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彼岸の乙女、流れる水と成ることver.1.3-2

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彼岸と此岸の境にて、愛の種子より扶桑が芽吹く


 遠い昔、まだ人が文明を持たないほどの昔。森の奥に、大きな一本の樹があった。
 それは齢1万年を超えた大樹。
 やがて人が文明を得て、原始的な宗教を興し、自然にカミを求め始めると、大樹は信仰の対象となった。
 人々の純粋な願いを何百年と受け続けた大樹は神樹として崇められ、いつしか霊的な力を宿すようになった。
 更に時を経て、神樹を崇める民はより大きな武力を持つ大和の民に下った。
 畿内に大きなクニを建てた大和の民は、各地の豪族と激しい勢力争いを繰り返していた。
 戦は勝っても負けても敵味方に多くの血が流れる。敵方の豪族を打ち負かしても、吸収する民や土地が疲弊していては旨味が少ない。
 そこで、大和の呪術師たちは神樹の霊力に目をつけた。
 神樹を削り、人の形に似せたヒトカタを作った。それは生きた人間と寸分違わぬ出来であり、呼吸もすれば体温もある。どんなクニの言語、習慣、文化も短期間で会得し、人間のように生活することが出来る――人間の完璧な模造品だった。
 なにより、そのヒトカタは神樹の霊力をそのまま行使できた。
 人の願いに応え、それを叶えるという力である。
 といっても、神頼みには限度というものがある。神樹が叶えられるのは雨乞いやちょっとした豊穣の祈願でしかなく、国盗りなど埒の外。過ぎたる願いは逆に災いとなって返ってくる。
 その因果律のカラクリを、大和の民は呪術兵器として利用した。
「わたくしは、なにをすればよろしいのでしょうか」
 当時の巫女の姿を模したヒトカタは美しく、あまりにも無垢であった。
 穢れなきヒトカタへと下った命令は単純だった。
「他国に入り、思うように振る舞え」
 神樹であった頃と同じように人の信仰を集め、願いを受ければ良いのだと。
 そこには戦略の意図が隠されていた。
 少女の姿をしたヒトカタを敵国に密かに送り込み、まずは芸能に優れた巫女として信仰を集めさせる。気象程度ならば操ることが出来るので、信心を得るのは容易。
 人々はヒトカタに好き勝手に祈願し、それが権力者ならば更に大それた神頼みをする。富が欲しい、力が欲しい、クニが欲しい、長寿が欲しい、未来永劫の繁栄が欲しいと。
 許容量を超えた願いは呪いとなって跳ね返り、疫病や天変地異が重なって豪族のクニは疲弊した。
 大和の民はそこに付け入り、敵国を容易に懐柔、あるいは最小の損害で攻め滅ぼすことが可能となった。
 時代は下り、大和が王権を立て、日の元が一つの国家として統合されてからもヒトカタは戦争に投入され続けた。
 兵器としてより強力に改良され、神樹としての本質は凶悪に歪められていった。
 ヒトカタは元々が木であったので、個人としての自我は希薄だった。
 求められたから、願われたから、それを叶えただけ。
 結果として人が死のうが国が滅ぼうが何も感じない。
 だが任務のために与えられた役割や知識の学習。そして目の当たりにする何千、何万という人間の死と感情の蓄積がヒトカタに人格を形成させ、平安の頃には、ヒトカタは人間の苦痛を愉しむようになっていた。
 このヒトカタと、そこから派生した呪術兵器の類は、超常の力で空を操るもの――空繰(からくり)と呼ばれた。
 しかし――ヒトカタを運用する大和の防人達は、呪い返しの本質を忘れていた。
 大それた願いほど、大きな呪いとして返ってくる。
 つまり大和の国を守り、拡張するという大き過ぎる願いは脈々と蓄積され、遠からず極大の災いとなって日の元全土に降りかかるのだと――気付いた時には全てが遅かった。
 東国の反乱に投入され、その戦が平定された時、ついにヒトカタは完全な暴走を始めた。
 かつて人のささやかな願いを叶えた神樹は、人を食らい、山河を呪いで汚染し、妖魔の類を無限に増殖させる禍々しき荒神と成り果てた。
 朝廷の陰陽師と防人は、反乱の平定に協力した坂東武者と共にこれと戦い、多大な犠牲を払った末に撃破した。
 しかし荒神の身を砕き、燃やしたところで、1000年以上も蓄積された呪いと怨念を鎮めることは出来なかった。
 苦肉の策として荒神と化したヒトカタと、その眷族たる空繰たちの残骸は東国の山中、土中深く埋葬、封印された。
 それから1000年の後、これを掘り返して軍事利用を画策したのが、太平洋戦争時の参謀本部であった。
 ヒトカタを回収し、それを複製、大量生産して気球に乗せて北アメリカ大陸に送る。
 合衆国本土に到達したヒトカタ達は社会に紛れ、人を食らい、呪いを振り撒き、無差別な破壊活動を行う。
 これによる合衆国社会の混乱、あわよくば崩壊を目標としたのが〈の号作戦〉。の号の〈の〉は呪いの〈の〉である。
 この計画は廃案になったものの、回収されたヒトカタは修復され、何体かの量産試作体も製造された。
 終戦時に試作体は廃棄されたものの、オリジナルのヒトカタだけは手のつけようがなかった。
 なにせ砕いても燃やしても年月をかければ自己修復するのだから意味がない。
 軍ですら持て余したこれを、終戦のドサクサに紛れて自宅に持ち帰ったバカがいた。
 元帝国陸軍登戸研究所少佐、東隆輝であった。
 東少佐は、1000年前にヒトカタの運用に関わっていた者の子孫であり、先祖の遺した文献から呪術兵器の発掘と軍事利用を提言した張本人でもある。
 喩えるなら大量破壊兵器を個人で所有してしまったも同然であるから、東少佐の本家筋は呆れ果てた。
 このバカがヒトカタで何かをやらかさないよう、監視と抑止を行える人間が必要だった。
 そこで、東本家とその上位に位置する宗家の人々は、ヒトカタを破壊し得る実力者を婿養子に迎えた。
 元帝国陸軍大尉、北宮仁が東家の三女に婿入り。幸いにして長男以外の東家の子女はマトモな人間ばかりだったので夫婦円満。この北宮仁あらため東仁が、東景の曽祖父にあたる。
 東仁は機能停止状態のヒトカタを、自宅の土蔵に封印することにした。遠い山中や海中に投棄するよりも、自分の目の届く所に置いた方が安心というわけだ。
 封印時に東隆輝は若い衆に取り押さえられながらも
「もったいなぃぃぃぃぃぃぃぃ! もったいないよぉおおおおおおおおお!」
 だのとギャーギャー喚き散らしていたが、飛び蹴りをブチ込まれて沈黙した。
 ヒトカタを厚さ50cmのコンクリートで塗り固め、更に厚さ50cmの土壁と漆喰で覆う。
 これならまず破られることはないだろうし、子孫にも危険な魔物を土蔵に封じていると口伝していけば将来に渡って安寧は守られるであろう。
 ――と思っていたわけだが、現実はそう上手くいかなかった。
 東仁の存命中、土蔵は硬く閉鎖されていたが、彼が死んだ後には家族が手狭になった母屋から荷物を土蔵に運ぶようになった。
 仁の息子、つまり景の祖父は
「ヒトカタの封印さえ守れば良い。むしろ荷物で周りを囲えばより安全だろう」
 と楽観的に考えていた。
 実際、ヒトカタの封印は破られることもないまま年月は過ぎ、景の父の世代になった。
 この頃になるとヒトカタの危険性を具体的に知る者は減り、景の父にも使命感はなく、慣例として封印を守る程度の意識になっていた。
 こんな厄介な風習は景が大人になった時に伝えれば良いだろう、と面倒臭がってさえいた。
 その矢先、不運にも景の父は妻と共に事故で死亡。
 あろうことか口伝は完全に断絶してしまった。
 景は土蔵の中にどれほど危険な物が封印されているか知らず、毎日のように入り浸るようになった。
 コンクリートは一見強固に見えても悠久の物質ではない。人の手で整備しなければ次第に劣化し、強度は落ち、やがては崩れ落ちていく。湿度も高く、地震も多い日本の風土なら尚更だ。
 邪悪なヒトカタを閉じ込める物理的封印が既に限界に達していることなど、景は知る由もなかった。
 天涯孤独の身となった景の身元引受人になったのは、東家の上位に位置する元締めの宗家、宮元家。
 そこの現当主である宮元園衛は東家の遺産管理を委任されており、土蔵に具台的にどういった物が保管されているのか調べる必要があった。
 過去の資料を紐解く内に、危険極まるヒトカタが土蔵に封印されていることを知った園衛は景の家に急行した。
 そして運が良いのか悪いのか、覚醒したヒトカタに景が襲われている場面に遭遇してしまった。
「それはないわー……」
 色々な意味を込めて呟いた言葉だった。
 園衛はヒトカタの髪を引っ掴んで、景から引き離すや土蔵の外に放り出した。
 重力を感じさせぬ浮遊感で、全裸のヒトカタはあわりと着地してみせた。
「あらぁ~? 無粋ですわねぇ、今世の女性(にょしょう)は。70年ぶりの人の幸せな食事を邪魔してはいけませんよぉ~? うふふふふ」
「は、貴様は人ではなかろう?」
「ごもっともで」
 人外を前にしても、園衛に動じる様子はない。むしろ狂暴な笑みさえ浮かべている。
 宮元園衛は、そういう人間だ。
 園衛は手近な所にあった竹箒を取ると、回転させて薙刀のように構えた。
「貴様ごとき、箒一本で十分」
「あらぁ~? イキりすぎじゃあございませんことぉ? ただの人間が箒でわたくしをどぉうにか出来るなど、思い上がりも甚だしいというか何というかぁ?」
「塵を払うのが箒であるぞ。その程度も知らんのか?」
「あなたのそれは蛮勇です、よ」
 ヒトカタが手を払った。それだけで不可視の呪いの魔風が生じて、園衛の体を食いちぎらんと迫る――が、それは箒の一振りでパン! と空裂音と共に文字通り祓われてしまった。
「あら、あらら?」
 戸惑いながらも、ヒトカタは次々と魔風を繰り出す。
 その全てが、ただの箒一本によって、その辺のホームセンターで売っている900円程度の輸入竹箒によって、迎撃、破砕、抹消させられていく。
「え、ちょっ、え、ええええ?」
 ヒトカタの攻撃を全て無効化するだけではない。宮元園衛はジリジリと間合を詰めていた。
 不利を感じたヒトカタが逃走せんと意識を家の外に向けた瞬間、気合と共に園衛が地面を蹴った。
「せぃイやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!」
 自らの肉体を一本の槍として射出するがごとき電光石火、神速の突き。
 蹴られた地面が土埃を上げて大きく抉れ、園衛の履いていたパンプスが負荷に耐え切れず吹き飛んだ。
 全身をバネにして撃ち込まれた竹箒の柄の先端は、ヒトカタの胸の正中、心臓に当たる部分に直撃。過負荷で竹箒は粉々に砕け、ヒトカタを貫通した衝撃はその内部を破壊。背中へと突き抜けて炸裂した。
「ぎぃぁああああああああああああっ!?」
 ヒトカタの絶叫。赤黒い疑似血液と内蔵部品を撒き散らして吹き飛び、敷地内の樹木に激突。そのままボトリ、と地面に落下した。
「う、うそ……どうなってるんですか、これぇ……」
 想像を絶する結果にヒトカタは当惑している。身に受けた損傷も想定外のものであり、呼吸器の機能不全から何度も咳き込んだ。
「ゲホ……ゲホッ! うぅ……70年前といい、今世の人間どうなってるんですかぁ……。なんでわたくしが、こんな一方的に、ボコっボコにぃ……。ゲホ、ゲホッ! ウゲェ……ッ!」
「愚問であるな」
 土埃の中で、園衛が悠然と腕を組んでいた。
「人は常に進歩し続けている。大昔の人間より今の人間の方が強いのは当たり前であろう! 今よりも過去が優れていると思うか? 過去と今が変わらないと思うか? それは人が積み重ねてきた歴史に対する冒涜だな!」
 箒一本でかつて荒神だったヒトカタを叩き伏せたその女は、堂々と言ってのけた。
 なんという自信。なんという暴論と極論。しかし、なんという道理。納得させられる。身を以て納得するしかなかった。
「無茶苦茶ですが……それが世代を重ねる人間の強さ……なのですね。だけど、うふふふふ……わたくしは1000年前も1000年後も同じことを繰り返すだけ、なのでしょうねえ。ゲホッ……」
 ヒトカタはどこか寂しげに、ぽつりと呟いた。
「うらやましい……」
 と。
 その声を聞いた園衛から、急速に殺気が消えていった。
 それでもヒトカタとは一定の間合を空けている。油断したわけではない。
「人形よ、お前に問う。お前に心あるならば、変わってみたいと……思わんか」
「心……ですか。残念でございますが、これは人間の真似をしているだけでございます。任務遂行のために付加された……ゴホ、ゴホッ。はぁ、はぁ……それだけの機能でしかありません」
「人の子とて、最初は親の真似をするものだ。そこから学び、経験を積んで人間として完成する。お前はそうではない、と言い切れるか」
「さあ、考えたことも……。そう、こんなことを考えるのは初めて……ですね」
 きょとん、とヒトカタの表情が砕けたものになった。意識して作ったものではない。自然とこういう顔になってしまった。
 園衛の表情もまた、慈愛を秘めた菩薩と成っていた。
「私はな、人の可能性を育みたいから学校を経営している。お前もそこに来るが良い」
「なんたる奇特な御方……。わたくしが降伏したフリをして、学舎の人々を食らうとは考えないのですか」
「お前が真に邪悪な者ならば、こんな誘いはせん。話すより先にとっくに叩き潰している」
 園衛の声には確固たる意思と責任が込められていた。
 それは、ヒトカタが何百人と見てきた為政者や武将でさえ稀有な、指導者としての真の輝きだった。
 正直、ヒトカタは園衛に感服しかけていた。
「されど……わたくしは、名前すらない虚ろなヒトカタに過ぎません。何を目標として学べば良いのですか。わたくしは今の今まで2000年も、人を苦しめ、殺すことだけを……ゴホッ、ウゥ……。命じられてきました」
「ならば私はお前に新たな使命を与えよう。これからお前は人を育み、共に歩むのだ。心を得れば、お前の中の呪いも……いつの日か鎮まる」
 園衛はスーツのジャケットを脱いで、ヒトカタとの間合いを詰めた。
 歩み寄り、一糸まとわぬ少女の体躯へと上着をかけた。
「名前も私が付けてやる」
 園衛は手を差し出し、ヒトカタはそれを受け取った。
 原初のヒトカタは、この世に生じて初めて自分のだけの名前を得た。人を殺める任務のために名乗る偽名ではない。
 2000年間、ひたすらに呪いと殺戮だけを繰り返してきた存在の最初の変化だった。

「――そして、わたくしは瀬織という名前を頂きました」
 割と深刻な様子もなく、瀬織は淡々と自分の身の上を説明した。
 帰宅後、居間にて瀬織は事前に言った通りに一切を景に話し始めた。
 監視のためか朱音も同席していたが、あまり楽しそうには見えない。早く帰りたいという気持ちが表情に滲み出ている。
 景は情報の洪水に混乱しながら、額を抑えて俯いた。
「なにそれ……つまり瀬織は人間じゃないって……?」
「そういうことになりますね。気持ちが悪いですか?」
 横目で、瀬織を伺う。
 人間のように振る舞う人形。だけど、どこからどう見ても人間にしか見えない。外見的に違和感の一つでもあれば本能的に不気味だと思うだろうが、そんなものは微塵もないのだ。
 困惑する以外になかった。
「……分かんない」
「でしょうね」
「ていうかさぁ……」
 景は頭をかきむしる。声に苛立ちが篭っていた。
「いきなり人形だの呪いだのワケわかんないんだけど! どういう世界観それ!」
 当然の反応であった。
 ごく普通に生きていた一般人の景が、こんなファンタジーめいた説明をされてもハイそうですかと受け入れられるわけがない。
「大体、さっきの話、園衛おばっ……」
 おばさんと言いかけたので、とっさに訂正。
「そ、園衛様がやたら強かった気がするんだけど。あの人、なんなの」
「あら? 今世の方って普通にあれくらいお強いのでは? 園衛様がそう仰ってましたし」
「なぁワケないでしょぉぉぉ……」
 景の知る限りの現代日本は、普通の人間が箒で呪いを薙ぎ払ったり、靴が吹き飛ぶような速度の踏み込みが出来るような世界観ではない。断じてない。
 この場で唯一、それについて説明できるのは朱音だけだった。
「園衛様はね、そういう人なの」
「そういう人って……どういう人」
 景の問いに、少しだけ間を置いて、朱音は言葉を選んで答えた。
「昔……その、お若い頃、学生時代に色々と活躍されていたのよ」
「具体的に、どんな」
「……怪物をやっつけるヒロイン」
「えっ?」
 朱音は顔を真っ赤にして席を発った。あまり口に出したくない単語だったようだ。
「……もう帰る」
「あの、朱音ちゃん」
「……なに」
 景に引きとめられて、朱音はあからさまに厭な顔をした。
「質問があるなら、私より園衛様に聞いて。電話でもかけて」
「……毎日うちにプリント届けてたのも、園衛様に言われてたからなの」
「半分はそう。もう半分は先生に言われたから。私……学級委員だから」
「そっか……わかった」
 自分の意思でやっていたわけではない、と明確に言葉にされると正直割と辛いものが込み上げてきた。もう暫く疎遠だった幼馴染と決定的に距離が空いてしまったような気がした。
 朱音が居間から出ていくと、瀬織は景の表情から大体を察したようだった。
「景くん、あまり気にすることはありませんわよ」
「別に気にしてないよ……」
「あれくらいのお年頃の女の子は、背伸びがしたいのですよ。ああいう物言いも腐れ縁を清算して新しい自分に変わりたい、という気持ちがあるからです。分かり易く言うと中学でびゅーってヤツですね。でもね、そういう背伸びって10年くらい経ってから死ぬほど後悔するんですよね~。『ああ、なんであんなこと言っちゃったんだろう! もっと優しく出来なかったの私って! バカバカバカ!』と自己嫌悪するのですよ~」
 饒舌に繰り出される瀬織の言葉に、景は苦虫を噛んだような顔になった。
「お前っ……人間じゃないのになんでそう分かったような口を……」
「人間なんて1000年2000年程度で変わるものではありませんよ。妙な言い方ですが、それだけ多く人間を見てきた経験からの老婆心でございましょうか」
「じゃあ、瀬織って実際お婆ちゃんなの」
 その一言で珍しく、瀬織の言葉が止まった。
 微笑みながらも小首を傾げ、「ん~?」と少し考えるような仕草をして
「お婆ちゃん、というのは些かキツいですね~流石にぃ。わたくし、景くんのお姉ちゃんということなら大歓迎なのですが」
 と苦笑して見せた。
 ここまで人間臭く、自分に良くしてくれる相手を人間ではないから、とそれだけで拒絶する気持ちにはなれなかった。
 昔話で家族として過ごした鶴や狐を追い出すような不寛容な人間にはなりたくない。
 ただ、瀬織の真意だけハッキリと聞きたい。その上で、景はとりあえずの答を出すつもりだった。
「瀬織はさ、どうして僕の家にきたの。園衛様に言われたから?」
「半分はそうですが、半分はわたくし自身の意思です」
 瀬織は胸に手を当て、嫣然と笑った。
「わたくしの本質は、人の願いを叶えること。園衛様と景くん、お二人のささやかな願いを叶えてさしあげたいと……思ってしまったのです」
 それは、瀬織の本心ありのままの吐露なのだろう。
 しかしながら、当の景はいまひとつ納得がいかない。
「願いって……なにさ」
「お分かりにならないのでしたら、言わぬが花というものです」
 願いと言われても、景には漠然とした願望しか浮かばない。SNSで今より目立ちたいという名声への欲望は、さほど大きくもない。土蔵からもっとレアなプラモや玩具が見つかると良いな、とは思っているが。
 生活にも特に不満はない。両親の遺産は景が生活する分には何の不自由ないほどに遺されている。
 友人関係も同様だ。一緒に出掛けるような親密な相手はいないが、学校では普通に接している。現状に何も不満はない。
 景が自分の願いを探している横でも、瀬織の話は続いている。
「あとは……最初に景くんを襲ってしまったことの罪滅ぼしでもありますね」
「襲ったって……? う、うん?」
 そういえば瀬織の話で土蔵がどうこうと言っていた気がするが、その日のことは曖昧にしか憶えていない。思い出そうとすると、翌朝に瀬織が自分に圧し掛かっていた光景がフラッシュバックして、顔が真っ赤になってしまった。
 瀬織はその様子を見てクスクスと笑い
「まあ……景くんがお望みでしたら、あれの続きをするというのも吝かではありませんけど」
 と、いつも通りに本気か冗談か分からない悪魔めいた言動で景を誘惑した。
 人外の色香に幻惑されて「うぅ~っ……」と頭を抱える景の様子を愉しむのもほどほどに、瀬織は座する姿勢を正した。
「さて……景くん。わたくしのことは概ねお話いたしました。かような因業を背負う人ならざる女を、受け入れてくださいますか? 厭だと仰られても、わたくしは何の恨み言もございません。大人しくこの家を後にする所存です」
真剣な声だった。嘘も誤魔化しもない。本気で言っている。
景も……本気で答えねばならないと思った。
「もし僕が断ったら……瀬織はこれからどうするんだ」
「わたくしにとっては、100年待つのも1000年待つのも大差ありません。また土の中に戻って眠りにつきましょう。いつの日か、わたくしを受け入れてくださる誰かが現れるまで」
 それは……いくらなんでも悲しすぎると思う。
 と同時に、自分が軽率に判断を下すにはあまりにも重すぎる問題だと思う。
 14歳という微妙な年齢ゆえに、感情にも論理にも振り切れない。そんな決断を求められても酷である。
 景が答に困っていると、玄関のドアが開く音がした
 一応、鍵はかけてあるはずだ。それが外から開かれたようで、玄関で靴を履いていた朱音は訪問者とかち合った。
「あっ、園衛様……」
「朱音か。もう外は暗い。私の車で待っていろ」
 簡潔に会話を済ませると、園衛は無遠慮に家に上がって居間へとやって来た。肩には大きなスポーツバッグを担いでいる。
「その様子だと、二人とも話は済ませたようだな」
「ちょっと、園衛おばさん! 勝手に上がってこないでよ!」
 景は、いきなり顔を出した園衛を思わずおばさん呼ばわりしてしまった。
 園衛、表情も変えずに
「私をおばさん呼ばわりしたければあと5年は待つのだな。そもそもこの家の管理を任されているのは私だ。いつ出入りしようが私の勝手だろう」
 と文字通りの上から目線で景を見下ろした。
 園衛は180cm近い長身なので、景は物理的にも全く太刀打ちできない。二重のプレッシャーに萎縮。
「何の用さ……」
「瀬織がまだ話していないこと、多分あと一つある。それについて私が話にきた」
 まるで盗聴でもしていたかのように経過を見透かしている。景が思わずスマホが通話モードになっていないかを確認するほどに。
 園衛はスポーツバッグを開けると、その中身をテーブルの上に放り出した。
「うわああああああああ! なっ、なっ、なにこれっ!」
 バッと卓上に置かれた物体を見て、景は悲鳴を上げた。
 それは、切断された人形の頭部だった。しかも切断面から覗く糸や管が未だに蠢いている。
 良く見れば、その人形は先刻現れた蜘蛛型傀儡の人型部分に酷似していた。
「これは、かつて瀬織だった物の一部。70年前に山中で破壊された残骸。それが長い年月をかけて再生した。頭脳である瀬織を欠いたままの状態でな」
 そういえば、蜘蛛型傀儡について朱音と瀬織が話していた。「自分の手足」だの「切り取られたトカゲの尻尾」だのと……。
 園衛は景がそれとなく状況を飲め込めているのを確認すると、更に説明を続けた。
「うちで保管していたマガツチはその残骸と似たようなモノでな。それが瀬織が目覚めたと同時に動き出した。ならばと思って山に行ってみたら案の定、こいつらがウヨウヨいた」
「ウヨウヨって……大丈夫だったの」
「私は問題ない。試しに二、三匹ブッ殺してきた」
 何の事もなしに言ってのける園衛。本当に世界観が違う。
「だが私以外には問題がある。大問題だ。こいつらは本能的に自分の頭脳、つまり瀬織を求めている。欲している物がないから代わりが必要だ。だから代用品として生き物の脳ミソを取り込もうとしている」
「えっ……」
「この辺の山にいる生物で最も高等なのは猪だが、それでは代用できんらしい。だから私の脳ミソを狙ってきた。『欲しい欲しい』と言ってな。私は返り討ちにしたが、アレが山を降りたらどうなる? それも一匹や二匹ではない。冗談ではないよ」
 相当に深刻な事態を宣告されて、景は青ざめた。
 つい数時間前の自分なら冗談はよしてくれと笑い飛ばしていた突飛な内容も、蜘蛛型傀儡やこの残骸を目の当たりにした今では全く笑えない。
 対して当事者である瀬織は、冷たい薄笑いを浮かべていた。
「あら……実際、もう降りてきてしまったようですが」
「だから冗談ではないのだ。しかも、こいつら完全に殺し切れん。バラバラの微塵斬りにしてもこのザマだ。時間とエネルギーさえあれば無限に再生する」
「でも、わたくしが殺したアレは完全にケシズミですが?」
 ついさっき、瀬織が雷で粉砕焼却した蜘蛛型傀儡は再生した気配もない。
 園衛はおもむろに懐に手を入れると、何とも不釣り合いな金槌を取り出した。その辺のホームセンターで売っている、ごく普通の家庭用の金槌であった。
「口で説明するより実践だ」
 そう言って、金槌を瀬織に差し出した。
 瀬織は小首を傾げながらも金槌を受けとり、視線をテーブルの上にやった。
 卓上では、相変わらず瀬織の分身だったモノが蠢いている。
 瀬織は何の躊躇もなく
「えいっ」
 と、気の抜けた声と共に金槌を振り下ろした。
 バキッ、と骨と木材が叩き割られる音がした。
 虫を潰すようで気味が悪いので景は思わず目を瞑ってしまう。
 数秒後、景が恐る恐る目を開けると、卓上の存在は完全に動きを止め、ただの残骸と化していた。
「なるほど。つまり、わたくし自身が壊せば良いと」
「頭脳であるお前自身が活動停止信号を直にぶち込む。それが最も手っ取り早く確実なのだろう」
 話は分かるが、景は自分とは異なる世界観に置いてけぼりを食らっている。
 このまま自分の部屋に退散して全て丸投げしたい。意味の分からない世界に関わりたくない。面倒臭い。
 そう思う一方、瀬織が自分から遠い存在になるのがなんとなく厭で、もやもやとした気分だった。
「あのぉ……」
 景が挙手して、会話に割って入る。
「ってことは、別に瀬織が戦わなくても良いんじゃないの? 急がなくて良いなら他にも方法があるんでしょ?」
「あることにはある。だが現実的ではない」
 園衛は腕を組んで答えた。
「炭化するまで燃やして極低温……液体窒素にでも浸けて分子運動を限りなくゼロに近づけ――ああ、説明するの面倒臭いな。つまり、何十匹もいるバケモノを一日そこらで処理するには時間も設備もないのだ」
「でも園衛様ってお金持ちなんでしょ?」
「金で時間が買えたら誰も苦労はせん」
「園衛様、昔は凄く強かったって聞いたけど。なんとかならないの」
「誠に遺憾ながら、どうにもならん」
「どうしてさ」
 食い下がる景に、園衛は珍しく困ったように眉をひそめた。
「確かに私は強かった。だがな、景よ。私の……私達の戦いはもう10年も前に終わったのだ。戦いに関わった人達には生活がある。私が長だった組織はとうの昔に解散して、装備や機材もほとんど廃棄処分。マガツチは偶然ウチに放置されていただけだ。私一人で守れる物など、あまりにも少ない」
「そんな無責任な……」
「私に責任があるとすれば、蔵の管理を怠ったことだ。それについては謝罪する。もう少し早く気が付いて、お前から蔵の鍵を取り上げるべきだった」
 そこまで言われて、景は事の原因に気が付いた。
 山で傀儡が動き出したのは、瀬織が目覚めたのと連動している。
 だから、景が瀬織を起こさなければ、変な興味を持って蔵の奥に入らなければ、何も起きなかった。
 つまり――直接の原因は景自身にある。
 それを分かった上で、園衛は景を責めようとはしなかった。
「幸いにも私の家は金もあるしコネも効く。消防と警察には害獣駆除ということで山には立ち入り禁止にしてもらう。学校も明日は臨時休校だ。この田舎で最も人が集まるのはあそこだからな。真っ先に狙われる可能性が高い」
 園衛は今、ただ淡々と、力ある者としての責任を果たそうとしている。
 今まで、単にお節介な親戚のおばさんとしか思っていなかった人が、目の前で大人であると見せつけられると……景は自分の浅はかさと無力さが恥ずかしくて、もう何も言えずに俯いた。
 沈み込む景の手に、瀬織がふわりと手を重ねてきた。
「気になさることはありません。景くんが起こしてくださらなかったら、わたくしは、ずぅーーっとあそこで一人ぼっちでした。そんなわたくしに、変わる機会を与えてくださったのが園衛様です。お二人にはとても感謝しているのです」
「でも僕……何も出来ないよ」
「それはそうです。だって景くん、普通の男の子ですもの。マンガみたいな特別な力なんてありません。でも、わたくしは普通な景くんが大好きです」
 面と向かって好意を露わにされても景は素直に受け入れられる年齢ではない。気恥ずかしげに顔を背けた。
 その初々しい反応を見て、瀬織は笑った。
 たっぷりの親愛を込めた、捕食者の笑みで。
「ぶっちゃけ~、らのべ主人公? みたいに『俺がなんとか力になるんだ~』とか意気込まれて突っ込んでこられましても足手まといなんですよね~。そういう勘違いした素人さんのせいで作戦台無し戦術的敗北とか冗談じゃないんですよね~。もちろん景くんは、そんなことしませんよね~?」
「えっ、あっ……えっ」
「対戦げぇむ? とかすぽーつでも良くあるんじゃないですか? 団体戦なのに素人同然の人達が足引っ張ったり適当な動きするせいで負けちゃうこと。ムカつきますよね~ああいうの。真面目にやる気ないなら出ていけっていうか~。そういう人達はえんじょい勢だけで集まってかじゅあるな対戦を存分に楽しんでくださいとしか言いようがないですわね~。ほほほほ……」
「ああああああ……」
 痛い所をジクジクと抉るような瀬織の言霊に景は悶絶した。
 ゲームやスポーツで自分が足を引っ張って気まずい思いをしたことは、14年間の人生でもそれなりにあったし――
 実の所、自分が何か助力できるのではないかと少しだけ思っていた。
 瀬織の後にいる園衛に、景は目で訴える。
(僕にもなんか力とか秘められてないの……?)
 意図を察した園衛、首を横に振る。
「そんなものはない」
(じゃあなんで園衛おばさんはそんな強いのさぁぁぁぁぁ……)
 またしても視線で訴える景。
 理解して答える園衛。
「私は死ぬほど鍛えたからな」
 なるほど、鍛えた結果なら仕方ない。諦めるしかない。
「じゃあ僕は何してれば良いのさぁ……」
 脱力気味、諦め気味の景へと瀬織と園衛は、ほぼ同時に返答した。
「それはもちろん~~」
「大人しく家で待っていろ」
 それから、瀬織は園衛と明日のことについて打ち合わせを始めた。
 二人とも荒事には馴れているようで、会話はいたってスムーズだった。
「明日の朝5時に持てるだけの装備を持って迎えにくる。マガツチはウチで充電しておくが、制御はお前任せだ」
「最大火力はいかほど?」
「銃火器は用意できんが、爆薬はなんとかしておく」
 景はこんな物騒な会話に入ることなど出来るわけもなく、なんとも居心地が悪いまま無言でソファに座っていた。
 話がまとまりかけた頃、不意に瀬織が妙なことを口にした。
「ところで、園衛様。此度の戦、間違っても素人さんは連れていきませんよね」
「ン……? 当然だ。行くのは私とお前の二人だけだが」
 園衛はちらりと景の方を見た。つまり景が妙な気を起こして同行したいと言い出すのではないか、と思ったらしい。
 景は意図を理解して即座に首を横に振った。あんなバケモノが何匹もいる山になんて行くわけがない。
 瀬織は自分の話が誤解されたので、苦笑して手を扇いだ。
「いやですわ、園衛様。わたくしが言いたいのは、あの氷川朱音という小娘。妙な気を起こさないかと心配しているのです」
「朱音が? どうしてそう思う」
「お気づきになりませんか? あの小娘、随分と鬱憤を溜め込んでいますよ」
「そうか……。良く言い聞かせておく」
 園衛はそれとなく察したようだが、景は瀬織の言っている意味が良く分からなかった。
 程なく話は終わって、園衛は帰っていった。
 景は食事を摂る気も起こらず、ふらふらと自室に篭ってベッドに倒れ込んだ。
 ドアの外から、瀬織の声がする。
「明日の朝ごはん、作っておきますね」
 昨日と変わらない優しい声。そんな声を聞かされても今となっては反応に困るが、とりあえず
「ああ……うん」
 と適当な返事をすると、瀬織は階段を降りていった。
 色々なことがあり過ぎて、脳の処理が追いつかない。感情の整理がつかない。
 別に見た目ちょっと年上の可愛い女の子の一人くらい、家にいたって良いじゃないか。昔、色々あったとか、寝起きに襲われてちょっと精気を吸われたとか、そんなに気にすることじゃあるまい。
 受け入れてしまったって良いじゃないか――と、そんな豪胆に割り切れるほど景の度量は広くなかった。
 瀬織がいると、今日のような面倒に巻き込まれる。それが厭だ。
 自分の生活が異物に破壊されるのが厭だ。極論を言ってしまえば、瀬織だって十分に異物だ。しかも厄介事の塊のような存在だ。
 仮に瀬織の分身とかいう傀儡のバケモノが全滅したとして、同じような事件がまた起きないとも限らない。
「厭だな……出ていってほしいな」
 と、本音の一端を小さく呟いた。
 ベッドの上での考え事は疲れた脳では長続きせず、いつの間にか景は眠ってしまった。
 目が覚めると、朝になっていた。
 スマホの時計を見ると、時刻は午前7時。
「あっ」
 園衛が迎えにくる時刻はとうに過ぎている。
 しまった、という焦りに血相を変えて飛び起きた。カーテンを開けて外を見る。当たり前だが園衛の車はない。
 ドアを開けて階段を速足で降りて食堂に入ると、昨夜の作り置きのおにぎりにラップが巻かれて、メモが一枚添えてあった。
 メモの内容は簡潔。
 お腹が空いたらチンして食べてくださいね――と、それだけ。
「それだけかよ!」
 続いて瀬織の部屋の戸を思い切り開いた。初めて入る異性の部屋だが、気にしている暇はなかった。
 当然のごとく、無人。
 名も実も、無人の部屋だった。
 室内にはクローゼットと箪笥があるが、元から置かれていた家具で瀬織の物ではない。
 他に、畳の上には何もない。人の匂いもしない。
 誰にも使われず、長期間放置されたままの、冷たい畳と埃の臭いだけが静止していた。
 クローゼットを開ける。
 中には、予備の制服が一着かけられているだけ。箪笥は開けるまでもない。中身は想像がつく。
 ここは、人間の部屋ではない。
 命のない人形が置かれていた、物置だ。
 景は、がくりと肩を落とした。
 瀬織がどういう存在なのかを、ようやくはっきりと自覚できた。
 あれは、本質的に人間ではない。2000年も静止したまま活動している不変の人形だ。
 だが、気味が悪いとはもう思わない。嫌悪など出来るわけがない。
 瀬織は変化しようとしていた。その一歩を踏み出したばかりだった。
 なら居場所くらい与えてやったって良いだろう。なんで、自分は、その程度の寛容さも持てなかったのだ! そんな後悔で胸が痛い。辛い。苦しい。
 目の前から明確に存在が消えたことで自覚する、喪失感。
 両親が死んだ時と同じだ。
 急にいなくなって、帰ってこない。失ったことに、一人でいることに、いつしか馴れてしまう。
「ああ……だから園衛様、瀬織をこの家に……」
 園衛は、景と瀬織を共に良い方向に変えていこうと考えていたのだと、漸く理解できた。
 別に今生の別れというわけではない。瀬織のことだから、夕方になって普通に「ただいま帰りましたぁ」と帰宅するかも知れない。
 でも、帰ってこないかも知れない。
 それが、どうしようもなく不安で恐ろしかった。
 スマホで園衛の番号にかけてみた。おばさん呼ばわりの登録名は修正しろと言われたが変えていない。ワンコールの後、帰ってきたのは
『おかけになった番号は現在使われていないか、電波の届かない所に――』
 という、今どき中々聞けないアナウンス。
「あの程度の山なのに電波届かないって、どんだけ田舎だよ!」
 窓から見えるのは、すぐ裏手の小山脈。さして高くもないというのに、今は果てしなく遠く感じる。
 かといって、今から追いかけるという選択肢はない。瀬織に言われた通り、素人が行っても却って足手まといになる。景自身が瀬織を失う一因になりかねない。
 スマホにはメールの着信も二件。学校からの臨時休校のお知らせと、ゆかりからのメールだ。
 前者は昨日に園衛が言っていた通りの内容だと知っているので開封する必要もない。
 後者は
『今日はお姉ちゃん起こしにいけません! ごめんね! 昨日の朝にコケたのなんか足いったいなーと思って放課後に医務室行ったら折れてましたー!』
 といった内容だったので即閉じ。
 今どきメールというのも一世代遅れていると思うが、学校は園衛の方針でSNSは使わないらしい。確か以前の学年集会で、裏SNSを学生は使う域に達してないとか情報の秘匿性がどうのこうのと言っていたが聞き流していたので良く憶えていない。
 ゆかりに関しては、単に一世代前の人間なのでSNSに必要性自体を感じていない。メールで十分と認識しているらしい。
 とはいえ、景自身もSNSで人間関係に縛られたくないので敬遠気味である。
 何にせよ、アテになる情報はスマホ越しでは何も得られない。
 そういえば、アテになる人間を一人だけ知っている。携帯の番号は知らないし、SNSにもメールアドレスも登録していないが、自宅の電話番号だけは控えてあるはずだ。
 景は踵を返し、居間に向かった。
 居間には、数年前まで固定電話が設置してあった木製の電話台が放置してある。
 電話台の下部はちょっとした物入れになっており、中には古びた電話帳やメモの束などが残っていた。それを漁る。
 目的は、景の小学校時代の連絡網プリントだ。あの当時はまだ同級生の自宅電話番号を配るという古臭い習慣が残っていた。
「こんな時は田舎で助かった……!」
 生まれて初めて地元に感謝しつつ、劣化してやや変色気味のプリントを発見した。
 そこに印刷された相手の電話番号をスマホに打ち込み、発信。
 何度かのコールの後、女性が電話に出た。
『はい、もしもし。氷川です』
 相手は氷川朱音の母親だ。話すのは何年ぶりだろうか。知っている人なのに妙に緊張して
「あ、う、も、もしもし。僕、あっあぁぁぁっ、あ東です」
 声がどもってしまった。
『はい?』
「あ、東景です!」
『ああ、景ちゃん! おはよう。どうしたの?』
 相手が景だと分かると、朱音母の声が一転して親しくなった。
 景も落ち着いて、ゆっくり、はっきりと要件を話す。
「あの、朱音ちゃんは起きてますか?」
 朱音なら事情に詳しいと思った。何かしら情報を聞き出されば少しでも気持ちは落ち着くし、もしかしたら園衛と繋がる通信手段も持っているかも知れない。
 だが、電話越しに返ってきたのは
『あら、朱音なら学校に行っちゃったけど』
 全く予想外の答だった。

 宮元園衛を簡単に言い表すなら、正義のヒロインだった。
 口に出すのは何とも気恥ずかしい形容だが、それは事実だった。
 過去形なのもまた、事実である。
 別に悪に堕ちたとか、力を失ったとかではない。戦いが終わったから、最大最後の敵を倒したから、物語が終わったから、ヒロインではなくなった。
 それだけの話だった。
 国や自衛隊と共同運営していた組織は解体。かつて共に戦った仲間たちは散逸して各々の人生を歩み、恐竜やサーベルタイガーといった古生物を模した巨大な戦闘機械傀儡は廃棄もしくはモスボールという形で封印。個人用の対妖魔装備も不用品として処分された。
 宮元園衛も、ただの人になった。
 大人になってからも園衛は正しい行いをしている。
超常に関わったせいで日常を失った子供たちを学校に受け入れ、人脈や財力を活用して社会の腐敗を是正し、教育や福祉に力を入れて、国と人の未来を守ろうとしている。
 今の宮元園衛は正義の人だ。
 胡散臭いと疑う人もいるだろうが、実績と事実を鑑みれば、どこに出ても恥ずかしくない真っ当な人間だ。
 だけども――氷川朱音は今の園衛に複雑な感情を抱いていた。
 朱音の祖父の家は歴史ある神社で、宮元家の仕事にも関わっていた。だから、朱音は幼い頃から園衛の活躍を見てきた。
 二刀の白刃を煌めかせ、一瞬で巨大な妖魔を切断、討滅する高校時代の園衛は、幼い園衛にとって光り輝く宝石そのものだった。
「すごぉい! わたしもね! おっきくなったらね! そのえさまみたいなカッコイーヒロインになるの!」
 幼い憧憬を一身に浴びる園衛は笑いながら、だけどいつもこう言った。
「はっはっは! だがな、朱音よ。私はお前たちの未来のために戦っているのだ。女の子が刀なんて振り回さなくて良い、そういう未来のためにな」
 実際――そういう未来はきた。
 不要になった装備や、解体された戦闘機械傀儡から抜き取られた勾玉が、鎮魂のために大量に氷川神社に運び込まれるのを見て、朱音は得も言われぬ喪失感を覚えた。
(これじゃわたし……もうヒロインになれない)
 戦う相手がいなくなったから、園衛も自分の使っていた何本もの刀剣や薙刀を奉納しにやって来た。火薬とワイヤーで刃を射出したり、二刀を合体させたりする変な武器ばかりだが、一応は刀剣である。
(あれじゃそのえさま……もうヒロインじゃないよ)
 遠巻きに眺める幼い朱音に気付いた園衛がやって来て、屈んで目線を合わせて、頭を撫でてくれた。
「そんな顔をするな。別に戦わなくたって、私みたいなカッコイー女にはなれるぞ!」
「うん……」
 一応は頷いてみたものの、その時もう既に朱音の心に小さなしこりが生まれていた。
 時を経て、園衛が本当に戦いを終わらせてしまったことを思い知り、自分がなりたいモノには決してなれないと思い知り、
 この鬱屈した感情を察した園衛のお情けで雑務を当てがわれている惨めさを思い知り、かつて憧れた宝石の輝きが色あせていく現実を思い知れば知るほどに、心のしこりは大きくなって、生温い泥を腹の底に溜めていく。
 排出する出口のない腹の中に汚泥が溜まって、頭の先まで泥が詰まった泥人形になりそうだった。
 そんな朱音の内情を、園衛がどこまで理解していたのか。
 少なくとも、昨夜の車内で交わした会話は朱音を絶望させるには十分なやり取りだった。
「朱音、お前は明日は家で大人しくしていろ」
「はあ……」
「妙なことは考えるな。危険な事はお前の出る幕ではない。こういうのは私の仕事だ」
「はあ……」
 園衛の口振りは、聞き分けのない子供に説教をする大人だった。少なくとも朱音にはそう聞こえた。
 結局――校内の治安維持のための情報収集だの、景の家の見回りと瀬織の監視だのと、園衛は適当な理由を付けて体良く自分をあしらっているだけなのだと、確信した。
(つまらない大人……)
 声に出してしまいたいほどに、憧れは失墜した。
 朱音が中学に上がって学級委員長に立候補したのも、園衛のようになりたかったからだ。でも委員長なんて、ただ面倒事を教師に押し付けられるだけの損な役割だった。少しも格好良くなかった。
 もう園衛の命令に素直に従うのもバカバカしく思えて、朝になって届いた学校からの休校メールも無視して、朱音は制服に着替えた。
 それは人のいない深い夜に出歩くような、いけないこと。
 初めて禁忌を侵す暗い愉悦。これに身を委ねれば、私は違う私になれる――そんな気がして
「私は学級委員だから、見回りにいくの」
 と、両親と自分に適当な言い訳をして、鞄も持たずに登校した。
 閉じられた校門を前にすると、心が躍った。
 関係者以外立ち入り禁止、との威圧的な看板。全く問題ない。
「だって私、学級委員だもの」
 動きづらいローファーと、校則通りのバカ正直な丈のスカートを無視して、門に足をかけて乗り越える。
 学校に設置された防災用のスピーカーが、煩く喚く。
『防災無線です。本日朝5時から、害獣駆除のため山は立ち入り禁止になっています。危険なので、決して近づかないでください。これに伴って、学校は休校となります』
 消防署の古臭い防災無線は無視して、朱音は無人の校内を歩く。
「だって私、学級委員だもの」
 建前を使って権利を謳歌する。まあ褒められたことではないが、大人はみんなやっている。だから悪いことではないのだろう。これで大人の仲間入り、というわけ。
 氷川朱音という蛹の中で、汚泥の澱(おり)が快感を伴って疼き、蠢いていた。

 朱音が学校に行ったと聞いて、景は行動に迷った。
 警察に連絡して保護を頼むのが最も手っ取り早いと思うが、末端の警官にまで事情が伝わっているとは思い難い。学生が休校日に学校に行ったから何だというんだ。どうでも良い悪戯電話として処理されかねない。
 朱音の母も口振りに全く危機感はなく、娘が学級委員の仕事で登校したとしか思っていないようだった。つまり元から事情は全く知らされていない部外者。傀儡のバケモノがどうこうと景が説明しても頭がおかしいと思われるだけだ。
 事情を全て知っている園衛の実家に行くという手もあるが、遠い。学校とはまるで反対方向に行かねばならない。電話台を漁ってみたが園衛の実家の電話番号は見当たらなかった。
 園衛は学校は人が集まるから危険だと言っていた。だから休校になったわけで、今は人がいない。確率的に襲われる危険は小さいはずだ。
 だから……素人の景が変な気を起こす必要はない。
 素人は足を引っ張る、と瀬織があそこまで辛辣に批判したので何か行動するのは気が引ける。
 だけど、当のバケモノ達は山で園衛と瀬織が相手をしているわけだし、そもそも学校に危険が及ぶ可能性が少ないのだから、自分が行っても問題はないはずだ。
 実際、遠目に見ても道路はいつも通りに車が往来している。それほど危機的な状況には見えない。
(僕が一人くらい出歩いたって別に大丈夫だろ……)
 と、楽観的な結論に達した。
 学校に行って、朱音を見つけて、ちょっとお喋りするだけだ。
 一応、朱音の母から携帯電話の番号は教えてもらったが、不通。
 家から出て歩くこと20分弱。景は、閉じられた校門の前にいた。
 空の色は曇り、大気がゴォと唸りを上げている。田舎では良く見る光景だ。景も子供の頃から見慣れている。だけど今日は、山の方向は見たくなかった。
 改めて朱音の携帯にかけてみるが
『おかけになった番号は現在使われていないか、電波の届かない所に――』
 お決まりのアナウンス。途中で切った。
 とりあえず学校には来てみたが、敷地は広大。しかも中等部と高等部が同一敷地内にあるので、どこから探して良いのか見当もつかない。運動場や第二校舎も含めれば、山の方にまで続いている。
(試しに大声で呼んでみる?)
 いやいや論外だ。今の朱音の性格を鑑みれば、確実に無視される。それどころか更に遠くに隠れてしまいそうだ。
 とりあえず校舎には鍵がかかって入れないだろうから、外縁を回ってみようかと思った矢先、バァン! と発破のような轟音がした。
 山で行われる採石の爆破音なら聞き覚えがあるが、それよりも遥かに距離が近い。昨日の戦闘で聞いた地面が抉られる音のようだ。
 つまり、つまりつまり――
 景が頭の中で答を出すよりも早く、明確な回答が目の前に現れた。
 山に面した運動場の方角から土煙が舞い上がり、〈マガツチ〉が百足型傀儡を押し倒すような形で落下してきた。
「芯の臓を貫きなさいな! マガツチ!」
 どこからか聞こえる声。瀬織の命令を受けた〈マガツチ〉の行動は的確。尾で百足の頭部に付いた人型部分、その心臓部に埋め込まれた蒼い勾玉をピンポイントで貫いた。
 本体である瀬織の端末となった〈マガツチ〉からの停止信号入力、そして動力源である勾玉を破壊され
『アァ、ア、ア、ア、アァ……』
 百足型傀儡は断末魔の呻きと共に崩壊していった。
 遅れて、瀬織が運動場に着地。いつもの通りの制服姿。同時に、呆然とこちらを眺める景に気付いた。
「なっ! 景くん、どうしているんですの!」
「あっ……これにはワケが――」
 瀬織の表情が険しくなる。
 景は背後に、生温い空気を感じた。
『ホォ……シィ……イイイイイイ……』
 女のような、しゃがれた呻き声が、頭の真後ろから聞こえた。
 すぐ後ろに、あれが、いる。
 振り向けない。動けない。指の一本でも動かした瞬間に殺されると本能で悟る。
 動かなくても殺される。瀬織との距離は100メートル近く離れている。どう足掻いても間に合わない。
 終わりを確信した直後、景の背後の百足型傀儡の首が切断された。
『ア』
 短い声が叫びを形成するよりも迅速に、首に備わった人型部分が斜め一閃に両断。潤滑液を噴出させて地面に転がった。
 ズン、と音を立てて転倒する百足傀儡の巨体。活動停止はせず、未だ蠢いている。
 傀儡の後から、日本刀を持った園衛が現れた。腰には何本もの大小刀剣をぶら下げて。
「どうして来た。待っていろと言ったはずだ」
 冷たい表情と声だが、叱責の念が端々に露われている。
 怒られるのは当然であるが、景にも言い分はある。
「そっちこそ、なんでこいつらが学校にまで出てくるのさ! 山で戦ってたんじゃなかったの!」
「戦っていたさ」
 園衛は刀の状態を一瞥。刃こぼれが著しく、刀身の固定も歪んでいた。
「一匹切っただけでコレだ。普通の刀では話にもならん」
 呟き、使い物にならなくなった刀を傀儡の人型部分に突き刺すと、瀬織に処分を任せる意味も込めて学校の敷地内へと投げ捨てた。非常時でも流石に一般道に捨てるようなことはしないらしい。
「見ての通り、戦って奴らを追いかけてここに来た。どういうことか分かるな」
「追いかけてって……あいつら、山を降りて――」
「人の臭いに釣れられて来たのだろうな。分かったら今すぐ家に帰れ」
「朱音ちゃんが学校にいるんだよ!
 園衛が無言になった。険しい視線で校舎を睨んでいる。
 対する瀬織は、校門の向こうで嫣然と嗤っていた。
「うふふふふ……いつだって悪いことは重なって起きるもの。案の定、素人さんが足を引っ張ってくれちゃうワケですねぇ」
 傀儡の残骸をローファーで踏み潰し、愉快げに嗤う瀬織を見て、景は怒るよりも悲しくなった。
「そんな顔するなよ瀬織ぃ……。人が死ぬかも知れないんだぞぉ……」
 変わってほしいと思うから、死を愉しむ瀬織を見るのは辛く、居た堪れない。
 景の表情で察したのか、瀬織は悪びれた様子で萎縮した。
「申し訳ありません……。景くんのお友達ですものね。口が過ぎました」
 そういうわけではないのだが、今は説明する暇もない。
「だが……探す暇はなさそうだ」
 園衛が新たに刀を抜いた。その鋭い視線の先には、何匹もの傀儡。いたる所から分散して思うままに学校の敷地内に侵入してくる。
 市街地に現れるより私有地かつ無人の校内に殺到してくれるのは好都合ではあるが、今は最悪に近い状況に見える。
 一方で、
「でも、普通こんな状況になったら逃げますよねぇ?」
 と冷静に、冷淡に、瀬織が分析をした。
「怖くてどこかに隠れてるんじゃ……?」
 景が遠慮がちに反論を挟むと、瀬織は「う~ん?」と鼻を鳴らして小首を傾げた。
「いえいえ、学校の敷地は広いですわよね? 塀もそんな高くないし、生垣も簡単に通り抜けられます。連中に追い回されてるわけでもなし、逃げ出す隙なんていくらでもありますわ」
「た、確かに……」
「ですから、考えられるのは二つ。氷川ナントカさんはとっくに自力で逃げてしまわれた。それだと、わたくし達は遠慮なく戦えますね」
 楽観的に思えるが納得のいく道理の通った推察だ。確かに朱音は愚鈍ではないし、事情も知っているから理性的に避難したと考えるべきだろう。
 景が安堵しかけた矢先、瀬織の目の中に不穏な光が灯る。
「もう一つ、考えられるのは――あの氷川さんが普通でなかったとしたら?」
「えっ」
「ご覧ください、景くん」
 瀬織の腕が軽やかに、傀儡のひしめく学校を扇いだ。
「今の学校って普通じゃないです。そんな所にいれば氷川さんも普通じゃなくなる。特別な存在になれるんですよ」
「な、なにを言って……」
「普通じゃないものに憧れる女の子にとっては、特別な存在に変われる絶好の機会なんですよ。これって」

 いけないことをする自分は、前の自分とは違う自分。
 氷川朱音は生まれて初めて、自分を変えることが出来た。
 憧れていた正義のヒロインには絶対になれないと悟って、どうせ届かない輝きなんて諦めて、下の方を覗いてみたら、そこは案外広くて居心地の良い、楽な空間だと初めて知った。
「出歩くな」というつまらない大人のつまらない言いつけを破って、立ち入り禁止の学校の中を散策するだけの、ささやかないけないこと。
 それでも、初めて味わう背徳の蜜は極上の甘味。
 学校の敷地内で何かの破砕音がして、程なく周囲から何かが校内に殺到してきているのは分かる。
 これは普通では到底あり得ないシチュエーション。朱音が10年間ずっと恋焦がれていた、失われた好機。
 背中がゾクリと震え、緊張と歓喜に首がガタガタと音を立てて揺れた。
「そう。私はずぅぅぅぅっと、ずぅぅぅっと、こうなるのを待ってたの」
 こんなことを考える自分は普通じゃないと分かっている。でも、それで良い。
 理性が待てと小声で訴えても大きな欲望がそれを掻き消す。
 本能が死ぬぞと切に警告しても膨れ上がった願望がそれを飲み込む。
「私は普通になんて、なりたくないの♪」
 歌うような独り言。足取りは軽く無人の校内を歩いて往く。
 窓ガラスの割れる音がする。人外の断末魔の声がする。なんて心地の良い音色なのだろう。
 たくさんの声が聞こえる。
『ホシィィィィ……ホシィィィィ……』
『カラダガ……ホシィィィィ……』
 求め、渇望する声。共感する、とても。
「ええ、そうよ。私も欲しいの♪」
 苦しそうに、切なそうに、失われてしまった物、手に入らない物を求めるモノの声は、朱音の内なる声そのもの。寸分違わぬ同じモノ。
『ホシィィィィ……アタマガ……ホシィィィィ……』
「そんなに欲しいのぉ……?」
『ココロガ……ホシィィィ……ホシィノォォォォ……』
「じゃあ、あげましょうか」
 答えてしまった。最大の禁忌を犯してしまった。
 決して踏み越えてはならぬ一線を越えてしまった、その快感と悦びに朱音は嗤った。
 目の前には、複数の蟲のような傀儡がいた。蜘蛛、百足、芋虫、蚯蚓(みみず)、蟷螂、蛇、見るもおぞましい生物の姿を模した巨大な傀儡たちは、みな一様に五体の一部が欠けた人型部分を頭に頂いている。
 朱音は、欠損した人型の意味が分かる。
 あれは、せめて形だけでもと再現した、この哀れな朱音と同じモノたちの願いの残骸だ。
 朱音は願う。このモノたちの願いを叶えてあげたい――と。
「そう。あなたは私」
 傀儡たちは願う。目の前の、自分たちと極めて近しい願望を持つ人間で自分たちを補填したいと。
『ワタシハ……アナタ……』
 傀儡の声が幾重にも重なり、頂いていた人型部分が崩れ落ちた。
 本物が見つかったから、代わりの偽物はもういらない。
 傀儡たちはゴリゴリと音を立てて、自分たちの躯体を分解していく。本物を受け入れるに相応しい形へと自己を解体、再結合させ、元の状態に極めて近い形状へと変化していく。
 巨大な一体の蟲人形と化した傀儡には、ぽっかりと口のように空いた空洞があった。
 空洞からは生臭い臭いが漂い、内部にはブヨブヨとした腐肉と無数の神経線維が蠢いて、金属光沢を帯びた紫や緑色の得体の知れない汁が漏れ出している。
 その口が朱音の目の前に開かれている。向こうから強引に引き込むなんてことはせず、待っているのだ。
 朱音も分かっている。
 このモノは、朱音が自らの意思でそこに入るのを待っているのだと。
 自分を満たしてくれる存在に心からの感謝と親愛を込めて、朱音は満面の笑みを浮かべた。
「さあ、一つになりましょう」
 そして少女は、究極の禁忌へと踏み入った。
 朱音の全身が空洞の闇に消えると、蟲人形は口を上げるような形で、腹の奥の奥までその肉体を飲み込んだ。
 瘴気と腐汁で満たされた闇の中で、朱音の体を縛っていた制服は引き千切られ、瑞々しい素肌へと神経線維が浸食し、人間に傀儡が生体接続していく。
 本来なら激しい苦痛と絶命を伴う接続行為はしかし、互いに完全に適合しているが故か、温かさと快感を伴う行為に昇華されていた。
「あぁっ! 素敵素敵素敵っ! 私とワタシが満たされていくのぉ!」
 この中は、少女が生まれ変わるための暗黒の母胎。新しい母の中で少女は新しい存在に生まれ変わる。
 若く未熟な肉体に人外の体液が注入され、急速に血液と入れ替わっていく。肌に差しこまれる透明な管から人間の血液といっしょに、朱音が10年間溜め込んできた心の汚泥が吸い出されていく。
 カルシウムで形成された強固な接続端子が脊椎へとしっかりと癒着、固定される。それこそ生物としての根幹から塗り替えてくれる洗礼、永遠の存在へと進化する解除不能の契りの楔であった。
 短時間で大まかな調整を完了し、蟲人形が再び口を開いた。
 湯気の立ち昇る穴の奥から、変貌し尽くした少女の成れの果てが現れた。
 腰から下は傀儡の中に埋まり、完全に一体化。肌の色は毒々しい紫色に変貌し、解かれた長い髪は色素を喪失した純白。細い両腕には傀儡の巨腕が接続され、虚ろに開いた両目は黒く変色し瞳は金色に鈍く光る。
 最後の仕上げに、朱音の頭に半円の輪が嵌められた。
 脳にまで直接端子を打ち込み、固定されるそれは他の傀儡たちを遠隔操作する機能を持つ王権の輪。その外観は王冠というよりも長く鋭利な鬼神の角であった。
 氷川朱音だったモノは、果てしなく拡張された意識の中で覚醒した。
『あぁぁぁぁぁぁ……素敵ぃ……。他のみんなと私が繋がってるの。みんなが私で私がみんな。みんなの見てる世界が見えて、みんなの食べ物の味が伝わってくるのぉ……』
 人間の脳では本来処理できない世界を体感している。脊椎や脳幹と接続された傀儡の勾玉が外付けの処理装置として機能しているのだ。
 氷川朱音は少女の蛹を破り、人を超越した存在へと羽化を果たした。
 泥と混ざって腐り果てていくだけの蛹の中身が、望んでいた夢よりも遥かに崇高で堕落した闇の輝きへと生まれ変わった。
 無数の傀儡を支配下に置いた今の彼女は正しく傀儡の女王であり、1000年前に大災をもたらした荒神そのものだった。
 荒神としての根源的な欲求と邪念が、頭の中と外から無限に湧き上がってくる。
『増やさなきゃ……。私たちを増やさなきゃ。人間はみんな殺して、食べて、山も川も海も空もみんなみんなみぃぃぃんな……私たちで埋め尽くすのぉっ!』
 新たな荒神が、高らかに宣言した。
「あらぁ~? なかなか美しい姿ですわねぇ」
 新たな神を褒め称えるような、蔑むような、小馬鹿にするような、どれともつかぬ声がした。

 瀬織と園衛は、二手に分かれて校内の傀儡を駆逐することにした。
 素人の景に出る幕はない。こうなってはわざわざ景が朱音の捜索をする意味がないので、出来るだけ学校から離れることにした。
 園衛は傀儡をしらみ潰しにしていく過程で朱音が見つかればそれで良し。最後まで見つからなくても傀儡を全滅させれば結果的にそれで良し、という割り切った判断を下したわけだが、瀬織としては思う所も一つある。
「こうなってしまったのも、ぶっちゃけ半分くらい園衛様に原因あると思いますけどねぇ~」
「む……半分もか」
 過失割合の指摘が意外だったらしく、園衛は眉をひそめた。
「私なりに朱音のことは気にかけていたのだが」
「園衛様って、なんでも出来る人ですよね。持っている人は結局、持たざる人の気持ちなんて分からないのです。自分が持たざる者にならない限りは」
「そういう無神経な大人にはなりたくなかったが……いつの間にかなっていたか」
「持たざる者への施しは、却って劣等感を煽るだけかも知れませんよ~? うふふふふ」
 人の心を抉るような瀬織の言葉を、園衛は静かに聞き入れていた。
 責めを受けるのも已む無しといった具合だ。事実として人生経験や人間の心に対する理解は、瀬織の方がよほど深い。
 話もそこそこに分散しようとした矢先、瀬織は〈マガツチ〉の異変に気が付いた。
 歩行の動作が、どこかぎこちない。
「あら……? なんか動き鈍くありません?」
『機能 障害』
〈マガツチ〉自身が重低音の発声で症状を訴えている。
 その原因は至極単純だった。
「バッテリー切れだな」
 園衛が答えた。
 馬鹿馬鹿しいほどに単純な原因に、瀬織は血相を変えた。
「えぇっ、充電したはずでは?」
「こいつが作られたのは10年も前だ。バッテリーはとうに劣化してる。それが朝から戦い詰めだ。そろそろ限界なのだろう」
「そもそも……どうして戦闘用傀儡が電池なんですか。普通はえんじんとか積みませんの?」
「お前の分身で作った試作機だからだ。エンジンなぞ積んで暴走したら面倒だろうが」
 結果として〈マガツチ〉はつい先日まで起動すらしなかった失敗作だったわけだが、瀬織の分身がこうして暴走している現在を鑑みれば〈マガツチ〉に稼働時間の枷をつけるのは正解だったのだろう。
 尤も、今はそれが裏目に出ているのだが。
「これで戦い切れますかねぇ」
「派手な技は使わん方が良いぞ」
「とんだ縛りぷれいですこと」
 肩をすくめて、瀬織は園衛とは別の方向に歩み始めた。〈マガツチ〉も、やや鈍い動作でそれに続く。
 侵入した傀儡たちは、生徒たちの臭いを頼りに校内を右往左往している。肝心の生徒がいないのだから徒労でしかなく、一様に恨めしそうな声を上げていた。
『ホシィィィィ……ホシィィィィ……』
 蟷螂型傀儡が欠けてしまった自分を埋める物を求めて、運動場の隅の部室の窓ガラスを破り、そこに頭を突っ込んでいる。
「とんだ間抜けっぷりですわね。殺し易くて助かりますわ」
 瀬織は背後に控える〈マガツチ〉に命じる。
「マガツチ、腕を寄越しなさい」
『上意 拝命』
〈マガツチ〉は右腕部のみを分離して放出。右腕が変型した手甲部分のみと瀬織は合体してみせた。
 こうすれば消費電力は腕部人工筋肉のパワーアシストのみであり、〈マガツチ〉自体を戦わせるよりは電力消費は遥かに小さく済む。
「重連合体方術、矢風」
 瀬織が腕を素早く一振りすると、空裂音と共に何かが射出された。円形に展開した鉄扇である。
 鉄扇は高速で蟷螂型傀儡の頭部を切断すると、瞬く間に瀬織の手元に返り、手甲内部に格納された。
 備え付けの実体武装を使用する、これもまた省エネルギーの攻撃方法だった。
 別の場所からは、園衛が次々と傀儡を切断する音が聞こえる。向こうは行動不能にしているだけなので、後で瀬織がトドメを刺さなければならない。
 ふと、校舎の間の部分に大きな影が見えた。
 目を凝らせば、一際濃厚な瘴気が漂っている。
「あら……素敵ですわねぇ」
 今は殲滅対象であっても、傀儡は荒神だった瀬織の一部分である。自分もまた元の形に戻りたいという根源的な欲求がある。
「あそこに行ってしまったら……どうなってしまうのでしょうねえ、わたくし。うふふふふ……」
 股倉の上が快感を伴って疼き、我が身が震えた。
 冗談半分に破滅願望に酔い痴れながら、瀬織は校舎の影を覗き込んだ。
「あらぁ~? なかなか美しい姿ですわねぇ」
 想定の内ではあるが、中々に感動的な光景だったので、瀬織は気持ち半分褒め称えた。
 そこにあったのは、複数の傀儡が再結合した全長20メートル近い巨大な蟲人形だった。その頂きには、氷川朱音が一部として組み込まれていた。
 というよりも、氷川朱音は既に人間を辞めてしまったようだ。
「お気分はいかがですかぁ? 氷川ナントカさん?」
 小馬鹿にするような口調で、氷川朱音だった存在に、新たな荒神に呼びかけた。
 瀬織の存在に気付いた朱音は、ニタリと嗤って振り向いた。
『とっっっても良い気持ちぃ……』
「そうでございますか~」
 新しい同族の誕生を笑顔で祝福しつつ、瀬織は右手甲の爪で空を指して、ぐるぐると掻きまわし
「それではさようなら~」
 ぐいっ、と人差し指を地面に向けた。
 左右を挟む両脇の校舎、その三階部分の窓ガラスが一斉に割れた。
「重連合体方術、村雨」
 上空に真空を作り出し、気圧差を用いてガラスを粉砕。その無数の破片を加速、落下させて攻撃を行う。地味に見えるが、非装甲の人体には絶大な殺傷力を持つ攻撃方法である。直径20cmほどのガラス片があれば、手足や腕は容易に切断、もしくは大型血管を斬り裂いて致命傷に至る。
 瀬織は最初から情けも加減もない。最小のエネルギー消費で確実に相手を殺す攻撃であった。
 加速されたガラス片は高速の対人カッターと化し、荒神に生まれ変わったばかりの朱音の肉体へと降り注ぐ。広範囲への攻撃とは校舎に挟まれた限定空間では回避不能だ。
『あがっ!』
 小さい悲鳴と共に、一瞬で朱音の左腕が切断され、剥き出しの脇腹が切り刻まれ、首が半分まで引き裂かれた。
 いかに荒神とて、今の素体は瀬織のような空繰人形ではなく生身の人間。人外の存在に成り果てたとしてもタンパク質の塊に過ぎない。強度面では遥かに脆い。
「別にぃ、わたくし景くんと園衛様以外の人間が死のうが生きようが知ったことではありませんので~。こうなった以上はサクっと始末してさしあげるのが、せめてもの慈悲というもの」
 瀬織は残酷に嗤った。
 2000年間、人間を呪い、殺戮を繰り返してきた荒神としての本質は未だ変わらず。関係の希薄な相手に対しては冷酷そのものであった。
 しかし、必殺の一手とは成り得ず。
 朱音が紫色の血液を噴出したのは一瞬。すぐに出血は止まり、傷口は元通りに修復されてしまった。
『無理だよぉ~? 今の私、この程度じゃ死んであげられないのぉ、お姉ちゃん♪』
「あら、別にわたくし妹はいらないんですけど」
 瀬織の次代の荒神になったから、立場的には確かに妹分ではあるのだろうが、互いの間に満ちる空気は到底友好的ではない。
 次の瞬間、荒神の長大な蛇の尾がのたうち、左右の校舎を砕きながら瀬織に迫った。
 爆ぜる鉄筋コンクリート。鉄とセメントの破片を撒いて、瀬織と〈マガツチ〉は後方に跳んだ。
 滞空する一秒にも満たぬ間、瀬織は冷徹に一個の空繰人形として思考する。
 さて、あれをどう殺したものか――と。
「マガツチ、衝角射出」
『拝命』
 命令を受けた〈マガツチ〉の尾の先端が、爆発的な速度で打ち出された。引き絞った人工筋肉のバネにて、炭化タングステンの有線式衝角を射出。現代兵器の徹甲弾弾頭にも使用されるタングステンの硬度と質量をこの運動エネルギーで撃ち込まれれば、生身の肉体は四散する。そうなれば再生も間に合わないはずだ。
 火砲による発射には及ばないものの、衝角の速度は人間が知覚、反応できるものではない。
 だが、認識能力の拡張された朱音はそれに対応してみせた。
 流石に直撃は危険と判断したのか、蟲の胴体部に備わった蟷螂の大鎌を盾にして衝角を防いだ。バキン! と激しい音を立てて青白い燐の火花が弾け、硬度に劣る大鎌が粉砕された。
 衝角は運動エネルギーを減衰させられ、尾と繋がったワイヤーを巻き上げて〈マガツチ〉本体へと回収された。
『ビックリしたあ……。キャハハハハ!』
 首を傾げて、たっぷりの邪気で朱音は嗤った。
「ケチケチした攻撃では殺し切れませんわねえ。さて……」
 跳躍から着地した瀬織は〈マガツチ〉を見やる。大技を繰り出すための電力はもう残されてはいないだろう。
 次に、校舎へと延びる電線を一瞥。
「試してみますか」
 白いコンクリートの粉塵の中から、朱音を頂く荒神の巨体がぬうっと現れる。
 絶対の自信と力ある特別な存在に成った喜悦に、朱音の微笑は止まない。
『瀬織お姉ちゃんの気持ち、今なら凄く分かるよぉ。私たちと同じに戻りたいんだよね? この闇の底に還りたいんだよねぇ?』
「ま、それは否定しませんけどね」
『でもぉ、元には戻れないのぉ。お姉ちゃんのいた場所は、今は私の場所だからぁ。だからね、お姉ちゃんのこと食べてあげる。私のお腹の中で作り直して、生まれ変わらせて、私たちの中の一つにしてあげる♪ キャハッ!』
「ふふっ……それは、遠慮しておきますわ」
 肩をすくめて軽く笑って、瀬織は〈マガツチ〉に言霊を投げる。
「いざ! 重連合体!」
『上意 拝命』
 瀬織と〈マガツチ〉が合一するのは一瞬。しかし今の朱音には緩慢な動作にしか見えなかった。
『隙だらけ♪』
 荒神の躯体が展開し、連装した短針砲が露出。それらが蜘蛛糸の流体カッターを一斉射した。
 着弾の寸前、瀬織は〈マガツチ〉の有線衝角を斜め上空に射出。ワイヤーを電線に巻きつけ、強引に引き込むことで跳躍。無防備状態ながらも流体カッターを回避せしめた。
 一般的な電線は〈マガツチ〉と合一して100kgを超えた瀬織の質量を支えきれず、ワイヤーを引き込む途中で断線した。千切れた電線は露出した銅線がワイヤーと直列に重なり、電気が〈マガツチ〉へと感電。その電力を、瀬織は気象操作を応用して攻撃へと転用する。
「重連合体方術、天龍!」
 背中の天鬼輪がガチ、ガチリ、と音を立てて二度回った。瀬織は指を地表に向け、不可視の念動力を更にその下、地中へと送信。
 数秒の間を置いて、荒神の真下の地表が割れた。
『なに、これぇ……!』
 体制を崩した荒神の巨体を、地中から湧き出る大量の水が飲み込んだ。水道管を破裂させた水を念動力で誘導、暴流へと変え、更にその勢いを収束。暴れる川は超高速の水圧流となって、数百トンの圧力で荒神の体躯を粉砕した。
『ガァあッ!』
 個人用の水圧洗浄機ですら、その圧力は1トンを超え、十分な殺傷力を持つ。それを数百倍の規模で出現させるのが重連合体方術・天龍であった。
 外部からの電力供給があって可能となった大技である。
 体躯を叩き割られて、荒神は水溜まりに崩れ落ちた。大質量が倒れ込み、水飛沫が吹き上がった。
 一方で瀬織もまた無傷では済まなかった。
「ちぃっ……やり過ぎました……っ」
〈マガツチ〉の劣化したバッテリーが過充電により異常発熱。瀬織の背中に合体していたバッテリーユニットから青い炎が上がった。リチウムイオンバッテリーの発火だった。
『機能 停止』
 その報告を最後に〈マガツチ〉と瀬織の合一は強制解除された。人工筋肉は結合力を失い、装甲がバラけ、瀬織と共に落下。瀬織自身は辛うじて着地に成功した。
「まさか、この程度の即席品と相打ちとは……。しかし我ながら上出来といったところでしょうか」
 自分より遥かに格下の人間の小娘、それを中枢に据えたインスタントの荒神に苦戦したのは些か癪に障ったものの、エネルギー不足の状態ならば十分な戦果だと納得しておいた。
 派手な音を聞きつけて、園衛もこの場にやって来た。
「大技を使ってしまったか。だが、そいつは……」
 荒神となった朱音の姿を見て、さしもの園衛も沈痛な眼差しで俄かに表情を歪めた。
「こうなってしまったのも、私の責任だな」
「半分はそうですが、半分は違いますわ。グレた子供が何でもかんでも親が悪い、社会が悪いと被害者面するのは筋違いでしょう? 勝手にグレて人様に迷惑をかけた子供も悪いのですよ」
「だが幸いにも、この子はまだ誰にも迷惑をかけていない。十分に後戻りできる。校舎が壊れたくらい私は気にせんよ」
「わたくしは、すっごい迷惑を被ったのですけどぉ?」
 瀬織は口を尖らせて冗談交じりに皮肉った。
 荒神の損傷は大破と言って良い。既に行動不能に見えたが、水浸しの朱音の体がピクリと動いた。
『ウウウ……やるぅ……。今のは結構ビックリしたよ、お姉ちゃあん……』
 ゆっくりと、荒神の巨体が起き上がった。十全ではないにしても、未だ健在らしい。
「ふん、流石に元はわたくしの体ですね。即席品でもまだ殺し切れませんか」
 というより、自分と同じ存在だから呪術の効果が薄いのだと確信した。朱音が荒神として定着するにつれ、瀬織の呪術攻撃が効き難くなっている。時間をかけるほど、瀬織は朱音に対する決定打を欠くことになる。
 それを朱音に悟られまいと言葉を選ぶ瀬織へと、園衛が当惑気味に声をかけた。
「お前、朱音を殺す気でやったのか……」
「中途半端に情けをかけるから負けるのです。戦とは気迫と殺る気。園衛様もお分かりでしょう?」
「そうだな……」
 戦場から離れて久しく、相手が昔からの顔見知りということもあって、園衛の中に甘さが生じていたのか。それを自覚し、振り払っても尚、園衛は朱音に哀れみの視線を投げかけた。
「朱音よ、私にも至らぬ所があった。もうそんなことは止めて……一緒に帰ろう」
『いいえ……園衛様、謝る必要なんてありません。だって私、いまとーーーっても幸せなんです! 今までの私は全部嘘、偽り、偽物の人生だったんです! 今の私が本当の自分! 全てから解放されたの! 永遠の存在になれたの! 園衛様には感謝してるんです! 私をこんな風にしてくれて――ありがとうっ!』
 朱音の言葉を聞いて、園衛は諦めたように溜息を吐いた。
 対して、瀬織はくつくつと含み笑いを零していた。
「ふふふふ……くくくく……なんですの、それ。面白いですわねぇ、あなたァ……?」
『なあに、お姉ちゃん。どうして笑うの』
「えー、ぷぷぷ……マジウケますわ、それ。いかにも拗らせまくった小娘の台詞って感じで最高ォですよ~。もう一回言ってくれませんかぁ? すまほで録音して後で景くんとアナタ自身に聞かせてあげますから~?」
 わざわざ制服のポケットからスマホを取り出して見せて、瀬織は朱音を大いに煽り立てた。
 朱音とて、精神年齢自体はまだ人間だった頃と変わらない。不機嫌に覚めた表情で瀬織を見据えた。
『イライラするなぁ……。止めてよ、そういうの。今から街の人たち食べちゃっても良いんだよ』
 知人や友人、親ですら眼中にない口振りは、自らの人としての生を清算したいという願望ゆえか。
 それとは別に、瀬織は朱音の虚勢を見抜いていた。
「強がるのはおよしなさいな。その体のこと、わたくしが一番良く分かっています。不慣れなアナタでは再生できるのは自分の体だけ。外付けの空繰まで扱い切れない。再生させるとしても明日までかかりますよ?」
『確かに、使い方まだ良くわかんないよ。でも強がれないのは、お姉ちゃんも園衛様も同じでしょ』
 事実、瀬織と園衛にも戦闘能力は残されていない。
〈マガツチ〉は機能停止、園衛の腰には一本の刀もなく数本の鞘だけがぶら下がっていた。
『だから私、お山に帰る』
 荒神の背中が割れて、蟷螂型傀儡の羽が広がった。高速で羽ばたくと、巨体がふわりと浮かび上がる。傀儡に端的に残されていた気象操作の呪力を応用して膨大な浮力を生んでいるようだ。
『すぐに戻ってきて、みんな食べちゃうからね。うふふっ。その時は――』
 朱音は虚ろに笑い、瀬織の目を見た。
『私かお姉ちゃん、どちらかが消える時だよ』
「――でしょうね」
 冷たい殺意の篭った目で、瀬織は朱音を見返した。
 荒神は緩慢な動きで山へと飛び去っていった。決して早くはない、目視できる速度。山の頂に飛んでいくのが、良く見届けることが出来た。
 園衛は瞼を閉じて、一瞬だけ思案。すぐに思考を切り替え、自分のスマホを取り出した。電話帳を開き、どこかの番号に電話をかけている。
「もしもし……。はい、私は宮元園衛といいます。所長の相沢さんはいらっしゃいますでしょうか。はい、宮元から火急の用事と伝えて頂ければ……はい」
 暫くして電話の相手が代わったらしく、園衛は目的の相手との通話を始めた。
「所長、お久しぶり。使える装備、残ってますか。はい、必要なんです。今すぐに。遅くとも夜までには。人はいりません。使えるようにして頂ければ、こっちで勝手に使います」
 やり取りは、さして時間がかからなかった。
 園衛は電話を切ると、瀬織に向き直った。
「マガツチは、こっちで修理しておく。装備も用意する。夜までお前は家で待機していろ」
「夜まで、ですか」
「景と良く話しておけ」
 手短に話を済ませると、園衛は歩きながら、また別の場所に電話を始めた。
「もしもし、消防でしょうか。宮元園衛と申します。はい、宮元です。私の学校でちょっと水道管が破裂してしまったようで……。はい大丈夫です。お気になさらず……」
 どうやら事後処理も自分で連絡するらしい。
 それは園衛に一任するとして、瀬織は自分の身の振り方を一考した。
「景くんとお話……ですか。はい、そうですね……」
 いつになく真剣な面持ちで、どこか寂しげに、瀬織は視線を横に流した。

 瀬織が家に帰ってきたのは、景が帰宅して1時間後のことだった。
「景くぅ~ん! ただいま帰りましたぁ!」
 心配して玄関まで顔を出した景に、瀬織がいつになく親密に抱きついてきた。
「わぁっ、ちょっ、なにさ! いきなりぃ!」
「すきんしっぷ、でございます」
 戸惑う景に構わず、瀬織はぎゅぅっと力を込めて、自分より頭二つ分小さい少年の体を抱きしめた。
 制服ごしの柔らかな瀬織の腹部に顔を埋めながら、景は逃れようと頭をぐりぐり動かした。
「やめて……ちょっ、息苦しい……」
「本当にやめちゃって良いんですかあ? 息くらい頑張れば出来るでしょう? ほぉら、すぅぅぅぅぅっと……」
 瀬織は腕を絡めて景の頭の動きを止め、自分の腹に押し付ける。
 景が呼吸するには瀬織の制服の上から思い切り息を吸わなくてはならなくなった。無呼吸で耐えること、逃げることなど可能な状態。計らずも肉薄した状態で、景は制服に染み込んだ瀬織の香りと、その下にある本体の濃厚な少女の甘い匂いを吸いこむことになった。
「すぅぅぅぅぅぅ……うっぅぅぅぅぅぅ……」
「どうですか、わたくしの香りは……? 本当は嗅ぎたかったんですよね? うふふ」
 瀬織が向けるのは、絶対強者の支配と慈愛の眼差し。
 景が見返すのは、支配を受け入れかけた自分自身を理解できずに戸惑う涙目。
 このまま景を完全に取り込んでしまいたい欲求を抑え、瀬織は一旦手を放した。
「荒事の後です。埃臭いですよね。一旦、湯浴みに参ります。お話は、その後で」
 靴を脱いで、瀬織は家に上がった。
 景はぺたん、と玄関に脱力して座り込んだ。まだ肺の中に、瀬織の香りが残っている。
「全然……臭くないよ」

 禊とは、体の罪と穢れを清めること。
 古来より、人が神前に出る前に我が身を無垢へと返す行為だった。
 なら、元は神だった存在は穢れた我が身を削げるのか。
 穢れそのものとなった我が身を削げば――
「わたくしが洗い、清められたら、後には何も残りませんよ」
 浴室にて、鏡に映る少女の裸体は完全な美、永遠の理想を象ったモノ。
 しかし、形ある物は必ず朽ちる。
「自分が消えてなくなる……ということを、初めて考えました」
 曇った鏡を手で拭いて、映る瀬織の少女の顔は無表情なようで、どこか寂しげだった。
 浴室から上がって、体を拭いて、予備の制服を着る。流石に上着は動きにくいので、上はブラウスだけにしておいた。
 ドライヤーで髪を乾かして、長い黒髪を後ろで結う。
 鏡を見て、いつも通りの顔をしているか確かめる。
「いつも通りで……いられますかね、わたくし」
 妙なことを思っている――と自分でも思う。命なき己が再び無に還ることに、何の未練や感傷があるというのか。
 自分は一人の少年の前を通り過ぎる夢も同然。切り取られて場を彩る花は、役目を終えて朽ちて果てるのみ。
 否……人がそんな風に割り切れるわけがない。隣人を、自分を一時の仇花と切り捨てられるような少年ではないのだ。東景という少年は。
 せめて、景を不安にさせるような顔はするまいと決めた。
 居間にいくと、ソファで景が待っていた。
「お前……いつも制服なんだな」
「わたくし、まだこの服しか持ってないんです」
 瀬織が微笑むと、景はいつものように照れくさそうに目を背けた。見慣れた制服姿でも、ブラウス一着の格好はかなり色っぽく映るようだ。
 しかし、いつもと違って瀬織は景に攻め込まない。一人分の距離を空けて、景の隣に座った。
「色々と、お話することがあります。氷川朱音さんのこと、わたくしのこと」
 朱音がどういうことになったか、一通り説明した。
 幼馴染が人外の存在になったことに景は困惑したようだが、悲痛な面持ちで瀬織に尋ねた。
「朱音ちゃん……元に戻るの?」
「保障は……出来ません。前例もありませぬゆえ」
 人外の、しかも穢れた神に成り下がった人間を救う術など瀬織は知らない。過去2000年間の知識にも、そんなものは存在しない。単純に物理的に荒神から人体を引き剥がした所で根本的な解決にはならない。
 あの少女は存在の根本から人間とは別の存在に書き換えられてしまったのだから。
 しかし、出来ない、救えない……とは言えない。
景を悲しませたくない。絶望の表情など見たくない。
「助けたいですか、あの子のこと?」
「当たり前だよ!」
 自分に縋ってくる、か弱い一人の少年の切なる願い。それは、穢れきった瀬織に遠い昔の暖かい感覚を思い出させた。
 かつて人の願いを成就させる神樹であった頃も、自分はこんなにも人を愛おしく、慈しんでいたのだろうか……と。
「そう……ですか。では、わたくしは景くんの願いを叶えるために邁進いたしましょう」
 まだ心も形も存在しなかった、あの遠き日のように瀬織は淡々と、だが純粋に答えた。
 そのままの調子で、瀬織は他人事のように自分のことを語り出した。
「次は、わたくしのことをお話しましょう。もしかしたら、わたくし今夜消えてしまうかも知れません」
「えっ、なに?」
「わたくしの分身の傀儡は、本体であるわたくしが倒せば機能を停止します。ですが今は、その本体が二つあるんです。もう一つは、氷川朱音さん。本体同士が戦ったら同じことになります」
 景の表情が固まった。理解に時間がかかっている。
 つい先日、景は瀬織は絶対不滅の存在だと教えられたばかりだ。それが消えるという矛盾が分からないのは当然だろう。
 瀬織は分かり易く、話を砕いて聞かせる。
「正しく矛盾なのです。本体が二つあるなんて辻褄が合わない。だから矛盾を訂正するために、どちらかが消えなければならない。いえ、もしかしたら二つとも消えてしまうかも知れない」
「なんで……そんなこと分かるのさ」
「わたくし自身がその矛盾の片割れだからです。本能で、矛盾した存在を消したくてたまらない。有り体に言えば、相手を殺すか、私自身が消えてしまいたいと――」
 いつしか瀬織は機械のように話していた。
その腕、ブラウスの裾を景が握った。
「瀬織が消えるなんて……いやだよ」
 景の泣きそうな顔を見て、瀬織は我に返った。
「あっ……景くん。わたくし……」
「消えるとか……絶対やめて。ずっと、ここにいて良いから……」
 瀬織は胸の奥に熱を感じた。心臓などないはずなのに、胸が昂ぶる。潤滑液を全身に送る機関が脈打ち、得も言われぬ疼きに胸を抑えた。
「ここにいて良いだなんて……初めて言って頂けました。2000年も存在してきて、初めてです!」
 打算ではなく衝動的に、瀬織は景を抱きしめた。
 こんな単純な言葉を、しかし嘘偽りのない純粋な言葉を、瀬織はずっと待っていたのだ。
 景は瀬織の反応を見て、敢えて抵抗せずに、だけど気恥ずかしそうな顔で抱かれていた。
「僕が初めて……なの?」
「はいっ! わたくしの素性を知った上で、存在を認めて頂けたのは景くんが最初です!」
「じゃあ、約束してよ。朱音ちゃんを助けて、瀬織もここに帰ってくるって」
「それが景くんの願いなら、……一命全霊に懸けて、お約束いたします」
 景の願いに応えることで、瀬織は穢れる以前の自分に戻れるような気がした。そんな期待とは別に、存在を求められることが嬉しかった。
 人の形に作り直されてから、初めて自発的に抱く感情。
(景くんのために戦って果てるのなら……本望です)
 そんな、願いとは矛盾した思考をしてしまうほどに、狂おしい感情の流れ。その正体も、名前も、瀬織はまだ自覚すらしていなかった。
「あと……もう一つ、お願いがあるんだ」
 少し言い難そうな様子で、景は目を逸らした。
「良いですよ、景くん。なんなりと仰ってください」
「僕も……連れていって」
「……えっ?」
 瀬織の思考が一瞬混乱して、停止した。

 時計が夜の9時を回る頃、空は晴れて、月は高みから地上を照らす。
 田舎町の秋の夜は静かで、虫の音が田畑に響いていた。
 県道ならば兎も角、山に至る小道には車の通りも人の気配も何もない。
 景の家からそう遠くない山の麓で、園衛の車が待っていた。車種は小型の2トントラック。ごく普通の開放型平ボディの荷台にはブルーシートが掛けられている。やや痛んだ車両だが積載容量は大きい。
 街の方からマグライトの光が近づいてくるのをサイドミラーで確認すると、園衛は運転席から車外に出た。
「来たな」
 腕を組んで、ライトの主が来るのを待つ。暫くすると、園衛は来客の正体に眉をひそめた。
「余計な子供が一人いるな」
 やって来たのは瀬織と、彼女に手を引かれた景の二人。
 有無を言わさず、園衛は頭上から景を睨みつけた。
「足手まといだ」
「そっ、そんなこと分かっ――」
「お前は帰れ」
 短い言葉でも威圧感が凄まじい。徹底的な拒絶。しかし景を案じるからこそ厳しく言っている。
 瀬織が助け舟を出そうとした矢先、景は精一杯の声を絞り出した。
「帰らないよ!」
「どうして、そう意固地になる。私たちに任せろ」
「一人で待ってるのが恐いから! もう知ってる人が知らない所で、勝手にいなくなるのがイヤだから!」
 景は、本心をハッキリと口に出した。
 園衛はもう責めることはしなかった。両親を失ったように、瀬織を失うのを耐えられないのは十分に分かる話だ。
 家族を失った景の心の穴を埋めてやりたかったから、園衛は瀬織をあの家に住まわせた。
 それを今になって切り離すなぞ、それこそ人の所業ではあるまい。
「そうか。なら私たちから常に十歩後をついてこい。そこが唯一、安全な間合だ」
「っ! ありがとう、園衛おばさん!」
「だから、私はまだおばさんではない……」
 景との話を終えると、園衛はトラックの荷台を開いた。
 暗いブルーシートの中で八つの赤い目が光ると、それが車外に這い出てきた。ズンっと音を立てて着地。100kgを超える機体に更に重量を上乗せした〈マガツチ〉が、主たる瀬織の前に参上した。
 その外観は、サソリを模したスマートな流線型のボディにゴテゴテと不格好に装備が外付けされている。
「あら、あまり美しくありませんわねえ」
「うちの若いのに詳しいのがいてな。そいつにやらせた。見た目は勘弁しろ。バッテリーは電気自動車ので代用できると聞いたから、小型のを2個くっつけておいた。武装は昔のツテで自衛隊に保管してあった物を持ってきてもらった。防盾つき対妖魔三連衝撃砲とスペルディスチャージャー。簡単に言えば衝撃波で攻撃する空気砲と結界発生装置。それとドリルだ」
「は? どりる?」
 妙な単語が出てきたので、瀬織は聞き返した。
「簡単に言えばドリル。正式名称は四式電磁掘削装置改。小型高出力のインダクションモーターで回転し、掘削機内部の磁性体から強磁場を放射して妖魔の電子構造を破壊する。通称マグニーザー。磁力的に存在を否定する武器、だそうだ」
「説明どうも……」
〈マガツチ〉の背中には、専用のエンジンユニットとケーブルで繋がった直径50cm、長さ2メートルを超す長大な金属棒が取り付けられているが、ドリルというより工事用のボーリングマシンに近い見た目だ。
「威力は保障するが、本来なら3トン以上の重量級傀儡の装備だ。普通に使えばマガツチの方が回転して吹っ飛ぶ。だから、合体したお前が手に持って使え」
「どりる持って肉弾戦とか、いよいよ本格的に美しくありませんわ……」
 そもそも、こんなドリルを本来装備していた戦闘機械傀儡とやらは一体どんな怪物マシンだったのか。想像するだけで気が滅入る。
「さて、それでは登山といこうか」
 園衛はトラックの助手席から、巨大な登山用リュックを取り出した。詰まった中身は一部が外に飛び出している。無数の刀剣類が、詰め込めるだけ詰め込まれている。総重量は100kg近いのではないか。
 それを園衛は「ふんっ」と少しだけ重そうに担いでみせた。
「あとな、瀬織。これを渡しておく」
 言うと、園衛は小さな木箱から2本の棒を取り出した。茶色い紙に包まれた、円筒状の小さな棒であった。
「んー……これは~」
「ダイナマイト。まあ採石用の発破だな」
 先日言っていた「なんとかする」爆薬とは、コレのことなのだろう。
 余りにも物騒な代物を平然と取り出したので、後から見ていた景が「ひぃっ!」と思わず悲鳴を上げた。
「案ずるな。雷管は抜いてある。爆発させる時はお前の能力で電気を流せ。岩盤を吹っ飛ばす威力だ。最後の切り札にしろ」
「最終手段ですか。考えておきますわ」
 こんなものを使えば生身の朱音だけではなく、近距離なら瀬織も諸共に吹き飛ぶ。瀬織は最終手段が何を意味しているのかを理解し、敢えて使用の許諾は避けた。
 山頂への道は、途中までは市道が通っている。もちろん車の通行は可能だが、敵の襲撃を警戒して徒歩での移動となった。車に乗っていては満足に反撃もできないどころか、車ごと斜面に落とされかねない。
 木々に遮られて月光も届かない山道をライトで照らし、先頭を園衛が、続いて瀬織が、やや間を空けて景が、最後尾に〈マガツチ〉がついて一列になって進む。
「ご安心ください、景くん。何が来ても、わたくしがお守りしますから」
「うん……。僕も出来るだけ足は引っ張らないから」
 心細げな景を励ます瀬織の様子は、姉弟のようにも見える。
 瀬織は景の意思を汲んで、ここまで連れてきた。その意味を少し考えて、園衛は口を開いた。
「瀬織よ。お前の名前にどんな意味があるか、知っているか」
「園衛様から頂いた、この名前ですか」
「そうだ」
 一呼吸置いて、瀬織は園衛の問いに答える。
「瀬織律姫。水の女神のことですね。穢れを洗い清める川の女神。ですが、わたくしには過ぎたる名前です。わたくしは穢れそのもの。そして時の流れの止まった人形なのですから」
「いいや違う。瀬織津姫は別の女神の荒御霊、鏡合わせの存在なんだ。お前の止まった時が流れ始めれば、全ての穢れを祓う太陽の女神にだってなれる。そういう願いを……言霊を込めた名前なんだ」
「それが園衛様の……願い」
 園衛の願いもまた、自分に向けられている。それを知って、瀬織は胸に手を当てた。
 また、胸の奥が熱かった。
 500メートル級低山の頂きには、整備された道を使えば徒歩でも20分程度で着いてしまう。なにせ麓から山頂までほぼ一直線に道が続いているのだ。尤も、この山は途中からフェンスが張られて立ち入り禁止になっている。そこから先は私有地、現在は園衛の宮元家が管理する土地だ。呪いの傀儡が埋まっていたから一般の立ち入りを禁じていたわけだが、その禁は内側から破られてしまった。
 フェンスは基礎部分から倒され、出入りを阻む物は何もない。
 一行は境界を乗り越えて禁足の地へと踏み入る。
 草の生い茂る道なき道だったが、皮肉にも傀儡たちが通った後が踏み均され、歩くのは容易だった。
 山頂に近づくにつれ、血生臭さが強まっていく。
 景があたりをライトで照らすと、解体された猪がそこら中に散らばっていた。
「ぅぅっ……」
 悲鳴を押し殺して、震える背中を痛いほどに抑え込んで、景は瀬織の背中を追った。
 こんな有様だというのに不気味なほどに敵の襲撃はなく一行は無傷のまま、開けた場所に出た。
 そこは、山中とは一転した異界。
 一面に彼岸の花が咲き誇り、小さな清流が合間を流れる。
 空と地を隔てる物はなく、月の光が昼間のように世界を照らす、現世と幽世の境目。
 その中心に、荒神が異形の巨体を横たえていた。
『あら……やっぱり来たんだ』
 人外と化した朱音が、心地よさそうに瞼を開いた。爽やかな寝起きといった様子で、とても上機嫌に見える。
『お姉ちゃんに、園衛様は分かるけど……東くんも来たんだ。私に食べてほしいの? ヒヒヒヒ……』
 身も心も変わり果てた幼馴染の姿に、景は本能的な恐怖を覚えた。
 自分とは根本的に異なる生物。圧倒的な捕食者を前にした死の予感に、奥歯がガチガチと音を立てて震えた。
 震えを首の筋肉で強引に止めて、景は目を細めて辛うじて朱音を直視する。
「違うよ……。朱音ちゃんをっ……む、迎えにきたんだ」
『私がクラスのみんなと迎えに行った時は家から出てこなかったくせに。そんな臆病者が私を迎えにきたとか、わっらぇるぅ♪ キャハハハハ!』
 性格は中学に上がるより前の朱音のそれに近い。変貌したというよりも、あらゆる抑圧から解放された自由の果てと言うべきなのか。
 倫理や常識すらも超越した朱音が、荒神の巨体を起こした。
 今朝の損傷は完全に再生されていた。
『東くんはどうでも良いけど、私はお姉ちゃんと園衛様のこと待ってたんだぁ。下で戦うより、ここでまとめてやっちゃった方が簡単だしぃ』
「私に対して簡単だと? お前がそれを言うか」
 かつての園衛を知る者ならば決して簡単などと口にできるわけがない。それほどまでに高校時代の園衛は凄まじかった。
『うん。簡単だよ、今の園衛様なら。だって今の園衛様……ただの人間でしょ?』
 朱音は、心底つまらなそうに呟いた。
 その直後、地中から無数の傀儡が出現。一斉に園衛に襲いかかった。
『ただのつまらない大人には、つまらない相手で十分よ』
 最前列にいた園衛は、敵の一斉攻撃を一手に浴びる形になった。いずれも3メートル以上の巨体を持つ傀儡ばかり。その突進をリュックから引き抜いた二刀の十字受けで防御するも、質量に勝る傀儡を押し留められない。
「ヌゥッ!」
 本来なら吹き飛ばされる所だが、園衛は突進の運動エネルギーを横に流しつつ、左の刀を傀儡に突き刺して取りついた。巨大な敵に張り付くことで知性に劣る傀儡たちの同士討ちを誘い、群れの波に飲み込まれながらも次々と首を切断していく。
 圧倒的技量。しかし――
「チイッ! 数が多いッ!」
 10体や20体ではない。倒しても倒しても地面から這い出てくる傀儡の津波に押し流されて、園衛は強制的に戦場を山の下方へと移動させられてしまった。
 瀬織は景を抱きかかえて側面に跳躍し、難を逃れていた。〈マガツチ〉も同様である。
 いやむしろ、意図的に園衛と切り離されたと見るべきだろう。
『つまらない人はこれでいなくなったね、お姉ちゃん』
「園衛様にビビってるようにしか見えませんがぁ?」
『私たちは人間を超えた永遠の存在。私たちの永遠を終わらせる殺し合いに異物はらいないの。だから、東くんも今だけは見逃してあげる』
 つまりは、景を攻撃しないのは園衛を引き離す交換条件だと遠回しに言っている。
 無言でそれを呑み、瀬織は離れた場所に景を降ろした。
「ここで待っていてください。すぐに終わらせますから」
「分かった。負けないでね、瀬織」
 瀬織は微笑んで、一度だけ景の肩を愛おしげに撫でると、荒神に向き直った。
「いざ、マガツチ!」
『上意 拝命』
 勇ましき一声と共に、瀬織と〈マガツチ〉が合一する。
 展開した装甲が人工筋肉の根を張り、紫の瘴気が肢体を包む。
 武装を強化された重武〈マガツチ〉との重連合体。
 バッテリーを拡張し、重兵装を装備した重武形態。5倍以上にまで跳ね上がった機体重量は人工筋肉のアシストを受けても明らかに重く、足が湿り気を帯びた地面に沈み込む。
「おっも……! コレのせいですかッ!」
 体が右側によろける。重武〈マガツチ〉右背面には、例の巨大ドリル〈マグニーザー〉が懸架されていた。
『アッハハハハ! カッコわるぅ~い! そんなので私に勝てるの? お姉ちゃん♪』
 朱音が手を一振りするや、地中から新たに5体の傀儡が出現した。
『園衛様に全部ぶつけるワケないじゃない。私は王様なのよ? さあ、護衛の垣根を越えてらっしゃい♪』
「上から目線! うっざいですわねぇぇぇぇぇぇッ!」
 自分よりも格下の小娘に見下される理不尽に、瀬織は珍しく語気を荒げた。
 想定外の急改造ゆえに重量バランスなど全く考慮されていない重武〈マガツチ〉の外骨格装甲だが、それを逆手に取る。
 瀬織は敢えてバランスを崩し、蟷螂型傀儡の鎌を横転寸前で回避。鼻先を掠める鎌一閃。
 右背面に懸架したままの〈マグニーザー〉を起動させ、地面に突き刺した。
 猛烈な勢いで緊急始動したドリルが瀬織の体を回転させ、回し蹴りを蟷螂の腹に叩きこんだ。本物の蟷螂同様に防御の薄い腹部は抉られ、潤滑液を撒き散らす。その損傷部分へと、左腕に装備された対妖魔三連衝撃砲を撃ち込んだ。
 ボン、ボン、ボン、と断続的に放たれる圧縮空気。発射音に混じって、何かを唱える声がした。
『たかまのはらにちぎたかしりて、すめみまのみことのみづのみあらかつかへまつりて、あめのみかげ、ひのみかげとかくりまして、やすくにとたいらけく……』
 魔を祓う祝詞(のりと)の言葉が幾重にも重なる。録音された祝詞を圧縮空気と共に同時多重展開し、魔物に撃ち込むのが、対妖魔衝撃砲である。
 体内から強制浄化された蟷螂型傀儡は、塩の塊になって崩れ落ちた。
 残り4体。まだ4体もいる!
「うっざい蟲共ですわねぇぇぇぇぇぇッ!」
 瀬織は背中から〈マグニーザー〉を引き、抜く。
「おっ、おっもぉぉぉ……」
 重量400kgを超す〈マグニーザー〉は全身で担ぐような形でなければ抜けなかった。抜いた後も、両腕でなければ保持すら出来ない。持ち方も剣や槍というより、城塞攻撃用の鎚といった感じだ。
 既にアイドリング状態のドリルへと、エンジンユニットからチューブを通して更なる駆動力が伝達される。唸りを上げて空気を捩じ切る〈マグニーザー〉の高速回転を。瀬織は真正面から傀儡の群れへと叩きこんだ。
「どっこいしょぉぉぉぉぉぉぉッ!」
 回転が掠めただけで蛇型傀儡と蚯蚓型傀儡は半身が消し飛び、残った蜘蛛型傀儡と百足型傀儡にはドリルが直撃。一瞬で物理構造が細切れ無数に弾け飛び、怨念の電子構造は強烈な磁力場の捻じれに破壊された。後に残ったのは撹拌され、ケシズミとなった傀儡の残滓のみ。
「はぁ、はぁ……威力は確かに凄いですが……全く美しくありませんわ」
 瀬織は息を切らし、汗を拭う。重武〈マガツチ〉本体のエネルギー消費は少ないものの、瀬織自身の体力を使う。
 今となっては、瀬織の呪術攻撃が荒神に通用するか怪しい。荒神として完全に定着しつつある朱音のレジストを無効化してダメージを与えるなら、人の英知で作られた対妖魔兵器の方が確実だ。
 重武の威力を目の当たりにした朱音の表情からは、余裕が消え失せていた。
『なにそれ……。反則じゃないの……』
「生憎と、のーるーるですわよ! この戦いッ!」
 不格好に、どすどすと地を踏みしめて重武の瀬織が朱音へと迫っていく。
 朱音は次々と傀儡を繰り出すが、全てが叩き伏せられ、粉砕され、じりじりと接近を許している。
 傀儡の数とて無限ではない。朱音まで10メートルの距離に迫った所で、ついに在庫が切れた。
 最後の傀儡を踏み潰すと、瀬織は鬼気迫る表情で〈マグニーザー〉を向けた。
「今すぐぅ……バラバラにしてあげますわぁ……!」
『ひぃっ!』
 朱音は荒神の巨体から蜘蛛糸の流体カッターを放つも、全てドリルの高速回転に弾かれて、瀬織の進行を止めることが出来ない。
 かといって、〈マグニーザー〉に対して接近戦を仕掛ければ完全に詰む。他の傀儡と同様に骨と木で形成された巨体なぞ、どれだけの質量があってもあのドリルに粉砕されるだけだ。
 もはや荒神が解体されるのを待つだけかと思われた矢先、
『なぁ~んちゃって♪』
 朱音がニタリと嗤った。
 瀬織が足元に違和感を覚えた時は手遅れだった。
「うっ……しまった……ッ」
 彼岸花で覆われた真下の地面が、ゆっくりと陥没していく。
 過大な重量が仇となった。水分を多く含むこの地形では、重装備は長く使うべきできなかった。
 地表は既に泥と言って過言ではない。彼岸花に覆われていたことで視認が効かず、気付くのが遅すぎた。
 それだけではない。泥の地表に月光が反社し、微細に煌めく、それは遠目には石や水分の反射にしか見えないが、実態は一面に張り巡らされた微細な蜘蛛糸の輝きだった。
 ものの見事に、ここまで誘い込まれてしまった。
 荒神の、必殺の間合に――。
 瀬織が重装備を投棄する間も与えず、地表から浮上した蜘蛛糸が全身に絡みつく。そこへ荒神の長大な尾の一振りが横合いから撃ち込まれた。全長20メートルもの尾撃。耐えられるわけがない。
「~~ッッ!」
 悲鳴すら出せなかった。
 装甲は砕け、瀬織の右腕は鈍い音を発して折れた。保持していた〈マグニーザー〉はエンジンユニットごと脱落し、泥に突き刺さって回転していたが、すぐに荒神の尾に叩き潰された。
 体ごと吹き飛び、彼岸花の上を転がる瀬織。赤い花びらの舞い散る中、辛うじて立ち上がった先に待っていたのは、流体カッターの弾雨であった。
 残った左腕の三連衝撃砲と防盾で身を守るも防御し切れない。盾以外の全身に何十本もの毒針が撃ち込まれ、青白い燐の火花が幾重にも弾けた。装甲と素肌に突き刺さった姿はハリネズミのごとき様相。
「ああっ! 瀬織ぃぃぃぃぃぃ!」
 景の叫びが、やけ遠くに聞こえた。
「あっ……あ、ああ、あ……け、景くん……」
 ふらつき、視界は血に塗れて虚ろ。
 頭上より振り下ろされる、荒神の大鎌。左腕の防盾が呆気なく叩き斬られ、三連衝撃砲は瓦解。青白い火花と共に部品と装甲が飛び散った。
 もはや身を守る盾も抗う矛もない。体制を崩し、膝を着く瀬織。その体が、荒神の大鎌に持ち上げられる。更に濃厚な蜘蛛糸を吐きかけられ、完全に拘束された。
『油断大敵ねぇ、お姉ちゃん? 私の勝ちみたぁい』
 朱音が勝ち誇った表情で、手中に落ちた瀬織を見下ろした。
『じゃあ、お姉ちゃんのこと食べちゃうねぇ』
 朱音の組み込まれている部分のやや下部に位置する荒神の胸部が展開し、大きな口を開いた。
 内部からは腐った果実に似た瘴気の臭いが漂い、湿った肉の蠢く音がする。
 虚ろな視線で闇の底を見る瀬織は、なぜかとても穏やかな気持ちだった。
 なぜだろうか。もうすぐ自分の存在が消えるというのに。
 いや違う。元通りの形に戻るから、こんなにも落ちついて、幸せな気分なのだ。
『約束通り、私たちと一つにしてあげるね。私はお姉ちゃんと同じモノだから、お姉ちゃんが何を願ってるかもぜぇんぶ分かるの。誰かの望みを叶えるのは、私たちの性分でしょ?』
 ずっと求めていた、闇の中にある自分のもう半分と――またひとつになれる。
 完全な自分にもどることができる。
 愛しい愛しい妹の中は母の中。混ざり合って溶け合って、わたしはもとどおりのわたしに還っていける。
『さあ、自分の口で言ってみて。お姉ちゃんが何をしたいか』
「わたくしの……願い……」
 なんて、奇態なことを言うのだろうか。
 人間の願いを叶えるために存在してきた神樹が、人形が、自分自身の願いを持つわけがない。
 でも――胸の内に植え込まれた、別の誰かの言霊の種が熱く疼いて、芽吹こうとしている。
 芽が殻を破ろうとしている。人形は自分自身の言霊を紡ごうと、必死に口を動かすが胸が詰まって出てこない。
 ああ――でも聞こえてくるのだ。
 遠くから、言霊を込めてつけられた名前を呼んでくれる、願いを込めた人の子の声が。
「瀬織―――! 消えちゃやだよぉ! 一緒に帰ろうよぉー!」
 ああ――なんて不器用で、今にも泣き出しそうな、格好のつかない子供じみた願い。
 だけど
「わたくしは……その純粋な願いが……とても愛おしい……!」
 願いに応えずにはいられない。
 心に湧き上がるは、久しく忘れていた感情。
 神である自分を必要としてくれる、人間への愛。
 儚くも強い人という生物を慈しむ、この愛情を――ようやく思い出せた。
『え? 何か言った、お姉ちゃん?』
 朱音は小首を傾げた。
 瀬織の小さな呟きは、誰にも聞こえなかった。
 しかし今度は、はっきりと言ってやる。
「くくく……そして、わたくし自身の願い、ですかぁ……?」
 不敵に笑う瀬織。朱音が不穏な空気に気付くよりも早く、両腕の手甲内に隠し持っていたダイナマイトを放出した。
「これが、わたくしの答ですわぁ!」
 ダイナマイトへと念を送り、雷管代わりに微細な電気を起こして発火させた。
 至近距離で火球が爆ぜる寸前、瀬織は残されたスペルディスチャージャーを全弾発射。目くらましと結界の光で体を保護し、直下の爆圧を利用して拘束から抜け出した。
 ぶ厚い岩盤を破砕するほど爆発が荒神を飲み込み、衝撃波は100メートル以上も離れた所にいた景をも吹き飛ばした。
「うわあああああああっ!」
 体が宙に浮き、10メートル近くもの距離を跳ね飛んだ。それでも軽傷で済んだのは地面が軟質だったことが幸いした。
 景は土まみれになって、必死に顔を上げる。
 月明かりの下、白煙の中に荒神の巨体が見えた。大口を開けていたため爆発のダメージが体内にまで波及したのか、開口部から血反吐のように大量の体液を垂れ流していた。全体もズタズタの状態で、朱音は焼け焦げた我が身を懸命に再生している。
『う、あ、アアアア……じ、自爆ゥ……? こ、こンな攻撃で……ワタシょ、殺せルわけェ……』
 朱音の声帯は火傷で引きつり、機能不全を起こしていた。
 景は瀬織の姿を探した。そして、月に僅かに影がかかっているのに気付いた。
 見上げれば、瀬織がゆっくりと降下してくる。
 爆風で上空に脱出し、天鬼輪の気圧操作で落下速度を緩めて、安全に着地した。
 衝撃波を受け流し、簡易結界で防御を行ったとはいえ、瀬織も無傷ではなかった。残った装甲はヒビ割れ、気象操作の要たる天鬼輪もボロボロに欠けている。荒神を倒し切れるような武器は何一つ残っていない。
 それでも、瀬織は誇らしげに。高らかに、月下風花に宣言す。
「教えてさしあげましょう! わたくしの願いは! この身朽ち果てるまで愛する人と共に在ること! 我願う! 故にここに顕現せよッ!」
 バキン、と音を立てて背中の天鬼輪が脱落いや分離した。同時に、瀬織の髪を結う紐が千切れ、長い黒髪が広がった。
 瀬織は輪を両手で持ち上げて掌中から僅かに浮かばせ、極限まで絞り込んだ念を以て高速回転させる。
「回れ回れ天鬼輪……。輪廻のごとく回り回って、我が手の中で後生と成るべし……」
 人の願いと自身の願いを込めて、止まってしまった魂の循環を光速を超えるほどに加速回転させる。
 天鬼輪は光となって焼き切れて、その身を次なる存在へ生まれ変わらせる。これは気象操作を超えて、事象の操作へと至る道。
 かつて曲がりなりにも神であった瀬織だからこそ可能な、宇宙の始まりへの接触だった。
 輪は一つの光の種に変わった。種は星々が形成す前の姿のプラズマを概念的に再現した結晶。その原初の種は瀬織の胸の中に吸い込まれた。
 原初の種。どんな存在にも変化する可能性を秘めた原始宇宙そのもの。それが瀬織の中の願いと結びついて大きく発芽する。
 瀬織の胸から、黄金の樹が芽吹いた。
 それはかつて神樹であった頃の瀬織の再現であり、穢れを超えた先にある可能性の顕現でもあった。
 黄金の樹は瀬織の体を離れ、枝葉のように分かれた刀身を持つ一本の剣へと姿を変えた。
「重連方術剣、扶桑(ふそう)……!」
 扶桑とは、伝説に描かれる東の果ての世界樹のこと。10の太陽を生み、水の恵みを与える再生の樹。瀬織という存在の根源にして、いつか到達する未来の姿であった。
 折れた右腕と。全身の傷が再生していく。人に加工された〈マガツチ〉の装甲は破損したままだが、瀬織はかつて神だった頃の力の一端を取り戻していた。
 瀬織は太陽の輝きと熱を放つ扶桑の剣を構え、切っ先を荒神へと向けた。
「これぞ我が宿業後生の扶桑が一刀! いざ参る!」
刀身から全ての邪を祓い、穢れを清める金色の太陽光が迸る。
 朱音は扶桑の剣光に怯みながらも、気合と共に荒神の大口を開いた。
『死ぃねぇよやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』
 荒神の口から、瘴気に塗れた腐肉が雪崩となって吐き出された。瘴気に触れれば魂までも汚染されて取り込まれるか呪殺され、それに耐えても質量に押し潰される。
 この迫りくる邪念塊の大質量へと、瀬織は真正面から剣を一閃。空を払い、魔を祓う。
「奔れっ! 剣の魂風(たまかぜ)!」
 剣から迸るは黄金の旋風。熱と電磁場を帯びた太陽風。それは触れるだけで腐肉を蒸発させ、荒神の体躯に降り注ぐや全身を電磁拘束した。
『きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!』
 体躯に満ちる邪な霊体の電子構造ごと握り潰さんばかりの拘束力に朱音は絞るように絶叫した。
 瀬織は荒神に向け、剣を大上段に担いで突進。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
 跳躍のごとき一刀の踏み込みは瞬時にして荒神本体へと到達。
 70年前、かつての自分自身を打ち倒した男のように今の命を捨て、しかし明日の命を得るために、一命全霊を以て、東瀬織は剣を振るう。
「一命全霊ッ! 六道! 破却断!」
 一切合切の因果と宿業を概念ごと断ち切る、横一閃。剣の重量に引きずられながらの回転と切断であった。
 舞い散る、彼岸の花。
 人の血の熱を抱いた鮮血の花弁一片(ひとひら)一片(ひとひら)、夜闇をいま、鮮烈に塗り替える。
 人と人形の、ほんの小さな、ささやかなる願いが成就する。
 堕ちたる荒神には持ちえない、相反する太陽の力は呪術的レジストも不可能だった。
 太陽の熱量を局所的に再現した剣閃は荒神の巨体を容易に斬り裂き、同じ存在である瀬織によって撃ち込まれた破壊と再生の信号が怨念を浄化していく。
『アアアア……ワタシタチガ……特別な私が……消え、る……』
 荒神は苔生す朽木と化して、土へと還っていった。残されたのは、生身の朱音の体だけ。
 役目を終えた扶桑の剣も、再び未確定の可能性を持つ無へと還った。
〈マガツチ〉は全てのエネルギーを使い切って、瀬織との合一を解除した。
 傀儡はもはや物言わぬ、微動だにせぬ石のごとき休眠状態に入った。
 全てが静まり返ったその後には、月の光と彼岸花と、可憐な乙女がそこに在った。
 景は言葉を失い、見とれてしまう。
(ああ……なんて綺麗……)
 見慣れた制服姿だというのに、青白い月と赤い花弁の間に立つ長髪の瀬織はあまりにも幻想的で、世界で一番美しいとさえ思った。
「景くん。お約束通り……帰って参りました」
 瀬織は景に優しく語りかけると、泥まみれの少年をそぉっと抱き上げ、柔らかく抱いた。
 内から清水のように湧き出る慈愛の感情のままに、小さき人を抱きしめる。
「これでわたくし、景くんのお姉ちゃんになれますね」
「やっ……やめてよ、くすぐったいから……」
「いいえ、やめません。景くんのお願いを叶えたんですから、今度は景くんがわたくしのお願いを叶えてくださいっ」
 景は観念して、瀬織の気が済むまで抱かれることにした。
 正確にはその逆かも知れないのだが。
 その頃、全ての傀儡を破壊した園衛は漸く山頂に帰還。彼岸花の上に裸で倒れる朱音を回収したところだった。
「やれやれ、イチャつきおってからに……。後始末は全部私だ、全く……。いい加減に疲れたわ」
 朱音をおぶり、擱座した〈マガツチ〉を一瞥して、園衛は年寄り臭い溜息を吐いた。
 残った瀬織の眷族は〈マガツチ〉のみ。他の傀儡はトドメを刺されるまでもなく、全てが朽木となって山の滋養と成った。
 他に瀬織に近しいモノがあるとすれば、園衛の背中で眠るこの朱音だけだろう。
「そのえ……さま……」
 背中で、朱音が呻くような声を出した。掠れて消えてしまいそうな声は、ただの寝言なのかも知れない。
「わたし……そのえさまみたいに……なり、たかった……なりたかったよ……」
 涙混じりに聞こえてくる声を。園衛は背中で直に受け止めた。
「なら、目が覚めたら死ぬほど鍛えてやる。そして私のようになってみせろ」
 返答が届いたかは定かではない。
 後にはもう言葉はなく、園衛の背中には安らかな寝息が当たるだけだった。
 山頂の小川に、彼岸花が浮かんで流れる。
 散った花は長い旅の果てに海へと至り、分解されて、水となり雨となり、また長い長い時を経てこの山に戻ってくるだろう。
 彼岸の花の輪廻の旅路のように、瀬織が自らの穢れを洗い落とす道程は、まだ始まったばかりなのだから。
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