種の暗号である。
 アナログ回線とはいえ、盗聴を警戒して日常会話に偽装した指令のやり取りを行っている。
 もっとアナログな通信手段としては伝書鳩があるが、生物ゆえに制御に難がある。
 鳩の飼育は目立ち易く、また文書の輸送も確実に届くとは限らない。鳩は迷うこともあるし、事故や外敵により途中で命を落とすこともある。
 輸送の確実性を増すために鳩の数を増やせば、それこそ情報流出のリスクが増して本末転倒の結果となる。
 合理的に考えれば、伝書鳩は機密連絡の手段としては落第なのだ。
 東瀬織の協力で呪術的な連絡法……式神を飛ばすという手も提案されたが、それこそ敵に察知、拿捕される危険が高いので却下とした。
 南郷は寄り道をせずに帰る。
 無駄な外出は敵に察知されるリスクを増すだけだ。
 諜報員や忍者を使っているのが、自分たちだけとも思い上るほど油断はしていない。
 怪我人には少し辛い坂を上り、束の間の住処に戻った。
 インターホンを鳴らして、鏡花に一応の確認を取る。
「俺だ。外は寒くてたまらん。雪でも降りそうだ」
『ああ、はい。今、玄関を開けますね』
 さりげない帰宅の挨拶のようだが、これも合言葉になっている。
 実際は空は快晴で雪の気配などしない。
 鏡花が内側から鍵を開けて、玄関の扉が開いた。
「おかえりなさい。兄さん」
『ああ……』
 もう、ごく自然に南郷を兄と呼んでいる。
 思う所はいくつもあるが、今は受け入れたように振る舞ってやる。
「鏡花、明日また客がくる」
「お客さん? 誰ですか?」
「憐だよ。俺が使ってる忍者の……」
 女の名前を出した途端、鏡花の表情が変わった。
「あの子……ですか。私、あの子のことは……」
「ウマが合わないか?」
「それもありますけど……。なんていうか、その……」
 鏡花は南郷から目を逸らして、唇を軽く噛みながら
「……お邪魔虫だから」
 湿っぽく呟いたのを、南郷は確かに聞いた。
 鏡花の小さな呟きは聞こえていたが、南郷は聞こえないふりをした。
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