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第四話

ヒト・カタ・ヒト・ヒラのこと29

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 12月中旬。
 その日、西本庄篝は自宅にいた。
 園衛の家に勤めているとはいえ週休二日のホワイト勤務であり、今日は非番の日だった。
 篝は実家住まいで、使っている部屋も子供の頃から変わらない。
 クローゼットの中には学生時代の制服も収まっているのだが、なぜか机の上にもう一着、宮元学院高等部の女子制服が置かれていた。
 卓上には裁縫セットとミシン、裁断された布の切れ端もある。
 篝は手先が器用で、機械だけでなく衣服の修理も得意だった。
「はぁ~……とりあえず直ったは直ったんだけどぉ~~……」
 制服は新品同然に修復されたものだが、篝の表情は曇っていた。
「瀬織お嬢様の……服だけ直しても、ねぇ~~……」
 この制服は、朽ち果てた瀬織の痕跡と共に回収されたものだ。
 戦闘による破損が痛々しく、見るに耐えなかったので、篝が個人的に持ち帰って直すことにした。
 これも供養と言い訳すれば、園衛に文句を言われることもないはずだ。
「あぁ……お嬢様……」
 しかし……見れば見るほど、瀬織のことが恋しくなってくる。
 あの黒いダイヤモンドのように闇の中で輝く至高の存在が永遠に失われてしまった悲しみに、その体を包んでいた制服を前にすると、胸の奥が軽い火傷をしたようにジクジクと切なく痛むのだ。
「あぁっ……お嬢様ぁ……っ」
 思わず、篝は制服を抱きしめてしまった。
 高級香木のように甘く、上品な香りがした。
「すうううううううううっ……。お、お嬢様の……かほりぃ……っっっ」
 意識を失わんばかりの法悦に、篝の背中がゾクゾクと震えた。
 瀬織の体臭を体内に取り込むということは、崇拝する存在と一体化するに等しい。
 愛しき女神の一部を肺腑いっぱいに吸いこんで、それが全身に酸素と共に循環していくのだと思って……篝の心に邪な劣情が芽吹いてしまった。
「そ、そう……そうだ。お嬢様がもういらっしゃらないならぁ……わわ、わ、私が瀬織お嬢様になっちゃえばぁ……っ」
 そう――つい、魔が挿したのだ。
 高校時代の自分の制服をクローゼットから引っ張り出して、数年ぶりに着てみた。
 体格は当時からほとんど変わらないので、問題なく袖を通せた。
 学校指定のソックスを履いて、ネクタイをキュッと締める。
 心まで若返ったような気持ちになる。
 いいや、昔に戻るだけではダメだ。
 ずっと以前に、個人的なコスプレに使っていたウイッグを取り出した。
 黒髪長髪のサムライのゲームキャラのコスプレに使っていたものだ。尤も、ちびっこい自分では元キャラに似てもつかないので、人前に出ることはせず、鏡の前で悦に入っていただけだが。
 少し勿体ないと思いつつも、ウイッグの髪型をハサミで整えた。
「……ょ、よし」
 暗く震える声で呟いて、篝はウイッグを被った。
 息を呑んで、おそるおそる顔を上げて、クローゼットの姿見に写る自分を見た。
 そこにいたのは、制服姿の西本庄篝。
 だが、瀬織と同じ髪型のウイッグをつけている。
 篝の体形は中学生のようで、長身でスタイルの良い瀬織とは似てもにつかない。
 スカート丈も詰める勇気なんて無くて、もさっと長いままだ。
「でっ、でも……ぉ、お嬢様の制服……わ、私用に仕立て直せばぁ……っ」
 今はまだ紛い物でも本物の服を着れば、限りなく本物に近づける。
「わ、わわっ……私が……ううん、わっ、わたくしが……瀬織お嬢様ぁぁぁ……っ」
 この小さな部屋の鏡の中だけでも、愛しい女神を祀り、奉じ、蘇らせることが出来る。
 それが――篝の信仰の形だった。
 と、自分の世界に浸っていると、スマホの着信音が全てのロマンを一瞬にして破壊した。
「うひぃっっっ!」
 現実という目に見えないハンマーで頭を殴られ、篝はふらつきながらスマホを取った。
 発信者は〈氷川朱音〉。登録済みの番号だった。
「うぅぅ……も、もしもしぃ……?」
 電話に出ながら、篝は部屋の時計を確認した。
 アナログ式の針が、午後4時10分を指している。学校も終わった時刻だ。
『こんにちは、篝さん。突然ですけど、お願いしたいことが二つほどあるんです』
 だしぬけに何を言うのか。
 最近の若い子は礼儀がなっていない。というかプライベートな楽しみの時間を邪魔してくれて――
『あなたが着ようとしてる、瀬織様の制服――返して頂けませんか?』
「うっひぃえっっっっッッッ!!」
 篝は素っ頓狂な叫びを上げてひっくり返った。
「ななななっ、ナンデ! ナンデナンデナンデェッッ!」
 どうして、見抜かれているのか。
 スマホのテレビ電話機能など使ったこともないし、監視カメラや盗聴器を仕掛けられた形跡もないのに。
『カタコトのインチキ日本語になってますよ。カマをかけてみたんですけど、その様子だと図星みたいですね』
「か、カマァ……?」
『私もきっと、同じことをしたでしょうから♪』
 朱音は電話の向こうでクスリと冷たく笑った。
 電話口から、寒気のするような心地の良い闇の香りがした。
 朱音は篝と同じ瀬織の信奉者だというが、何かそれ以上の得体の知れない空気を感じる。
 それこそ、瀬織と同じ色香というか妖気というか……。
「あの……ていうか『返す』って……おかしくない? なんで朱音ちゃんに返さなきゃ……」
 そう、日本語が何かおかしいのだ。
 瀬織の制服を返却するとしたら、遺族ともいえる東景、もしくは後見人の園衛に対してであって、単なる瀬織のファンに渡す義理はない。
 篝が思考を冷静に整理し始めた矢先、また電話の向こうから
『そうそう、篝さん。言伝を預かっているんですよぉ……』
 甘い、香木のかおりがする声が――
のために、まだまだ働いてくださいまし……とのことです。ウフ……キャハハ……!』
 無邪気なようで邪鬼のように朱音は笑っていた。
 また、篝の思考が混乱する。
「えっ、なに? えっ、えっ?」
『それとマガツチ、使えるようにしておいてください』
「え? だから? えっ、あ、朱音ちゃん……?」
『話の続きは、篝さんの部屋でしましょう』
 朱音は一方的に話して電話を切った。
 最後に、とても不穏なことを言い残した。
 まさか――篝は全身から血の気が引くのを感じた。
 厭な予感は、インターホンの音となって現実化した。
 突然の来客に、篝の母が玄関で対応する声が聞こえてきた。
「あら? 学生さん?」
「はい。私、篝さんの後輩で氷川朱音といいます」
「あらぁ~、宮元の生徒さんなのぉ。ってことは、篝ちゃんにご用かしら~?」
「はい。ちょっとお話する約束がありまして」
 いやいや待て待て、そんな約束はしていない。
 というか今、部屋に来られると困る。とても困る。他人を部屋に入れたのなんて小学校時代が最後だ。乙女ゲーやら変なコミック本が無造作に詰まれている独身女の部屋なんて他人の侵入断固拒否、想定外! というか、今の格好を見られるとマズい、ヤバい、社会的に死んじゃう。他人の制服を着てる合法ロリ25歳独身女! 精神的に死んじゃう!
 ――と、篝が生命の危険を感じてパニックに陥っている間にも、事態は無常にも進行。
「篝ちゃ~ん、お客さん上げるわねぇ~?」
「うっ、うえぇぇぇぇっ?」
 母が勝手に朱音を上げてしまった。
 誰かが速足で階段を上がる音が聞こえる。
 篝はドアを開けられまいとしたが、馴れない制服姿で足が滑って転倒。嗚呼、歳は取りたくない。
「ぶへぇっ!」
 フローリングに馴れない犬のように床に転がる篝の頭上で、遂に――ドアが開けられてしまった。
「お邪魔しまぁす、篝さぁん……♪」
 無様に転がる制服姿の年上女を、氷川朱音が優勢な位置から見下ろしていた。

 朱音が篝とのミーティングを終えたのは、1時間後のことだった。
 愛しいご主人様の制服を、きちんと畳んで紙袋に入れて、朱音は夕闇の田舎道を歩いていた。
 歩きスマホで電話をしていても、他に通行人はいないので問題はない。
「もしもし、お母さん?」
 相手は、朱音の母だった。
「年末にウチの神社の手伝いするから……私の巫女服ね、出しておいて」
 朱音の実家は、そこそこ大きな神社だ。
 年の瀬と元旦には参拝客が押し寄せるので、巫女のバイトを良く募集している。
 朱音も昔は良く手伝ったものだが、中学に上がってからはご無沙汰だった。
 信心もない中学生女子が正月を手伝いに潰すなんて冗談ではなかったし、巫女服なんてコスプレをさせられるのも厭だった。
 だが、今は違う。
 心変わりがあったのだ。
「急に変なこと言うって……? いいじゃない。そういう気分なんだから……」
 夜闇に溶ける冷たい闇のような顔をして笑って、電話を切った。
 今の朱音の表情を母が見たら、どんな顔をするだろうか。
 それを想像すると、股間の奥が熱く疼く。
「ひひひ……ひひひひ……最高ぉ。たまんなぁい……嘘吐き、悪いこと、イケナイこと、大好きぃ……っ!」
 薄ら笑いを浮かべて、上機嫌に夜道を暫く歩いて。目的の家に着いた。
 〈東〉の表札のかけられた、景の家だった。
 相変わらず灯りもつけず、景は一人で沈んで引き籠っているようだった。
「かっこわる……情けなぁい……。でも、瀬織様のご命令だから、御役目は果たす。それだけ」
 景のことを罵りつつ、朱音はインターホンを押した。
 当然、無反応。
「東くぅ~~ん。別に出てこなくても良いけどさぁ~~、忘れ物。置いておくよ。ちゃあんと受け取ってねぇ~~?」
 二階まで聞こえるような声で言って、朱音は紙袋を玄関前に置いた。
 今日の御役目は終わったので、もうここに用はない。
 つまらない普通の子供の相手をしても面白くもなんともないので、もう帰る。
 街灯一つない真っ暗闇に振り返ると、朱音は違和感を覚えて、立ち止まった。
「あれ……?」
 頭の奥に、チリチリと電気のような痺れがあった。
「誰か……こっちを見てる……?」
 人ならざる眷族の直感が、そう感じた。
 闇の奥に目を凝らしても、視覚では何も見えない。
 だが神の目が額にもう一つ出来たような気がして、それが形にならない、ぼんやりとした影を脳内に投映した。
 農道を挟んだ、林の向こうの小さな道に、ワンボックスカーらしき輪郭が……見えた。
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