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第四話

ヒト・カタ・ヒト・ヒラのこと3

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 つくし市郊外の小さな山の麓に立つ、きさらぎサナトリウム病院。
 ここは表向きは呼吸器関連の療養所だが、一方では宮元家の息がかかった霊障、及び精神的ダメージの療養施設でもあった。
 尤も、10年前に妖魔や禍津神との戦いが終結して以来、後者の理由で入院する患者はほとんどいない。
 かといって、皆無というわけでもない。
 事実、一人の患者が三ヶ月前に搬送され、今も入院している。
 患者の名前は、氷川朱音。
 14歳。中学二年生。
 学校は三ヶ月前から休んでいる。
 彼女が搬送されてきたのは、深夜のことだった。
 救急車ではなく、宮元園衛が直に運び込んできたのだ。
 普通の病院なら、こんな得体の知れないシチュエーションは適当な言い訳をして他の病院に押し付けるか警察に通報するかだが、ここは普通ではないので、そのまま入院となった。
 連絡を受けて来院した朱音の両親に、園衛は事情を説明し
「責任は全て私にある」
 と、頭を下げて平謝りをしていた。
 園衛の稼業を知る朱音の父は、宗家の当主様に頭を下げられるのは恐れ多いと対応に困っていた。
 その一方で、ほぼ一般人である朱音の母は口には出さなかったものの、園衛に対する不信と不平不満をありありと表情に出していた。
 園衛に出来るのは、ただ謝罪すること、入院費を全額負担すること、そして朱音の進学等に影響がないこと等を確約すること。その三点しかなかった。
 他には、何も出来ない。
 朱音が立ち直れるか否かは、結局は朱音自身の心の問題なのだから。
 朱音の病室には、週に一回、クラスメートの見舞いがくる。
 それは自発的に友人を心配してというよりも、教師に命じられて行う課外活動のようなもので、熱意には個人差があった。
 気を遣って学校での出来事を楽しそうに話す女子生徒もいれば、何を話して良いのか分からず気まずそうにプリントだけ置いてさっさと切り上げる男子生徒もいた。
 朱音に気取られないようにカモフラージュしているとはいえ、週ごとに来る顔ぶれが異なっているのは当番制で強制的に割り振られていることの顕われであり、よほどの鈍感かバカでなければ見舞いが善意ではなく強制的に行われていることには一ヶ月程度で気付くものだ。
 結果、朱音の内部で醸成されるのは他者への巨大なる人間不信であるのだが、機械的に生徒を育成して毎年出荷するだけのいち担任教師に、生徒一人もとい不具合を起こした量産品に配慮できる心理的余剰スペースなどありはしないのであった。
 今の朱音は、個室でほとんど一日中スマホを弄っている。
 この小さな板切れで暇潰しは事足りた。
 動画も見られるし、漫画も読めるし、シュリンクスで他人の意見を見ることも出来る。
 入院当初は毎日病室に通っていた母も、最近は週末に顔を出すだけになった。
 あとは毎週金曜にプリントを持ってやってくる、クラスメートの定期見舞いを適当にあしらえば、静かで落ち着いた、一人だけの時間を過ごせる。
 三ヶ月前の事件から、朱音は変わった。
 それは朱音自身も分かっている。
 学校のことも、家族のことも、園衛のことも、割とどうでも良くなった。
 自分を束縛していた見えない鎖、心の奥の悶々とした気持ちを閉じ込めていた蓋が消えた。色々と、我慢する必要がなくなった。
 自分の気持ちが、何よりも優先されるべきだと思うようになった。
 夕方、日が落ちる逢魔が時の雰囲気が好きになった。
 青に染まった世界が次第に黒に変わっていくのを見るのが心地いい。
 夜も、カーテンを閉めなくなった。
 病室から。人気のない真っ暗な山々を眺めていると、とても素敵な気持ちになる。
 スマホを使って、あまり良くないものを見るようになった。
 良くない――というのは、以前の自分の古い価値観だ。
 今では、とても素晴らしいものだと思っている。
 以前の自分なら、普通の女の子なら、悲鳴を上げてしまうような画像を保存したり。動画をたくさんブックマークしている。
 今も……朱音はそういう動画に見入っていた。
「あぁ……素敵ぃ……」
 うっとりとした表情で呟いた。
 口に出さずにはいられなかった。
 動画に映っているモノに憧れている。恋焦がれている。
 別に非合法な動画ではない。世界的な大手動画サイトのアカウントさえあれば、誰でも見られる動画だ。
 尤も、閲覧前に年齢確認はされるのだが。
 だが、そんな一人の幸せな時間に邪魔者がやってきた。
 とん、とん、と病室のドアがノックされた。
 今は、金曜の夕方。逢魔が時。
 忌々しくも、クラスメートの誰かがプリントを持って、頼んでもいない見舞いにやってきたのだ。
 朱音はスマホの画面を閉じて、昔の自分の仮面を被った。
「……どうぞ」
 怜悧な学級委員だった自分のフリをして、今秋もお行儀よくやり過ごす――。
 その計画は、一秒後に破綻した。
 するっとドアが開いて、現れたのはクラスメートなどではなく
「お・邪・魔♪ しますわぁ~~~♪」
 最も顔を合わせたくない、招かれざる客だった。
 高等部の女子制服、ゾッとするほどに綺麗な長い黒髪、背の高い、スタイルが良すぎる女生徒、
 東瀬織――!
「ひぃやあっっっ!」
 朱音の口から思わず悲鳴が溢れ出た。
 仰け反り、ベッドに倒れて、顔面蒼白、心臓が妙な動悸に高鳴り暴れる。
「あら~~? なんですの、その反応ぉ? お客様にお茶の一つも出さないのですかぁ~? 田舎の方は礼儀を知らないのですわねぇ~~? ほほほほ……」
 京都人のような、いや実際京都育ちの瀬織は嫌味たらしく涼しげに笑いながら、勝手に病室の冷蔵庫を解放。ペットボトルのレモンティーを取り出し、これまた勝手に封を開けた。
 怪我でもしているのか、瀬織の右手には包帯が巻かれていた。
「安物のお茶ですわねえ。すーぱーで80円くらいで売ってる奴ですわ。わたくし、嫌いなんですよねコレ。お砂糖と、柑橘類のこの嘘臭い味と香り……」
 と言いつつも、すとんと来客用のパイプ椅子に腰を落とし、紅茶をごくごくと飲み始めた。
「なっ……なっ、なっ、なっっっ……なにしに来たのよぉ~~っっっっ!」
 朱音は布団を頭から被っていた。
 自分がこうなった原因の女が、三ヶ月前に自分を真っ二つに切断した女が、いや人間ですらない暗黒の権化が、どうして病室にやってきたのか。
 怯える朱音の疑問の回答は、瀬織に続いてやって来た。
「ちょっと瀬織ぃ! いきなり部屋に入ったら!」
 プリントを手に、朱音のクラスメートで幼馴染の東景が病室に入ってきた。
 要するに、見舞いの当番が景に回ってきたのだが、一人ではなんとなく行き難いので瀬織に相談した結果、こういうことになった――と、朱音は察した。
 皮肉にも、三ヶ月前とは景と立場が逆転している。
 速くプリントだけ置いて帰ってほしいと布団の中で願っていると、瀬織のせせら笑う声が聞こえた。
「ほほほほほ……いいザマですわねえ、氷川ナントカさん? わたくし、景くんのお付きで来たのですが、それ以外にもわたくしなりの都合というものがありますゆえ、わざわざこんな山の中まで来たのですよ~?」
「つ、都合って……なにさ……っ」
「あなたを――笑いに来ましたの♪」
 瀬織は唇を指でなぞった。
 この仕草をする時、瀬織は大抵悪巧みをしている。
 景が口を挟む間もなく、瀬織はポケットからスマホを取り出し、ボイスレコーダーのアプリを再生した。
 スマホから、録音された朱音の声が流れ始めた。
『今までの私は全部嘘、偽り、偽物の人生だったんです! 今の私が本当の自分! 全てから解放されたの! 永遠の存在になれたの! 園衛様には感謝してるんです! 私をこんな風にしてくれて――ありがとうっ!』
 自分に酔って酔って酔い痴れていた、三ヶ月前の朱音の声だった。
 当時、朱音は人間を辞めていた。人間以上の存在になっていた。
 その当時の驕り昂った発言は本心からのものだったが、結果として全てを失った今となっては、忌まわしき黒歴史も同然。
 恥ずべき黒歴史を叩きつけられて、朱音は布団の中で耳を塞いだ。
「もうやめてぇ~~~っっっ!」
「や・め・ま・せ・ん・わ・よ♪」
 意地悪い笑みを浮かべて、瀬織は更にスマホのボリュームを上げ、朱音の布団にぐぅっと押し付けた。
『イライラするなぁ……。止めてよ、そういうの。今から街の人たち食べちゃっても良いんだよ』
「食べちゃってもいい~? カッコいいですわねえ、即席の女神様ぁん? で、こんなにイキりまくって、どうなったんでしたっけ~~?」
「いやぁ~~~~っっ!」
 過去を容赦なく掘り返されて、朱音は悶絶していた。完全に拷問である。
 見かねた景が瀬織の肩を掴んだ。
「やめたげてよ! お見舞いに来たんだから!」
「そうは言いますけどねぇ~? わたくし、あの時に忠告したんですのよ? そんな恥ずかしいコト言ってるとすまほで録音して後で聞かせてあげますわよって? でもこの方、忠告無視して黒歴史重ねまくりやがったんですから、これも本望だと思いますけどねぇ~~?」
「イジワルだよ、それっ! 誰だって恥ずかしい過去くらいあるから!」
 景も無自覚に拷問に加担した。
 これもまた瀬織の計略の内なのか。
「意地悪ですかぁ? でもね、景くん? わたくしには意地悪する権利があるんですよ」
「け、権利……?」
「はい。だって、わたくし、こちらの方に腕をヘシ折られて、更に丸呑みされて殺されそうになったんですのよ? それに比べたら、黒歴史の録音聞かせる程度の仕返しなんて、可愛いものではありませんか」
 それは確かにその通りではある……。
 三ヶ月前、蟲傀儡たちに核として取り込まれて荒神となった朱音は、戦闘で一度は瀬織を追い詰めた。
 その時の仕返しとしては、確かにスジが通っているし、この程度の拷問くらいなら許されても良いかも知れない――と思うのは、瀬織の話術にハメられているからだ。
「ダメダメ! それでもダメだよ瀬織!」
「ふん……景くんがそこまで言うのでしたらぁ……今日は勘弁してあげますわ」
 景の願いを聞き入れて、瀬織は漸く録音アプリを停止した。
「あ……朱音ちゃん。ごめんね。今日はプリント……」
「もう帰ってっっっ!!」
 布団の中で丸まったまま、朱音は拒絶の叫びを上げた。
 景としても、ここで無理に押し込む度胸はない。
 あっさりと諦めて、プリントを冷蔵庫の上に置いた。
「じゃ……プリント、置いとくから……」
 朱音からの返事はなかった。布団の中に文字通り閉じこもっていた。
 そそくさと、景は申し訳なさそうに退室した。
 瀬織は嫣然と笑っていた。
 それは勝者の余裕のようであり、小動物を愛でる支配者のようでもあった。
「それでは氷川朱音さん? いずれ、また……♪」
 ドアを閉める間際、瀬織は盛り上がった布団がビクリと反応するのを見逃さなかった。
 病院の廊下に出ると、景が瀬織に小声で話しかけた。
「朱音ちゃん怯えてたじゃん……。これじゃ具合悪くなっちゃうよ!」
「怯えていた? わたくしには……喜んでいたように見えますがぁ? うふふふふふ……」
「はぁ……?」

 脅威と異物が消え去った病室に、静寂が戻っていた。
 電灯は点けていない。布団の中は更に暗く、静かな、朱音だけの世界だった。
 一人ぼっちの快適な空間で、朱音は無意識に股間に指を伸ばしていた。
「はぁ……はぁ……はぁぁぁぁ……っ」
 背筋をぶるぶると震わせて、恐怖と畏敬と興奮に高鳴る胸の欲望に忠実に、じわりと湿った入院着の股間をなぞった。
「なまえ……わたしのなまえ……よんで、ちゃんとよんでくださったぁ……! せおり……せおり……さまぁ……っ」
 譫言のように、無意識の崇拝を口にした。
「はぁ……はぅ……はぅぅぅぅぅぅっ……」
 薬物の禁断症状のように、ぶるぶると震えながら、スマホの画面をスリープから立ち上げた。
 布団の中で、動画の続きを再生する。
 画面に映るのは、うねうねと蠢く大量の蟲。
 葉にたかる毛虫の群れ、動物の体内に寄生する線虫の群れ、水中に密集するイトミミズの群れ。
 そんなグロテスクな動画を見ていると、朱音はとても良い気分になる。
 あの中が、自分が還っていく胎内のようにさえ思える。
 あの中に包まれれば、また自分は特別な存在になれる……!
「瀬織さまぁ……お姉さまぁ……ご主人様ぁ……っ! なりたい……ご主人様とぉ……一つになりたい……っ!」
 荒神に汚染された肉体は元に戻っても、精神は元に戻らない。
 腐った果実のような欲望を垂れ流しながら、闇の中で朱音は酔い潰れていた。
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