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20.噂の魔女
しおりを挟む子爵らに会ってからしばらくのちのことだ。騎士の御前試合の後で、剣技場は人で混み合っていた。
褒美ものを配る役を終え、わたしは場を離れた。城の中で侍女と話していた。行政府も兼ねる表の面はダリルが仕切り、わたしは城の私的な部分の責任を持つ。
話のついでに、侍女が妙なことを言い出した。
「ルヴェラの魔女の噂はお聞きになりまして?」
「え?」
「魔女が出るとの触れが回ってきたそうでございます。幻覚を見せて人を操る術を使うとか。会った者は毒気に当てられて、高熱で寝込むのだそうです」
「どこからそんな触れが?」
「さあ、ルヴェラの城下では知る者も多いようです。わたしも出入りの商人から聞きましたもの」
侍女は、わたしが馬で出かけることが多く、気をつけるように言う。
少し前なら魔女など馬鹿にしていたが、ハクを知り、見方も変わった。真に魔術を持つ者は確かにいる。
「ありがとう」
試合の後で、自らも手合わせに降りた王子に飲み物を用意しようと、侍女に頼んだ。
それを持ち、屋外へ出る。隊士たちの群れの奥に王子がいた。金の髪を乱し剣を振るう彼を眺めた。
「ダーシー様」
声はウィルだった。お辞儀され、微笑んで返した。
王子の相手は彼より大柄な騎士だ。その一太刀は重いが、彼は器用に流し、危なげなくかわしていく。それでも見ていて、はらはらさせられる。
「殿下は剣の天凛をお持ちです。ご安心下さい。あれで随分遊んでおられる」
しばらくして王子が相手に合図をし、剣を下げた。
「ダーシー」
大声で呼ぶ。手合わせをしながらいつ気づいたのか、ウィルの言う、「遊んで」いるとは本当かもしれない。
「王子はお幸せにしておられます。元来が朗らかな方でいらっしゃるが、ダーシー様と出会われてからは、すべてに満ちていらっしゃるようです」
「あのね…」
ふと思い出し、たずねてみた。次に王子が任務に出立する際も、またわたしに告げずに急に出て行ってしまうのか。
彼の思いやりなのだろうが、知らぬ間に置いていかれるのは、つらい。やはり無事を祈って見送りたい。
ウィルは少し黙ってから、首を振る。
「それは未定です。ですが、以前殿下がそうなされたのは、ダーシー様のお為というより、ご自分の未練をお断ちになるためなのではないでしょうか」
「え」
「あのご闊達な殿下が、旅立ちからしばらくはお笑いにならなかったと覚えています。慣れた者でも旅は長い」
ウィルも恋人のマットと離れた日々をそう感じるのだろう。
そこへ王子がやって来た。彼に飲み物を渡し、額の汗を拭いてあげた。
ウィルの言葉が胸にしみ、わたしへ注ぐ彼の視線もちょっとまぶしくなる。
周囲の騒がしさの中に、「魔女が」の言葉が混じったのを聞いた。
「魔女が出るって噂があるそうよ。触れがあったのですって」
「どこで?」
「城下では広まっているそう」
彼は干したカップをわたしへ返し、剣技場を抜ける。その背を追いかけた。
「アリヴェル?」
「ルヴェラの触れは王家が出すんだ。僕は出していない」
通りかかった者にダリルを呼ばせた。ほどなくしてダリルが現れた。王子は彼へ、触れについてたずねた。
「いえ、わたしも存じません」
ダリルは眉を寄せた。
よくわからない。触れなど簡単に出すものだと思っていた。タタンでも、注意事項としてわたしの知らないものが出回っていた。泥棒に用心とか、天候の荒れに用心とか。
「ルヴェラは王家の直轄領です。その触れは法に準じ、発布も厳格な扱いになっております。風説を流布するような類は一切許されません」
ダリルの説明に納得した。
では、よそから回ってきたものなのでは? 噂など境界を関係なく流れていくものだから。
「それが触れとして噂されているのなら、問題です。」
ダリルは調べてみると下がって行く。
回廊の欄干に腰掛け、王子がつぶやいた。
「誰か魔女に会ったのか?」
幻覚で人を操り、見た者は高熱で寝込むという。具体的な噂で、誰かの体験談なのかもしれない。
しばらく待つうち、ダリルが戻ってきた。明るいこの場で話せばいいのに、なぜか彼は手近の応接室にわたしたちを招いた。
ひんやりと暗い部屋で、ダリルは話し出した。
「これを持つ者を見つけました。城下にはまだ広まっているようです」
衣装の内側から、一枚の紙を取り出して広げた。そこには触れであることと、魔女が現れ、その注意喚起を促す内容が載っていた。
髪の短い少年のような格好の女であり、自在に魔物を出して男を幻惑させる、とある。
「これはダーシーのことか?」
王子が低い声で聞く。
自分でも目で追ってすぐに気づいた。
「妃殿下が魔物を出されるのは存じ上げませんが、おそらく。至急の回収を命じてあります」
「僕の妃が揶揄されて愚弄されているのか?」
「これを見る限りでは」
王子は腹立ちに、いすを壁に投げつけた。跳ね返ったそれを足で蹴り飛ばす。大きな音に、思わず首をすくめた。
ウィルならなだめて王子を落ち着かせるところを、ダリルは静観し鎮静を待つ。
内容もあるが、王子の衝動を見越して密室での話になったようだ。
「出所もわからないのか?」
「妃殿下のお髪の具合を知っている者となれば、ルヴェラでしょうとしか。しかし、殿下のご帰還中、ご婚儀を控えた今、こんなものを城下にまく不遜な者がいるとは考えにくいところでございます」
王家の権威は絶大だ。それに、豊かなルヴェラでは王子の冷酷な噂も聞かない。過酷な任務を長く担う彼は、尊敬もされ愛されている。
沈黙が続いた後で、王子がぽつりと言う。
「やはりあの馬車が気になる」
「馬車とは?」
「先日、郊外でダーシーが会った馬車だ。彼女は道を聞かれてそれに応じただけだと。迷いようがない一本道でたずねるのは妙だ」
二人の視線がわたしに向く。
無言の圧に耐えかねて、事実を話した。タタンからやって来た義兄姉の子爵夫妻と会ったこと。そのやり取りのおおよそだ。ダリルがいるためドラゴンのくだりは省いた。
わたしに騙されたと言い募る子爵たちなら、やりそうなことではある。王子との結婚も頑として信じようとしないのだから。視線が落ちた。
「黙っていてごめんなさい」
目を上げれば、むっつりと黙り感情をためる、気分を害したときの王子の表情が見えた。
「まずはこのビラの出所を精査したします。妃殿下のご実家からと断定できれば、その際に求める処分を判断いたしましょう」
倒れたいすを起こしてから、ダリルが下がった。二人になった。沈黙がちょっと気まずい。
「怒っている? 黙っていたこと」
「僕の癇癪を恐れたのだろう? あんな後だから、それはいい」
「子爵たちは、あなたを侮ってあんなビラをまいたのはのではないの。わたしが憎いの」
「憎しみを向けるような間柄は家族じゃない。以前から君への仕打ちが、僕はずっと不快だった。もう我慢がならない」
誰か一人を虐げてできる、歪な絆で固まるおかしな家族もある。後妻に入った継母は、そう仕向けることで自分の居場所を築いた。
わたし自身、あの中の誰一人好きではない。
「…そういう家もあるの」
そんな家に生まれ、生きていかなくてはならなかった。自分の中の何かをちょっとずつ譲り渡して、心を守っていたように思う。
そうやって、あきらめが慰めになった。
彼の腕が伸びて引き寄せられた。胸に抱かれる。
「君の家は僕じゃないか。他は要らない」
「あなたはよく空き家になるから」
「本気で言っているんだ」
むっとした声だ。
詫びる代わりに、彼の胸に頬を寄せた。
母が生きていた頃は、苦労知らずの幸せな令嬢だった。愛されたその時代をわたしは捨てられない。愛おしい思い出はそれだけだ。
「母はきっと喜ばないわ」
父や継母らと憎み合う関係を、きっと母は良しとしない。それが戒めになっているのではないが、同じように憎み返せばいいとは割り切れない。
嫌な話だ。機嫌を損ねたままの彼をなだめたくて、わたしから口づけた。唇を開き、求めるようにすると彼も応じてくれた。
甘い時間の後で彼が、
「君はこんな風にして、僕を操っていないか?」
拗ねた声で言う。
「ううん」
「…言っておくが、処分となったら、僕の気分じゃ曲げられない」
「ええ」
彼の何かを曲げてもらってまでして、子爵たちを庇おうとは思わない。
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